シベリア強制抑留『望郷の叫び』(138)第6章 スターリン大元帥への感謝状
これに対して、当時の増田官房長官は、7月6日、大要、次のような談話を発表する。
「ソ連帰還者諸君、我々は、あらゆる準備をして諸君を待っていた。我々は、諸君が今こそ、正しい認識と理解をもって祖国の現状を直視されることを切望する。諸君が入港されてからそれぞれの郷里に帰られる途上、自由の発言について制裁を受け、仲間から疎外され、命ぜられるままに踊り、歌わされ、発言し、祖国の国旗に対してすら自由な感情の表現を拒否されたと聞く。諸君、これで自由な平和日本の建設が出来ようか。我々は、諸君が祖国の地を踏まれた今日、今までの脅迫と威嚇の残像を直ちに棄てられ真に明朗な日本人と成られることを心からこい願う。そして諸君がその多数の同胞と共に平和日本民主日本建設のために新しい出発をされることを我々は堅く信じて疑わない」(昭和24年7月6日付の朝日新聞)
そして、この年8月には、政府は、引き揚げ業務が秩序正しく行われるように政令を出し、引き揚げ者は、指定列車に乗って秩序正しく帰郷すべきこと、引き揚げ者がこれに違反するように圧迫したり、そそのかしたり、あおったりしてはならないこと、違反者には一年以下の懲役または一万円以下の罰金、等を定めた。
かくして、引き揚げに伴う混乱は次第におさまってゆく。
塩原さんの帰国は、このような騒ぎのあった翌年、昭和25年2月のことであった。このときは、舞鶴港での引き揚げ業務も順調で、東京駅では、誰に邪魔されることもなく、家族をはじめとした出迎えの人たちと涙の再会を果すことができたのである。
平成16年12月21日、小雨が降る中、私は塩原眞資さん、青柳由造さんと共に舞鶴港の引き揚げ桟橋に立っていた。この桟橋は、二人の老人がかつて、引揚船から第一歩を印したそれではない。昔をしのぶために、桟橋の一部を新しく造ったものだ。二人の元抑留者は静かな海面と雨に煙る湾内の光景をじっと見つめて立ち尽くしている。
「ボラがいっぱいはねていて、私たちの帰国を喜んでいるようだった」
青柳さんがぽつりと言った。
「ここに夜着いて、朝目を覚ますと、あのあたりの松や竹の緑が、それはそれはきれいでした」
塩原老人は、前方の小高い山を指して感慨にふけっている。
☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。
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