2008年8月30日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(138)第6章 スターリン大元帥への感謝状

これに対して、当時の増田官房長官は、7月6日、大要、次のような談話を発表する。

「ソ連帰還者諸君、我々は、あらゆる準備をして諸君を待っていた。我々は、諸君が今こそ、正しい認識と理解をもって祖国の現状を直視されることを切望する。諸君が入港されてからそれぞれの郷里に帰られる途上、自由の発言について制裁を受け、仲間から疎外され、命ぜられるままに踊り、歌わされ、発言し、祖国の国旗に対してすら自由な感情の表現を拒否されたと聞く。諸君、これで自由な平和日本の建設が出来ようか。我々は、諸君が祖国の地を踏まれた今日、今までの脅迫と威嚇の残像を直ちに棄てられ真に明朗な日本人と成られることを心からこい願う。そして諸君がその多数の同胞と共に平和日本民主日本建設のために新しい出発をされることを我々は堅く信じて疑わない」(昭和24年7月6日付の朝日新聞)

そして、この年8月には、政府は、引き揚げ業務が秩序正しく行われるように政令を出し、引き揚げ者は、指定列車に乗って秩序正しく帰郷すべきこと、引き揚げ者がこれに違反するように圧迫したり、そそのかしたり、あおったりしてはならないこと、違反者には一年以下の懲役または一万円以下の罰金、等を定めた。

かくして、引き揚げに伴う混乱は次第におさまってゆく。

塩原さんの帰国は、このような騒ぎのあった翌年、昭和25年2月のことであった。このときは、舞鶴港での引き揚げ業務も順調で、東京駅では、誰に邪魔されることもなく、家族をはじめとした出迎えの人たちと涙の再会を果すことができたのである。

平成16年12月21日、小雨が降る中、私は塩原眞資さん、青柳由造さんと共に舞鶴港の引き揚げ桟橋に立っていた。この桟橋は、二人の老人がかつて、引揚船から第一歩を印したそれではない。昔をしのぶために、桟橋の一部を新しく造ったものだ。二人の元抑留者は静かな海面と雨に煙る湾内の光景をじっと見つめて立ち尽くしている。

「ボラがいっぱいはねていて、私たちの帰国を喜んでいるようだった」

青柳さんがぽつりと言った。

「ここに夜着いて、朝目を覚ますと、あのあたりの松や竹の緑が、それはそれはきれいでした」

塩原老人は、前方の小高い山を指して感慨にふけっている。

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2008年8月24日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(137)第6章 スターリン大元帥への感謝状

 引揚船上のトラブルは、年により、また「民主化」された人たちの勢力の大小によっても様相を異にした。「民主グループ」の力が大きい船内では、日本海の上でも吊るし上げがあったという。 日本へ上陸した後も混乱があった。特に著しい騒ぎは昭和24年以降のことである。それは、昭和23年頃から「民主運動」の嵐が激化する中で、洗脳され、筋金入りの共産主義者になった者も多かったからである。 舞鶴港では、スクラムを組んだ上陸、日本共産党のための資金カンパ、虚偽の申告、沈黙戦術、診療拒否など、さまざまなトラブルがあった。新聞はこの様子を各社とも大きく取り上げ日本中が注目した。 舞鶴で取材した記者は、引き揚げ者が、自分の祖国はソ同盟だと語ったことに驚いている。騒ぎは引き揚げ列車と共に京都、東京と、各地に広がる。 昭和24年7月3日の各紙の紙面には「当てが外れた歓迎陣・肉親が無理に汽車へ」「家族や出迎人を置き去り赤い行事へ直行」などの記事が大きく躍る。いずれの記事も、出迎えの家族を振り切って共産党の大会に向う品川駅の引き揚げ者の行動を書いている。 読売新聞は、駅の光景を次のように伝える。 「訓練された赤の精鋭たちはこれを迎えるにふさわしい赤旗の嵐の中に降り立った。ごった返すホームの中央では、久しぶりに見る我が子を抱いて涙にむせぶ老母と言葉もなく手を握り合っている中年の夫婦者がいる。しかし、突然労働歌が爆発し、上野駅前で日本共産党の歓迎大会が行われるぞと伝わると引き揚げ者たちは家族を振り切って再び上野行きに乗り込んでいった」と。 朝日新聞は、品川駅から再び上野の大会に出るといって乗り込む男を家族が泣きながら引きおろす様子、「来ない者がいるぞ」「後で吊るし上げだ」と叫ぶ声などを報じている。 妻や肉親との再会を悲願としてあらゆる苦難に耐えてきた人々が、同じようにこの瞬間を夢にまで見て待ちこがれていた家族を振り切って赤旗と労働歌の中へ進んで行く姿はまさに異様であり、家族には言い知れぬ衝撃を与え、一般の日本人には全く理解できないことであった。赤旗の国で何があったのか、日本中の人々が不思議に思った。 また、7月5日の各紙は、1700人の引揚げ者が京都駅で、乗車を拒否して座り込んだことを報じている。これは、京都駅前の集団デモ行進禁止の市条例に違反した共産党員が検挙されたことに対する抗議行動である。 このようなトラブルは引揚船が入港する度に、また、引き揚げ列車が日本各地の駅に到着する度に起きていた。 ☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年8月16日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(134)第6章 スターリン大元帥への感謝状

この感謝状は、最後に改めて、大元師に対して宣誓する。

「敬愛するイオシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ!

私たちは、全世界勤労者の愛する天才的教師たるあなたの前に、そして偉大なる社会主義ソヴィエト同盟の人民のまえに、いまここに厳粛なる決意にもえて宣誓せんとするものであります」として、次の4つを誓っている。

①ソヴィエト人民とのゆるぎなき友誼のために献身的に闘う。そして、私たち

 がこの目で見かつ学んだソヴィエトの国の真実を日本のすみずみまで、全日本にひびきわたらせる。

②アメリカ帝国主義、日本軍国主義のやからどもが、私たちを再び犯罪的奴隷兵士と化することを断じて許さない。そして、解放軍たるソヴィエト軍に対し、たとえ大地がはりさけるとも二度と武器をとらない。もし再び、帝国主義者どもが、日本を、ソヴィエトに対する戦争の舞台にしようとするなら、私たちは死をも恐れず決起し帝国主義者と闘う。

③私たちは、社会主義の事業と平和の事業に、あくまで忠誠を守りぬく。

④私たちは、この聖なる誓いを、わが瞳のごとく、わが魂のごとく守りぬき、断固としてそれを果たしぬく。

 そして、スターリン大元師に対して、「全世界勤労者の命であるあなたが、ますます健康に、限りなき長寿を保たれんことを」という言葉を捧げ、最後に、次のような万歳と賛美で結ぶのである。

 日本共産党万歳!

 ソヴィエト同盟に栄光あれ!

 ソヴィエト軍に栄光あれ!

 万国勤労者の師父、敬愛するイオシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ・スターリン万歳!この感謝状の中で重要な点は、最後の宣誓の部分である。この文は日本人が自主的に作った形をとっているが、ソ連の指導の下に、また、ソ連の意をくんで作られたことは間違いない。ナホトカで帰還船に乗るとき、署名しなければ乗せないと、ソ連軍将校に言われたという証言の存在はその間の事情を物語るといえよう。

 ソ連とすれば、日本人が、帰国後に感謝状で宣誓した通り共産党を支持する行動をとるかどうかが一番気がかりなことである。だから多くの日本人に秘密の誓約書を書かせた。

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2008年8月 3日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(131)第6章 スターリン大元帥への感謝状

文の表題は「ソヴィエト諸民族の偉大なる指導者・全世界勤労者の師父にして日本人民の最良の友、スターリン元大師へ」となっており、書き出しは、「敬愛なるイオシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ」で始まる。スターリンというのは、通称であり、鉄の男を意味する。イオシフ(またはヨシフ)・ヴィッサリオーノヴィッチ・ジュガシヴィリが「大元師」の正式な名前である。

 次は冒頭の全文である。

「旧日本軍捕虜である私たちは、人類の最大の天才、全世界勤労者の導きの星であるあなたに、そしてあなたを通じソヴィエト政府ならびにソヴィエト人民に、偉大なるソヴィエトの國が私たちに与えられた光と歓びにたいし、私たちの心からの感謝とあつき感激をこめてこの手紙をおくります。

あなたの配慮のもとに、そしてあなたの教え子、あなたの愛児であるソヴィエト市民、ソヴィエト軍将兵の指導のもとに、ソヴィエトの地におくった4ヶ年の生活こそ、私たちにとって偉大なる民主主義の学校となったのでありました。それは私たちにとって終生忘れえぬ感銘として残るでありましょう」

 ソヴィエトの地に送った4ヶ年は、事実は、6万人以上が死に、それ以外でも死の瀬戸際まで追い詰められた日本人は無数に存在し、まさに生き地獄の「4ヵ年」であったが、この文を書いたような「民主運動」のリーダーにとっては、偉大なる民主主義の学校であり終生忘れえぬ感銘を与えたのであろう。

この初のメッセージに続いて、文は、ソヴィエト軍こそ日本人を目覚めさせ、日本人を救ったと訴える。

即ち、日本の勤労者は、「あまりにも長い間、真実と自由の光から二重、三重もの厚き壁によって閉ざされ、地主資本家どもの盲目の奴隷」となってきた。

そして、「強盗的日本帝国主義者」は極悪非道の「極東の憲兵」として隣接諸民族を略奪したが、偉大なるソヴィエト人民とソヴィエト軍が「日本の帝国主義野獣ども」を粉砕したので、日本人民の民主勢力も目ざめ、「わが愛する日本共産党」の指導のもとに、いまや、日本の民主化と非軍国化、日本民族の独立のために、米日反動に抗して、献身的闘争を続けているのであり、ソヴィエト軍こそ、わが人民を「強盗的戦争」の無益な犠牲と惨苦から救ったのだと。

強盗的日本帝国主義、極東の憲兵、帝国主義野獣どもといった表現を使ったこの部分は、ソ連人になりきって日本を攻撃しているような印象を受ける。

さらに進んで、次の文は、収容所生活を夢の楽園のように描いており、あきれ返るというよりはむしろこっけいに感じられる。

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2008年7月21日 (月)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(127)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

 そこで、民間人である学者が、「民族の名誉にかけても日本人抑留者に対する歴史的公正を回復したい」と発言していることは、ロシア人にも温かい血が流れていて、私たち日本人に対して正しい人間関係を築くためのメッセージを送る姿と受け取れて、心温まるものを感じる。

 アレクセイ・キリチェンコを動かしたものは、地獄のような環境の下でも理想と信念を捨てず、自己と祖国日本に忠実であり続けたサムライたちのドラマであった。彼は、スターリン体制に捨て身の抵抗をしたサムライの行動に新鮮な驚きを感じたのである。次の文にこのことが述べられている。

「敵の捕虜としてスターリン時代のラーゲリという地獄の生活環境に置かれながら、自らの理想と信念を捨てず、あくまで自己と祖国日本に忠実であり続けた人々がいた。―― 彼らは、自殺、脱走、ハンストなどの形で、不当なスターリン体制に抵抗を試み、収容所当局を困惑させた。様々な形態の日本人捕虜の抵抗は、ほぼすべてのラーゲリで起きており、45年秋の抑留開始から最後の抑留者が帰還する56年まで続いた」

 「(抵抗運動のことを)ソ連の公文書の形で公表するのは今回が初めてとなる。半世紀近くを経てセピア色に変色した古文書を読みながら、捕虜の身でスターリン体制に捨て身の抵抗を挑んだサムライたちのドラマは、日本研究者である私にも新鮮な驚きを与えた」

 この文から、羊のように従順で、奴隷のように惨めで骨のない日本人といわれていたが、シベリア全体から集められた資料によれば、各地の収容所で様々な抵抗運動を起こしていたことが分かる。しかし、それらの多くは、突発的なものであって、計画的あるいは組織的なものではなかったと思われる。そこで彼が最も注目するサムライたちの反乱がハバロフスク事件であった。

 アレクセイ・キリチェンコは日本人抑留者の最大のレジスタンス、ハバロフスク事件に特に触れたいとして、次のように述べる。

 「これは、総じて黙々と労働に従事してきた日本人捕虜が一斉に決起した点でソ連当局にも大きな衝撃を与えた。更に、この統一行動は十分組織化され、秘密裏に準備され、密告による情報漏れもなかった。当初ハバロフスク地方当局は威嚇や切り崩しによって地方レベルでの解決を図ったが、日本人側は断食闘争に入るなど闘争を拡大。事件はフルシチョフの元にも報告され、アリストフ党書記を団長とする政府対策委が組織された。

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2008年7月13日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(124)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

石田三郎は、日本人の誇りを支えにして貫いてきたこの長い闘争を改めて思った。こみ上げる熱いものを抑え、彼は胸を張って発言した。

 「私たちがなぜ作業拒否に出たか、そして、私たちの要求することは、中央政府に出した数多くの請願書に書いたとおりでありますが、改めて申し上げると・・・」

 「いや、主なものは、読んで承知している。改めて説明しなくもよい。いずれも、外交文書としての内容を備えている」

 石田の言葉を遮って発言したポチコフ中将の言葉には、立派な文章だと褒めている様子が言外に感じられた。

「しかし」

 とポチコフ中将は鋭い目で石田を見据え、一瞬おいて強い語気で言い放った。

 「お前たち日本人は、ロシア人は入るべからずという標札を立ててロシア人の立ち入りを拒んだ。これはソ連の領土に日本の租界をつくったことで許せないことだ」

 これは、石田が拉致されるのを阻止しようとする青年たちが、自分たちの断固とした決意を示すために収容所の建物前に立てた立札を指している。

 石田は、自分が厳しく処罰されることは初めから覚悟していたことであり、驚かなかった。ポチコフの言葉には、処罰するということが含まれているのだ。石田が黙っていると、ポチコフ中将は、今度は静かな声できいた。

 「日本人側にけがはなかったか」

 「ありませんでした。お願いがあります。私たちの要求事項は、この日のために、書面で準備しておきました。ぜひ調査して、私たちの要求を聞き入れていただきたい。このために日本人は、死を覚悟で頑張ってきました。私の命はどうなってもいい。他の日本人は、処罰しないでいただきたい」

「検討し、おって結論を出すから、待て」

会見は終わった。形の上では、ソ連の武力弾圧に屈することになったが、日本人の要求事項は、事実上ほとんど受け入れられたのであった。その中心は病人の治療体制の改善、即ち、中央の病院を拡大し、医師は、外部の圧力や干渉を受けずにその良心に基づいて治療を行うこと等が実現された。また、第一分所を保養収容所として経営し、各分所の営内生活一般に関しては日本人の自治も認められた。その他の、日本人に対する扱いも、従来と比べ驚くほど改善された。ただ、石田三郎を中心とした、闘争の指導者に対しては、禁固一年の刑が科され、彼らは別の刑務所に収容された。

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2008年7月 6日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(122)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

断食闘争に耐えられない病弱者を除き、506人が断食に入った。このような多数が一致して断食行動に出ることは、収容所の歴史にも例のないことで、収容所当局は、狼狽した。彼らは態度を豹変させ、何とか食べさせようとして、なだめたりすかしたりした。しかし、日本人の意思は固く、ある者は静かに目を閉じて座し、ある者は、じっと身体を横たえて動かない。それぞれの姿からは、死の決意が伝わり、不気味な静寂は侵し難い力となってあたりをおおっていた。

 収容所の提供する食料を拒否し、乾パンを1日2回、1回に2枚をお湯に浸してのどを通す。空腹に耐えることはつらいことであるが、零下30度を超す酷寒の中の作業をはじめ、長いこと耐えてきたさまざまな辛苦を思えば我慢することができた。そして、これまでの苦労と違うことは、ソ連の強制に屈して奴隷のように耐えるのとは違って、胸を張って仲間と心を一つにして、正義の戦いに参加しているのだという誇りがあることであった。

 一週間が過ぎたころ、収容所に異質な空気がかすかに漂うのを、日本人の研ぎ澄ました神経は逃さなかった。静かな緊張が支配していた。

 3月11日午前5時、異常事態が発生した。夜明け前の収容所は、まだ闇につつまれていた。凍土の上を流れる気温は零下35度、全ての生き物の存在を許さぬような死の世界の静寂を破るただならぬ物音に、日本人は、はっと目を覚ました。人々は反射的に来るものが来たと直感した。

「敵襲」、「起床」

不寝番が絶叫する。

「ウラー、ウラー」

威かくの声とともに、すさまじい物音で扉が壊され、ソ連兵がどっとなだれ込んできた。

「ソ連邦内務次官ポチコフ中将の命令だ。日本人は、戸外に整列せよ」

入り口に立った大男がひきつった声で叫び、それを、並んで立つ通訳が、日本語で繰り返した。日本人は動かない。ソ連兵は、手に白樺の棍棒をもって、ぎらぎらと殺気立った目で、大男の後ろで身構えている。大男が手を上げてなにやら叫んだ。ソ連兵は、主人の命令を待っていた猟犬のように突進し、日本人に襲いかかった。ベッドにしがみつく日本人、腕ずくで引きずり出そうとするソ連兵、飛びかう日本人とロシア人の怒号、収容所の中は一瞬にして修羅場と化していた。

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2008年6月22日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(118)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

8 請願運動の実態 石田三郎を中心とする日本人は、知恵をしぼり、あらゆる手段を尽くして闘った。しかしソ連側もしたたかで、戦いは長期化していった。闘争手段の主たるものは、中央政府に請願書を出す運動であり、これに多くの精力が傾注された。代表名で多くの請願書が書かれ、また、各個人が精魂込めて文章を書いた。そのために、密かに用意した大量の紙がすべて使い果されるに至った。しかし、これらの請願書は、中央に届けられることなく、握りつぶされていたことが後に分かるのである。 ここで、請願闘争の実態を知るために代表名と個人名の請願書の中から各一例ずつ、その要点を示して紹介する。 請願書     1956年1月30日 ウォロシーロフ宛                    石田 三郎 尊敬する議長閣下、現地機関は、事件発生後1ヵ月以上を経過しているにも拘らず、私達に対して依然として不当な扱いを継続しております。収容所当局の非人道的取扱いに端を発しているこの事件の最中に重病患者2名が遂に死去するに至りました。そのうちの1人は、希望食として、タマゴとリンゴを求めており何回となく、日本人病院関係者及び看護人から請願しても認められず、ハバロフスク地方内務省長官の巡視時に直接請願することにより、その命令によって初めて死の直前に与えられました。しかし、時遅く、効果なく死去するに至りました。 更にもう1人は、やはり、唯一の摂取可能食物としてタマゴとリンゴを求めましたが、希望は実現せず死去に至りました。賢明なる閣下には、この小さなことがらの中から、管理機関の取扱い態度の一端を知って戴けると思います。即ち、これを拡大したものが、労働、衣糧生活その他全般にわたって、管理の中で行われてきたのであります。そして、この悪質な管理の諸事実の集積が我々の生命を脅かすに至り、今回の問題となって爆発したのであります。そして、私たち全日本人は、全員が死を決意してこの運動のために結束せねばならなかったのであります。私達は、貴国における軍事俘虜でありますが、私達も矢張り人間であります。私達は、人間としての極く普通の取扱いを請願しているのであります。それを現地官憲が最も卑劣な手段で、しかも威嚇的恐喝的手段で圧殺せんと企図する行為は、果して正しいものでしょうか。 ☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年6月15日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(116)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

人々は、故郷の妻や子、父母や山河を思って歌った。人々の頬には涙が流れていた。轟く歌声は、人々の心を一層動かし、歌声は泣き声となって凍土に響いた。苦しい抑留生活が長く続くなかで、今、時は止まり、別世界の空間が人々を包んでいた。

長い収容所の生活の中で、国歌を歌うことは初めてのことであった。「民主運動」の嵐の中では、国詩も日の丸も反動のシンボルであり、歌ったり貼ったりすることは、まったく不可能なことであった。「民主運動」の中では、祖国は、日本ではなくソ連でなければならなかった。「共産主義の元祖ソ同盟こそ、理想の国であり、資本主義の支配する日本は変えねばならない。だからソ同盟こそ祖国なのだ」と教えられた。多くの日本人は、不本意ながらも、民主教育の理解が進んだことを認められて、すこしでも早く帰国したいばかりに表面を装って生きてきた。収容所では、表面だけ赤化したことを、密かに赤大根と言ったという。心ある者は、このようなことを卑屈なこととして、後ろめたく思っていた。中には自分は日本人ではなくなってしまったと自虐の念に苦しんでいる者もいた。

ところが図らずも今度の事件が発生し、一致団結して収容所当局と対決すことになり、日本人としての自覚が高まり、日本人としての誇りが蘇ってきた。

 この湧き上がる新たな力によって、「民主運動」のリーダーで、シベリアの天皇として恐れられた浅原一派は、はじき出され、彼らは、今や、恐怖の存在ではなくなっていた。このような中で迎えた正月であり、その中での国歌・君が代の斉唱であり、日の丸であった。石田三郎が、「日本人となり得た」とか、民族の魂を回復し得たということも、このようにして理解できるのである。

 ところで、浅原正基を中心とする「民主主義」のグループは、もとより作業拒否の闘争には加わらなかったが、同じ収容所の中の一角で生活していた。彼らは勢力を失ってはいたが、依然として水と油の関係であり、闘争が長びき、作業拒否組の意識が激化してゆくにつれ、この関係は次第に険悪になっていった。特に、彼らを通じて収容所側に情報が漏れてゆくことが、人々を苛立たせ、怒りをつのらせた。そして、状況は緊迫しいつ爆発するかもしれぬ状態になった。血気の青年防衛隊は、このままでは、闘争も失敗する、浅原グループを叩き出すべきだと代表に迫った。

「いかなることがあっても、浅原グループに手を加えてはならない。それは、ソ連側の実力行使の口実となり、我々の首をしめる結果になる」と、逸る青年を代表部は必死に抑えた。

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2008年6月 7日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(113)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

顧問団の中には、瀬島龍三もいた。瀬島は、回想録の中で次のように語る。「平素から私と親しかった代表の石田君は、決起後、夜半を見計らって頻繁に私の寝台を訪ねてきた。二人は、よそから見えないように四つん這いになって意見を交換した」 また回想録は、重要な戦略についても意見を交わしたことを述べている。それは、ソ連の中央権力を批判することを避け、中央政府の人道主義を理解しない地方官憲が誤ったことをやっているので、それを改善してくれと請願すべきだということであった。 石田三郎たちは、中央のソ連内務大臣、プラウダの編集長、ソ連赤十字の代表等々に請願文書を送る運動を展開するが、資料を見ると、その文面は必ず、一定の形がとられている。例えば、1956年(昭和31年)2月10日の、ソ連邦内務大臣ドウドロワ宛の請願書では、「世界で最も正しい人道主義を終始主唱するソ連邦に於いて」と中央の政策を最大限褒め上げ、それにもかかわらず、当収容所は、「労働力強化の一方策として、計画的に病人狩り出しという挙に出た。収容所側の非人道的扱いに耐えられず生命の擁護のため止むを得ず、最後の手段として作業拒否に出た」だから、私たちの請願を聞いてほしいと述べている。また、1956年(昭和31年)1月24日のソ連赤十字社長ミチェーレフ宛請願書でも、「モスコー政府の人道主義は、今、地方官憲の手によって我々に対して行われているようなものではないことを確信し」と表現する。これらは、皆、瀬島龍三のアドバイスによる中央を持ち上げて地方をたたくという作戦に基づいていることが分かるのである。収容所側は、作業拒否に対して、「これは、まさに暴動である。ソ連邦に対する暴動である。直ちに作業に出ろ」と執拗に迫った。そして減食罰などを適用しながら、一方で、「直ちに作業に出れば、許してやる」と言ってゆさぶりをかけてくる。予想される収容所側の対抗策は、首謀者を拉致して抵抗運動の組織を壊滅させることであった。これに対する防衛策として、石田三郎は、各班から護衛をつけてもらい夜ごとに違った寝台を転々とする生活を続けた。 5 青年防衛隊の情熱代表石田三郎が当局によって拉致されることを誰もが恐れた。また、ハバロフスク検事総長は、収容所を訪れ、作業拒否に対して、「直ちに停止せよ、さもなくば・・・」と武力弾圧をにおわせていた。 ☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月25日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(110)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

4 忍耐の限界をこえて事件は起こった  昭和30年の秋に入るころ、この状態は一層進み、病人が多発するようになった。これに対し収容所側は、何ら適切な対応をしない。  ソ連の原則は、「政治がすべてに優先する」である。人の生命にかかわる医療のことも例外ではない。政策で入院患者は全体の2パーセント以内というようなことが行われ、それを超えることになれば、入院することも許されない。仕事を休むことも認められない。  資料によれば、昭和30年11月26日、収容所側は、政治部将校の立会いの下で、営内の軽作業に従事していた病弱者26人を営外作業に適するとして無理に作業に出した。11月の末といえば、零下20度、30度というシベリアの酷寒である。病弱者には、外の作業は生命にかかわる。病状は悪化して営内にたどり着くや倒れる者が何人も出た。それにもかかわらず、12月15日になって、ソ連の将校たちは、さらに病弱で営内に居る別のグループに検査を実施して、外の作業に適するとして、新たに65人の者に、営外作業を命じた。必死の嘆願も耳を貸してもらえない。これらの人々の病状は悪化し、血圧は170、180以上になる者が多くなり、中には、200を越す者も出る始末で、寒風の吹きすさぶなか、病弱者は、あるものは友の肩にすがりながらやっと身体を動かし、ある者は空虚をつかむ幽霊のように手を伸ばし、よろけながら歯を食いしばって頑張った。あらゆる嘆願運動は効果がなかった。囚人は、作業休を認められないかぎりいかなる状態でも休むことは許されない。休めば、非合法のサボタージュとみなされる。  急きょ、班長会議が開かれた。 「このままでは皆死んでしまうぞ」 一人の班長が悲痛な声をあげた。 「そうだ。収容所側は、これからも、このような仕事の命令を繰り返すに違いない。そうすれば、病弱の者はこの冬に殺される。そして、現在健康な者もやられてしまう」  別の班長が思い詰めたように言った。 ☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月24日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(109)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

骨のずいまで、天皇制と軍国主義を叩き込まれた人々が、収容所では、上から、にわか作りの「民主主義」と称するものを強いられたのである。そこで、帰国したい一心で、形だけの、そでして上辺だけの「民主主義者」が生まれていった。このことは、別に、シベリアの「民主運動」で取り上げた。

日本は敗戦後、連合国の支配下に入り、マッカーサー元帥の下で占領政策が行われていたが、やがて、交戦した諸国と講和条約を結んで独立を達成する時がきた。

昭和26年、日本はアメリカを中心とする自由主義の諸国と講和条約(サンフランシスコ平和条約)を結んだ。翌年、条約は発効し、日本は独立国となる。

この条約締結については、国内世論は二つに分かれて争った。自由主義陣営だけでなく、ソ連などの社会主義陣営も加えた全面講和を結ぶべしとするのが、政府に反対する立場であった。この問題は、ソ連で抑留されている日本人の運命にもかかわっていた。ソ連も含めて平和条約を結べば、日本人はすぐに帰国を許されることが考えられるからである。昭和27年に、日本人として初めてハバロフスクの収容所を訪れた参議院の高良とみは、海外抑留者の引き上げ促進の運動にかかわっていたので、少しでも早く日本人をシベリアから帰国させるために、ソ連を含めた前面講和を強く主張していた。

当時の世界情勢は、米ソの対立という冷戦状態の中にあった。そして、吉田政権は、現実的な選択として、アメリカを中心とした自由主義陣営と講和を結ぶべく、サンフランシスコ平和条約の締結に踏み切ったのである。

このような大きな政治の流れの中で、シベリアの日本人抑留者は取り残された状態に置かれていた。わずかに情報を得ていたハバロフスクの収容所の日本人が、高良とみに、政府は自分たちの帰国を考えてくれるのかと訴えたのも無理はない。

このような情勢の中でも、次のような動きがあった。

先に触れた昭和27年参議院議員高良とみのハバロフスク収容所訪問

昭和28年、日本人をシベリア強制労働に駆り立てた最高責任者、スターリンの死

 昭和30年9月、社会党議員団のハバロフスク収容所訪問

 昭和30年、鳩山内閣が誕生し、日ソ交渉が始まる。(昭和30年から31年にかけて)

このような世界の流れの中で、ハバロフスクの強制収容所では、人々の忍耐が限界に達しつつあった。特に深刻なことは日本人の健康状態の悪化であった。☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月18日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(108)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

平成20年5月18日(日)シベリア強制抑留『望郷の叫び』(108)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実 この事件は昭和30年6月のことで、ハバロフスク事件はこの数ヶ月後、同年12月に起きる。きわだって従順と言われた日本人抑留者であったが、このような突発的な反抗は、各地の収容所であったらしい。 三 日本と世界の情勢はどうであったか 昭和20年8月の敗戦後、日本国内では新憲法の下、瓦礫の中からの復興が進んでいた。生活は苦しくも家族の絆は強く、人々は逞しく真剣に生きていた。私の家族が前橋市から移って、勢多郡宮城村の奥地で開墾生活に入ったのは、この昭和20年の秋、私が5歳のときであった。食料が不足して、毎日、さつま芋、大根、野性のウリッパなどを食べたことが今でも生々しく記憶に残っている。今にして思えば、このころソ連も、戦後の物資が非常に乏しい状況にあった。ソ連はドイツとの激しい戦争によって疲弊し、食糧事情も悪く、シベリアの収容所にも十分な食べ物が供給されなかった。このことが収容所の日本人の胃袋を一層苦しめたものと思われる。昭和22年、私は宮城村の鼻毛石の小学校に入学する。前年に発布された日本国憲法がこの年施行され、民主主義の波が全国をおおっていた。私が手にした教科書は、それまでのものとは一変し、ひらがなが初めて使われ、内容も民主主義に基づいたものであった。  おはなをかざる  みんないいこ。  きれいなことば  みんないいこ。  なかよしこよし  みんないいこ。教科書の最初は、この詩で始まった。私たちはこのように、教科書の1ページから民主主義を教えられ、また、社会のあらゆるところで、民主主義の芽は育ちつつあったが、ソ連に抑留されていた人々は、このような日本の動きは知らなかったであろう。 ☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年5月17日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(107)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事

ソ連側の基本的な考えは、日本人は憎むべき戦犯である。だから従順な日本人を徹底的に酷使する、ということであった。

事件は突発的に起きたのではなかった。このような状況が進む中で、不満は人々の心にうっ積し、過酷な環境は人々をのっぴきならないところまで追いつめていた。それを物語る出来事が、ハバロフスク事件の前に起きた。

監督官の不当な圧迫が繰り返されていた。特に、監督官・保安将校ミーシン少佐は、日本人から蛇蠍(だかつ)のごとく嫌われていた。ある時、彼は零下30度の身を切るような寒さの中、日本人がやっと作業現場にたどり着いて、雨に濡れた衣服を乾燥するために焚き火をすると、これを踏み消して作業を強制した。あまりのことに抗議した班長を営倉処分にしたのである。

一人の青年がこの理不尽な監督官の扱いに対して、ついに堪忍袋の緒を切って抵抗した。青年は斧で障害を加えたのである。監督は倒れ、その場に居たソ連人は逃げた。大変なことであった。我にかえった青年は、とっさに近くの起重機にのぼり自殺を図る。

起重機の上に立った青年は、腰に巻いた白い布を取って、自らの血で日の丸を描き、それを握りしめて、「海行かば水漬屍(みずくかばね)、山行かば草生す屍」と歌って飛び降りようとする。仲間が駆け上がり必死に止め、こんこんと説得し、青年は自殺を思いとどまった。青年は斧の刃でなく峰の部分で打ったことから分かるように殺意はなかったが、「公務執行中のソ連官憲に対する殺人未遂」として、すでに科されていた25年の刑に加えて、10年の禁固刑を科され、別の監獄に入れられた。

 なお、山崎豊子の小説『不毛地帯』の中では、この事件をモデルにした部分が描かれている。そこでは、青年は、腰の手拭いを取って、自らの斧で手首を切り、その血で日の丸を染め、起重機に縛りつけると、「皆さん、どうか、私がこの世で歌う最後の歌を聞いてください」と言い、直立不動の姿勢で、‘海行かば”の歌を歌う。死に臨んで歌う声が朗々として空を震わせる。歌い終わると身を翻して20メートル下の地上に飛び降りて死ぬ、という構成になっているが、事実は、歌を歌い終わった後、死を思い止めたのであった。

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2008年5月11日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(106)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

 ハバロフスクの収容所の人々は、不当な裁判によってその多くは刑期25年の懲役刑に服していた。長い収容所生活によって体力も、みな、非常に衰えていた。それにもかかわらず収容所の扱いは相変わらず過酷であった。
ハバロフスク事件は、収容所側の扱いによって生命の危険を感じた人々が、自らの生命を守るために団結して立ち上がった抵抗運動である。
事件当時の状況を示す資料は、奴隷的労働の様子、与えられる食料のひどさ、そして、病弱者の扱いの不当などを示している。労働にはノルマが課せられ病弱者にも容赦がなかった。食料については、まず与えられるカロリーが少ないこと。旧日本軍は、重労働に要するカロリーを一日、3,800カロリーと規定していたが、収容所ではやっと2,800カロリーであった。また、生野菜が極度に不足しているためビタミン摂取が出来ないのが痛手であった。日本人の食生活の基本は、本来、肉食ではなく米や野菜である。したがって、日本人の体にとっては、特に生野菜が必要であった。野菜が採れないシベリアの冬は、特に深刻であったと思われる。余談になるが、最近のシベリアの小学校の様子を伝える映像として、冬季、給食の時、野菜不足の対策としてビタミンの錠剤が配られる姿があった。

二 ハバロフスク事件の前兆としての出来事

 ソ連の態度は、威圧的で情け容赦がなかった。「我々は、百万の関東軍を一瞬にして壊滅させた。貴様等は敗者で、囚人だ」と、何かにつけて怒鳴った。日本人抑留者は、この言葉に怒りと屈辱感をたぎらせていた。あのように言っているが、関東軍の主力は、ほとんど南方戦線にまわされ、満州では、実際戦える戦力はなかったのだ。そこへ入ってきて、強奪と暴行のかぎりをつくした卑しい見下げ果てた人間ではないか。人々は皆、こう思いつつ、帰国というい一縷の望みを支えに耐えていた。

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2008年5月 4日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(102)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

  ユネスコ会議を終えた高良とみは、何としてもソ連に入りたいと思い、パリ駐在の日本人外交官に懇願し助力を求めたところ、モスクワへ入る方法が見つかった。パリのデンマーク大使館が力を貸してくれることになったのだ。とみはデンマーク大使館に出向き熱い胸のうちを詳しく話した。デンマーク大使館はとみの姿に打たれて仲介役として動いた。ソ連は高良とみをモスクワ経済会議に出席させるということで受け入れることになったのである。ここでもとみの英語力が大いに役立った。自分の心を正しく伝えるには、通訳を介さずに直接語ることが何より効果的なのだ。

 モスクワのホテルに着くとソ連政府の役人がやって来て、東京とワシントンでは大騒ぎになっている、そして、吉田首相とアメリカの大統領もかんかんに怒っていると話した。コペンハーゲンにいる朝日新聞の記者から電話が入り、日本人として初めて鉄のカーテンを超えた高良とみに、ぜひインタビューをしたいという。とにかく、高良とみのソ連訪問は、世界の大ニュースになっているらしかった。しかし、日本人抑留者を助けたいという彼女の信念は少しも揺るがなかった。

 モスクワ世界経済会議は、冷戦下における世界経済の平和的発展を目的とするものであった。高良とみは幸運にもこの会議に出席できることになったわけであるが、本会議場で演説するチャンスも与えられた。

何百人もの各国代表が並ぶ大ホールで、高良とみは満場の相手に迎えられ和服姿で登壇、約四十五分、英語でスピーチした。

 高良とみは、日本の工業生産と貿易の状況、そして、失業問題や国民の生活水準などについて説明しながら、日本国民は、過去から教訓を得て平和に生きようと決意していること、だから日本の経済は世界平和のために役立たねばならないこと、平和的東西貿易の必要性および日本は近い将来中国やソ連から食糧を買うことを望んでいることなどを格調高く訴えた。演説が終わると会場に割れんばかりの拍手が起きた。

 このモスクワ経済会議の直後、高良とみはソ連外務省に呼ばれ若い外務次官と会見する機会を得た。この人は後の外相グロムイコである。グロムイコは、高良とみの訪ソの目的や日本における所属団体などについて詳しく知りたがっていた。東京やワシントンで大きく騒がれている日本の女性国会議員につき興味と疑念を抱くのは当然であろう。

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2008年4月29日 (火)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(100)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

 時は明治の新しい国づくりの運気がみなぎる時節、島村は近代産業である製糸業の隆盛という活気のあふれる中で、西洋の風潮も積極的に取り入れ、また、キリスト教の影響も大きかったところである。田島弥平はパリの万国博覧会にも出かけたほどのハイカラな人物であった。母邦子は、このような時代の風を吸って、また祖父弥平の影響を受けて育った。

 高良とみは自伝の中で、母のことを次のように語る。

「母は将来島村を背負って立とうとする気概と時代の先端を歩もうとする気迫があふれた勇ましい少女だったようです。断髪に飾り羽根の帽子、乗馬袴といういでたちで、前橋女子高に通う姿は当時でもさぞ人目を引いたことでしょう」

 邦子は前橋女子高を卒業後、横浜の共立ミッションスクールに進み、そこで西洋風の教育を受けた。邦子はやがて、アメリカ帰りの技師である公務員和田義睦と結婚しとみを産む。

 とみが小学校2年生の時、日露戦争が始まり、父は測量の仕事で朝鮮に渡る。その間、邦子、とみ、とみの弟新一は、群馬の島村の母の実家に住むことになった。とみは島村の小学校に転入し、母の実家で養蚕業の実際を身近に体験する。

 しばらくして、とみは再び新潟の小学校に転校する。高等女学校もいくつか転校するが、神戸第一高等女学校を首席で卒業。大学は日本女子大英文学科を卒業。その後渡米し、コロンビア大学大学院、バーナード女子大、ジョンズ・ホプキンズ大学などで学ぶ。とみのこのようなアメリカの大学生活で得た英語力は、彼女のその後の活動を大いに助けることになった。

 とみは帰国後昭和2年31歳で母校日本女子大学の教授に就任、33歳で慈恵医大の高良武久と結婚する。女性の学者はオールドミスで終わると思われていた時代なので、33歳の彼女が3つ年下の男性と結婚、しかも恋愛結婚ということもあって大いに話題となり新聞や雑誌が書きたてたという。

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2008年4月27日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(99)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

許可した上で、都合の悪いことは見せないように中央から指示したのであろう。かくして、演出された収容所の一部を、高良とみは見ることになったのである。しかし、それにもかかわらず高良とみのハバロフスク収容所訪問の意義は大きい。

 野党の国会議員でもこれだけのことができた。それを可能にした主な要因は、逮捕の危険までも冒して実行した高良とみの勇気と信念と行動力である。もちろん、野党の国会議員だからこそできたということもいえよう。しかし、それにしても高良とみの行動は、日本の国会議員として、なし得ることがあることを証明したことになる。冷戦構造の中にあって、いかに政治の壁が厚く高かったとしても、なし得ることをぎりぎりまで努力しなかったことに対する政府や与党国会議員への批判は免れない。その後社会党議員団のハバロフスク収容所訪問が行われたことがあった。結局、昭和31年に首相鳩山一郎が日ソ交渉をなし遂げて抑留者全員の帰国を実現させるわけであるが、祖国を思う同胞の地獄の苦しみを思えば、その間、政府与党はなぜもっと必死の行動をとらなかったか理解に苦しむのである。

二 高良とみの歩み

高良とみは明治29年、和田義睦、邦子の長女として富山県高岡市で生まれた。とみは公務員である父の転勤により、新潟県の小学校に入学する。その血筋をみると群馬県と関係が深い。母邦子は、群馬県佐波郡島村の田島家の出身である。邦子の祖父は、蚕種製造に成功し、「蚕聖」と呼ばれた田島弥平である田島馬弥平は蚕糸業によって島村を発展させ、島村は、「新地島村に黄金の雨が降る」と言われるほどにぎわったという。

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2008年4月26日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(97)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

高良とみの動きが注目を集めるのは、国交のないソ連に日本人として初めて、ましてや国会議員として初めて、鉄のカーテンをくぐって入ったからである。米ソ対立の冷戦下その勇気ある大胆な行動は、日本ばかりでなくアメリカをも驚かす世界的なニュースとなった。

出発は、昭和27年3月であるが、高良とみは旅券法違反で逮捕されることを覚悟して出国した。これは、アメリカとの間の関係に神経を使う、時の吉田政権が高良とみのソ連訪問に強く反対して、ソ連へのパスポートの発行を認めなかったからである。

前年の昭和26年、ソ連などを除いて、アメリカを中心とした国々との間で平和条約を結び、その発行が昭和27年4月であり、高良とみの出発は、その直前の3月でいうことで、首相吉田茂は、アメリカとの外交関係に影響することを恐れていたのである。

高良とみはパリのユネスコ会議に出席し(パリ行きのパスポートは取得していた)、ヘルシンキを経てモスクワの国際経済会議に出席した。ソ連はパスポートのない彼女を受け入れたのである。

モスクワ国際経済会議での高良とみの出番は、昭和27年4月9日だった。着物姿で行った約45分間の英語のスピーチは、会場が割れんばかりの拍手を得た。その様子は、モスクワ放送で報じられた。そしてその後、グロムイコ外務次官からの連絡を受け、会うことができた。

ここでは、抑留されている日本人捕虜の収容場所、人数、死亡者の名簿の公開、墓参、現在収容されている人々との面会などについて、長時間にわたって話すことができた。

経済会議でのスピーチの素晴しい反響や日本の政府から批判されている国会議員であること、そして、実際に会ってみて彼女の真摯な態度に動かされたことなどからグロムイコは、ハバロフスクの収容所を訪問することを特別に許可したものと思われる。

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2008年4月20日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(96)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

  高良とみが最初の日本の国会議員として、シベリアの強制収容所を訪れたという事実を、私たちはどう受け止めたらよいのか。収容所の人々は、日本政府は、やればできることを何もしてくれないと、もどかしく思ったに違いない。

 それはともかくとして、高良とみの勇気と行動力は大したもの。高良とみはどんな人物か興味をそそられる。

 終戦のとき、49歳であった高良とみが、ハバロフスクの強制収容所で被収容者と出会うまでの軌跡を戦後の動乱の社会を背景にして、ごく大雑把に見ることにする。 

 昭和20年8月6日、広島に、次いで9日長崎に原爆が投下された。そして、8月8日、ソ連は日ソ中立条約を無視して満州に侵入。このような流れの中で、日本はポツダム宣言の受諾を決定し、8月15日、天皇のラジオ放送で、戦闘は停止された。

 さて、満州を守る関東軍は、終戦に近づく頃は、その主要な部分は、南方の備えに回され、形だけのものになっていた。