2009年1月25日 (日)

遙かなる白根(46)序章 100キロメートル強歩序曲

食堂・ルート146の主人は豪快な人物で、毎年100キロ強歩のために一肌脱いで協力している。子どもたちは、ここで休憩し、カレーやうどんを食べ、エネルギーを蓄えて出てゆく。

「頑張れよ。根性だせよ」

店の主人は奥のイスにどっかりと座って、出てゆく子どもたちにドスの利いた声をかけている。

入口には、幼児の背丈程の一抱えもある木彫りの男根が無造作に置かれているが、子どもたちはそれに目をくれる風もない。林道を出た子どもたちは、次々にこの食堂に入り、また、次々に出てゆく。ここから国道146号を3キロほど南下してから、コースは右に外れて北西の方向にやや逆行するように広い畑の中を進む。このあたりは応桑(おおくわ)という。畑が見わたす限り続き、農家が点在し、彼方には紅葉の森が静かに広がっている。第6 ポイントの田通しの公民館に立ち寄り、すぐ歩き出して小夜で来ると、道は森の中へと伸びる。このあたりには、道の端に「オウム反対」、「オウム出て行け」と書かれた木の板が沢山立てられているのが目につく。畑が尽きて森に入った所に鉄筋コンクリート4階建ての建て物がひっそりと建っていた。今は人影もみられないが、これが例のオウムの施設である。この建物と道を隔てて、検問中と書かれた臨時派出所が出来ていて警察官が待機している。その前を周平が過ぎて行った。後を追うように一人、二人と、子どもたちが歩いてゆく。学校のマイクロバスがゆっくりと子どもたちを追い抜いて行った。学校の車は常に何台かがコースをまわっていて、歩けなくなってギブアップする子、また、ワープといって、途中のある区間だけ車に乗る子などを拾い上げてゆく。記録には、ギブアップ組はリタイア(RETIRE)ということで「R」が、そして途中飛ばしはワープ(WARP)ということで「W」と記されるのである。「W」と記録された者が完歩の資格を失うのは当然のことである。周平は車の中を見た。車の中には、まだ、RWもいないようであった。

うっそうと茂る木立の下を長い下り坂が続いていた。このはるか下を小宿川が流れている。坂の中腹あたりの道の端に、“史跡常林寺跡入口”と書いた柱が立っていた。子どもたちはこの柱に目もくれず黙々と歩いている。

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「遥かなる白根」を連載しています。

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2008年8月30日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(138)第6章 スターリン大元帥への感謝状

これに対して、当時の増田官房長官は、7月6日、大要、次のような談話を発表する。

「ソ連帰還者諸君、我々は、あらゆる準備をして諸君を待っていた。我々は、諸君が今こそ、正しい認識と理解をもって祖国の現状を直視されることを切望する。諸君が入港されてからそれぞれの郷里に帰られる途上、自由の発言について制裁を受け、仲間から疎外され、命ぜられるままに踊り、歌わされ、発言し、祖国の国旗に対してすら自由な感情の表現を拒否されたと聞く。諸君、これで自由な平和日本の建設が出来ようか。我々は、諸君が祖国の地を踏まれた今日、今までの脅迫と威嚇の残像を直ちに棄てられ真に明朗な日本人と成られることを心からこい願う。そして諸君がその多数の同胞と共に平和日本民主日本建設のために新しい出発をされることを我々は堅く信じて疑わない」(昭和24年7月6日付の朝日新聞)

そして、この年8月には、政府は、引き揚げ業務が秩序正しく行われるように政令を出し、引き揚げ者は、指定列車に乗って秩序正しく帰郷すべきこと、引き揚げ者がこれに違反するように圧迫したり、そそのかしたり、あおったりしてはならないこと、違反者には一年以下の懲役または一万円以下の罰金、等を定めた。

かくして、引き揚げに伴う混乱は次第におさまってゆく。

塩原さんの帰国は、このような騒ぎのあった翌年、昭和25年2月のことであった。このときは、舞鶴港での引き揚げ業務も順調で、東京駅では、誰に邪魔されることもなく、家族をはじめとした出迎えの人たちと涙の再会を果すことができたのである。

平成16年12月21日、小雨が降る中、私は塩原眞資さん、青柳由造さんと共に舞鶴港の引き揚げ桟橋に立っていた。この桟橋は、二人の老人がかつて、引揚船から第一歩を印したそれではない。昔をしのぶために、桟橋の一部を新しく造ったものだ。二人の元抑留者は静かな海面と雨に煙る湾内の光景をじっと見つめて立ち尽くしている。

「ボラがいっぱいはねていて、私たちの帰国を喜んでいるようだった」

青柳さんがぽつりと言った。

「ここに夜着いて、朝目を覚ますと、あのあたりの松や竹の緑が、それはそれはきれいでした」

塩原老人は、前方の小高い山を指して感慨にふけっている。

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2008年8月24日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(137)第6章 スターリン大元帥への感謝状

 引揚船上のトラブルは、年により、また「民主化」された人たちの勢力の大小によっても様相を異にした。「民主グループ」の力が大きい船内では、日本海の上でも吊るし上げがあったという。 日本へ上陸した後も混乱があった。特に著しい騒ぎは昭和24年以降のことである。それは、昭和23年頃から「民主運動」の嵐が激化する中で、洗脳され、筋金入りの共産主義者になった者も多かったからである。 舞鶴港では、スクラムを組んだ上陸、日本共産党のための資金カンパ、虚偽の申告、沈黙戦術、診療拒否など、さまざまなトラブルがあった。新聞はこの様子を各社とも大きく取り上げ日本中が注目した。 舞鶴で取材した記者は、引き揚げ者が、自分の祖国はソ同盟だと語ったことに驚いている。騒ぎは引き揚げ列車と共に京都、東京と、各地に広がる。 昭和24年7月3日の各紙の紙面には「当てが外れた歓迎陣・肉親が無理に汽車へ」「家族や出迎人を置き去り赤い行事へ直行」などの記事が大きく躍る。いずれの記事も、出迎えの家族を振り切って共産党の大会に向う品川駅の引き揚げ者の行動を書いている。 読売新聞は、駅の光景を次のように伝える。 「訓練された赤の精鋭たちはこれを迎えるにふさわしい赤旗の嵐の中に降り立った。ごった返すホームの中央では、久しぶりに見る我が子を抱いて涙にむせぶ老母と言葉もなく手を握り合っている中年の夫婦者がいる。しかし、突然労働歌が爆発し、上野駅前で日本共産党の歓迎大会が行われるぞと伝わると引き揚げ者たちは家族を振り切って再び上野行きに乗り込んでいった」と。 朝日新聞は、品川駅から再び上野の大会に出るといって乗り込む男を家族が泣きながら引きおろす様子、「来ない者がいるぞ」「後で吊るし上げだ」と叫ぶ声などを報じている。 妻や肉親との再会を悲願としてあらゆる苦難に耐えてきた人々が、同じようにこの瞬間を夢にまで見て待ちこがれていた家族を振り切って赤旗と労働歌の中へ進んで行く姿はまさに異様であり、家族には言い知れぬ衝撃を与え、一般の日本人には全く理解できないことであった。赤旗の国で何があったのか、日本中の人々が不思議に思った。 また、7月5日の各紙は、1700人の引揚げ者が京都駅で、乗車を拒否して座り込んだことを報じている。これは、京都駅前の集団デモ行進禁止の市条例に違反した共産党員が検挙されたことに対する抗議行動である。 このようなトラブルは引揚船が入港する度に、また、引き揚げ列車が日本各地の駅に到着する度に起きていた。 ☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年8月16日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(134)第6章 スターリン大元帥への感謝状

この感謝状は、最後に改めて、大元師に対して宣誓する。

「敬愛するイオシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ!

私たちは、全世界勤労者の愛する天才的教師たるあなたの前に、そして偉大なる社会主義ソヴィエト同盟の人民のまえに、いまここに厳粛なる決意にもえて宣誓せんとするものであります」として、次の4つを誓っている。

①ソヴィエト人民とのゆるぎなき友誼のために献身的に闘う。そして、私たち

 がこの目で見かつ学んだソヴィエトの国の真実を日本のすみずみまで、全日本にひびきわたらせる。

②アメリカ帝国主義、日本軍国主義のやからどもが、私たちを再び犯罪的奴隷兵士と化することを断じて許さない。そして、解放軍たるソヴィエト軍に対し、たとえ大地がはりさけるとも二度と武器をとらない。もし再び、帝国主義者どもが、日本を、ソヴィエトに対する戦争の舞台にしようとするなら、私たちは死をも恐れず決起し帝国主義者と闘う。

③私たちは、社会主義の事業と平和の事業に、あくまで忠誠を守りぬく。

④私たちは、この聖なる誓いを、わが瞳のごとく、わが魂のごとく守りぬき、断固としてそれを果たしぬく。

 そして、スターリン大元師に対して、「全世界勤労者の命であるあなたが、ますます健康に、限りなき長寿を保たれんことを」という言葉を捧げ、最後に、次のような万歳と賛美で結ぶのである。

 日本共産党万歳!

 ソヴィエト同盟に栄光あれ!

 ソヴィエト軍に栄光あれ!

 万国勤労者の師父、敬愛するイオシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ・スターリン万歳!この感謝状の中で重要な点は、最後の宣誓の部分である。この文は日本人が自主的に作った形をとっているが、ソ連の指導の下に、また、ソ連の意をくんで作られたことは間違いない。ナホトカで帰還船に乗るとき、署名しなければ乗せないと、ソ連軍将校に言われたという証言の存在はその間の事情を物語るといえよう。

 ソ連とすれば、日本人が、帰国後に感謝状で宣誓した通り共産党を支持する行動をとるかどうかが一番気がかりなことである。だから多くの日本人に秘密の誓約書を書かせた。

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2008年8月 3日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(131)第6章 スターリン大元帥への感謝状

文の表題は「ソヴィエト諸民族の偉大なる指導者・全世界勤労者の師父にして日本人民の最良の友、スターリン元大師へ」となっており、書き出しは、「敬愛なるイオシフ・ヴィッサリオーノヴィッチ」で始まる。スターリンというのは、通称であり、鉄の男を意味する。イオシフ(またはヨシフ)・ヴィッサリオーノヴィッチ・ジュガシヴィリが「大元師」の正式な名前である。

 次は冒頭の全文である。

「旧日本軍捕虜である私たちは、人類の最大の天才、全世界勤労者の導きの星であるあなたに、そしてあなたを通じソヴィエト政府ならびにソヴィエト人民に、偉大なるソヴィエトの國が私たちに与えられた光と歓びにたいし、私たちの心からの感謝とあつき感激をこめてこの手紙をおくります。

あなたの配慮のもとに、そしてあなたの教え子、あなたの愛児であるソヴィエト市民、ソヴィエト軍将兵の指導のもとに、ソヴィエトの地におくった4ヶ年の生活こそ、私たちにとって偉大なる民主主義の学校となったのでありました。それは私たちにとって終生忘れえぬ感銘として残るでありましょう」

 ソヴィエトの地に送った4ヶ年は、事実は、6万人以上が死に、それ以外でも死の瀬戸際まで追い詰められた日本人は無数に存在し、まさに生き地獄の「4ヵ年」であったが、この文を書いたような「民主運動」のリーダーにとっては、偉大なる民主主義の学校であり終生忘れえぬ感銘を与えたのであろう。

この初のメッセージに続いて、文は、ソヴィエト軍こそ日本人を目覚めさせ、日本人を救ったと訴える。

即ち、日本の勤労者は、「あまりにも長い間、真実と自由の光から二重、三重もの厚き壁によって閉ざされ、地主資本家どもの盲目の奴隷」となってきた。

そして、「強盗的日本帝国主義者」は極悪非道の「極東の憲兵」として隣接諸民族を略奪したが、偉大なるソヴィエト人民とソヴィエト軍が「日本の帝国主義野獣ども」を粉砕したので、日本人民の民主勢力も目ざめ、「わが愛する日本共産党」の指導のもとに、いまや、日本の民主化と非軍国化、日本民族の独立のために、米日反動に抗して、献身的闘争を続けているのであり、ソヴィエト軍こそ、わが人民を「強盗的戦争」の無益な犠牲と惨苦から救ったのだと。

強盗的日本帝国主義、極東の憲兵、帝国主義野獣どもといった表現を使ったこの部分は、ソ連人になりきって日本を攻撃しているような印象を受ける。

さらに進んで、次の文は、収容所生活を夢の楽園のように描いており、あきれ返るというよりはむしろこっけいに感じられる。

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2008年7月21日 (月)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(127)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

 そこで、民間人である学者が、「民族の名誉にかけても日本人抑留者に対する歴史的公正を回復したい」と発言していることは、ロシア人にも温かい血が流れていて、私たち日本人に対して正しい人間関係を築くためのメッセージを送る姿と受け取れて、心温まるものを感じる。

 アレクセイ・キリチェンコを動かしたものは、地獄のような環境の下でも理想と信念を捨てず、自己と祖国日本に忠実であり続けたサムライたちのドラマであった。彼は、スターリン体制に捨て身の抵抗をしたサムライの行動に新鮮な驚きを感じたのである。次の文にこのことが述べられている。

「敵の捕虜としてスターリン時代のラーゲリという地獄の生活環境に置かれながら、自らの理想と信念を捨てず、あくまで自己と祖国日本に忠実であり続けた人々がいた。―― 彼らは、自殺、脱走、ハンストなどの形で、不当なスターリン体制に抵抗を試み、収容所当局を困惑させた。様々な形態の日本人捕虜の抵抗は、ほぼすべてのラーゲリで起きており、45年秋の抑留開始から最後の抑留者が帰還する56年まで続いた」

 「(抵抗運動のことを)ソ連の公文書の形で公表するのは今回が初めてとなる。半世紀近くを経てセピア色に変色した古文書を読みながら、捕虜の身でスターリン体制に捨て身の抵抗を挑んだサムライたちのドラマは、日本研究者である私にも新鮮な驚きを与えた」

 この文から、羊のように従順で、奴隷のように惨めで骨のない日本人といわれていたが、シベリア全体から集められた資料によれば、各地の収容所で様々な抵抗運動を起こしていたことが分かる。しかし、それらの多くは、突発的なものであって、計画的あるいは組織的なものではなかったと思われる。そこで彼が最も注目するサムライたちの反乱がハバロフスク事件であった。

 アレクセイ・キリチェンコは日本人抑留者の最大のレジスタンス、ハバロフスク事件に特に触れたいとして、次のように述べる。

 「これは、総じて黙々と労働に従事してきた日本人捕虜が一斉に決起した点でソ連当局にも大きな衝撃を与えた。更に、この統一行動は十分組織化され、秘密裏に準備され、密告による情報漏れもなかった。当初ハバロフスク地方当局は威嚇や切り崩しによって地方レベルでの解決を図ったが、日本人側は断食闘争に入るなど闘争を拡大。事件はフルシチョフの元にも報告され、アリストフ党書記を団長とする政府対策委が組織された。

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2008年7月13日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(124)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

石田三郎は、日本人の誇りを支えにして貫いてきたこの長い闘争を改めて思った。こみ上げる熱いものを抑え、彼は胸を張って発言した。

 「私たちがなぜ作業拒否に出たか、そして、私たちの要求することは、中央政府に出した数多くの請願書に書いたとおりでありますが、改めて申し上げると・・・」

 「いや、主なものは、読んで承知している。改めて説明しなくもよい。いずれも、外交文書としての内容を備えている」

 石田の言葉を遮って発言したポチコフ中将の言葉には、立派な文章だと褒めている様子が言外に感じられた。

「しかし」

 とポチコフ中将は鋭い目で石田を見据え、一瞬おいて強い語気で言い放った。

 「お前たち日本人は、ロシア人は入るべからずという標札を立ててロシア人の立ち入りを拒んだ。これはソ連の領土に日本の租界をつくったことで許せないことだ」

 これは、石田が拉致されるのを阻止しようとする青年たちが、自分たちの断固とした決意を示すために収容所の建物前に立てた立札を指している。

 石田は、自分が厳しく処罰されることは初めから覚悟していたことであり、驚かなかった。ポチコフの言葉には、処罰するということが含まれているのだ。石田が黙っていると、ポチコフ中将は、今度は静かな声できいた。

 「日本人側にけがはなかったか」

 「ありませんでした。お願いがあります。私たちの要求事項は、この日のために、書面で準備しておきました。ぜひ調査して、私たちの要求を聞き入れていただきたい。このために日本人は、死を覚悟で頑張ってきました。私の命はどうなってもいい。他の日本人は、処罰しないでいただきたい」

「検討し、おって結論を出すから、待て」

会見は終わった。形の上では、ソ連の武力弾圧に屈することになったが、日本人の要求事項は、事実上ほとんど受け入れられたのであった。その中心は病人の治療体制の改善、即ち、中央の病院を拡大し、医師は、外部の圧力や干渉を受けずにその良心に基づいて治療を行うこと等が実現された。また、第一分所を保養収容所として経営し、各分所の営内生活一般に関しては日本人の自治も認められた。その他の、日本人に対する扱いも、従来と比べ驚くほど改善された。ただ、石田三郎を中心とした、闘争の指導者に対しては、禁固一年の刑が科され、彼らは別の刑務所に収容された。

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2008年7月 6日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(122)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

断食闘争に耐えられない病弱者を除き、506人が断食に入った。このような多数が一致して断食行動に出ることは、収容所の歴史にも例のないことで、収容所当局は、狼狽した。彼らは態度を豹変させ、何とか食べさせようとして、なだめたりすかしたりした。しかし、日本人の意思は固く、ある者は静かに目を閉じて座し、ある者は、じっと身体を横たえて動かない。それぞれの姿からは、死の決意が伝わり、不気味な静寂は侵し難い力となってあたりをおおっていた。

 収容所の提供する食料を拒否し、乾パンを1日2回、1回に2枚をお湯に浸してのどを通す。空腹に耐えることはつらいことであるが、零下30度を超す酷寒の中の作業をはじめ、長いこと耐えてきたさまざまな辛苦を思えば我慢することができた。そして、これまでの苦労と違うことは、ソ連の強制に屈して奴隷のように耐えるのとは違って、胸を張って仲間と心を一つにして、正義の戦いに参加しているのだという誇りがあることであった。

 一週間が過ぎたころ、収容所に異質な空気がかすかに漂うのを、日本人の研ぎ澄ました神経は逃さなかった。静かな緊張が支配していた。

 3月11日午前5時、異常事態が発生した。夜明け前の収容所は、まだ闇につつまれていた。凍土の上を流れる気温は零下35度、全ての生き物の存在を許さぬような死の世界の静寂を破るただならぬ物音に、日本人は、はっと目を覚ました。人々は反射的に来るものが来たと直感した。

「敵襲」、「起床」

不寝番が絶叫する。

「ウラー、ウラー」

威かくの声とともに、すさまじい物音で扉が壊され、ソ連兵がどっとなだれ込んできた。

「ソ連邦内務次官ポチコフ中将の命令だ。日本人は、戸外に整列せよ」

入り口に立った大男がひきつった声で叫び、それを、並んで立つ通訳が、日本語で繰り返した。日本人は動かない。ソ連兵は、手に白樺の棍棒をもって、ぎらぎらと殺気立った目で、大男の後ろで身構えている。大男が手を上げてなにやら叫んだ。ソ連兵は、主人の命令を待っていた猟犬のように突進し、日本人に襲いかかった。ベッドにしがみつく日本人、腕ずくで引きずり出そうとするソ連兵、飛びかう日本人とロシア人の怒号、収容所の中は一瞬にして修羅場と化していた。

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2008年6月22日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(118)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

8 請願運動の実態 石田三郎を中心とする日本人は、知恵をしぼり、あらゆる手段を尽くして闘った。しかしソ連側もしたたかで、戦いは長期化していった。闘争手段の主たるものは、中央政府に請願書を出す運動であり、これに多くの精力が傾注された。代表名で多くの請願書が書かれ、また、各個人が精魂込めて文章を書いた。そのために、密かに用意した大量の紙がすべて使い果されるに至った。しかし、これらの請願書は、中央に届けられることなく、握りつぶされていたことが後に分かるのである。 ここで、請願闘争の実態を知るために代表名と個人名の請願書の中から各一例ずつ、その要点を示して紹介する。 請願書     1956年1月30日 ウォロシーロフ宛                    石田 三郎 尊敬する議長閣下、現地機関は、事件発生後1ヵ月以上を経過しているにも拘らず、私達に対して依然として不当な扱いを継続しております。収容所当局の非人道的取扱いに端を発しているこの事件の最中に重病患者2名が遂に死去するに至りました。そのうちの1人は、希望食として、タマゴとリンゴを求めており何回となく、日本人病院関係者及び看護人から請願しても認められず、ハバロフスク地方内務省長官の巡視時に直接請願することにより、その命令によって初めて死の直前に与えられました。しかし、時遅く、効果なく死去するに至りました。 更にもう1人は、やはり、唯一の摂取可能食物としてタマゴとリンゴを求めましたが、希望は実現せず死去に至りました。賢明なる閣下には、この小さなことがらの中から、管理機関の取扱い態度の一端を知って戴けると思います。即ち、これを拡大したものが、労働、衣糧生活その他全般にわたって、管理の中で行われてきたのであります。そして、この悪質な管理の諸事実の集積が我々の生命を脅かすに至り、今回の問題となって爆発したのであります。そして、私たち全日本人は、全員が死を決意してこの運動のために結束せねばならなかったのであります。私達は、貴国における軍事俘虜でありますが、私達も矢張り人間であります。私達は、人間としての極く普通の取扱いを請願しているのであります。それを現地官憲が最も卑劣な手段で、しかも威嚇的恐喝的手段で圧殺せんと企図する行為は、果して正しいものでしょうか。 ☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年6月15日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(116)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

人々は、故郷の妻や子、父母や山河を思って歌った。人々の頬には涙が流れていた。轟く歌声は、人々の心を一層動かし、歌声は泣き声となって凍土に響いた。苦しい抑留生活が長く続くなかで、今、時は止まり、別世界の空間が人々を包んでいた。

長い収容所の生活の中で、国歌を歌うことは初めてのことであった。「民主運動」の嵐の中では、国詩も日の丸も反動のシンボルであり、歌ったり貼ったりすることは、まったく不可能なことであった。「民主運動」の中では、祖国は、日本ではなくソ連でなければならなかった。「共産主義の元祖ソ同盟こそ、理想の国であり、資本主義の支配する日本は変えねばならない。だからソ同盟こそ祖国なのだ」と教えられた。多くの日本人は、不本意ながらも、民主教育の理解が進んだことを認められて、すこしでも早く帰国したいばかりに表面を装って生きてきた。収容所では、表面だけ赤化したことを、密かに赤大根と言ったという。心ある者は、このようなことを卑屈なこととして、後ろめたく思っていた。中には自分は日本人ではなくなってしまったと自虐の念に苦しんでいる者もいた。

ところが図らずも今度の事件が発生し、一致団結して収容所当局と対決すことになり、日本人としての自覚が高まり、日本人としての誇りが蘇ってきた。

 この湧き上がる新たな力によって、「民主運動」のリーダーで、シベリアの天皇として恐れられた浅原一派は、はじき出され、彼らは、今や、恐怖の存在ではなくなっていた。このような中で迎えた正月であり、その中での国歌・君が代の斉唱であり、日の丸であった。石田三郎が、「日本人となり得た」とか、民族の魂を回復し得たということも、このようにして理解できるのである。

 ところで、浅原正基を中心とする「民主主義」のグループは、もとより作業拒否の闘争には加わらなかったが、同じ収容所の中の一角で生活していた。彼らは勢力を失ってはいたが、依然として水と油の関係であり、闘争が長びき、作業拒否組の意識が激化してゆくにつれ、この関係は次第に険悪になっていった。特に、彼らを通じて収容所側に情報が漏れてゆくことが、人々を苛立たせ、怒りをつのらせた。そして、状況は緊迫しいつ爆発するかもしれぬ状態になった。血気の青年防衛隊は、このままでは、闘争も失敗する、浅原グループを叩き出すべきだと代表に迫った。

「いかなることがあっても、浅原グループに手を加えてはならない。それは、ソ連側の実力行使の口実となり、我々の首をしめる結果になる」と、逸る青年を代表部は必死に抑えた。

☆ 土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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