2008年8月10日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(133)第6章 スターリン大元帥への感謝状

また、アメリカを厳しく非難し、ソヴィエトこそ真の友だと叫ぶ。「アメリカ帝国主義は再び戦争をくわだてソヴィエトに襲いかかろうとしている。日本を戦略基地にして、日本国民を彼らの肉弾とし、彼らの泥靴の下に植民地奴隷にしようとしている。しかし、歴史の歯車を逆転させることはできない。私たち勤労者は命をかけて立ち上がり、彼らの頭がい骨を一撃のもとに粉砕せんとの決意に燃えている。強力なソヴィエトこそ民主主義と社会主義の勝利の保証である。あらゆる大国のうち、ソヴィエトのみが、日本の民主化と非軍国化、日本の勤労者の利益と幸福を守って徹底的に闘っている。ソヴィエトこそ日本人民の夏に頼むべき友なのだ」と。

 このように、アメリカを非難し、ソヴィエトをたたえつつ、いよいよ、自分たちの決意と誓いの部分に入ってゆく。

「現在の私たちは、もはや過去の私たちではない。私達は民主主義と社会主義の陣営の一部であり、平和の軍隊の戦士である。この神聖な任務のため、日本共産党の指導のもとに最後の血の一滴まで捧げて闘う用意がある。」と。

 そして、いよいよ究極の佳境に至る。日本人のプライドも何もない。自虐ということも通り越して、作文の世界に入って言葉に酔っているともとれるのだ。

「私たち日本人捕虜の帰国も最終段階に入ったが、私たちは断じて祖国なつかしとのみ帰るのではない。私たちの人生における最大の感銘に満ちた4年間を、わが再生の宝とし、その懐かしい思い出を変えることなく抱き続け、私たちの聖なる誓いを固く守り、わが人民開放の闘いに必要とあらばわが生命を捧げようとする確固たる決意に燃えて進撃するために帰国するのだ。私たちは戦争の間はかりしれぬ罪悪をソヴィエト市民にかけた。このことについては限りな

い自己嫌悪の念に耐えない」と。

そしてしめくくりの宣言となるが、その文は、そのままここに掲げることにする。

「私たちは、今こそわが日本に帰国したその時は、日本海の波濤遠く、レーニン、スターリンの国を仰ぎみつつ、ソヴィエトの国の偉大な模範に無限の勇気をくみとりつつ、日本人民の利益のために、全世界勤労者の自由と幸福のために、果敢に、献身的に闘うでありましょう。社会主義ソヴィエトの国に過ごした4ヵ年の思い出は、終生私達の心を、大いなる喜びと感激をもって充たすでありましょう。そして偉大なる人民、建設者たる人民、真のヒューマニストたる人民についての思い出は、永久に日本勤労者の心のうちに生きるでありましょう」

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2008年7月27日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(129)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

 シベリア強制抑留で苦しんだ日本人の姿は、今日の私たちの対極にあるものである。衣食足りて礼節を知るという諺があるが、「衣食」不足の極限にあっては、人は人間の姿を貫くことが難しい。また、「衣食」が足り過ぎた中でも、人間の尊厳を貫くことが難しくなる。まして、人間としてのしっかりとした歩みを支える「心の文化」が定着していない場合には、このことが言える。シベリア抑留と今日の社会は、このことを私たちに教えてくれる。

 ハバロフスク事件で闘った日本人は、今日の日本とは対極にある極限の状況下で、人間の尊厳を守るために闘った。その姿は、ロシア人の目にもまぶしく輝いて見えたに違いない。アレクセイ・キリチェンコは、それを、シベリアの「サムライ」と表現し、高く評価した。「ハバロフスク事件の真実」とともに、ロシアの学者が提示した、この懐かしい「サムライ」という言葉を、私たちは今日の日本人の「心」を考える上で、重要なメッセージとして受け止めるべきではないか。戦後の日本は、日本人が大切にしてきた、伝統的価値観の多くを捨て去ってしまったが、その中には、時代を超えて、新憲法のもとにおいても、日本人の心の芯として守ってゆくべきものが数多くある。サムライの心、かつては、それを武士道といったが、これは、日本人の伝統的な精神文化として、今改めて注目すべきものと私は考える。

 武士は、階級社会における支配層であった。そして、武士道は、この支配層のモラルであったから、今日の平等社会のモラルとしてはそのままでは受け入れられないといえる。しかし、実際は、武士道の本質は発展して、武士階級だけでなく、それを見習った日本人全体の精神構造を支えるものとなっていたのではないか。そして、その中心は、自分という「個」を越えた社会のために貢献する志である。これは、今日の社会においても立派に通用する価値、いや、むしろ、物質万能に傾いた今日の社会において、より重視されなければならない理念である。それは、個人の存在よりも国家を尊重するという理念ではない。個人としての人間の尊重をより実現するために、いいかえれば、個人としての人間を高めるために、「義」、「信」、「孝」、あるいは「恥を知る」ということを、社会貢献に結びつける考えなのだ。

 今日、ボランティアの時代といわれるが、ようやく芽が出てきた社会貢献の流れを本物のより質の高いものに育てるために、私たちは、このような精神文化を自覚して守り育てることが大切である。このことが、国際化時代において、日本人のオリジナリティを確立する上で必要なことと思う。そして、「シベリアのサムライ」が見せた心意気を今日の私たちの心の糧として正しく受け止めることが、シベリアの強制収容所で苦しんだ日本人に報いる私たちの務めでもある。☆土・日・祝日は、中村のりお著「望郷の叫び」を連載しています。

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2008年7月20日 (日)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(126)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

アレクセイ・キリチェンコの論文は、モスクワの国立中央古文書保管総局に保存された資料に基づくものである。

現在のロシア人が、しかも、公的立場にある重要な人物が、発掘した資料に基づいて、強制収容所の抵抗運動をどのように見ているかということは、大いに興味あることである。その主な部分を紹介したい。

「第二次世界大戦後、64万人に上る日本軍捕虜がスターリンによって旧ソ連領内へ不法護送され、共産主義建設現場で奴隷のように使役されたシベリア抑留問題は、近年ロシアでも広く知られるようになった。しかし、ロシア人は当局によって長くひた隠しにされた抑留問題の実態が明るみに出されても、誰1人驚きはしなかった。旧ソ連国民自体がスターリンによってあまりに多くの辛酸をなめ、犠牲を払ったため、シベリアのラーゲルで62,000人の日本人捕虜が死亡したと聞かされても別に驚くほどの事はなかったからだ。とはいえ、ロシア人が人間的価値観を失ったわけでは決してなく、民族の名誉にかけても日本人抑留者に対する歴史的公正を回復したいと考えている。-今回ここで紹介するのは、私が同総局などの古文書保管所で資料を調査中、偶然に発見したラーゲリでの日本人抑留者の抵抗の記録である」

これは冒頭の文章であるが、その中に注目すべき部分がいくつかある。まず、抑留者の数を64万人、死者を6万2千人としている点である。これは、日本が発表している数より多いが、本来、加害者として少なく発表することが予想されるにもかかわらず、このような数字が発表されることが注目される。今後、多くの資料の整理研究が進めば、さらに正確な数字が分かるのではなかろうか。

次に、ロシア人の名誉にかけて日本人抑留者に対する歴史的公正を回復したいと述べている点に、私は、驚きを覚える。日本人が最も嫌いな国、あるいは最も恐い国としてあげるのが通常ソ連である。これは、日ロ戦争という形でソ連と出合って以来のことと思われる。北極につながる酷寒の大国ということで、寒さに弱い日本人は本能的に恐怖感を抱くのかもしれない。その上に、過酷な強制抑留や北方領土の占領などが重なって信用できない理不尽な国というイメージが私たちの心の底に定着しているものと思う。奴隷のような苦しみを長い間加えられた抑留体験者やその家族の苦しみと恨みは、私たちの想像をはるかに超えるものがあろう。来日したエリツィンが、「謝罪の意を表します」と深々と頭を下げた姿には多くの日本人が注目したが、政治家の儀礼的な態度と受け止めた人も多いであろう。

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2008年7月19日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(125)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

瀬島龍三は、その回顧録で次のように述べている。「この闘争が成功したのは国際情勢の好転にも恵まれたからであり、仮にこの闘争が4,5年前に起きていたなら惨たんたる結果に終わったかもしれない」

 このハバロフスク事件は、昭和30年12月19日に発生し、ソ連の武力弾圧は、翌年3月11日のことである。この間、鳩山内閣によって、日本人収容者の運命のかかった日ソ交渉が行われていた。首相鳩山一郎が自らモスクワに乗り込んで、日ソ交渉をまとめ、日ソ共同宣言の調印が行われたのは、昭和31年10月19日のことであった。この宣言の中で、この条約が批准されたときに日本人抑留者を帰国させることになっていた。そしてこの年11月27日、条約案は、衆議院本会議を通過した。ソ連はただちに動き、最終の帰国集団、1,025人の抑留者を乗せた興安丸はナホトカを出港し、12月26日舞鶴港に入港した。

 ハバロフスク事件の責任者、石田三郎の姿もその中にあった。一足先に帰国していた瀬下龍三は、平桟橋の上で、石田三郎と抱き合って再会を喜びあった。死を覚悟して戦った日本男児石田三郎の目に祖国の山河は限りなく温かく映った。

十 シベリアのサムライたち

 最近、ハバロフスク事件をソ連の学者が取り上げて評価するという、従来考えられないようなことが起きている。その一例が、ロシア科学アカデミー東洋学研究所国際学術交流部長アレクセイ・キリチェンコの「シベリアのサムライたち」と題する論文である。

 背景として大きな政治的な変化があった。その現れとして、平成3年4月ゴルバチョフ大統領が訪日にして、日本人抑留者の死亡者名簿37,000人を手渡したこと、および、平成5年10月にはエリツィン大統領が訪日して、シベリア強制抑留の事実に対して、日本国民に対して「謝罪の意を表します」と深々と頭を下げたことなどがあげられる。

 特に、ゴルバチョフが大統領になって、新しい政策としてペレストロイカ(政治の再編・建て直し)およびグラスノスチ(情報公開)が打ち出され、新しい資料の公開が正式に可能になったことが重要である。

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2008年7月12日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(123)第5章 日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の事実

「手を出すな、抵抗するな」

 誰かが叫ぶと、この言葉が収容所の中でこだまし合うように、あちらでもこちらでも響いた。長い間、あらゆる戦術を工夫する中で、いつも合言葉のように繰り返されたことは、暴力による抵抗をしないということであった。今、棍棒を持ったソ連兵が扉を壊してなだれこんだ行為は、支配者が権力という装いを身につけて、その実、むき出しの暴力を突きつけた姿である。暴力に対して暴力で対抗したなら、さらなる情け容赦のない冷酷な暴力を引き出すことは明らかなのだ。そうなれば、すべては水の泡になる。予期せぬ咄嗟の事態に対しても、このことは、日本人の頭に電流のように走った。

「我慢しろ、手を出すな、すべてが無駄になるぞ」

引きずり出されてゆく年配の日本人の悲痛な声が、ソ連兵の怒鳴る声の中に消えてゆく。柱やベッドにしがみつく日本人をひきはがすように抱きかかえ、追い立て、ソ連兵は、すべての日本人を建物の外に連れ出した。収容所の営庭で、今、改めて勝者と敗者が対峙していた。敗れた日本人の落胆し肩を落とした姿を見下ろすソ連兵指揮官の目には、それ見たことかという冷笑が浮かんでいた。

ソ連がこのような直接行動に出ることは、作業拒否を始めたころは常に警戒したことであるが、断食宣言後は、まずは中央政府の代表が交渉のために現われることを期待していたので、予想外のことであった。

ついに会見のときがきた。石田三郎は、ポチコフ中将の前に立っていた。中央政府から派遣されたこの将官は、あたりをはらう威厳を示してイスに腰掛けていた。石田三郎は敬礼をし、直立不動の姿勢をとって、将官の目を見つめていた。しばし緊張した沈黙の時が流れた。この人物がソ連の中央政府の代表か。そう思うと、かつて満州になだれ込んだソ連軍の暴虐、混乱の中に投げ込まれた兵士や逃げまどう民間人の姿、そして長い刑務所や収容所のさまざまな出来事が、瞬時に石田の胸によみがえった。

再び、戦いに敗れてここに立っていると思いながらも、今、ポチコフ中将を前にして、気付くことがあった。それは、中将の態度が、これまでのソ連軍のそれとはなぜか違っていることである。石田を見る目つきも奴隷を見るような軽蔑したものではないのだ。そして石田は、この時になって、はっと思い当たることがあった。それは、兵士が収容所に踏み込んだ時、白樺の棍棒を持ち、銃は使わなかったことだ。石田の胸にずしりと感じるものがあった。

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2008年5月10日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(105)第5章 日本人が最初に意地を見せたハバロフスク事件の事実

ハバロフスク事件の発生は、昭和30年の暮れである。日本人抑留者のほとんどは、昭和25年の前半までに帰国した。しかし、元憲兵とか、特務機関員とか秘密の通信業務に従事した者などは、特別に戦犯として長期の刑に服し、各地に分散し受刑者として収容されていたが、一般の日本人抑留者の帰国後、ハバロフスクの収容所に集められていたのである。

 前橋市田口町在住の塩原眞資氏は、昭和25年に帰国したが、その前はコムソムリスクの収容所におり、その後ハバロフスク収容所に移されていた。昭和23年に、ここに入れられたときのことを塩原氏は、その著『雁はゆく』の中で次のように述べている。

「この収容所に集結された者は、聞いてみると、日本軍の憲兵、将校、特務機関兵、元警察官、そして私のように暗号書を扱った無線通信所長等、軍の機密に関係したものばかりの集まりであった。それからいろいろといやな憶測が頭をかすめる。この収容所に入れられた者は、絞首刑か銃殺かまたは無期懲役かと寝台の上に座って目を閉じる」

 塩原さんたちの帰国後も、この収容所の日本人たちの苦しい抑留生活は続いた。そして、世界の情勢は変化していた。

 昭和27年、参議院の高良とみが日本人として初めてこの収容所を訪れ、一部の日本人被収容者に会ったとき、彼らは一様に、「日本に帰れるのか」、「死ぬ前に是非もう一度祖国を見たい」「祖国は私たちを救う気があるのか」と悲痛な表情で訴えたという。

 ほとんどの日本人抑留者は帰国した。そして、昭和28年にはスターリンが死に、ソ連当局の受刑者に対する扱いは大きく改善され、ドイツ人受刑者も帰国を許された。それなのに、日本人だけは、従来と同じような過酷な扱いを受けている。高良とみに訴えた日本人の心には、このような情勢のなかでのいい知れぬ焦燥感と底知れぬ淋しさがあったと思われる。

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2008年5月 3日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(101)第4章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

  敗戦後は呉市長に懇願され、呉市助役となる。呉市は、軍港を初め重要な軍事施設が多くあったところで、終戦後は多くの進駐軍が進駐し、これらの外人とのトラブルや占領軍との交渉が多かったから高良とみの経歴、特に英語力が必要とされたのである。全国初の助役として新聞で大きく報道された。

 やがて、高良とみの人生に大きな転機が訪れる。女性に参政権が認められることになったのだ。どのまちにも、腹をすかせ目をギョロギョロさせた戦災孤児が多くいた。また、大都会には、外人の腕にぶら下がって歩くパンパンと呼ばれる日本女性が溢れていた。

 婦人解放の問題に取り組んでいた母の姿を見て育ったとみは、敗戦の社会で喘ぐ哀れな女たちの姿を見てつらかった。婦人参政権の実現は、天が与えた絶好のチャンスと思え、とみは、一大決心をして参議院議員選挙に立候補する。昭和22年のことである。高良とみは民主党から立候補して34位、女性では10名中4位で当選する。

高良とみは参議院議員になって海外同胞引揚委員会に属し、その副委員長を務めていた。この委員会には、ソ連における日本人抑留者の情報が時々入っていた。高良とみは、1銭5厘の葉書一枚で戦争に召集され、激しい戦いの中で九死に一生を得て生き延びたにもかかわらず、酷寒のシベリアに送られ長く抑留されている日本人が哀れでならなかった。また、その帰りを待ち焦がれる家族の姿を身近に見て心を痛めていた。そこで、このシベリア抑留者を一日も早く帰国させることが、国会議員としての自分の第一の使命であると固く信じて、行動を起こす機会をうかがっていた。

 ある時、ソ連が世界各国の人をモスクワに招いて経済会議を開くことを企画し、石橋湛山ら財界指導者にも招待状が出されていることを知った。実は、高良とみはこの訪ソの話を聞く直前にパリにおけるユネスコ会議への招待状を受け、すでにパスポートを手にしていたので、訪ソ団に加わり、パリからソ連に入り日本人抑留者の問題を調べたいと願った。

 運よく訪ソ団に加わることになったが、政府は、講和条約発行を前にアメリカとの関係を心配してソ連へのパスポート発行を認めない。そこで、高良とみは単身パリのユネスコ会議へ向けて出発した。

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2008年3月22日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(87)第3章 青柳由造さんのシベリア

こういう人にとって、時の進み方がいつもより何倍も何十倍も長く感じられた。その心の苦しみは、他の日本人にも伝わって、時が経つにつれ、船内は沈黙が支配し、異様な雰囲気が高まっていった。

やがて船が止まった。領海の果てに来たのだ。艀(はしけ)がおろされ、二人のソ連兵が乗り移って、船は再び動き出した。

「ワーッ」とどよめきが上がった。抱き合って喜んでいる人がいる。両手を上げてバンザイと叫ぶ者もいた。船はついに、ソ連の領域を出た。もはや、収容所に連れ出される危険は去った。それは、長い間捕われていたシベリアという罠から抜け戻される瞬間であった。船は穏やかな日本海を滑るように南下していた。

船は貨物船で速度は遅いが、着実に日本に近づいている。船内の食事は、戦時食というもので粗末なものであったが、やはり日本食はうまい。日本も食糧難なのであろうと、青柳さんは想像した。厳しい状況の祖国日本が救いの手をシベリアまで伸ばしてくれたことが、この貨物船や食事から感じられて嬉しいのだ。時々甲板に出て見るが視界に入るものは、全て穏やかな海であった。青い海と青い空、水平線はどちらを見ても天と海が一つの色になって溶け合っている。天と海が貨物船を包み込んで祖国日本へ運んでいる。これまで、この世に神も仏もないと嘆いてきたことが嘘のように思える。

青柳さんはこれまで生きてきた人生で最高の至福の時にあった。物心ついたころから血生臭い騒然とした社会で生きてきた。日本人全体が大戦に呑み込まれ、国家滅亡の渕に立たされて多くの人々が命を落とした。戦争が終わったのに俺たちは、より過酷な戦争ともいうべき強制抑留所で地獄の苦しみを味わった。全ての難関を幸運にも通過できた者が今、この船の中にいる。この日を夢見つつ命を落とした多くの同胞が今更ながら哀れに思え、青柳さんは北へ向って静かに手を合わせた。

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2008年3月20日 (木)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(86)第3章 青柳由造さんのシベリア

その後ろ姿が哀れであった。青柳さんは、見ないようにしていたが、一人の横顔がふと目に入って思わず、あっと叫んだ。その日本人は、ダガラスナで懲罰を受け帰国組から外された男に違いない。あいつも一緒に帰りたいだろうにと、その一段と小さくなった男の背中を見ながら青柳さんは胸をつまらせた。

その船は貨物船で、中を丸太で4階ほどに階層をつくり、各階は板を張って、その上に中国特産のアンペラという草で編んだむしろが敷かれていた。その上に毛布一枚で所狭しと横になるのである。この船の様子から、日本の状況は、教えられていたように非常に悪いに違いないと思われたが、青柳さんにとってそんなことはどうでも良いことで、アンペラのむしろの上は天国のように感じられた。 

船は動き出した。ロシアから離れてゆく。青柳さんは甲板から海岸線の奥に続く光景を見た。丘の彼方に黒い森がどこまでも広がっている。あの森では、自分たちの交代要員として入った日本人が作業していると思うと堪らなかった。森の上に、黒いシベリアの冬の雲が動いている。あの雲の下の酷寒の収容所で俺は生きてきた。凍土の上で唸る風の音に怯え立ちすくんだ日々、狂おしいほどに憧れた祖国。さまざまな思いが青柳さんの胸に去来する。

収容所では、毎日毎日が厳しい試練の連続だった。その中で自分より屈強な男が次々と倒れて死んでいった。青柳さんは、今生きていることが不思議に思えた。その力は、弱い自分のどこにあったのか。改めて自分を育てた父母や古里の山河を思った。シベリアの強制抑留の生活は、自分とは何かを発見させる場でもあった。それにしてもシベリア強制抑留とは、はたして何だったのか、そう思いながら水平線の彼方に遠ざかるシベリアを青柳さんは、じっと見詰めていた。

やがて、ナホトカの光景は水平線の下に消えた。青柳さんは安堵の胸をなでおろした。しかし、船内にはまだ緊迫感が消えなかった。領海を出るまでは、二人のソ連兵が乗り込んでいて目を光らせている。誰かの秘密が見つかって、連れ戻される危険が常にあるのだ。満州時代の経歴を隠している者がかなりおり、そういう人は、目をつけられ、声をかけられはしまいかと生きた心地もなく一秒一秒を必死で耐えていた。

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2008年2月23日 (土)

シベリア強制抑留『望郷の叫び』(78)第3章 青柳由造さんのシベリア

 ダガラスナの山地は氷が溶け、どこも湿地帯となり、水がビショビショと流れ出ている。春から夏にかけての重要な仕事に鉄道の敷設があった。冬の材木運搬用の鉄道であるが、私たちが通常考える鉄道建設とはかけ離れている。水が流れる湿地の上に丸太を並べ、その上にレールを置くのだ。レールの上を歩くとふわふわ動く。これが冬になると丸太はコンクリートで固めたのと同じ状態になり重い貨車に耐えることができるのだ。

 氷が溶けるのを待つように、野山には春の息吹があふれてくる。青柳さんは小さな草花を見て、この小さな命がどのようにしてあの冬を越すことができたのかと驚き、改めて生きていることの喜びをかみしめるのであった。

 食べ物に飢えている日本人にとって春の野山はいたる所に食べ物が満ちていた。野生のニラは、飯盒で水を使わずに蒸して食べると、甘味があっておいしかった。アザミの葉はゆで方が早いと口の中でトゲがチクチク痛い。ハコベラは少し伸び過ぎると茎の筋が堅くて美味しさが半減する。青柳さんたちは、情報を交わしながら工夫を重ねてあらゆるものを食べた。しかし失敗もあった。野生のニンジンや楢の木のキクラゲを食事代わりに食べていた者の中から、腹痛を訴えるものが出たし、中毒死した者も出たのである。森で暮らす人々や野生の動物は、長い年月の中でこのような失敗に学びながら生きることを学ぶのであろう。

 嬉しい発見があった。白樺の幹に斧で傷をつけると甘い樹液が出るのだ。空き腹にしみ込んで身体の奥から力が湧いてくるように感じられる。作業をしながら、朝、傷口に飯盒をあてておくと昼までに半分くらいは溜まる。作業の現場近くで白樺の木を見つけるのが楽しみであった。冬の間は、仲間が死ぬと人々は、「あいつも白樺の肥やしになる」と言いあった。雪の中に音もなく立つ白樺は厳冬を支配するもののごとく恐ろしく思えた。それが今や人間に恵みの樹液を与えてくれる。半透明の液体は、青柳さんには零下40度の凍土を生き抜いた生命力の源のように思え、頼もしくさえ感じられるのであった。

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