2007年4月13日 (金)

「お礼回りで知る選挙の実態」

  お世話になった支援者を訪ねた。ある大きな企業の社長は、今回は、事情があって私の幹部役員を降りた人であるが、選挙戦が押し詰まった段階で、全社員を集めて支援を訴えてくれた。私はその、熱い友情に感激し、氏の政治に寄せる高い志に敬服した。応接室で私を迎えた彼は、激戦を勝ち抜いたことを心から喜んでくれた。貴重な票の重さを感じた。

  利根西のある経営者を訪ねた時である。私と話している社長の携帯が鳴った。その受け答えから私の事だとすぐに分かった。携帯の声は礼状をもらったことに対し、御丁寧にと、また礼を言ってきたのである。この社長は年来の同志であるが、今回は雰囲気がいつもと違うと感じとって、友人知人など八方に手を尽くして呼びかけ、当選が決まると、呼びかけた全てに礼状を出してくれたのである。一票一票の有り難さを感じた。

  また、私の後援会が広がるある町の古い支援者の家では、こんなことも聞かされた。ある候補者の奥さんが主人が危ないから助けて下さいと言って、一軒一軒を必死で回ったというのである。中村さんは大丈夫だからというのでかなりの票が流れたのではとも言われた。選挙は、政策よりも、情によって動かされる部分があることを思い知らされた。

  病床にいた妻は、このようなことを想像してあせり、そのことが一層、頭痛を激しくしたのかもしれない。

◆人の和を生かすことの難しさ。今回の選挙でも、運動員間の人間関係の難しさが悩みであった。選挙に積極的に参加しようとする人は、概して意欲的でありまた個性の強い人が多い。

  意欲的だから自分の考えを主張し積極的に行動する。時に考えが違い協調できないことがあると衝突してしまう。今回もこのような摩擦がずいぶんあった。

  組織を動かす場合の悩みと課題は、このような人々の力を如何に引き出すかである。

  温和な人たちだけでは、困難な状況で道を切り開く力を生み出すことは出来ない。個性と意欲ある人を引きつけて動かすことの重要さは戦国の武将にとっても、今日の企業の経営者にとっても同様のことであろう。

  トヨタの中には「スカンクプロジェクト」と呼ばれるチームがあるという。スカンクのように悪臭を放ち、また強い個性ゆえに人に嫌われる人々である。トヨタは、これらの人が常識にとらわれない発想で新しい企画を進めることを期待しているのだろう。

  しかし、企業だから社長の命令でこのようなことが出来る。選挙で集まる人々は、給料をもらわないボランティアである。命令で動かすことは出来ない。ここに最大の難しさがある。人々を動かすものは、何のために闘うかという大義とそれへの自覚である。選挙は民主主義を支える基盤だ。そしてこの基盤はボランティアによって支えられる。民主主義を発展させることの難しさと面白さの一面がここにあると思う。

★土・日・祝日は以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月12日 (木)

「当選議員の初顔合わせ」(11日)

 県連3Fで行われた初顔合わせは、笹川会長・大沢議長も出席。現職を引退した松沢さん・矢口さんも参加した。6人の新人議員が自己紹介した。また、カムバックした村岡議員も嬉しそうな顔を見せていた。いつも、この会場で同席する4人の顔がなかった。萩原康二、星野寛、木暮繁俊、田所三千男の各氏。惜しくも落選した人々である。それぞれの顔が浮かぶ。親しい人たちであった。その心中を思うと忍びない。

◇選挙戦の一断面。ロイヤルホテルとグリーンドームのことである。4月4日は二つの大きな集いがあった。ロイヤルの女性集会は、約400人が集まった。「女性にもてない私のためにこんなに集まってくれ感激です。後ろ髪を引かれる思いで次の会場に走ります」と言うと、どっと笑いが起きた。なごやかなムードであった。今から思うと、ここにも大丈夫という安心感が支配していたのかもしれない。

 この日、30分ずらして、グリーンドームで各種支援団体の大会が計画されていた。ロイヤルホテルを出て、県庁の裏手にかかると、大変な渋滞であった。花見で敷島公園方面を行き来する車の波であろうか。左右から満開の夜桜が道をおおうように咲いていたが、移動時間5分が過ぎることで、桜を見る余裕はなかった。

 グリーンドームは、地域後援会とは別の、書道、柔道、弓道、菓子組合等、私が顧問等として関わる支援団体の集まりである。サブイベントエリアに下りる階段にさしかかった。一気に駆け降りようとして、私は、一瞬、足を止めた。4年前のことが頭によみがえったのだ。あの時、私は、ここで足を挫き、足を地につけることが出来なくなってしまったのだ。運動会の騎馬戦のように、三人の人にかつがれて、前方演壇まで運ばれた。みじめな私の姿に人々の目が注がれ、頑張れと大きな声がかかった。あのアクシデントは、期せずして会場の人々の心を燃え立たせることになった。

 足下を確かめながら階段を下りると、広い会場には約500人の人々が待ち受けていた。私は、ここにお集まりの方々は、文化、スポーツ、福祉などを支える人々で、私にとって最も大切な支援者である、今、物は豊になったが、人の心は逆に貧しくなっている、皆さんと力を合わせ、真に豊かなふるさと群馬をつくりたい、そのために、どうしても負けられない戦いです、どうか力を貸してください、と訴えた。

 このような総決起大会を11か所で行ったのである。手ごたえはあった。しかし、この手ごたえを確実な票に結びつけるために何かが欠けていたのが今回の選挙であったと思う。

運動員が、どこへ行っても中村は大丈夫だからと言われてしまうとこぼしていた。前回までも、このような中をしのいで来たが、今回のような異常な激戦を勝ち抜くには、もう一つ緊張感をつくり出す工夫が必要であった。新たな戦いの一歩を始めようと思う。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月11日 (水)

「選挙を振り返って。戦いの断面」

◆今回の選挙で私は、得票数を前回と比べて大幅に減らした。その要因の一つは、芳賀に住所を移した民主党のある女性が、地域内の公民館を選挙事務所にして県議選を戦ったことである。芳賀地域は、もともと、旧社会党の強い地盤があったところであり、長く社会党の市議を勤めた人物がいた。この男が、民主党の女性候補を支援する中心になった。

 同一地域に県議選候補が二人立って、地元地元と訴えると、一人区に二人の候補が立って争うことと似た現象が生じてしまう。足元がえぐられるような事態がひそかに進んでいたのだ。フクシと知事推薦を武器にした攻撃によって。

 44日の朝、前橋青果市場で桑原功民主党候補と私が前後して演説をすることになった。桑原氏は、民主党が共倒れになると心配している風であった。結果は彼が心配した通りになって、民主党は県都前橋で議席を0にした。

◆利根西の攻防はすごかった。

 元総社町は、私にとって特に縁が深いところである。小学校6年の時、宮城村から元総社一区、牛池川の辺(ほとり)に移り住んだ。多感な少年時代、ここで赤貧の生活を送ったことが、私の人間形成の一つの原点になっている。元総社時代の同級生、そして、元総社地区の人々との絆(きずな)は強い。

 今回、元総社を中心とする利根川の西部、通称利根西から二人の無所属の有力候補が立った。中島資浩氏と吉川真由美氏である。中島氏は、若さを売り物にし、また、知事の推薦を受け、利根西の代表と称して元総社地域への浸透を精力的に計っていた。一方、吉川氏は、元衆議院議員・熊川次男氏の長女であり、元県議である。二人の必死の動きは、大きな脅威であり、元総社の牙城は危機に直面することになった。

 同級生を中心とした人たちが巻き返しに懸命になった。43日、建設会館で行われた元総社地区の総決起大会は、ハチマキをした人々であふれ、多くの同級生が壇上に立って檄をとばしてくれた。

 遂にやってきた47日、投票日前日である。毎回行う「街角集会」を今回も行うことになった。13ヶ所で綿密な計画に基づいて行われた。例えば、殿小路公民館前、集合時間350分、到着時間4時、スピーチ5分、出発45分という風に。特に元総社本村は多くの熱い支援者が街角に立ってくれた。陣頭に立った関谷市議が、私の手を握り、「元総社は巻き返せた、大丈夫ですよ」と叫んだ。

 利根西の他の二人の候補は善戦したが及ばなかった。中島氏9,859票、吉川氏8,841票であった。私の票が大きく減ったもう一つの要因は、元総社は別にして、安全ムードが支配してしまったことである。「敗軍の将、兵を語らず」というが、私自身について反省すべき点が多くある。私は、自分の心を整理して、心の砦を建て直すことから始めようと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)