「シベリアのサムライたち」(第5回)
◆告示に向けて一日が矢のように速い。体力と気力の限界を感じる時、シベリアのサムライの姿は大きな勇気を与えてくれる。
◆ハバロフスク事件に関わった人々は、ほとんどが旧制中学以上の学歴を持つ。反ソ行為などの理由で懲役25年などの判決を受けた。知と勇気を備えた人々の先頭に立ったのは元陸軍少佐石田三郎だった。かつて、天皇の兵士として戦った人々は今や新たな敵に向って立ち上がった。当時の国際情勢は・・・
「シベリアのサムライたち」(第5回)
昭和二十二年、私は、宮城村の鼻毛石の小学校に入学する。前年に発布された日本国憲法が、この年施行され、民主主義の波が全国をおおっていた。私が手にした教科書は、それまでのものとは一変し、ひらがなが初めて使われ、内容も民主主義に基づいたものであった。
おはなをかざる
みんないいこ。
きれいなことば
みんないいこ。
なかよしこよし
みんないいこ。
教科書の最初は、この詩で始まった。私たちは、このように教科書の一頁から民主主義を教えられ、また、社会のあらゆるところで、民主主義の芽は育ちつつあったが、ソ連に抑留されていた人々は、このような日本の動きは知らなかったであろう。骨のずいまで、天皇制と軍国主義を叩き込まれた人々が、収容所では、上からにわか作りの「民主教育」と称するものを強いられたのである。そこで、帰国したい一心で、形だけの、そして、上辺だけの「民主主義者」が生まれていった。このことは、別に、シベリアの「民主運動」で取り上げた。
日本は、敗戦後、連合国の支配下に入り、マッカーサー元帥の下で、占領政策が行なわれていたが、やがて、交戦した諸国と講和条約を結んで独立を達成する時がきた。
昭和二十六年、日本はアメリカを中心とする自由主義の諸国と講和条約(サンフランシスコ平和条約)を結んだ。翌年、条約は発効し、日本は独立国となる。
この条約締結については、国内世論は二つに別れて争った。自由主義陣営だけでなく、ソ連などの社会主義陣営も加えた全面講和を結ぶべしとするのが、政府に反対する立場であった。★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。
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