2007年3月16日 (金)

「シベリアのサムライたち」(第5回)

◆告示に向けて一日が矢のように速い。体力と気力の限界を感じる時、シベリアのサムライの姿は大きな勇気を与えてくれる。

◆ハバロフスク事件に関わった人々は、ほとんどが旧制中学以上の学歴を持つ。反ソ行為などの理由で懲役25年などの判決を受けた。知と勇気を備えた人々の先頭に立ったのは元陸軍少佐石田三郎だった。かつて、天皇の兵士として戦った人々は今や新たな敵に向って立ち上がった。当時の国際情勢は・・・

「シベリアのサムライたち」(第5回)

昭和二十二年、私は、宮城村の鼻毛石の小学校に入学する。前年に発布された日本国憲法が、この年施行され、民主主義の波が全国をおおっていた。私が手にした教科書は、それまでのものとは一変し、ひらがなが初めて使われ、内容も民主主義に基づいたものであった。

    おはなをかざる

 

みんないいこ。

きれいなことば

みんないいこ。

なかよしこよし

みんないいこ。

 教科書の最初は、この詩で始まった。私たちは、このように教科書の一頁から民主主義を教えられ、また、社会のあらゆるところで、民主主義の芽は育ちつつあったが、ソ連に抑留されていた人々は、このような日本の動きは知らなかったであろう。骨のずいまで、天皇制と軍国主義を叩き込まれた人々が、収容所では、上からにわか作りの「民主教育」と称するものを強いられたのである。そこで、帰国したい一心で、形だけの、そして、上辺だけの「民主主義者」が生まれていった。このことは、別に、シベリアの「民主運動」で取り上げた。

 日本は、敗戦後、連合国の支配下に入り、マッカーサー元帥の下で、占領政策が行なわれていたが、やがて、交戦した諸国と講和条約を結んで独立を達成する時がきた。

 昭和二十六年、日本はアメリカを中心とする自由主義の諸国と講和条約(サンフランシスコ平和条約)を結んだ。翌年、条約は発効し、日本は独立国となる。

 この条約締結については、国内世論は二つに別れて争った。自由主義陣営だけでなく、ソ連などの社会主義陣営も加えた全面講和を結ぶべしとするのが、政府に反対する立場であった。★土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載しています。

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2007年3月15日 (木)

シベリアのサムライたち(第4回)

シベリアのサムライたち

 

シベリアに強制抑留された人々の中には、日本人以外の外国人も多かった。彼らは、日本人が帰国したい一心で、ソ連当局に、こびたりへつらったりする姿を冷ややかに見ていた。その評価を一変させたのがハバロフスク事件であった。知識層の集まりである日本人集団は考え抜いた作戦の下で一糸乱れぬ闘いを繰り広げたのである。彼らの姿は、困難に直面した私たちに、今でも大きな勇気を与えてくれる。

「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実。」(第4回)

監督は倒れ、その場に居たソ連人は逃げた。大変なことであった。我にかえった青年は、とっさに近くの起重機に登り自殺を図る。

起重機の上に立った青年は、腰に巻いた白い布を取って、自らの血で日の丸を描き、それを握りしめて、「海行かば水漬屍(みずくかばね)、山行かば草生(くさむ)す屍」と歌って飛び降りようとする。仲間がかけ上がり必死に止め、こんこんと説得し、青年は自殺を思いとどまった。青年は斧の刃でなく峰の部分で打ったことから分かるように殺意はなかったが、「公務執行中のソ連官憲に対する殺人未遂」として、既に科されていた二十五年の刑に加えて、十年の禁固刑を科され、別の監獄に入れられた。

 なお、山崎豊子の小説「不毛地帯」の中では、この事件をモデルにした部分が描かれている。そこでは、青年は、腰の手拭いを取って、自らの斧で手首を切り、その血で日の丸を染め、起重機に縛りつけると、「皆さん、どうか、私がこの世で歌う最後の歌を聞いて下さい」と云い、直立不動の姿勢で、“海行かば”の歌を歌う。死に臨んで歌う声が朗々として空を震わせる。歌い終わると身を翻(ひるがえ)して二十メートルの地上に飛び降り死ぬ、という構成になっているが、事実は、歌を歌い終わった後、死を思い止めたのであった。

 この事件は、昭和三十年六月のことでハバロフスク事件は、この数ヵ月後、同年十二月に起きる。際だって従順と言われた日本人抑留者であったが、このような突発的な反抗は、各地の収容所であったらしい。

(3)日本と世界の情勢はどうであったか。

 昭和二十年八月の敗戦後、日本国内では、新憲法の下、瓦礫の中からの復興が進んでいた。生活は苦しくも、家族の絆は強く、人々は逞(たくま)しく真剣に生きていた。

 私の家族が前橋市から移って、勢多郡宮城村の山奥で開墾生活に入ったのは、この昭和二十年の秋、私が五歳のときであった。食料が不足して、毎日、さつま芋、大根、野生のウリッパなどを食べたことが今でも生々しく記憶に残っている。今にして思えば、この頃、ソ連も、戦後の物資が非常に乏しい状況にあった。

ソ連はドイツとの激しい戦争によって疲弊し、食糧事情も悪く、シベリアの収容所にも十分な食べ物が供給されなかった。このことが、収容所の日本人の胃袋を一層苦しめたものと思われる。

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2007年3月14日 (水)

シベリアのサムライたち(第3回)

平成16年に抑留体験者2人とハバロフスクを訪ねたときの出来事は忘れられない。青柳由造さんは突然の体調不良で倒れ、医師を呼んで騒ぎになった。もうろうとした意識の底で、由造さんは、「また、帰国できなくなる」と怯えたという。由造さんは約2年で帰国したが、ハバロフスク事件の人々は、10年を超える抑留に耐えた。闘った人たちを支えたものはサムライの精神であった。

「日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実」(第3回)

事件当時の状況を示す資料は、奴隷的労働の様子、与えられる食料のひどさ、そして、病弱者の扱いの不当などを示している。労働にはノルマが課せられ病弱者にも容赦がなかった。食料については、まず与えられるカロリー数が少ないこと。旧日本軍は、重労働に要するカロリーを一日、3800カロリーと規定していたが、収容所ではやっと2800カロリーであった。又、生野菜が極度に不足しているためビタミン摂取が出来ないのが痛手であった。日本人の食生活の基本は、本来、肉食ではなく、米や野菜である。従って、日本人の体にとっては、特に生野菜が必要であった。野菜がとれないシベリアの冬は、特に深刻であったと思われる。余談になるが、最近のシベリアの小学校の様子を伝える映像として、冬期、給食の時、野菜不足の対策としてビタミンの錠剤が配られる姿があった。

(2)ハバロフスク事件の前兆としての出来ごと

 ソ連の態度は、威圧的で情け容赦がなかった。「我々は、百万の関東軍を一瞬にして壊滅させた。貴様等は、敗者で、囚人だ」と、何かにつけ怒鳴った。日本人抑留者は、この言葉に怒りと屈辱感をたぎらせていた。あのように言っているが、関東軍の主力は、ほとんど南方戦線にまわされ、満州では、実際戦える戦力はなかったのだ。そこへ入ってきて、強奪と暴行の限りを尽くした卑しい(いやしい)見下げ果てた人間ではないか。人々は、皆、こう思いつつ、帰国という一縷の望みを支えに耐えていた。ソ連側の基本的な考えは、日本人は憎むべき戦犯である。だから従順な日本人を徹底的に酷使する、ということであった。事件は突発的に起きたのではなかった。このような状況が進む中で、不満は人々の心にうっ積し、過酷な環境は人々をのっぴきならないところまで追いつめていた。それを物語る出来事が、”ハバロフスク事件“の前に起きた。

 監督官の不当な圧迫が繰り返されていた。特に、監督官・保官将校ミーシン少佐は、日本人から蛇蝎(だかつ)の如く嫌われていた。ある時、彼は零下三十度の身を切るような寒さの中、日本人がやっと作業現場にたどり着いて、雨にぬれた衣服を乾燥するために焚き火をすると、これを踏み消して作業を強制した。あまりのことに抗議した班長を営倉処分にしたのである。一人の青年がこの理不尽な監督官の扱いに対して、ついに堪忍袋の緒を切って抵抗した。青年は斧で傷害を加えたのである。

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2007年3月13日 (火)

シベリアのサムライたち(第2回)

妹弟たちと夕食会。長く選挙をやると肉親に苦しい思いをさせる。胸にあるものを語り合い熱い血を確認した。県議選が秒読みに。苦しい時はシベリアを、の思いで始めた連載の第2回。以前、拙著を読んで手紙をくれた永田潔氏は、私が描くハバロフクス事件の渦中にいた。ロシヤ語の達人で旧陸軍特務機関の威力謀略隊にいたという。氏は、「よくまとめられた、それも正確に。全く敬服、感服致しました」と評してくれた。

日本人が最後に意地をを見せたハバロフスク事件の真実

(第2回) 

ハバロフスク事件の発生は、昭和三十年の暮である。日本人抑留者のほとんどは、昭和二十五年の前半までに帰国したが、元憲兵とか、特務機関員とか秘密の通信業務に従事した者などは、特別に戦犯として長期の刑に服し、各地に分散し受刑者として収容されていたが、一般の日本人抑留者の帰国後、ハバロフスクの収容所に集められていたのである。

 前橋市田口町在住の塩原眞資氏は、昭和二十五年に帰国したが、その前はコムソムリスクの収容所におり、その後ハバロフスク収容所に移されていた。昭和二十三年に、ここに入れられたときのことを塩原氏は、その著「雁はゆく」の中で次のように述べている。

「この収容所に集結された者は、聞いてみると、日本軍の憲兵、将校、特務機関兵、元警察官、そして私のように暗号書を扱った無線通信所長等、軍の機密に関係した者ばかりの集まりであった。それからいろいろといやな憶測が頭をかすめる。この収容所に入れられた者は、絞首刑か銃殺かまたは無期懲役かと寝台の上に座って目を閉じる。」

 塩原さん達の帰国後も、この収容所の日本人達の苦しい抑留生活は続いた。そして、世界の情勢は変化していた。

 昭和二十七年、参議院の高良とみが日本人として初めてこの収容所を訪れ、一部の日本人被収容者に会ったとき、彼らは一様に、「日本に帰れるのか」、「死ぬ前に是非もう一度祖国を見たい」「祖国は私たちを救う気があるのか」と悲痛な表情で訴えたという。

ほとんどの日本人抑留者は帰国した。そして、昭和二十八年にはスターリンが死に、ソ連当局の受刑者に対する扱いは大きく改善され、ドイツ人受刑者も帰国を許された。それなのに、日本人だけは、従来と同じような過酷な扱いを受けている。高良とみに訴えた日本人の心には、このような状勢のなかでのいい知れぬ焦燥感と底知れぬ淋しさがあったと思われる。ハバロフスクの収容所の人々は、不当な裁判によって、その多くは、刑期二十五年の懲役刑に服していた。長い収容所生活によって体力も、みな、非常に衰えていた。それにもかかわらず収容所の扱いは相変わらず過酷であった。ハバロフスク事件は、収容所側の扱いによって生命の危険を感じた人々が、自らの生命を守るために団結して立ち上がった抵抗運動である。

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2007年3月12日 (月)

シベリアのサムライたち

県議選突入が秒読みの段階に至りました。取り組まなければならない多くの課題を前に、私の胸の不安と緊張は日毎に高まっています。ここで、私は心の支えとして、拙著「望郷の叫び」の中の「シベリヤの侍たち」をかみ締めることにしました。読者の皆様にも是非紹介したいと思い、月曜から金曜まで連載します。サムライの意地と誇りと覚悟の程に皆さんと共に接したいと存じます

       

     日本人が最後に意地を見せたハバロフスク事件の真実。 

(第1回)                  

シベリア強制抑留の真実を語る上で、ハバロフスク事件に触れないわけにはいかない。それは、奴隷のように扱われていた日本人が意地を見せた見事な闘いだったからだ。又、日本人とは何かを知る上でも重要だからである。最近、ロシア人の日本人研究者が、この事件を、「シベリアのサムライたち」と題して論文を書いた。「サムライ」とは、私たちが忘れていた懐かしい言葉である。この事件を知って、私は日本人としてよくぞやってくれたと、胸の高鳴りを覚えるのである。

昭和三十一年八月十六日の産経時事は、「帰ってくる二つの対立―興安丸に反ソ派とシベリア天皇―」という記事を載せた。それによると、帰国船内又は舞鶴で乱闘騒ぎやつるし上げなどの不祥事が起こる可能性が強いこと、二つの対立グループには、一方の反ソグループにハバロフスク事件の黒幕的な存在として知られる元陸軍中佐瀬島龍三、他方親ソ派のシベリアの天皇として恐れられた浅原正基のことが記され、又、帰還促進会事務局長談として、「浅原のように日本人を売った奴は生かしてはおけないといっている、帰還者がいるから、何が起こるか心配している」という記事が載せられている。

 またこの記事は、問題のハバロフスク事件については、「ソ連の待遇に不満を抱き、昨年十二月十九日の請願サボタージュで、犯行の口火を切ったハバロフスク事件は、去る三月、ハンストにまで及んだものの、ソ連の武力鎮圧により、同十一日はかなく終幕、四十二名の日本人が首謀者としていずれかへ連行され、一時、その消息を絶った」と報じている。事件からおよそ半世紀が経つ。この事件の重大性にもかかわらず、今日の日本人の多くは、この事件を知らない。

(1)ハバロフスク事件の背景

 ハバロフスクは、ロシア極東地方の中心都市で、アムール川とウスリー川の合流地点に位置し、シベリア鉄道の要衝である。強制抑留のシンボル的な都市で、多くの日本人は、ここを通って各地の収容所へ送り込まれ、帰国するときも、ここに集められてからナホトカ港に送られた。

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