2011年5月 8日 (日)

「上州の山河と共に」第16回 元総社時代

 仕事そのものは、少しも辛くない。私が辛いと思うのは、町で仕事をしているとき、中学時代の仲間に出会うことであった。古びた自転車に煎餅のカンを積んでペダルを踏んでいると、かつて、一緒に学んでいた者達が、高校生となって、颯爽と歩いている。女子学生の制服が、又男子学生の制帽が、私には、きらきらと輝いて見え、また大変羨ましかった。向こうからかつての同級生が来るのが見えると、私は、ほとんど無意識にハンドルを切って横道へ入ったりする。そして、そんな自分が惨めで嫌だった。
 昭和31年といえば、敗戦から10年を経て、戦後という状態から抜け出しつつある時代であった。時代の潮流は混乱から秩序へ向いつつも、古いものにかわって新しいものがどんどん生まれ、社会は、なお激しく揺れ動いている感じであった。当時は鳩山内閣で、この年、日ソの国交が回復し、日本の国際連合加盟が実現する。
 社会風俗の面で印象的なのは、この年、売春防止法が成立し公布されたことである。前橋市の馬場川の近くに亀屋という菓子屋があり、中学生時代から、煎餅を卸しに行っていたが、夕方になると、そのあたりのあちこちで、お白いを厚く塗った女の人が道行く男に声をかけている風景をよく見た。私は煎餅を数えながら、好奇の目で、女たちの仕草、男たちの反応を眺めたことが思い出される。そして、この年、昭和31年から、この光景はぴったり見られなくなった。
 また、石原慎太郎の小説「太陽の季節」が映画化されたのもこの年である。私は、この映画、次いで、やはり石原慎太郎原作の「狂った果実」を見てショックを受けたことを覚えている。
 激しい社会の動き、そこで起きる毎日の様々な出来事は、私を刺激した。私はやり場のないエネルギーを持て余し、あせり、苦しんだ。俺は煎餅を焼いて一生を終るのだろうか。宮城村の少年時代、いろいろな歴史小説を読んで、自分も将来は頑張って偉い人になろうと夢に描いたことは現実の壁にぶつかってシャボン玉のように消えてしまうのだろうか。
人間は、こんなにも現実に縛られてしまう弱い存在なのか、こんな悩みがいつも私の上に重くのしかかっていた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 5日 (木)

「上州の山河と共に」第14回 元総社時代

私は必死の思いで医者を探してつれて来た。父は注射一本で静かになったが、その、のたうちまわるようすは、これが地獄の苦しみかと思われる程で、本当に死んでしまうかと思った。医師によれば、心臓喘息という病気で、これからも起きるだろう。無理は出来ない、ということであった。
 この医師の言った通り、父は、これから時々、特に寒い季節のとき、このような地獄の苦しみを味わうことになる。父の病気については、その後、現在、県医師会の理事をされておられる佐藤秀先生に大変お世話になった。
 私が一番辛く思ったことは、いかにもみすぼらしい家の前を大勢の友人達に通られることであった。当時、元総社中学校は理研の跡地の一角で、現在の元南小の所にあった。一年に何度か全生徒が小学校との間を往き来することがあり、その時は必ず家の前を通る。<あれが中村の家だ><へぇー>そんな声が聞こえ、私は身も縮む思いであった。
 こんな状態であるから、高校進学も諦め、なかば自棄(やけ)っぱちの気持ちであった。付き合う友達も勉強よりはいたずらという連中が多かった。勉強組の中では、石井俊美と心を許して仲良くした位であった。
 この頃の楽しみの一つにプロレスがあった。一般の家ではテレビはまだ殆どなく、私達は、前橋公園の一角に設置されたテレビや新聞販売店のテレビに押しかけて、その興奮ぶりは大変なものであった。力道山、ルーテーズ、シャープ兄弟、クルスカンプ、オルテガ、ダラシン、キングコングと、当時の懐かしい面々が目に浮かぶ。
 とにかく、力道山は英雄だった。私達の世代は、白人、特にアメリカ人にはある種のコンプレックスを持っているが、その大きなアメリカ人をカラテチョップでぶっ倒すというのが、堪らない程痛快だった。学校でもプロレスごっこが流行ったりして、学校から、絶対に真似をしないようにと注意されたりした。

※土日祝日は中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月 2日 (土)

『上州の山河と共に』連載(82)「いよいよ決戦」

 連合後援会長の福島貞雄さんは、両手でマイクを握りしめ、ややひきつった表情で舞台中央に立っていた。

 「皆さん、いよいよ最後の大詰めを迎えました。中村はゼロから出発し、皆さんに支えられて、ここまでやってきました。当選は、あと一歩であります。何としても、あと一歩の距離を踏み越えて、当選させていただきたいのであります。皆さん、どうか、最後の力をふりしぼって戦い抜こうではありませんか」

 連合後援会長の一言一句には、不退転の決意が込められていた。それは、澄んだ空気を通して天まで届かんばかりの、その声の響きにも表れている。聴衆は、これに対して、「わあ!」

というどよめきで応えた。

 いよいよ私がマイクを握る時が来た。

 私は、ハチマキをきゅっと締め直し、舞台の中央に立った。妻は、やはりハチマキを締めて、私の斜め後ろに立っている。私は、両手でマイクを握ったまま深く頭を下げた。顔を上げると、人々の真剣な視線が一斉に私に集中しているのを感じる。

「皆さん、こんなにもたくさんの方々が、こんな山奥まで激励に駆けつけて下さいまして、私は胸がいっぱいであります。本当に有り難うございます。選挙事務所を捜すにも、いろいろ障害がありました。やっとの思いで、このような、前橋最北の地に、選挙事務所を設けることができました。私は皆さんと共に、道のない所に道をつくりながら、ここまで進んできました。不利な条件は初めから覚悟の上であります。このように多くの方々に集まって戴き、その上、熱い激励を戴いて、選挙事務所の不利も、吹っ飛んでしまったと思うのであります。天は、私に、いや私達に、次々と試練を与えてきました。それは、政治家になる為の情熱があるか、一つ一つの障害を支援者と心を合わせて乗り越えることができるかどうかを試すものでありました。私は、皆さんと共に、その試練を克服して、とうとうここまでやってまいりました。当選は間近かであります」

「そうだ、当選は近いぞう」

「もう、当選だ」

「頑張れ!」

会場からは様々な声援と共に、割れんばかりの拍手が起こった。

☆土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月27日 (日)

『上州の山河と共に』連載(81)「いよいよ決戦」

選挙戦も終盤に近づく頃になると、序盤、中盤と比べ、情勢の変化がはっきりと感じられるようになってきた。選挙カーに対して手を振る人の数が目立って増えてきたし、その人たちの表情も真剣そうに見える。行き交う車からクラクションを鳴らし、あるいは、ライトをチカチカと点滅させてサインを送る人も増えてきた。町の人達のこのような反応は、私達に疲れを忘れさせ、当選に一歩一歩近づいていることを感じさせる。

ウグイス嬢のかすれた声に悲壮感がこめられ、それに刺激されるように、私の声も大きくなる。普段とそれ程変わらぬ筈の町の空気が、私達にはピリピリと緊迫したものに感じられる。当選も夢ではないという思いで、私達は夕闇迫る前橋市内を少しでも多くの町内をと、走り回った。

投票まであと三日という時点で、上毛新聞は、“前・新の三人急迫”という大きな見出しの下で、前橋市区の選挙情勢を分析している。“前”とは、共産党からカムバックを図る中島光一氏と、衆議院選に立候補して落選し、やはり再起を図る菅野義章氏である。そして、“新”とは、私、中村のりおを指していた。

同紙によると、私については、次のように書いてある。

「保守系新人の中村紀雄氏も、全市的に後援会組織を結成、地元芳賀地区から他陣営に激しく攻撃をかけており、“台風の目”的な存在。この為、現職の一人が食われる可能性も出てきた」

我が陣営は、誰もが無我夢中で頑張っていたので、自分達はどの辺を走っているのか、ゴールまでどの位あるのか、初めは全く検討がつかなかった訳であるが、このような新聞の記事は、ゴールが目前にあることを示すものとして、我が陣営の全ての者にとって大きな励ましであった。

投票日まであと二日と迫った日に、総決起大会が開かれた。この大会が、どの位盛り上がるかが、当落を予想する一つのバロメーターとされていたので、このような前橋の最北の地に、多くの支援者が果たして集まってくれるかと、私は心配であった。

その日は、空は晴れて、やや強い赤城颪が選挙事務所を囲むトタン塀をガタガタと鳴らしていた。そして、私は朝から緊張し、“皇国の興廃は、この一戦にあり、天気晴朗なれど波高し”というあの日本海海戦の折の文句を思い浮かべていた。

資材置場を片付けてつくられた広場の一角に大型のトラックが置かれ、その荷台には紅白の幕が張られて大会の舞台が作られた。

午後二時、開会の時が近づくと続々と支援者が集まり、ついに、広場がほぼいっぱいになる程になった。舞台の上からは、はるか彼方の前橋市街の家々が折からの太陽に反射してチカチカと光って見える。あんな所から多くの人が駆けつけてくれたと思うと、万感胸に迫るものがあった。

☆土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月20日 (日)

『上州の山河と共に』連載(79)「いよいよ決戦」

 妻が聴衆の前で挨拶する機会は、次第に多くなった。妻は、大勢の前に立つと、直ぐに泣いた。涙を拭う左手の白い包帯と共に、彼女の姿は人々の目に印象的に映るらしい。

激しく突き上げるものを必死で抑えようとするが、抑えつけようとすればする程感情は乱れ高ぶってしまう。

「皆様に、こんなにお世話になって本当に申し訳ありません。中村は、きっと立派な県会議員になって、皆様に御恩返しをします。どうか、主人を当選させてください!」やっとのこと、このような挨拶をすると、大きな拍手が起こり、涙を流している人の顔もあちこちに見られる。

「よし、わかった、きっと当選させるぞ!」

 会場からは、嬉しい声援も飛ぶ。

 このような盛り上がった雰囲気が更に妻を揺さしんぶるらしく、妻は、感激の涙を流している。

私は、こんな妻を心の隅で不憫と思いながらも、それを振り返る余裕もなく、私自身次第に大きくなる渦の中に巻き込まれてゆくのだった。

昼間の作戦に続く夜の課題は、出来るだけ多くの座談会を開き、これを如何に盛り上げ、得票につなげるかということであった。

座談会は、毎晩、六、七ヶ所で行われ、多くの後援会の幹部が手分けしてこれに臨み、立派に弁士を勤めてくれた。そしてその中でも、笠原久子さんの演説は新鮮、かつ、強烈な印象を与えていた。

笠原久子さんは、なかなかの美貌の人である。そして、知性と情熱を持ち前の明るい性格でうまく調和させているような彼女の雰囲気は、接する者に、常に新鮮な印象を与え、また、魅力を感じさせていた。

しかし、行動派の彼女も、大勢の前で選挙の応援演説をするのは初めてのことで、マイクを握った彼女の顔は、緊張と興奮で青ざめていた。「私達庶民の喜びや悲しみが本当に分かる人、それが、中村のりおです。私達と同じような生活の体験を持ち、私達と同じような生活感覚を持つ人でなければ、私達の代表とは言えません。中村のりおこそ、私達の代表として最もふさわしい人です。」

笠原久子さんの澄んだ綺麗な声が、凛として響く。ほぼ満席となっている公民館のホールは、俄に登場した女性弁士の迫力に押されて、水を打ったように静かである。

「中村のりおは、金も、組織も、知名度もありません。皆さんのお役に立ちたい、良い故郷を創りたい、ただ、その一心で、苦しい戦いを続けて来ました」

笠原久子さんは、ここで声をつまらせ、高ぶる感情を必死で押さえようとしている。

☆土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月19日 (土)

『上州の山河と共に』連載(78)「いよいよ決戦」

 手を振る人がいないような状態がしばらく続くと、行き交う人々は、私の訴えを聞いているのだろうか、それとも、皆、他の候補者を支持しているのだろうか、と不安になる。しかし、しばらく選挙カーを走らせているうちに、私は、これは、人々に訴えを聞いてもらい、支持者となってもらう為の絶好のチャンスが与えられているのだと気付いた。チャンスを生かせるかどうかは、こちらの工夫と努力による。選挙カーを走らせながら、一人一人の人々と出会う時間は、数秒間にも満たない。しかし、この短い時間で、的確なメッセージを送り、印象付けることができれば効果は大きい。私は、選挙カーで訴えることは、私の声を聞く人達一人一人との間で対話を行っているのだと考えるべきだと思った。だから、短い的確な表現で誠意をこめて訴えなければならないと思った。

 手を振らない人、振り向きもしない人、これらの人々の耳にも、私の声は届いている。彼らは、私を支持するかどうかの一つの資料として、それを受け止めているに違いない。私は、このように考えて、後部座席のウグイス嬢とも打ち合わせ、その町、その通りの状況も考えながら、適切な表現を工夫して真剣に訴えていくことにした。

 それにしても、私のような新人にとって前橋市内を隈なく選挙カーで回ることは、重要なことであった。これまで一歩も足を踏み入れたことのない町、あるいは、町名すら知らなかった町がある。このような町の人々に中村のりおの存在を知ってもらい、たとえ何人でも支援者を摑まなければならない。ウグイス嬢も私も、この一声に当落がかかっているとばかりに必死で訴えて回った。

 私が選挙カーに乗っている頃、妻は、選挙事務所で頑張っていた。私のような無名の新人でも、選挙事務所へは、いろいろな人が訪ねてくる。事務所には、少数の後援会幹部が待機しているが、妻としての役割は重要であった。選挙では、候補者の奥さんの態度や感じの良し悪しが得票に大きく影響するということをいつも聞かされていた妻は、かなり緊張して気を使っているふうであった。妻には、私の目から見れば、教員生活を長くしていた為に世情に疎いとか、気が利かないといった点もあったが、それよりも、生来の気さくさとか、今も失わずにもっている純朴さなどがより大切であると思われた。そこで、私は妻に、緊張せず自然に振舞って方が良いと話していたが、本人とすれば、初めて舞台に立たされた人のように大変であったらしい。

 妻は、訪問客へ挨拶が済むと、休む間もなく、後援会長やその他の幹部の案内でいろいろな所へ挨拶やら支援のお願いやらに出かけて行く、まさに、息つく間もない激務の中にあった。それでも、妻は、非常に多くの方が身を粉にして働いてくれるのは誠に申し訳ないことだから、家族が苦労するのは当たり前と、必死に飛び回っていた。

☆土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月13日 (日)

『上州の山河と共に』連載(77)「いよいよ決戦」

 1987年・昭和6243日、県議選は告示され、決戦の火ぶたが切られた。この日、定数57議席に対し79人が立候補の届け出をした。前橋の選挙区では、定数8のところへ11人が立候補し、予想通りの激戦となった。選挙運動の期間は9日間、12日が投票日とされていた。

 今回の選挙の特色として、自民党は49人を擁立し、前年の衆参同日選圧勝の勢いに乗って県議選勝利を獲ち取ることを目指していたこと、野党はこれに対して、売上税反対のスローガンをかかげて対決姿勢を鮮明にしていたことなどが上げられる。私は無所属から立候補し、〝身近な県政〟〝信頼の県政〟を、木目細かに訴えてゆこうと考えていた。

43日の早朝、私の住む鳥取町の大鳥神社で必勝祈願祭を済ませると、私は、これから9日間必死で戦場を駆け回ることになる選挙カーに乗って、県庁前に向った。

 選挙カーにとりつけられた看板の中村のりおの文字には覆いがかけられている。すでに市役所に出向いている幹部役員によって届出が適正になされた時点で、その覆いは取り除かれ、私は、第一声のマイクを握る手筈となっていた。事は予定通り運び、8時過ぎ、私は、県庁前の大通りで、生まれて初めてタスキをかけ、白い手袋の手にマイクを持って、立候補の第一声を放った。<新人候補の中村のりおである、県政を身近なものにし、信頼の県政を実現して、県民の皆さんと共に素晴らしいふるさと群馬をつくりたい、その為に、この選挙戦を死にもの狂いで戦い抜くつもりだ>と挨拶した。

 朝の通勤時間である。道行く人達は、私に格別の関心を払うふうもなく、それぞれの職場へ急ぐ。立ち止まって耳を傾ける聴衆がなくても、私は、この一声によって、現実に選挙戦に突入したことを実感した。

 各地の後援会はどう動いてくれているか、多くの人達が苦心して練り上げたいろいろな作戦は、計画通り実行されるだろうか、届出と同時に一斉になされた筈の選管指定の掲示板へのポスター貼りは進んでいるだろうか等、様々なことが気になるが、私は、もう、神輿の上の人であった。選挙カーが走り出すと同時に、後部座席のウグイス嬢の声が拡声機から流れ始める。

 選挙カーに対して手を振ってくれる人が目に入ると、本当に嬉しい。手の振り方、その人の表情は、走る車からの瞬時の把え方であるが、それが、心からの支援の現われか、それとも、礼儀的なものか、よく分かる。選挙の掲示板に時々出合うが、自分のポスターが所定の位置に貼られていると、ああ、ボランティアの人達が真剣にやってくれているなと、あの顔、この顔と目に浮かび、大変に勇気づけられる。

 選挙に出る前は、選挙カーで連呼してゆく姿を、何て馬鹿な事をと冷ややかに見ていた私であったが、自分がその立場に立ってみると、いろいろな事に気づく。私は、自分でもマイクを握り、ウグイス嬢と交互に呼びかける。

「中村のりおでございます。県政を身近なものにし、皆様と共に素晴らしい故郷群馬を築きます」「中村のりおでございます。信頼の県政を実現します。県民の為の真の県政を実現する為に立候補しました」「新人候補の中村のりおでございます。皆様と力を合わせ、21世紀の故郷群馬を築きたいと思います」

このような短い言葉を発しながら、選挙カーは走る。

土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月12日 (土)

『上州の山河と共に』連載(76)「決戦の時来る」

八方手を尽くして、次に見つけ出した候補地は、前橋市の建設会社が芳賀に所有する野球のグラウンドであった。ここは、道路から引っ込んだ所で、宣伝効果については期待できそうになかったが、それを問題にしている場合ではなかった。

 ここは、もう長いことグラウンドとして使用していることであるし、周りの町民も時々借りて使っている所だから、問題はないと考えられた。兎に角、選挙ができるということが嬉しかった。

 広いグラウンドの一角には、プレハブ小屋を建築する為に丸太の杭が打ち込まれ、建築資材を運ぶトラックも到着し始め、ことは順調に滑り出したかと思われた。

 私は、グラウンドに立って作業の様子を見ていた。この時である。グラウンドの隣りにある、このグラウンドを所有する企業の事務所から事務員走ってきて、本社から私に電話がかかった旨を告げた。

 私の胸を不吉な予感が走った。

「市の工業課から、選挙事務所に貸すことは目的外使用を禁じる約款に反するといってきています」

 ガーンと一撃をくらった思いで言葉を捜していると、電話の主は続けて言った。

「調べてみたんですが、あと1ヶ月で10年が過ぎるところなんです。申し訳ありませんが、市からそう言われたのでは、お貸しすることが出来ないのです」

 またかと思い、目の前が真暗になる思いであった。誰かが事細かに調べて市に通告しているのかも知れない。それにしても、それをそのまま受け入れて通告してくる市の態度にもすっきりしないものを感じる。またも、大きな壁に突き当たってしまった。天は私を見捨てようとしているのだろうか。私は絶望感に駆られて、しばし抗議する力すら湧いて来ない程であった。

 しかし、いたずらに腹を立て、絶望して足踏みしている時ではない。もはや一刻の猶予も許されなかった。このままの状態が続き、選挙が出来ないのではと、黒い不安が胸をよぎる。

 血眼になって捜しあてた場所は、小坂子町の外れ、畑の中にぽつんと置かれた、ある企業の資材置き場であった。所狭しと置場いっぱいに雑然と入れられている建築資材を片隅に積み上げ、整理して、やっとの思いで選挙事務所用のプレハブの建物を完成させたのは、3月も末のことで、もう告示が間近に迫っていた。

 前橋最北のこのような山里に県議選の拠点を設けるのは前代未聞のことと思われた。目の前に迫って見える赤城山から文字通り直撃するように吹き寄せる赤城颪は、プレハブの屋根をガタガタと鳴らし、中にいる者を心細くさせた。また、夜ともなると、小高い丘に立つ事務所からは、市街地の夜景が一望できるが、それも、私の目には、心細さを募らせるものでしかなかった。

 告示が数日後に迫ったある晩、もう殆んど人気もなくなった事務所の2階から、私は市街地を見下ろしていた。私の心は平静であった。この山小屋が、天が私に与えた条件なのだ。とすれば、あとは、戦い抜き、勝ち抜く他はない。こう思うと、闘士が漲ってくるのが感じられた。よし、これから、あそこへ攻め下るのだ。私は、火の海のように広がる夜の市街を見下ろしながら、拳を固く握りしめていた。

土・日・祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 6日 (日)

『上州の山河と共に』連載(75)「決戦の時来る」

 これではいけない、と私は思った。仮りにも、私は一軍の将である。私の弱気が外に現われれば、私の為に、私を信じて懸命に動いてくれている人達に大きな悪影響を与える。そんなことでは勝てる筈がない。そこで、私は、細かいことは気にせず、人事を尽くして天命を待つという心境でゆこうと決意した。

 2月に入ってから選挙事務所設営の場所を捜し始めたが、これがなかなか見つからない。選挙事務所としての条件は、まず、多くの人が集まれる広い場所であること、そして、人目に付き易い場所であることである。交通の便が良ければなお好都合であった。

 前橋市内でこのような条件を備えた土地を捜すことは、容易なことではなかった。もっと早くから研究して捜しておけば良かったと悔やまれたがもともとそんな余裕はなかったのだから仕方のないことであった。

 3月になって、やっと、これはと思うところを見つけることができた。それは、芳賀工業団地の一角で、工場建設の予定地とされている所であった。所有者である食品会社の社長は、私の熱心な後援者で、建設着手までは3ヵ月ほどあるから是非使って下さいと言ってくれた。私は、これで、いよいよ戦う拠点が確保できると、大変喜んだ。

 しかし、その喜びも束の間で、前橋市の工業課からの電話で消し飛んでしまった。

それは、工業団地として分譲する際に、10年間は、譲渡の際の目的外のことに使用しないという約款が交わされているが、選挙事務所用地として使用することは、この約款に違反するというものであった。

 私達は、これを聞いて、大変不服であった。何と形式的な解釈であろうか。若手の後援会員の中には、これは、他陣営の謀略だ、といって怒りを顕わにする者もいた。

 約款の趣旨は、その企業の業種や目的を審査して、工業団地進出の便宜を図るのだから、用地の所有権取得後直ぐに他の目的に使用するようでは、工業団地を造成して便宜を図る目的が達せられないことから、所有権取得後も、一定期間他の目的の為の使用はしないという制約を進出企業に課す点にあると思われる。

 従って、極く短期間、プレハブの建物を建てて、選挙事務所として使用することは、この約款の趣旨に違反しないのではないか、と考えられる。

しかし、市当局に抗議して、争っているうちに選挙戦に突入するようなことになれば大変なことになると考えると、私達は、当局の指示に従って、引き下がるより他はなかった。

 我が陣営の落胆ぶりは大きく、告示迄の日が短いことも合って、幹部の間にも動揺の色が濃く感じられる程であった。私は、このような差し迫った状況になって、まだ選挙事務所の用地すら確保できないということが世間に広まった場合のマイナス効果を恐れた。福島浩は、さすがに冷静であった。

「新人が選挙に出る時は、こんなものなのだろう。予想されたハードルと考えて乗り越えなければならない」 彼は、自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。

☆土・日、祝日は以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月 4日 (金)

『上州の山河と共に』連載(73)「県民会館の大会成功す」

「皆さん、本日は、お忙しいところをこの大会にご出席くださいまして、本当にありがとうございます。私は、このように沢山の方々に、今日ご出席いただけるとは、実は、思っておりませんでした。胸がいっぱいであります。感謝の気持ちでいっぱいであります。本当にありがとうございます」

 言葉を切って頭を下げると、大きな拍手が湧いた。私の胸に熱いものが込み上がる。感情に流されそうになるのを、ぐっと唾を呑んでこらえる。

「これまでに、お集まりの皆さんを初めとして、多くの方々に支えられて運動を続けてまいりました。この運動は、道のない所に新しい道を切り開く為の運動であります。そして、皆さんと共に素晴らしいふるさと、明日の群馬を築く為の運動であります」

 会場が水を打ったように静かになり、緊張が漲る。全ての視線が私に注がれるのを感じて、私の緊張も高まる。

「今、地方の時代と言われて、地方が重視される時代です。地方の住民が心を一つにして力を合わせて、地方のふるさとをつくり、そして、地方住民の幸せを築いてゆく時代です。その為には、地方の政治家が大きな役割を果たさねばなりません。

現実にはどうでしょうか。政治家は、特別な人でなければなれない。普通の常識や感覚を持った普通の市民は政治家になることができないのであります。その結果として、政治も政治家も、国民、県民から離れたところで動いている。これでは、本当に民意を反映した政治はできないのではないでしょうか」

「その通りだ」

会場で誰かの叫ぶ声がして、それにつられるように拍手が起こった。昨夜用意して覚えたはずの原稿の文面は、会場の熱気に煽られて、私の頭の中で千切れて飛び散っている。

 私は記憶に頼ることを止めて、浮かんでくる言葉をつかまえ、それを私が意識する話の方向に必死でつなげて、聴衆に投げかかる。<その通り>という言葉は、私の演説に対する確かな手応えであった。この大会では、全ての参加者が私の話に注目し、又私を試していると思って緊張していたのでこの言葉は嬉しかった。

「私は、組織も地位もない、平凡な市民です。しかし、普通の市民としての喜びや苦しみ、そういうものを噛み締めて、これまで生きてきました。わたしのような平凡な市民が、政治の壇上で頑張ることが、今、一番求められているのではないでしょうか。私は、県政を身近なものとし、県政に対する信頼を回復して、皆さんと共に、明日のふるさとを築きたいと思います。」

 大きな拍手が起こった。 続いて、私は、二十一世紀が間近な今、私達は、教育、福祉、道路、まちづくり、環境問題その他様々な課題を抱えている、これらを皆さんと共に考えてゆく県会議員になりたい、そして、常に、皆さんに接して、皆さんから御意見を聞かせてもらい、そこから学んでゆく政治家を目指してゆくつもりである、だから、是非、私を県政の場で働かせてほしい、・・・・・と話を進めていった。

☆土・日、祝日は、以前からのご要望により「上州の山河と共に」を連載いたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧