2009年11月15日 (日)

遙かなる白根 第142回 子どもたちの叫び

―白根開善学校の創立時、本吉校長や父母会がしきりに“父母立学校”ということを叫んでいたことが思い出される。白根開善学校の原点を理解しない人たちが増えてきたのか、子どもたちが変わったのか、先生たちの力量不足なのか、あるいは、世の中全体が大きく変化していることが原因なのか。白根開善学校はいろいろな曲折を辿りながら歩み続けている。A君が指摘する白根開善学校も重荷を背負って歩み続ける一コマなのである。

あとがき

本書は、あさを社の月刊上州路に1998年12月号から2000年7月号まで連載した“遙かなる白根”に加筆、修正したものである。知的障害をもって生れた長男周平を実名で登場させた。かつては天を恨んだこともある私。世間に対して開きなおるという気負ったものが心の片隅にあったかも知れない。しかし、それよりも周平の姿を示すことによって教育とは何か、人間とは何かを考える1つの材料を提供したかった。周平は平成13年3月1日、白根開善学校高等部を卒業し名誉の開善賞を得た。中学一年から6年間を白根で頑張り、この間5度実施された100キロメートル強歩で3度完歩した。開善賞を手にした周平の晴れた笑顔に私は拍手した。周平はこの年4月、“宮城の里デイサービスセンター”に就職した。新たな100キロ強歩で完歩してくれることを祈る。

本書を世に出すについては煥乎堂の武藤貴代さんにお世話になった。又、さし絵は“上州路”に連載した時の反町隆子さんのものを使った。あさを社を始めこれらの方々のご協力に心から感謝申し上げる。

★この連載も、1121日で終わります。次の連載は拙著「炎の山河」です。「地方から見た激動の昭和史」という副題がついています。恩師の林健太郎先生が「すぐれた歴史叙述」と評価してくれました。どうか、ご覧下さい。

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2009年11月14日 (土)

遙かなる白根 第141回 子どもたちの叫び

白根開善学校は都会から遠く離れた山の中にあるが、それでも激しく揺れ動く社会の影響を受けるのは当然である。創立期からの生徒の動きを見てくると学校全体が変わりつつあるようにも思えてくるのである。次に取り上げる弁論(作文)からはそのような学校の変化とそれに悩む生徒の姿が伺えるのである。

 

平成6年高等部2年A

   -先生も学校も変わってしまう

 A君が今一番思うことは、学校の空気がギクシャクしてきて本当の自由がなくなってきたということである。A君がこの学校に入ったのは中学3年の冬で、その頃は先生方にも都会の先生にはないおおらかなものがあったと思う。A君はそれが気に入っていた。しかし高一になってから学校が少しずつ変わってきたように思える。先生が厳しく接するようになったことだ。それは、親たちがいろいろと口を出すことが原因だとA君には思える。親とすれば子どものためにと思って学校に対してあれこれ言っているのだろうが、生徒はそのために学校全体がとても息苦しいと感じるようになった。

 いままで、先生と生徒たちはうまく生活してきたのに、それを壊しているのが親のようにA君には思えるのだ。自分の子どもにどうしても厳しい教育をさせたいのなら、この学校をやめさせてどこか頭のいい学校にいかせればいい。A君はこの学校の自由なところが好きだ。いい友達も出来た。先生ともうまくやってきたと思っている。しかし、今みたいに新しくできたきまりで生徒を縛れば、そのうちきっと生徒は反発し、友だちとの関係も、先生との間もうまくいかなくなると思う。A君は以前この学校には、自分のことは自分で解決できる人が沢山いたように思う。寮の中にも生徒の中だけできまりみたいなものがあったが、今どんどんそういうものが無くなっている。親は子どものことが分からないで学校に注文ばかりつける。こんなことを続ければ学校はどんどん悪くなってしまう。A君は、親の意見が原因で毎日ため息をついて過ごすのがとてもいやだ。A君は、最後に次の言葉でしめくくる。

「父兄の皆さんは、生徒たちをもっと信用して自分の子どもの意見ばかりを取り入れず、全生徒のことを考えて、じっくり見守ってほしいと思います。」

★この連載も、1121日で終わります。次の連載は拙著「炎の山河」です。「地方から見た激動の昭和史」という副題がついています。恩師の林健太郎先生が「すぐれた歴史叙述」と評価してくれました。どうか、ご覧下さい

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2009年11月 8日 (日)

遙かなる白根 第140回 子どもたちの叫び

バッティングセンターで先生は、バントやバスターなど手をとって教えてくれた。危険を冒してまでこんなことをやってくれる先生に、O君は胸の中が熱くなった。「先生の気持ちに応えなければ」とO君は心に誓ったのである。

 夏になると毎晩夕食後プールで千メートル泳がされた。T先生は毎日必ず25メートルのタイムを計る。O君のタイムは14秒だ。

「13秒台はなかなか出ないな」

先生は、こういって毎日こぼしていた。話によれば、負けず嫌いのO君は、先生の期待に答えようと真剣に泳いだ。そして、とうとう13秒台が出せた。先生がにやりと白い歯を見せて笑った。O君も笑い返した。

 白根開善学校に入ると決まったある日、T先生は、O君の手をしっかり握って言った。

「お前はよく頑張った。希望をもって努力すれば必ず道は開ける。山の学校でも、しっかり頑張ってくれ」

 O君は将来、教護院の教官になりたいという。不良だったどうしようもない者が教護院に来る。なんとか頑張って退院するもの者もいれば、自分自身に負けて脱走する者もいる。そんな連中とO君は一緒に生活してきた。T先生のかわいがった生徒が何回も脱走をくり返す、T先生は何度裏切られても生徒を信じた。O君は、そういうT先生をじっと見てきた。O君は、先生のそういう忍耐と努力に憧れた。

 「入ってくる暴れん坊どものことを最後まで面倒を見て、社会に出ても立派な人間になれるようにチャンスを与えられる教官、それが私の夢です」

 O君はこう結んだ。

―O君は教護院生活という貴重な体験をした。T先生との出会いを生かして貴重な体験を獲得したというべきだろう。人生の逆境、そして、人生の回り道は、本人の自覚と努力によって、素晴らしいバネを与えてくれる。O君は、白根開善学校に新天地を見い出して意義のある生活を送ったことであろう。その後のO君が教護院の教官になったかどうかは分からない。しかしいずれにしても、教護院と白根開善学校の体験を生かして、どこかでたくましく頑張っていることであろう。

★この連載も、1121日で終わります。次の連載は拙著「炎の山河」です。「地方から見た激動の昭和史」という副題がついています。恩師の林健太郎先生が「すぐれた歴史叙述」と評価してくれました。どうか、ご覧下さい。

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2009年11月 7日 (土)

遙かなる白根 第139回 子どもたちの叫び

O君が配属された寮は三寮といった。そして、一つ年上の人と二人で生活することになった。それから間もなく寮長がT先生に変わった。そこでO君とT先生が出会うのである。初めの印象は、厳しそうな人で嫌だなと思った。そして間もなく、二ヶ月後のバドミントン大会に向けてO君たちは、T先生と猛練習をすることになった。O君は初め上手でなかった。T先生と試合をやると必ず負けた。45、6歳の中年のおやじに負けるのが悔しくてO君は一生懸命練習した。

「まだまだ若いもんには負けねえぞ」

先生はそう言ってにやりと笑った。O君も思わず笑顔を返していた。汗を拭いながらO君は、この時はじめて、T先生と心が通じ合えたと感じた。そして、ダブルスの大会に出場し、2位になり賞状をもらった。それはO君が中学校の生活で初めて手にした賞状だった。T先生はO君の手をしっかりと握って、よくやったと自分のことのように喜んだ。O君は最高に嬉かった。

 次は、教護院恒例の野球大会が待っていた。O君は野球が嫌いであるが、野球部の一人が脱走して欠員が生じ、T先生はO君に入部してくれと頼んだ。O君は、T先生に頼まれれば断れない。入部して練習が始まったがO君はすごく下手でバッドが当たらないし、投げた球が違う方向に飛んでいったりする。

「バットを持って外で待ってろ」

ある日O君は、急にT先生から言われた。言われた通り晩飯を食べた後玄関で待っていると、T先生の車が目の前で止まった。

「乗れ、いいか、学院を出るまで伏せていろ」

T先生は後ろも振り向かず、低い声で言った。車にはもう一人の生徒がいた。行き先は、バッティングセンターだった。

 外に出してもらえる。しかもバッティングセンターに連れていってもらえるなんて、O君にとって夢のようなことである。もし、他の先生や生徒に見つかったら大変なことになることをO君はよく知っていた。

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2009年11月 3日 (火)

遙かなる白根 第138回 子どもたちの叫び

白根の山に集まる多くの子どもたちには、U君と同じように、開善学校との様々な形の出会いがある。しかし、その出会いをどう受け止めるかは、子ども達一人一人によって異なる。従ってまた、その出会いから受取る果実も一人一人異なる筈である。U君は、白根開善学校と出会い、そこで何を掴んだのか。U君は今頃、どのような人生を生きているのか。彼女に振られてオートバイの上で流したあの涙を、どのように振り返っているのであろうか。

平成5年創立15周年記念弁論大会、高等部3年0君

― 教護院に入る、そして先生との出会い

O君は元気がよすぎたのか、問題行動の多い子どもであったらしい。先生との出会いの場は、教護院であった。教護院とは、かつては感化院と呼ばれていた所で、不良行為を行う(または行うおそれのある)18歳未満の少年を収容して、教育保護を行うための施設である。

O君はここで、ある先生と出会い自分の人生の方向を決心する程の影響を受けることになる。弁論大会のためにO君が書いた作文は文章も良く、論旨も一貫していて感心させられる。

それを読むと、その後のO君に会ってみたいという気持ちになる程である。

「私とT先生との出会いは約3年前の1月のある大雪が降った日でした。私が施設に入ったのは、その前年の9月下旬です。最初の1ヵ月は単独部屋で、先生以外の人とは一切会えず外出もできません。自分を見詰め直しながら生活した後、やっと寮に配属されます」

これは、O君の作文の書き出しの部分である。この施設に入る前、O君に何があったかは知らないが、1ヵ月の間、人に会えず、自分を見詰め直す生活をするのは、大変なことである。

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2009年11月 1日 (日)

遙かなる白根 第137回 子どもたちの叫び

「私、オートバイ乗る乗のって怖いし、暴走族に入ってい人、にがてなんだ。それに付き合っている人がいるし・・・」

後の方の言葉は耳に入らなかった。U君の頭は真っ白だった。甲州街道を150キロで飛ばした。涙があとからあとから流れて止まらなかった。

それから2年後、U君は風の便りに彼女が大学生になったことを知る。地元のラーメン屋でバイトをやっていると聞いて、そっと見に行った。髪を束ね、化粧もせず一生懸命働いている姿を見てU君は立ち尽くした。バイトをしながら大学を卒業して、保母さんになろうとしていると友達に聞かされた。その時、U君は雷に打たれたようにはっとすることがあった。自分の夢に向かって真剣に努力している彼女と比べ俺は夢も希望もなく、ただ遊んで暮らしている人間のくずだ。そう思うとU君は急に恥ずかしくなり、その場をそっと立ち去った。

U君は友達に彼女のどこがそんなにいいのかと聞かれたことがある。

「彼女の何事にも一生懸命取り組む姿と真剣な表情、素直な心が好きなんだ」

U君はこう答えた。U君はいままで自分はいいかげんに生きてきたと思う。道をはずれたことも沢山あったと反省する。これからは前向きに生きて自分の夢を実現させたいと思っている。それが彼女の生き方に一歩でも近づくことだし、自分にとっても最良のことだと思うのである。

―失恋、そして、新たな決意、このようなU君にとっての一大事が白根開善学校の門をたたく1つの動機であったと思われる。U君は回り道をして白根開善学校に出会った。その回り道の道中では、暴走族に入ったり、いろいろと外れた行動もやった。そして彼女との出会いと別れは、U君の心の底に眠っているものを揺り動かし目覚めさせた。白根開善学校は、U君にとって、人生の再スタートの場面であったのだ。

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2009年10月31日 (土)

遙かなる白根 第136回 子どもたちの叫び

その間、

「俺は相変わらず不良交友を続け、仕事もせずぶらぶらしていた」

そんなある日のこと、U君は町で偶然、あの好きだった女の子を見かけたのだ。

U君は、はっとして胸が高なるのを覚えた。家に帰ってからもいてもたってもいられない。U君は当たって砕けろ、という思いで電話をかけた。いつものU君らしくなく緊張して、やっとのことで会って欲しいと告げた。彼女は、最初戸惑っている様子であったが会うことを約束してくれた。約束の日が来た。本当に彼女は来てくれるのか。U君は不安と期待で胸が張り裂けるようであった。

約束通りに彼女は現われた。白のスカートにピンクのセーター、ショートカットの彼女は、しばらく見ぬ間に娘らしく成長し、美しかった。二人は新宿をブラブラして喫茶店に入った。中学の時の話や世間話をいろいろして別れるとき、彼女は、U君に向かって言った。

「ずい分昔と変わったのね」

U君は、この時、彼女が言った意味が分からなかった。別れるとき街角のショーウインドウのガラスに写った二人の姿を見てU君は思わず笑ってしまった。髪をリーゼントにして金髪に染め上げ革ジャンを着た自分と、ごく普通のどこにでもいる高校生の彼女。あまりにもちぐはぐな二人の姿がそこに写し出されていたのだ。しかし、それが何を意味するのか、まだU君は気付かなかった。

いく日かが過ぎて、U君はオートバイを走らせ、彼女の家の近くから海へ行かないかと電話をかけた。オートバイに彼女を乗せて海に行くことが中学の時からのU君の夢だったのだ。U君は受話器を握って、彼女を後ろに乗せてオートバイで浜辺の波打ぎわを走る姿を想像していた。彼女の髪とスカートが風になびく様がちらついた。しかし、受話器の向こうから伝わる言葉はショッキングなものであった。

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2009年10月24日 (土)

遙かなる白根 第134回 子どもたちの叫び

―学校生活の中で心に傷を負う子ども達は多い。それは今も昔も変わらない。他人の弱点や欠点を攻撃することについては、子どもはある意味で大人よりストレートで時に残酷である。子どもは、大人のように自分の心に映ったことを迎えたりすることができないからだ。しかし、子ども達の心の奥には純粋な同情やいたわりの気持ちが小さな根をおろしている。殺伐とした現代社会は、子ども達の心にそういう人間的な芽が成長することを困難にしている。受験競争の激しい下界の学校は、競争に強い者が勝者であり、競争に敗れた者は人間的にも敗者と見られるような傾向がある。こういう世界は、障害を持つ子にとって辛いところである。Yさんは、そういう世界を逃れ、白根の山に何か温かいものを求めて登ってきたのであろう。白根の山もその願いを十分に叶えてくれる程甘い世界ではなかった。しかし、良い友を得て、人を信じ、自分を信じることができるようになって、大きく成長してゆくYさんの姿を私は想像するのである。

 弁論大会に現れる子ども達の心の中は実に様々だ。都会が恋しい、山の生活が耐えられないという心の叫びが伝わってくるような文面がある。耐えきれずに脱走する子ども達の姿が瞼に浮かぶ。また、多くの子ども達の主張に見られるのが、学校に対する不満である。お菓子がもっと欲しい、テレビがもっと見たいというものから始まって、精神的なもの、人間関係についてのものまで、彼らの欲求不満の中味は様々だ。これは、解決することの困難な、白根開善学校にとって永遠の課題かもしれない。

 彼らが、白根の山で生まれ育ったのであれば質素で厳しい環境に耐えることはそれほど苦痛ではないだろう。しかし、子ども達は、物質万能の、また欲望や刺激の渦巻く都会生活の中で育てられてきた。厳しい人間関係に耐える力も身につけていない。それが全く別の世界に準備もなしに、放り込まれるのであるから戸惑うのは当然といえる。

◆土・日・祝日は、中村紀雄著「遙かなる白根」を連載しています。

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2009年10月18日 (日)

遙かなる白根 第133回 子どもたちの叫び

それは、太股の所から皮膚を取り、足首の所へ移すというやり方である。その病院では、初めての手術なので回りの医師達は、成功するだろうかという感じで見ていた。手術は大成功だった。Yさんは歩けるようになって退院したが、太股の傷は残った。Yさんは成長するにつれ、太股の傷を心の負担と感じるようになった。

 小学校6年の時、体育で水泳があり、Yさんは仕方なく泳いだ。皆の目が太股に突き刺さるように感じた。男子に太股の傷のことを言われ、泣いて家に帰った。死ぬほど恥ずかしかった。とても辛い思い出だ。

 Yさんは開善学校へ来てからも、水泳合宿の時、いろいろな人が陰で太股のことを言っていると知らされた。開善学校に来ても、まだ太股の傷から逃れることはできない。Yさんは悲しかった。しかし、追いつめられて、自分が強くならなければならないという気持ちも湧いてきた。

「そのくらいではめげないぞ」

と心の中で自分に言い聞かせた。

 以前と違うのは開善学校に入って、とても良い友達がいることだ。

「傷を持たない人間はいないよ。皆どこかに、何か持っている」

ある友達は、こう言った。Yさんは、これを聞いて、ハッとした。目の前が開けるように思った。

またある友達は言った。

「今年の水泳合宿でそんなことを言ったやつがいたら私が文句言ってやる」

Yさんは嬉しくて胸が熱くなった。こういう友達がいれば、とやかく陰口を言う人がいても平気だ。Yさんは、こう思えるようになった。そして自分の心が明るく膨らんでゆくように感じられた。太股の傷より心の傷の方が重大なのだとYさんは気付いた。Yさんは寮生活が楽しくなった。開善学校に入って良かったと思った。

◆土・日・祝日は、中村紀雄著「遙かなる白根」を連載しています。

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2009年10月17日 (土)

遙かなる白根 第132回 子どもたちの叫び

― K君はとてもナイーブな神経の持ち主らしい。東京の学校では、何かで傷ついて登校できなかったのだろう。白根の山中で新天地を見つけたK君は幸せな少年だ。寮では人間関係が難しく、このことに悩む子ども達は多い。K君はタコ先輩のような優しい良い友を得た。K君は人間関係、友達関係の大切さを発見したが、同時にそれは新しい自分の発見でもあった。白根開善学校は、K君のように自分を発見するのに最適な環境なのである。K君の話を聞いて、私は100キロメートル強歩の、ある場面を思い出す。それは、先輩らしい生徒が後輩を励まし支えながら重い足を引きずっている姿である。K君もタコ先輩に助けられて強歩に臨んだのかもしれない。

昭和58年度高等部一年Yさん

― 太ももの傷は心の傷

 Yさんは活発で可愛い女の子だった。小学校1年の真冬のある日、学校で大火傷を負ってしまった。新しい学校生活にうきうきして、近くでストーブが真っ赤に燃えているのも忘れて友達とふざけていた。その時、Yさんのズボンがストーブに引っかかってしまった。ストーブは揺れて、その上でチンチンと勢いよく蒸気を吹き上げていたヤカンが落ちた。熱湯はたたきつけるようにYさんの足にかかった。あまりの熱さにYさんは夢中になって靴下を脱いだ。靴下と足の皮膚が一体となって、もう一枚の靴下を脱ぐようにペロッと皮膚がはがれた。Yさんは真っ赤な肉のかたまりのような足から目をそらした。

「痛い、痛い」

 Yさんは、この言葉だけを言い続けた。その痛さは今でも忘れられない。お母さんがYさんを毛布につつんで近くの病院へ連れて行った。毎日病院に通ったが、手のつけようがなく、別の病院を紹介された。その病院には週に一度東京から偉い先生が来ていて、その先生のもとで「皮膚移植」の手術をすることになった。

◆土・日・祝日は、中村紀雄著「遙かなる白根」を連載しています。

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