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2026年8月 5日 (水)

「8月15日が近づく。甦る前橋空襲。我が家は赤城の山奥へ」

◇今日は8月5日。8月は特別の日である。8月15日がまた来る。現在私は85歳。当然に、そして自然にこれまで生きた人生を振り返る。イギリスの歴史学者E・H・カーは言った。「歴史は現在と過去との対話である」と。このことは毎年何度も繰り返した。しかし、その度に新しい意味がわく。ここに「対話」の意味があることを感じる。時代が絶えず進み、私自身も変化しているのだから「対話」の中味が変わることは当然である。85年を振り返る意味は、従って重みを増しているのだ。私は昭和15年10月30日、前橋市北曲輪町で生を受けた。最近、好奇心をもって県庁のあたりを歩いた。4歳の記憶は鮮明である。秋葉写真館、大村そば屋、また上毛新聞社もあった。近くのマッテヤ幼稚園に通っていた。空襲警報が鳴ると女の先生に手を引かれ裏道を通って自宅へ急いだ。近くにはカトリック教会があって、この教会の前の南北の通りを境に空襲に見舞われた。空襲の後は一面焼け野原で正に「国破れて山河あり」の光景であった。現在の市役所のあたりには「三角公園」と呼ばれた場所や六本木病院があった。裁判所が近かったので異様な光景を目にしたことがある。10人ほどの人が三角の帽子をかぶせられ手を縛られた状態で歩く姿である。今では考えられないことだ。裁判所を北にした東西の通りに皮膚科の松山病院があり、ここに毎日大変な患者の治療を受ける姿があった。中へ入るのが難しいらしく玄関先で手当てを受けているのだ。子ども心に気になることで、ある時思い切って近づいた。白い服装の看護婦さんたちが患者のズボンを下してピンセットらしきもので股間を治療しているのであった。戦争の悲惨さを目の当たりにしたと感じた瞬間であった。この時母が言ったことをよく覚えている。「戦地ではもっともっと大変なのよ。原爆では何十万の人が一瞬で溶けて死んだのよ」。当時、人々は怖いのはアメリカという観念があった。これからアメリカ軍の駐留が続々と始まると考えられていた。近くの消防署の庭で二人の小父さんがネズミを焼いて食べる姿を見たのはこの時であった。もっともっと恐ろしいことが常態化すると考えられていた。ネズミのことは飢えが本格化することを示していた。このような社会を背景に「せめて食べるものを自分の手で」と考え、一家は赤城南麓の谷の奥に開墾に入った。そこで見た俵に入って寝ている人々の姿はこれから始まる地獄の一端に思えたのだった。(読者に感謝)

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