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2026年8月 2日 (日)

死の川を越えて 第251回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

 一人の女が突然泣き出すと、それは感情の連鎖反応を起こし、車内は狂乱の渦と化した。理性を失った女は上半身の衣服を脱ぎ捨て肌をあらわにして叫んだ。

「どうにでもしやがれ」

 その時、突然読経の声が起きた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」

 腹の底から絞り出すような声は人々に身にまつわる因果を思い出させた。前世で法華経を冒とくした罰で重い病に苦しんでいるという言い伝えである。読経は地の底から湧き出るように響き、人々を恐怖に駆り立てた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」

 唱和する声が上がった。

「止めろ」

 誰かが大声で叫んだ。当たりが騒然となって、読経と怒号の坩堝と化した時、一人の男がすっと立ち上がって言った。中村実平といって本妙寺集落の一方のリーダーで人望があった。

「皆さん静かにしてください」

 静かだが重みのある声にはその場を鎮める力があった。

「仮にも日本は法治国家だ。いくら差別されているわれわれだとて人間。このまま殺されるなんて断じてない。まず落ち着こう。力を合わせねば自滅だ。奴らの思うつぼだ。どこまで行くのか様子を見ようではないか」

 一行は草津栗生園に近づいた。美しい景色が広がっている。中村実平の説得もあって、人々の心はやや落ち着きを取り戻していた。園内の様子は物々しかった。護送された人々に同行した熊本県の警察官や職員に、群馬県側の待ち受けた官憲が加わって園内は騒然となった。護送車から出された人々は皆疲れ果てた様子である。泣き叫ぶ子ども、髪を振り乱した女、ぼろを引きずった男など、異形の集団は追われるように管理棟に入って行く。その光景をじっと見つめる数人の人々がいた。万場軍兵衛や水野高明たちである。

つづく

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