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2026年8月17日 (月)

「開闢以来の敗戦を振り返る。人口減少と認知症社会の衝撃」

◇今日は8月15日(土)である。特筆すべき日だ。私の人生も85年を重ねた。振り返れば稀に見る激動と混乱の中を生きたなと改めて思う。4歳にも満たない少年の目に様々なことが焼き付いている。県庁の近くでネズミを食べていた二人のおじさんの姿は忘れられない。開闢以来の敗戦という悲劇は少年の頭にも衝撃であった。進駐軍が迫っていた。敗戦の残酷な結末は古来の歴史が示していた。我が家は流言飛語に追われるように赤城の山奥に逃れた。緑の開拓地は別天地であった。小川にはカニが戯れていた。斜面を削って建てた掘立小屋は私の冒険心を掻き立てた。昭和22年小学校入学。文化の進んだ新しい世界を発見した気持ちがして心が弾んだ。前年に新しい憲法が公布され学校に関することは一変した。手にした教科書には民主主義の精神があふれていたのだ。その初めに登場した詩をよく覚えている。「おはなをかざる みんないいこ。きれいなことば みんないいこ」。それまでの1年生の文は従来の日本精神を現わすように、ハタ、サクラ、アサヒといった言葉が使われていた。女の先生と口を合わせて元気よくこの詩を唱和した光景が甦る。あの場面の人々も85歳を迎え、元気な人は毎年姿を消していくようになった。振り返れば、あの詩と共に、そしてあの教室の元気と共に息づいた民主主義であったと思う。戦後81年目の8月を迎え民主主義の原点が薄れていくような懸念を覚える。今こそ一人一人の国民が民主主義をしっかり見詰める時である。

◇81回目の終戦の日を迎えた。昔の仲間が気になり、小学校1年生の写真を見る。この顔もない、この顔も消えたと、元気だった顔が姿を消している。その多さに驚く。次は誰かと思わざるを得ない。昔は人間五十年と言われたが、平均寿命は延びて男が81.09歳、女は87.13歳である。寿命は延びるが問題はその中味である。高齢化と不可分の課題が認知症問題である。周りを見てぞっとする。65歳以上の高齢者のうち12.3%、約443万人が患っている。その数は軽症者を含めると1,000万人におよぶと言われる。高齢化の勢いは止まらず、人口減少は日本の最大の課題である。不気味な底なし沼に沈んでいくようだ。このままいくと日本は消滅してしまうかも知れない。この情況で外国人との共存は避けられない。日本の伝統と文化をいかに守るかは焦眉の急となっている。開闢以来の国難に対し国民各自が覚悟する時なのだ。(読者に感謝)

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2026年8月16日 (日)

死の川を越えて 第256回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

「うーむ。それはすごい話ですな。重監房は絶海の孤島のようなもの。かつお節は命をつなぐものになるでしょう。だが、問題はどうやって中へ届けるかです」

 水野高明が首をひねって言った。

 その時、じっと考えている風のこずえがそっと言った。

「実は、私は食事を運ぶある職員を知っています。教会にも一度見えた方です。この人は役目柄とはいえ、監房の人の大変さはかわいそうで耐えられないと言っています。かつお節をそっと添えられないか私から話してみましょうか」

 これを聞いて水野は瞳を輝かせて言った。

「それは素晴らしい策です。人道を解する人なら、あなたが頼めば引き受けてくれるかも知れない」

 早速、こずえはその職員に話した。こずえの必死な目には神を信ずる者の深い力が表れている。職員はこずえの姿に引き込まれるものを感じ、結果の重大さを覚悟の上引き受けると言った。

 それを聞いて水野はこずえの手をしっかり握って喜んだ。そして、かつお節を用意し、リーダーの中村実平に届けることになった。水野は何やら考えていたが、やがて意を決したようにかつお節の表面にくぎで何やらこつこつと刻んでこずえに渡した。

 重監房に入監して数日が過ぎたある日のこと、中村実平はあおむけに身を横たえじっと目を閉じていた。チッ、チッという鳥の声が微かに聞こえた。朝なのだ。目を開けると天井の小窓からぼんやりと明かりが漏れている。その時、ギィーと扉の開く重い音がした。実平は一つ二つと扉の音を数える。やがてコトリと身近な音がした。朝食の差し入れ口からいつもの箱が入れられたのだ。空腹に耐えかねていた実平は半ば身を起こして食事の箱に手を伸ばした。

 箱を引き寄せた時、実平は妙な物に気付いた。何やら黒い棒状のものがある。はっとして、身を起こして手に取った。薄明かりで透かして見て鼻に近づける。何とかつお節ではないか。実平は堅い表面に舌をはわせた。〈誰であろう〉。実平は、舌が捉えたかつお節の感触よりも自分を助けようとしている人物がいることに胸をときめかせた。想像を巡らせながらかつお節を頬にあて指でなでた。その時、実平はさらに妙なことに気付いた。目を凝らすと文字が刻まれているのだ。実平は差し入れ口に精いっぱい近づけ必死で細かい文字を読み取ろうとした。

つづく

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2026年8月15日 (土)

死の川を越えて 第255回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

 水野が注目したことは続いて書かれている次の文面であった。

「本妙寺のある花園町の人々は、草津に送られた人々を大変心配しております。町の人々は集落の人と長いこと親しく接してきたからです。そこで、私はひそかに決心して動きました。町の主な人と協力して、監禁を解いてくれるようにと嘆願書を送る準備をしております。私が表に立つわけには参りませんが、嘆願書の作成など手伝っております。そちらの動きと相まって何らかの成果を上げることができるかとひそかに期待しております。何卒よろしくお願い申し上げます」

 水野は深く頷いた。

 重監房の中は別の世界だった。灰色のコンクリートの高い塀に囲まれた中に各房があり、そこにたどり着くまでに南京錠のついた厳重な扉がいくつもあった。それは週間される人にとって絶望の扉であった。扉をくぐるごとに絶望の空気は重苦しく心を締め付け、背後のガチャンと閉まる音は外界との絶縁を宣言する魔物の声であった。入り口から房までのわずかな空間が人々には外界をはるかに遠ざける絶望の距離に思えた。9人の人々は、話に聞いていた鉄も溶かすという光の川の主を想像して怯えた。各房は4畳半で上部の細長い小さな窓から差すわずかな光が外界とのわずかなつながりを示す証であり、命への望みであった。人々は重監房に入る前、房の西の谷には獣や蛇が多くいると教えられた。今や人々には、日頃嫌悪する蛇すら限りなくうらやましい存在に思えるのだった。

 食事はごくわずかであった。小さな茶碗にわずかな麦飯、そして梅干し1個に味噌汁では健康な胃袋を満たすことは到底できない。しかも1日2回であった。重監房に入れられた本妙寺の人々は、これも重刑の一部で餓死させられるのかとおびえた。

 本妙寺の9人が監房に入れられた時、万場老人たちはひそかに策を練った。本妙寺の町から嘆願書が出ているのだから、こちらもそれに応えねばならないというのが共通の認識だった。彼らの努力は、少しでも早く人々を監房から出すことおよび、それまでの間をいかに支えるかに向けられた。

 話の中で、正太郎が突然言い出した。

「かつお節を何とか届けられないですか。僕は草津小の時、萩野先生からかつお節の話を聞きました。先生のふるさとは高知県で、昔漂流した兄さんが一本のかつお節で何日も生き延びたというのです。

つづく

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2026年8月14日 (金)

「解体新書にかけた蘭学者の執念に衝撃。日本初の産科医いね」

◇かつてない降雨が各地を襲っている。大災害の時代と言われる最中の異常な天変地異である。天が破れ、天上の川がそのまま人間界を直撃しているようだ。神話のノアの方舟はかくやと想像する。こういう時、人々はなぜか感染症の地獄を想像するのだ。長い歴史を通してコレラやチフスに苦しめられてきた。江戸時代人口があるところで止まり増えなかったのはそのためだと言われる。医学が発達せず迷信が支配した時代の混乱は地獄であった。西洋では医学の進歩が見られたが、日本は

鎖国制度が科学の恩恵を妨げていた。わずかに長崎の出島から微かな光が差し込んでいた。「解体新書」が世に出たのは1774年のことであった。蘭学者杉田玄白や前野良沢の努力は胸を打つ。まともな辞書もない情況で、命がけで異文化に挑戦する姿に、受験時代の私は大きな勇気を得たことを思い出す。杉田玄白等はオランダ語の解剖書「ターヘルアナトミア」を丸4年を費やして翻訳した。玄白は回想録「蘭学事始」で、「まるで櫂や舵のない船で大海原に漕ぎ出すようなものだった」と語った。このようにして近代医学の扉をこじ開けようとした人々の執念と使命感にはただ頭が下がるばかりである。この問題に直面して私は改めて書斎の「オランダおいね」を読んだ。女性の差別は永遠の課題であるが、時代を遡れば深刻度は増すばかりである。いねは当時稀な混血児として好奇な目で見られた。女性差別以上に偏見といじめに苦しんだのだ。いねは苦境の中でシーボルトの娘としての誇りを支えに精進し、日本で最初の女性産科医となった。産科は生命の誕生に携わる役割を担うものとしてその使命は測り知れない。そして女性は同性の医者に診察される心強さには絶大なものがあった。当時、多くの女性はお産に際して命を落としたとされる。基本的人権に対する理解が薄く女性蔑視の情況で出産は本来占めるべき社会的地位を与えられなかった。出産の意義を深く正しく見つめる時である。憲法13条は高らかに記述しているのだ。「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由、幸福追求の権利は、最大の尊重を必要とする」と。シーボルトは清楚なアジサイを愛した。学名の中に「オタクサ」があるのはアジサイをオタクサンと呼んだことに由来するとされる。世界の果ての島国の一輪の花に愛する女性の名をつけた壮大なロマンと時を超えたスケールに圧倒される。紫の小さな花びらは翼を得て時を越え永遠の命を得て雄飛を続けている。(読者に感謝)

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2026年8月13日 (木)

「玉音放送をかみ締める。耐えがたきを耐えは永遠の課題である」

◇今日は8月13日である。8月15日が迫った。15日は終戦の日である。また今月はお盆の期間である。これは先祖の霊を祀る時である。日本にとって歴史的にも文化的にも極めて重要な日である。

 8月15日正午、玉音放送によりポツダム宣言受諾と敗戦が国民に伝えられた。また8月はお盆の月である。先祖の魂を迎えて供養する行事は極めて重要である。今日祖先を大事にする気運が薄れている。「墓じまい」などという常葉が目立つようになった。日本の文化、そして日本人の精神が音をたてて崩れていく恐怖を感じる。玉音放送には「忍びがたきを忍び」、「耐えがたきを耐え」という天皇の肉声がある。この言葉の意味を正しく理解する必要がある。受け入れて賛成するか否かとは別に重く受け止め、歴史的に考えることが重要なのだ。私の先妻は8月14日にこの世を去った。40歳で若かった。娘を枕元に呼び「いい子になるのよ」と言った。その日が近づいた。位牌にはマリア・アンナ中村千鶴子とある。あの日は暑い日であった。玉音放送の日とほぼ重なることに感慨を覚える。人生の同志であったと振り返って思う。妻の兄は「限りなく熱き墓なり妹よ」の言葉を遺した。私を深く理解した女性で、クリスチャンであったことは私の宗教心にも影響を及ぼした。その生涯、特に最期については「上州の山河と共に」の中に書いた。私の暴走を静かに迎えた女性への感謝の念が湧く。亀泉の墓で85歳の近況を報告しよう。私の人生マップでは天国での再会まではおよそ20年ある。「待ってるわ」の声が聞こえる。

◇国旗損壊罪法が13日施行された。表現の自由の侵害や拡大解釈の懸念が指摘されている。実際に適用する場合の難しさもある。都道府県の惑いの声も聞こえる。警察庁は、立件の可否を慎重に検討し、組織的に判断するよう都道府県に通達している。2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金が科される可能性がある。刑罰の適用については罪刑法定主義が大原則である。基本的人権擁護の観点から罪となる要件は予め明確に示されていなければならない。後出しじゃんけんを厳に禁じているのだ。表現の自由は民主主義を支える最も重要な基本的人権である。最近はデモ行進が少なくなったが、デモは表現の自由を行使する重要な場面である。国旗損壊罪の適用により表現の自由の一角が崩れ行くことを厳しく警戒しなければならない。東大への機動隊導入をめぐりキャンパスが騒然となった情況が甦る。(読者に感謝)

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2026年8月12日 (水)

「森林国日本と山林火災の衝撃。山林火災の恐怖を見詰める時だ」

◇8月11日火曜日、夜10時10分、原稿用紙に向かう。世界各地で天変地異が渦を巻いている。中でも山火事が後を絶たない。カナダのある州では山火事非常事態宣言が発令された。今夏のカナダでは熱波と大気の乾燥により複数の州で激しい山火事が相次いでいる。火災の勢いは急激に拡大し、住宅や農地を巻き込み延焼面積は約100平方キロに上っているという。ブリティッシュコロンビア州の州首相は州内で100カ所山火事が発生しているとして強い危機を示している。メディアが伝える映像では街を赤い炎が包み、まるで戦争状態である。カナダは世界有数の森林国で国土の約35%が森林で覆われている。動物と人間が共存する緑の王国が現在赤い炎に包まれ恐ろしい地獄が広がろうとしている。日本も国土の約3分の2が森林という世界有数の森林大国であるから、カナダの森林火災は他人事ではない。森林の保全は人間の生存にとって極めて重要であるが、森林は現在危機にある。それは林業を支える人材が高齢化しているからである。森林は酸素を生産し二酸化炭素を吸収する。正に環境を支える基盤であり、人間をはじめ生き物の生存を支えている。森林の危機を加速させているものは人口の高齢化だけでなく、最近の沸騰するような温暖化である。これが山林火災多発の重要な原因になっている。日本でも最近大規模な山林火災が相次いでいる。その主要な原因は温暖化による乾燥や強風の影響である。2025年2月の岩手県大船渡市で起きた山林火災では平成以降最大となる約2900ヘクタールが焼失した。また岩手県大槌町などでは深刻な延焼が続いた。同町では29日やっと「鎮火」を宣言した。山林は落ち葉などが堆積し、火が発生すると地中深くもぐり外見では消えたようでも風に煽られて息を吹き返すから始末が悪い。その情況を「山火事は土が燃えている」と表現される。それほど手に負えない存在になる恐れがあるのだ。日本では人的要因がほとんどと言われている。私は幼少期山中で暮らしたのでおじさんが一服する光景をよく見かけた。タバコの吸い殻を気軽に捨てていた。風や乾燥などの状況によっては何時間も経った後に復活し悪魔に変化することは容易に想像できることだ。地球環境が一変した現在、細心の注意が必要である。32.5%が「たき火」で最も多く、次いで「火入れ」、「たばこ」となっている。動物は火を恐れる。人間も動物であり原点に戻る必要がある。(読者に感謝)

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2026年8月11日 (火)

死の川を越えて 第254回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

 古田園長は苦しげな表情を浮かべて結果を水野高明に伝えると言った。水野が京都帝大の同窓ということを知り、相通じるものを感じているらしかった。水野は深く頷いて見せた。

 本妙寺から送られた37人中、女と子ども計20人は間もなく一般病棟に入れられ、こずえとさやはひとまず胸をなで下ろした。人々の重大関心事は重監房の件であった。

 園側が水野に知らせた結論は、中村実平ら本妙寺集落の幹部9名を相当期間重監房に入れるということであった。水野たちは古田園長に説明を求めた。

 園長は、本省の見解だと断って苦渋の決断を語った。本省とは内務省であり、警察権力もその中にあった。

「本妙寺のいんちき集落を長年束ねた幹部の責任は重いというのです。知事の印を偽造して公文書を作り、各地の寺社から寄付を集めたことは重罪に当たり、裁判にかければ何年も刑務所に入らなければならないところだと言っています。大変な国難の時、国も国民も姿勢を正さねばならないということなのです」

 水野たちは、もし裁判になったとすれば、偽造のことは裁判所が立証しなければならないがそれは困難である。また寄付集めは習慣となっていたことであり、詐欺罪の故意はないと主張しようとしたが通用することではなかった。

 水野は言った。

「本妙寺のことはよく知っている。私たちはできる限りの援助活動をしたい。重監房入りは仕方ないとしても、正式な刑務所ではないのだから反省の効果が見えたら出してほしい」

 それから数日が過ぎたある日、熊本県庁の副島から水野の下へ手紙が届いた。それには、本妙寺の人たちのために懸命の努力をされたことに対する感謝が述べられていた。女や子どもが無事に保護されたことにほっとしていること、そして監房に9名入れられたのは重大であるがやむを得ない、9名に留まったのは皆さんのおかげである、後は少しでも早く出られることを願っている、と県民を思う気持ちが綴られていた。

つづく

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2026年8月10日 (月)

「鎌原観音堂の衝撃は時を越えて。天明の生死をわけた十七段」

◇「天明の生死を分けた十七段」。鎌原観音堂に地獄の熱泥流が押し寄せたのは天明3年、西暦では1783年のことであった。天変地異は少し前からあり、山の動物たちが狂ったように走り出していたと言われる。動物たちは大地に接して生活しているので、地中の変化に人間より敏感なのだ。162年余を経た1945年8月、人間はあの熱泥流と比べ数億倍とも知れぬ核の焦熱地獄に見舞われた。熱泥流は「ヒッシオ、ヒッシオ、ワチワチ」という異様な音を響かせて、鎌原村へ押し寄せてきた。無量寺住職は手記にそう記す。人々の生死を分けたのは足腰の強さではなかったようだ。屈強な若者が遠くへ逃げようとして、より速い泥流に呑まれ、村のすぐ裏手の観音堂に駆け登って助かった人々は足に自信のない年よりであったという事実もあったらしい。助かった人々は神の助けとばかりに観音堂で手を合わせ信仰を深めたに違いない。

 かなり以前になるが、観音堂で和讃を称える老人たちの不思議な光景を見た。その一節は記す。「妻なき人の妻となり、主なき人の主となり」と。これこそ鎌原村の歴史を雄弁に語るものであった。地域の指導者を信じて夫婦の組み合わせを作り再興を目指した。このような例は人類史に於いて稀有なことであろう。これを支えた背景は何か。信じ難いこの世の地獄であったことだろう。地震の巣と言われる日本列島である。そして古来幾多の大災害と闘ってきた私たちである。この大災害の歴史を教訓として生かさねばならない。現在巨大災害の足音が聞こえる状況である。首都直下、南海トラフ、富士山、浅間の爆発等々、測り知れない破壊のエネルギーを秘めた存在が不気味に日本列島を見詰めている。それは、大自然に対する畏れを忘れ安全神話に胡坐をかく日本人に対し大きな鉄槌を下そうとしている大自然の姿と思えてならない。大災害に慣れた日本人は8月の日々を楽観的に過ごしている。1945年の8月6日、及び8月9日に原爆が炸裂したことを知らない若者が増えていると言われる。これは何を意味するのか。その責任はどこにあるのか。政治も行政も、教育も、今こそ声を大にしてそのことを問うべき時である。「天明の生死を分けた十七段」。この惨劇を今こそかみ締めねばならない。その影響は地球全体に及んだ。作物不作はフランス革命の遠因になったとも言われる。正に地球は一体なのだ。鎌原観音堂の大和讃の声が時を越えて聞こえてくるようである。(読者に感謝)

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2026年8月 9日 (日)

死の川を越えて 第253回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

 古田園長は、ほほーと半ば口を開いて驚く表情を見せた。それに頷きながら水野は続ける。

「九大の頃、学生を連れて本妙寺集落を調査しました。そこであの集落の実態はよく承知しているつもりです。今回、いち早く状況を知らせたのは、当時の私の学生で、集落の研究を続けている者です。送られた患者は37名だそうですが、女や子どももおります。どうかぎりぎり人道的ご配慮をお願いします」

 この時、こずえがそっと手を挙げて発言を求めた。今のこずえの姿は、単に美貌の故に人の目を引くのではなく、日頃の社会活動で身につけたものが、美貌に人間的な深みの影を添えているように見えた。こずえは、発言を促されたのを認めてきっぱりと言った。

「私は聖ルカ病院の職員でございます。女と子どもを一絡げに罪人のように扱うことは耐えられません。私の病院のマーガレット・リー先生も心配し、病気の検査とか子どもたちの教育と保護につても協力致したいと申しております」

 こずえの発言によって緊張した空気が流れた。

 それに刺激されたように若い正太郎が発言を求めた。

「僕は子どもの頃から湯の川地区の歴史を誇りに思ってきた。簡単に重監房に入れることはこの歴史を踏みにじるものだ。九州の人々を無差別に手続きもなしに重監房に入れるようなら僕らは闘わなければならない。知事さん、この地を訪ねた大臣、地元の国会議員さん、皆が理想の療養所を造ると言っていたはずです。あれはうそだったのですか」

 正太郎の発言に、同席していた苛藤精市がきっとして鋭い視線を向けた。そんなことをさせるものかという目の色である。

 水野高明がその場の雰囲気を察知して言った。

「私たちは皆さんが心配するような不穏分子ではない。湯の川の歴史を踏まえ正攻法で動く。国や世論に

訴える頭脳闘争ですぞ」

 これを聞いて古田園長はやや慌てた顔つきで言った。

「皆さんの気持ちは分かります。国は存亡をかけた危機にある。きれいごとは通らない社会状況です。特高などに目をつけられたら大変です。本省の指導も仰がねばなりません。その際に湯の川の特色と歴史はきちんと話します」

 こう話す古田園長の顔には、どうか騒がないでくれという腹のうちが表れていた。

つづく

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2026年8月 8日 (土)

死の川を越えて 第252回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

 一行が栗生園に到着したのは7月16日であるが、その3日間に副島から水野へ至急便が届いた。それにはついに本妙寺の一斉検挙が行われ、間もなく37名が草津に送られること、その中には重罪の容疑者10名程の他、女や子どもも多いことが記されていた。そして、次の点に副島の心情が示されていた。

「女や子どもが一緒なのは、家族などのため引き離せないからです。熊本県も心を痛めています。10名近くの重要人物については中央の強い意志があって地方の力ではいかんともし難いものがあります。国は明らかに全国の患者中の不穏分子に対する見せしめを狙っています。長年の無法と違法の責任を背負わされて十字架に掛けられているようで、本当に気の毒でなりません。その十字架とは言うまでもなく重監房に他なりません。できれば皆さんと力を合わせ、十字架から少しでも早く下ろされることを願うばかりです」

 副島の文面には公務員としての立場と、昔九州帝大で水野から人権を教えられた旨の内との葛藤がじにんでいた。

 万場老人たちは、早速園長と会った。ここに参加したメンバーには水野、正助父子の他、さやおよびこずえもいた。

 水野が切り出した。

「大変なことになりましたね。私はお上にたて突くつもりはありませんが、人間として主張すべきことを主張することが国家社会のためだと信じております。それに、先日もお話したように、湯の川地区が築いてきた世界に誇るべき歴史を泥まみれにしたくありません。ハンセン病患者も人間だからです。人間を大切にすることこそ文化国家の基本ではありませんか。あの人たちが重感冒に入れられるのかと思うと黙っておれないのです」

 これを聞いて古田園長が言った。

「水野さんは九州帝大で人権を教えておられたそうですね。私の母校、京都帝大にも人権に理解を示す伝統があります」

 古田園長は多くを語ろうとしないが水野への好意が言外に感じられた。水野がそれを受けて言った。

「私も京都大学出身なので、それはよく分かります。あの小河原泉さんとも同窓です」

つづく

 

 

 

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2026年8月 7日 (金)

「玉音放送の衝撃。私は紛れもなく戦中派。父の病はこの世の地獄」

◇85年の我が人生で心に深く刺さる月は何といっても8月である。年を重ねる度にその思いは強くなる。中でも玉音放送は強烈である。それは歴史の思いが強くなるからに違いない。私は昭和22年小学校に入学した。その記憶は非常に強烈である。それは社会の激浪の故であろう。昭和15年県庁の近くで生まれた。間もなく太平洋戦争となり、昭和20年8月5日前橋は大空襲に見舞われた。前橋市街は焼け野原と化した。杜甫の詩「春望」の一節「国破れて山河あり城春にして草木探し」を測らずも体験することになった。私が生まれた辺りは幸運にも空爆を免れた。利根川沿いの防空壕で息を潜めた経験は鮮明である。母は必死で私の手を引いた。その思い出は私が戦争経験者であること、そして紛れもなく戦中派であることを突き付ける。戦争は社会を一変させた。我が一家は赤城の山奥に逃れた。昭和22年赤城南麓の宮城村小学校に入学した。長い通学路を裸足で通ったことも多々あった。小学校入学の前年新憲法が公布され、学校に関することも全て変わった。ピカピカの一年生が手にした教科書には憲法の民主主義の精神があふれていた。「おはなをかざる みんないいこ きれいなことば みんないいこ」。これは女の先生と声を合わせて読んだ詩の一節である。難しいことは分からないながら、社会に勢いよく流れる時代の力を反映していることを感じた。子どもたちの目の輝き、言葉には力があった。社会全体が貧しい中で復興に向けて立ち上がっていたのだ。

 教育の目的は生きる力を育てることである。これからすれば社会全体が理想的な教室であったともいえた。私は夏休みを期に宮城小学校を後にして元総社の学校に転校した。元総社時代は私の心に暗い影を落とす期間と重なるが振り返れば修行の時代であり、人生の力を養う時代でもあった。この時期父の持病である心臓喘息が悪化した。呼吸が出来なくなるのだ。母は「助けて下さい」と近所へ叫び、私は医者を求めて自転車を走らせた。父の状況はこの世の地獄であったが、西片貝町へ引っ越したりするうちに不思議に忘れ去られることになった。西片貝町は私の人生劇場の一大転換点を形成することになった。私はここで一念発起して前橋高校定時制に進むことになるのである。夜間高校は新しい世界であり、私にとって救いの場であった。新しい先生、そして友人との出会いは限りない刺激を提供し、人生の目標を提供した。人との出会いこそ人生を決める。人間の本領なのだ。(読者に感謝)

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2026年8月 6日 (木)

「玉音放送の衝撃。米の占領政策は民主的だった」

◇8月がやってきた。言うまでもなく私にとっても、日本にとっても特別の月である。85年の私の人生を振り返って特筆すべきことは、いわゆる「玉音放送」である。玉音とは天皇の声である。玉音放送は1945年(昭和20年)8月15日正午、ラジオで流された。昭和天皇が日本の降伏と太平洋戦争の終結を国民に告げた放送である。続いて国民を驚愕させた出来事は、翌昭和21年の「人間宣言」であった。かつて天皇は「神」であったから、国民がその声を聞くことは思いも及ばないことであった。

 ラジオで「正午に重大な放送がある」と予告がなされた。多くの人々は何事かとその時を待った。8月15日の正午に国民の耳に届いた事実は、正に驚天動地と言っても過言ではなかった。4歳に手が届くか届かないといった私には何が起きたか分かる筈はなかったが、何か大変なことが生まれていると感じることは出来た。振り返れば、この年私の人生の方向も大きく決定されることになった。まさしく人生の原点であった。私が生まれた場所は爆撃を免れたが前橋の大部分は廃墟と化していた。今から思えば、大人たちはこれから米軍兵士が進駐し大変な事態となると戦々恐々だった筈だ。古来、戦に敗れればどんな悲惨な運命に陥るかは知っていたのである。まして鬼畜米兵と教え込まれていたのだ。男は奴隷にされ、女は犯されると人々は信じていた。アメリカの占領政策は予想に反して人道的かつ民主的であったが多くの人々は全く違うことを想像していたのだ。そして上野の地下道には浮浪児があふれていた。弱肉強食の戦乱の巷と化していたのだ。県庁の近くで二人のおじさんがネズミを焼いて食べている光景はこれからの社会を暗示しているように思えた。私は成長してからつくづく思うことがある。それは、大局的な時代の流れを知ることの重要さである。父や母は、おそらくニュースをよく聞かなかったのではないか、そして新聞も詳しく読むことをしなかったのではと思う。私が小学校4年の時、1950年(昭和25年)、朝鮮戦争が始まった。朝鮮半島で北と南の勢力が矢印で上下に変化する様子を毎日見ていたのを思い出す。日本にとっては天の恵みであった。最前線の日本で戦争の手段たる物資が作られたからだ。私は戦国時代の戦乱を重ねて面白く受け止めていたが、学校では社会の時間でも教えることは全くなかった。これ以上に有益な活きた学問の場はなかったに違いない。先生には、その意識も力もなかったのではなかろうか。(読者に感謝)

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2026年8月 5日 (水)

「8月15日が近づく。甦る前橋空襲。我が家は赤城の山奥へ」

◇今日は8月5日。8月は特別の日である。8月15日がまた来る。現在私は85歳。当然に、そして自然にこれまで生きた人生を振り返る。イギリスの歴史学者E・H・カーは言った。「歴史は現在と過去との対話である」と。このことは毎年何度も繰り返した。しかし、その度に新しい意味がわく。ここに「対話」の意味があることを感じる。時代が絶えず進み、私自身も変化しているのだから「対話」の中味が変わることは当然である。85年を振り返る意味は、従って重みを増しているのだ。私は昭和15年10月30日、前橋市北曲輪町で生を受けた。最近、好奇心をもって県庁のあたりを歩いた。4歳の記憶は鮮明である。秋葉写真館、大村そば屋、また上毛新聞社もあった。近くのマッテヤ幼稚園に通っていた。空襲警報が鳴ると女の先生に手を引かれ裏道を通って自宅へ急いだ。近くにはカトリック教会があって、この教会の前の南北の通りを境に空襲に見舞われた。空襲の後は一面焼け野原で正に「国破れて山河あり」の光景であった。現在の市役所のあたりには「三角公園」と呼ばれた場所や六本木病院があった。裁判所が近かったので異様な光景を目にしたことがある。10人ほどの人が三角の帽子をかぶせられ手を縛られた状態で歩く姿である。今では考えられないことだ。裁判所を北にした東西の通りに皮膚科の松山病院があり、ここに毎日大変な患者の治療を受ける姿があった。中へ入るのが難しいらしく玄関先で手当てを受けているのだ。子ども心に気になることで、ある時思い切って近づいた。白い服装の看護婦さんたちが患者のズボンを下してピンセットらしきもので股間を治療しているのであった。戦争の悲惨さを目の当たりにしたと感じた瞬間であった。この時母が言ったことをよく覚えている。「戦地ではもっともっと大変なのよ。原爆では何十万の人が一瞬で溶けて死んだのよ」。当時、人々は怖いのはアメリカという観念があった。これからアメリカ軍の駐留が続々と始まると考えられていた。近くの消防署の庭で二人の小父さんがネズミを焼いて食べる姿を見たのはこの時であった。もっともっと恐ろしいことが常態化すると考えられていた。ネズミのことは飢えが本格化することを示していた。このような社会を背景に「せめて食べるものを自分の手で」と考え、一家は赤城南麓の谷の奥に開墾に入った。そこで見た俵に入って寝ている人々の姿はこれから始まる地獄の一端に思えたのだった。(読者に感謝)

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2026年8月 4日 (火)

「肛門から回虫の衝撃。砲丸投げの先生からのビンタを。タントを買って野山を走る」

◇続けて赤城山麓を振り返る。数年前のある日のこと、小学生時代の同級の女の子に会った。相当のお婆さんである。じっと私の顔を覗き込んでから言った。「勉強はうんと出来たけどチビだったよね。庭で並ぶと一番前だったもんね」。「あの時のあの女の子か」永い時を越えて鼻毛石小学校の光景が甦った。名簿を取り出すと、多くの箇所にバッテンが付いている。「あの顔も、あの顔も」天国の人なのだ。85年の歳月が自然に目の前に浮かぶ。通学路はもちろん舗装されていない。家を出る時はゴム草履であったが、途中桑の根に隠して裸足で走った。衛生状態が極端に悪かった。前の女の子の髪にうごめくのはシラミであった。学校では「ミグ」とか「カイジンソウ」という虫下しをのまされた。ある時、お尻からヌメッと何かがうごめくのを感じてトイレに走った。太い回虫であった。教室はすし詰め状態で一クラス50人はいたと思われる。ある国語の時間「手」を書けという場面があった。隣の席のK君はノートに手を広げ五本の指の形をなぞっていた。学校の裏にはイチゴ畑があった。物がなかった当時は何よりのご馳走であった。子どもたちが見逃す筈はない。「お前は級長のくせに」と先生のビンタが炸裂した。横沢先生は六尺豊の大男で砲丸投げの選手だった。頬の痛さと共に懐かしい思い出になっている。通学路はどこに何があるか、収穫時期はいつかを私たちはよく心得ていた。ある時、柿が見事に色づいていた。私は登って取った。飛び降りた所に釘が上向きに打ち付けられた板があり、足に刺さってしまった。膿んで修学旅行に行けなくなった。自業自得と観念した。後年クラス会があって言われたことがある。「中村が転校して、宮城村では農産物の収穫量が上がったぞ」と。野良荒らしは立派な泥棒であり、今日なら子どもの悪さでは済まないであろう。

 最近新車を買った。ダイハツの「タント」である。昔の悪戯の現場を走った。たいがいの細道、そして悪路でも走れる。ここにイチゴがここに柿がと昔の光景が甦る。現在の子どもたちは柿が色づいても興味を示さないに違いない。少し前、「今年は柿が当たり年」と話題になった。最近クマの被害がしきりである。クマは人間界の変化を知らないだろう。クマと人間が賢い協定を結べればと想像をめぐらしている。かつて物語の世界を通して、金太郎と共にクマさんは子ども達と良い関係であった。時代の変化は子どもの世界も変えていく。(読者に感謝)

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2026年8月 3日 (月)

「地球沸騰の衝撃度。『広島と長崎』が近づいた。私は戦中派。仲間が次々に死ぬ」

◇歴史的な夏に襲われている。「災害級」と言われる夏の暑さである。グテーレス国連事務総長は2023年に「地球沸騰が到来した」と表現した。地球を代表する人物の言葉は大きな影響力をもつ。酷暑の状況は加速している。一人一人の心構えが重要なのだ。次代を担う子どもたちの心に状況の深刻さを刻むことは特に重要である。将来、若者たちは想像を超えた暑さに立ち向かわなくてはならない。教育の力と役割は増々大きくなっている。教室で学ぶことは受験競争の技術を磨くことではない。「教育の目的は生きる力を養うため」とは昔から言われているが、それが差し迫ってきた。「沸騰」とはもはや単に物理現象を指す言葉ではない。人間の心がパニックになり「狂乱」情況に陥っていることを示すものである。

 歴史を振り返れば、平安時代は天変地異が相次いで人々は成す術を知らず右往左往した。その後の戦国時代は同じ民族でありながら文字通り血を洗う争いを繰り広げた。日本人はそこから何を学んだのか。その後、開闢以来の出来事に遭遇した。核兵器の洗礼を受けたのだ。「広島」と「長崎」の悲劇から日本人は、そして人類は何を学んだのだろう。それは教育の根源的な使命の筈である。教育が空振りをしていたと思わずにはいられない。広島及び長崎の悲劇は昭和20年(1945年)8月の出来事である。広島は8月6日、長崎は8月9日でその日が目前に迫った。昭和20年は、私が4歳に手が届かぬ頃であった。私は幼かったが戦争の悲惨さを覚えている。県庁前の住宅で母親たちがバケツの水をリレーして壁にかけ消火訓練をした光景、母親に手を引かれて防空壕に逃げ込んだこと、二人の小父さんがネズミを焼いて食べていた光景などこれらはその後幾つも見た戦争映画よりもリアルに幼い私の脳裏に焼き付いている。これらの事実は「お前は戦争経験者であり戦中派なのだ」といつも私に突き付けているのだ。

 私は父母と共にこのような世情の中、赤城の谷の奥の開墾地に入った。赤城の山々のことは一つ一つが新鮮で衝撃的であった。私は時々この地域に足を踏み入れる。その度に当時のことが新しい衣をまとったように甦る。その時の世相と共に私の原点なのだ。当時のことを書いた「上州の山河と共に」を時々読み返している。私の原点は私の財産である。幸いなことにこの地域は多くがそのまま残っている。変わったのは人間である。多くの人が亡くなった。昔の名簿で、元気に頑張っている人は少なくなくなった。85歳の私はまだまだ健在である。(読者に感謝)

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2026年8月 2日 (日)

死の川を越えて 第251回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

 一人の女が突然泣き出すと、それは感情の連鎖反応を起こし、車内は狂乱の渦と化した。理性を失った女は上半身の衣服を脱ぎ捨て肌をあらわにして叫んだ。

「どうにでもしやがれ」

 その時、突然読経の声が起きた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」

 腹の底から絞り出すような声は人々に身にまつわる因果を思い出させた。前世で法華経を冒とくした罰で重い病に苦しんでいるという言い伝えである。読経は地の底から湧き出るように響き、人々を恐怖に駆り立てた。

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」

 唱和する声が上がった。

「止めろ」

 誰かが大声で叫んだ。当たりが騒然となって、読経と怒号の坩堝と化した時、一人の男がすっと立ち上がって言った。中村実平といって本妙寺集落の一方のリーダーで人望があった。

「皆さん静かにしてください」

 静かだが重みのある声にはその場を鎮める力があった。

「仮にも日本は法治国家だ。いくら差別されているわれわれだとて人間。このまま殺されるなんて断じてない。まず落ち着こう。力を合わせねば自滅だ。奴らの思うつぼだ。どこまで行くのか様子を見ようではないか」

 一行は草津栗生園に近づいた。美しい景色が広がっている。中村実平の説得もあって、人々の心はやや落ち着きを取り戻していた。園内の様子は物々しかった。護送された人々に同行した熊本県の警察官や職員に、群馬県側の待ち受けた官憲が加わって園内は騒然となった。護送車から出された人々は皆疲れ果てた様子である。泣き叫ぶ子ども、髪を振り乱した女、ぼろを引きずった男など、異形の集団は追われるように管理棟に入って行く。その光景をじっと見つめる数人の人々がいた。万場軍兵衛や水野高明たちである。

つづく

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2026年8月 1日 (土)

死の川を越えて 第250回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

 昭和15年7月9日のことであった。午前5時、まだ夜の濃い闇が集落を包んでいた。異様な雰囲気に犬たちが気付いて一斉に吠えだした。こんな中、本妙寺の患者の一斉検挙は断行された。熊本県警察本部長の指揮の下、総勢220名で集落の寝込みを襲った。人々は事態が何なのか掴めぬまま、なすすべもなく検挙された。しどけない半裸の女の泣き叫ぶ姿も見られた。検挙は翌日まで続き、合計157名が一網打尽となった。これらの人々のうち患者でない者を除いた146名が各地の療養所へ分散して収容されることになり、群馬の草津には37名が送致されることになった。

 群馬の山奥へ送られることを知った時、人々の動揺と不安は大きかった。

「草津ってどんなとこだ」

「とんでもねえ山だ。大分の耶馬渓みてえな所の奥だそう」

「いったい何でそんな所へ」

 日頃差別された社会の底辺で生きてきた人々は被害者意識が強かった。異様な山並みへ送るのは殺して埋めるためではないかと恐れたのである。

 ある者が言った。

「草津の奥には骨も溶かす毒水の流れる死の川があるという。昔、そこへ生きたハンセン病患者の者を投げ捨て、今でも投げ捨ての谷と言われているそうだ」

「俺たちもそこで殺すつもりだぞ。この厳重な警戒はその証拠に違いねえ」

 根拠のない言葉が密閉された護送車の空間で人々の恐怖心を煽った。人々の恐怖は不気味な怪物のように成長していった。渋川駅で列車から収容バスとトラックに移され国道を一路西吾妻に向かう。美しいはずの山並みも人々の目には巨大な処刑場が待ち受ける姿のように映った。

 やがて一行は吾妻渓谷にさしかかった。切り立つ絶壁は天を指し奇岩が頭上に迫る。深山幽谷の光景はもはやこの世のものと思えない。冷静さを失った人々には一行が地獄へ向かっているように思えた。

「わあー、殺されえるー。死ぬのは嫌だー」

つづく

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