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2026年7月20日 (月)

死の川を越えて 第248回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

 重監房の存在は、軍靴の音と共にハンセン病患者の胸に重くのしかかった。中国大陸における戦雲はますます急で、国家総動員法は国民精神総動員の呼び掛けと一つになってあらゆる物と人を戦争へと駆り立てていた。国を挙げてのこのような動きは、ハンセン病の人々の耳に「お前たちも戦争に協力せよ。お前たちは国のために何ができるのか」と急き立てているように思えるのであった。

 正助は居たたまれないような声で万場老人に向かって言った。

「先生、社会の動きは俺たちにお前たちは存在意義があるのかと問いかけているように思えてなりません。あのドイツ人宣教師カールさんのことが思い出されてならないのです」

「おお、正助よ、わしも今同じことを考えていた。ドイツは大変なのじゃ。あのヒトラーが独裁政権を握って、条約を無視して軍備の増強を大々的に始めたそうじゃ。国民は熱狂的にこの男を支持しておるらしい。国民を煽る演説のうまさは天才的で、国民は酔ったように、熱にうかされたように一つの方向に突き進んでいるらしい。非常に危険な兆候で、このままでは欧州は世界大戦に突入するかも知れん。前からわしが心配しととることは、日本が同じような方向に進んでいると思えることじゃ。行き着く先はわれわれが生きるに値しないという烙印を押されることじゃ」

 万場老人が恐れていたことが実現されるときが来た。重監房が設置された翌年の昭和14(1939)年、ヨーロッパを中心にして第2次世界大戦が勃発したのだ。ドイツの破竹の躍進は日本軍と日本国民を大いに刺激した。万場老人が語るヨーロッパの情勢を聞いて正助が不安そうに尋ねた。

「俺たちはどうなるのですか」

 これに対して今まで黙って聞いていた水口が口を開いた。

「ドイツではひどいことが起きています。ヒトラーはドイツ民族の優秀性を貫くためにユダヤ人を消し去ろうとしています。なぜかというと、ユダヤ人のために前の大戦では負けたと信じているのです。ドイツからユダヤ人を抹殺し、ドイツ民族の血の純粋性を守ることで初めてドイツは一つになって戦える。だからこの戦いに勝つためにユダヤ人を消滅させることが必要だという考えです。つまり、ユダヤ人は生きるに値しない命だというのです。恐ろしいことです。この思想が日本に本格的に影響することを私は恐れています」

 水野の言葉は現実のこととなりつつあった。

 つづく

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