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2026年6月 6日 (土)

死の川を越えて 第236回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

「はい先生、忘れるはずはありません。天井のシャンデリアが輝いていました。森山先生がひげの先生を前に、お前のお父さんほど結城のある人はいないとおっしゃいました。忘れられない感動です。あれは僕の大きな誇りとなりました。辛いことがあっても、あの場面を思い出すと力は湧き頑張ることができました。僕の宝をどう生かすのか教えてください」

「そうじゃ、小さな光を嵐の中で守らねばならぬ。われわれの願いが入れられて、せっかく認められた自由地区を守り育てねばならない」

 万場老人は自分に言い聞かすように言った。頷く正太郎の瞳は生き生きとしていた。この時彼の胸には、自由地区だけではないぞという思いが生じていた。

 昭和6年にスタートした草津栗生園は、その後、上、中、下の3地区に分かれ定着していった。そして、主として湯の川の人たちが移り住む場所は下地区であり、そこには通称自由地区とも呼ばれた。湯の川地区の自由と自治の歴史を尊重する人々の努力が認められた成果である。

 下地区が特別地区扱いを求めて協議された経緯については既に述べた。正助たちは栗生園の内部の計画が明らかになりつつある時、国と県の関係者に鋭く迫った。湯の川地区の歴史は命を懸けて守る覚悟である。県も国も地元の政治家も私たちに約束した。それが守られないなら全住民で立ち上がると訴えたのである。このことは当局に衝撃を及ぼし下地区が約束通り自由地区として誕生することになったのである。

 湯の川地区は徐々に移り住んでいったがなお多くの人が残っていたし、生生塾は湯川の辺りにこだわっていた。ごうごうと流れる死の川こそ生生塾と切り離せない存在であった。

 流れの音は、湯川で生きる人々の命の鼓動であったからだ。しかし生生塾もやがてここから離れる時がやってくる。

 戦争の流れの中で、湯の川で生きる人々もそれぞれの変化を選ばねばならなかった。水野高明と下村正助は、ハンセン病の菌も認められなくなり、吾妻のある鉱山で働いていた。また、キリスト教徒となったさやとこずえは聖ルカ病院で職員として勤務していた。 

 正太郎は父からシベリアのことを聞いてから、自分の出自をもっと詳しくしりたくなった。

 つづく

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