死の川を越えて 第121回
※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。
- ハンセン病の頭、鄭東順
「明霞の父となる鄭東順は昔、吾妻の鉱山で働いておった」
「まあー」
と押し殺した声にならぬ声を発したのはこずえであった。
「朝鮮の虐げられた人々を束ねる家の若者だということは秘密であった。そういう素性だと知れると、警察などから何かと目をつけられるからじゃ。半ば、強制連行されてきたらしい。日本では朝鮮人ということで差別され、ひどい目にあっていた。眉目秀麗の好漢で学問もあり、控え目に振る舞っていたが朝鮮人の中で異彩を放っていたという。ある時、この若者は白砂渓谷に何かの作業に来て谷に落ちて大けがをした。そこでわしの一族が六合で医者をやっていたので治療することになった。医師は、男の裸を見たとき、腕に斑点がありハンセン病の兆候だと気付いたが警察に届けるようなことはしなかった。鉱山の方から、何としても助けるように要請があったと聞く。この時、献身的に看病したのが後に明霞の母となるお藤であった。実はな、正助に話すのは初めてのことじゃが、お藤は昔、ある事情から、だまされて女郎屋に売られるところを助け出されたのじゃ。お藤は女郎屋から助け出された後、わしの縁者の医者の所に身を寄せていたのじゃ。お藤は医者と共に現場に走った。目も見えない状態で運び込まれた時、若者はお藤の手をしっかりと握りしめていた。お藤は、前橋まで薬を取りに走ったり、草津へ氷を取りにいったり、夜も寝ないで看病した。意識を回復した時、鄭東順は涙を流して感謝にていた。二人の心はその時一つになっていたに違いない。鄭が韓国へ帰れることになったとき、お藤は離れたくないと言った。誰も止めなかったのだ」
「ご隠居様、まるで、お話の世界のようね」
こずえの頬は紅潮していた。こずえだけではなかった。誰もが不思議な世界に引き込まれたようにじっと耳を傾けていた。
「ご隠居様、お話に力が入って、興奮されている御様子。あまり疲れてはお体に毒。今日はここまでになされては」
こずえの声に万場軍兵衛はうれしげに頷いた。こずえは自分の身にも関わるこの重大な秘密をあらためてしっかり聞きたかったのだ。
つづく
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