「天明飢饉で朝廷の存在感を示した光格天皇とは。7月、萩から楫取の会一行が。萩の小学校での講演が甦る。小坂子事件のその後」
◇「天明の命を分けた15段」、天明の飢饉にまつわる嬬恋村の鎌原観音堂の石段に立つ標柱に書かれたこの言葉は、当時の情況を雄弁に語る。天明の大災害は全国に及んだ。京都に於ける惨状では、朝廷と幕政に関して歴史上注目すべき出来事があった。第119代光格天皇の時である。大飢饉に耐えかねた京都の民衆は京都御所に救いを求め行動を起こした。御所を巡る人々は7万にも達した。御所千度参りである。光格天皇は遂に行動を起こし民衆の救済を幕府に申し入れた。江戸時代、天皇は内政に口を出すことは禁じられていたから民衆の救済を申し入れ幕府がこれに応じたことは極めて異例なことであった。光格天皇の存在によって幕府に対する朝廷の発言力はかつてなく大きくなった。かくして光格天皇は朝廷が近代天皇制へ移行する下地をつくったと評価されている。
◇7月23日、萩市から珍客8人が前橋へ来る。萩の楫取素彦顕彰会の人々である。浄土真宗の寺で楫取や吉田松陰とゆかりの深い清光寺を初め、いくつかのポイントを案内することになり準備を始めた。一行は一泊して、翌日は富岡製糸場を見学したいという。時代は急速に変化し、私たちは混迷の中を漂流している。楫取や松陰が歴史の彼方へ遠ざかっていくのは淋しい。今こそ心の処所を取り戻さねばという思いが人々の胸にある。時代の変化は激しく足元が崩れていく恐怖を感じる。最近楫取を知らない人が非常に多いことに驚いた。萩市の人々が前橋に来ることを決意したのは、地元であるだけに危機感があるからに違いない。萩の城下町の光景が甦るようだ。萩の小学校で講演したことが昨日のことのようだ。萩の講演のことは明日のブログで改めて書きたい。純真な子どもたちの声が今も私を駆り立てるからだ。彼らは立派な社会人になっているに違いない。
◇昨日、小坂子町の例の介護施設に行った。中には入らない。女性から別れ話を持ち出されたことが動機らしい。女性が命を取り留めたことにほっとした。施設は我が家から真っ直ぐの位置にある。容疑者がこの道を通ったことも想像される。被害女性と容疑者が立ち上がって人生を歩むことを私は祈る。
1日から改正刑法が施行された。「懲らしめ」から「立ち直り」に重点を移したもの。刑罰の目的は「目には目を」ではない。人道主義、教育刑への転換である。小坂子事件の容疑者もこの流れの中にある。容疑者は前橋地検に送検された。やがて始まる裁判に注目したい。(読者に感謝)
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