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2025年5月 6日 (火)

死の川を越えて 第111回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

 万場軍兵衛はそう言って、書類の袋を取り上げた。

「お前は、小河原泉という学者の名を覚えているか」

「はい、先生。忘れてなるものですか。俺がシベリアの時、さやがこずえさんと京都大学を訪ねて貴重な意見を聞いた人です。おかげで女房は勇気をもらって正太郎を産んだんですから、俺たちの恩人です」

「そうだな。わしは、さやさんたちから小河原先生のことを聞き感動した。そして、礼状を書き、その後も時々正太郎君のことなどを報告してきた。また、小河原先生からも時々手紙を頂いた。これは先生から届いたものじゃ」

 万場老人はそう言って、封の中から書類を取り出した。正助は何事かと老人の手元をじっと見つめた。

「学界で孤立しながらも信念を貫いておられる。ハンセン病は治らない病ではない。感染力は非常に弱い。この信念で、京都大学は外来の診療をやっておる。先生は、この湯の川のことを大変注目しておられる。この山奥から京まで、女がおなかの子の運命に関わることを相談に行ったのだから先生としても忘れられない出来事らしい。その後、正太郎君がすくすくと成長していることを我が事のように喜んでおられるのじゃ。その小河原先生が日本の現状を大変心配されておられるのがこれじゃ」

 万場老人は、指で文面を辿りながら話す。

「国は絶対隔離政策を進めている。絶対隔離とは生涯出さないことじゃ。優秀な国民を育成するためにハンセン病患者を消滅させようとしているように見えるというのじゃ。ある国立病院では断種まで行っているというのじゃ。恐ろしいことじゃ」

「断種となれば、まさに生きるに値しない命は消せ、ではないですか」

「その通りじゃ。人権も人道も地に落ちたと言わねばならん。まかり間違えば、正太郎君もこの世に現れなかったことになる」

 正助は、黙って深く頷いた。

 つづく

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