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2025年5月10日 (土)

死の川を越えて 第112回

※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

 政府は第一次世界大戦を通して、ドイツが総力戦で敗れたことを深刻に受け止めた。そこで、内務省に保険衛生調査会を設置、新たな衛生政策の方向を探った。この動きの中から、国民の体力強化を軸にした衛生政策への転換が図られ、結核、性病、ハンセン病、精神障害などの対策が重視されるようになり、長期的に心身共に優秀な国民の育成が図られていく。ハンセン病については、放浪する患者の隔離から全患者の一生の隔離へと向かうのであった。

 このような政府および医学会を主導した人が全生病院院長の光池剣助であった。光池は、ハンセン病患者の逃走を防ぐために、絶海の孤島に隔離せよと主張した。光池は、保険衛星調査会委員として離島を調査し、沖縄の西表島を最適と結論した。これには、さすがに政府は同意しなかった。それは、絶海の孤島の島は、岡山県、瀬戸内海の長島に実現することになった。光池は、ハンセン病に関しては最高の権威であったが、絶海の孤島でマラリア蔓延に地を選ぶことに、人名と人権を無視する姿勢が現れている。学者たちは。光池の権威に抵抗できなかったが、ほとんど唯一人、小川原泉は自身の信念を貫こうと最大限努力した。

万場老人の話を聞いて正助は頬を紅潮させて言った。

「偉い先生だったんですね。正太郎も俺たち夫婦も幸せでした」

 

 つづく

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