死の川を越えて 第118回
※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。
第五章 万場老人は語る
- お品とお藤
年を重ねて万場老人は時々、体力の衰えを訴えるようになった。時代は昭和が近づき、内外の情勢はますます風雲急を告げていた。万場老人の元へは、どこからかさまざまな情報が入るらしかった。その度に、憂える様子がこずえにはよく分かった。
ある時、老人がいつになく何か語りたげな顔をこずえに向けた。
「お前に話しておかねばならぬことがある。時を失すると取り返しがつかぬからな」
「改まって何でございますか。ご隠居様、何か怖いみたい」
「わしも、いつまでも生きるわけではない。話しておくことと、あちらへ持っていくことを分けねばならぬ」
「まあ、そのようなご冗談を」
「お前の生まれについてはあえて語らぬことがあった。お前の心の成長を待つべきと思ったからだ。その時が来たようじゃ」
こずえは万場軍兵衛が何を話すのか怖かった。湯川の音も耳に入らず身を固くして老人の口元を見守った。
「お前の家は前橋でも有数な製糸会社をやっておったが、不況の波をくらって危機に陥ってな、打開を求めて相場に手を出し、大失敗した。一家は地獄に落ちた。祖父母の悲しい出来事は、お前もうすうす知っていよう。それは語らぬぞ。今は、お前の母親のことだ。お前の母のお品と妹のお藤は双子で、評判の器量よしであった。まだあどけない少女の身で東京に奉公に出されることになった。実はお屋敷で働くというのは嘘でな、二人は女郎屋に売られる手はずとなっていた。それを知って、それこそ命懸けで動いた若者がいた。お前のとこの会社で働いていた大川一太、お前の父じゃ」
「まあ」
こずえは息をのんだ。懐かしい父親の顔がよみがえった。
つづく
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