死の川を越えて 第81回
※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。
その日が来た。森山抱月は、従者を温泉街に待機させ、単身で湯の川地区に足を踏み入れた。目立たぬ様子をしているため、一見普通人に見えた。
「ごめん」
声をかけると、中から戸が開く。そこに立つ予想外の美しい女の姿に森山は戸惑っている。女の顔を見て、森山の目に一瞬はっとしたものが流れた。
「どうぞお入り下さい。森山様ですね。お待ちしておりました」
こずえがにっこりして迎え入れる。
「やあ、万場軍兵衛さん、お久しぶりです」
そして、森山はこずえを見やりながら小声で言った。
「あれが、もしやお品さんの・・・」
万場老人は黙って頷く。そして小声で言った。
「先年、木檜泰山先生の傍聴に県議会へ行ったのも彼女たち。その折はお世話になりました」
森山抱月は、ほうという表情で改めてこずえを見た。
「偉い先生がこんな所に来られるのは開闢以来のこと、名誉なことじゃが皆緊張しております」
「なんのなんの。皆さん若くてよいですな。昔うぃ思い出しますよ。廃娼運動というのがありましてな、草鞋に腰弁当で田舎の家まで乗り込んだものです。若い情熱があった。懐かしい限りじゃ」
「そのことです。先日、先生の業績を説明する中で、廃娼運動を話しましたぞ。初代県令、楫取素彦のことも併せてな。人間の尊重という点で、この集落の抱える問題と同一だと皆に話したところです」
「そうですか、その点は私も十分承知ですぞ。今日の目的は、理屈でなく、実態を肌で受け止めることです。この音が死の川、湯川ですか」
森山はこう言って、外に耳を傾けるしぐさをした。ごうごうと流れの音が響いている。そして、傍らの正太郎に目を留めた。
つづく
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