死の川を越えて 第52回
※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。
「小河原先生は、人の体は小さい細胞というものでできている。遺伝は、この細胞の中にあるものが伝える。らい菌はこの細胞とは別のものと、絵を描いて説明してくださいました。正さん、私に難しいことは分かりませんが、この先生のおっしゃっていることは、もう絶対に間違いないと思えるのよ」
〈その通りだ。さやちゃん。同感だよ〉。
正助は心につぶやいた。
「そして、小河原先生はきっぱりとおっしゃいました。感染率が非常に高いということは迷信だ。近い将来、ハンセン病は撲滅される、ハンセン病の撲滅は人間の回復だ、と。私が最もお知らせしたいことはこの点です。そうですね、正さん」
「その通りだ、さやちゃん」
正助は叫んでいた。
「正さん、私は小河原先生に会った時、赤ちゃんを産む決意ができました。もう、反対の理由はありませんもの」
正助の目の前に瞳を輝かせたさやの姿がある。正助は目の前に浮かぶさやに、満面の笑みを投げかけた。
そして、さやの文章は続く。万場軍兵衛の縁者が住むふもとの里の枯れ木屋敷で家事と農業を手伝いながら産み月を迎えて、無事男の子を産んだとある。
「元気な男の子。どこにも異常はなく、正さん、目があなたにそっくりなのよ。名は万場老人が正太郎と名付けました」
紙面からさやの声が聞こえてくるようであった。
「さやちゃん、やったぁ。万歳」
正助は両手を挙げて大きな声で叫んだ。興奮の中で改めて紙面に視線を落として、正助ははっと息を呑んだ。もみじの絵かと思ったのは、赤ちゃんの手のひらではないか。
〈ふふ、正太郎の手よ〉。さやの明るい声が聞こえるようであった。
「さやちゃん、正太郎、待っていておくれ。必ず生きて帰るから」
正助は、さやとまだ見ぬわが子の姿をまぶたに呼びかけた。
つづく
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