死の川を越えて 第55回
※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。
「何とかしてください。お願いでございます」
さやはすがるような目で言った。
大正8(1919)年の8月、正助が属する小隊は、ウラジオストクの郊外の山奥に追い詰められていた。衆寡敵せず、日本兵は次々と倒された。砲弾の雨の中で、人々は倒れ、赤い血が川のように流れた。
「わあー、わあー」
敵兵の狂ったような雄叫びの中に銃弾が飛び交い、硝煙があたりを覆った。正助の目の前で手榴弾が炸裂した瞬間、正助の体は宙に舞った。大地に投げ出された正助の顔を土が埋めその上を軍靴が走り抜けて行く。
長い時が過ぎた。正助は霧の中をさまよっていた。前方に明るい光の輪が見えた。近づくと、子どもを抱いた女が招いている。
「さやちゃんだ。正太郎ではないか」
正助は叫んだ。泳ぐように近づこうとするが距離は縮まらない。正助は必死で頑張った。その時、上の方で人の声が聞こえた。
「おお、生き返ったぞ」
男たちがのぞき込んでいる。いろいろな物が下がる黒い天井が目に付いた。次第に取り戻す意識の中で、正助は戦いの場面を思い出していた。
〈生きている〉。そう実感すると同時に裸で横たわる自分に気付いた。手当をしていたらしい女がにっと笑った。
「あっ」
のぞき込む女の顔を見て正助は思わず声を上げた。頬に盛り上がる黒い影は紛れもなくハンセン病の証拠。
「日本人ですか」
「いや、朝鮮人よ。ここは朝鮮人の集落。日本語、少し分かる。よく分かる人もいるよ」
この言葉に促されるように1人の男が身を乗り出した。
つづく
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