死の川を越えて 第61回
※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。
- 魔境脱出
体の傷も回復したある日、正助は翌日に脱出を決行すると告げられた。
「大体の計画を話しておきます」
朴はそう言って語り出した。正助は一大冒険物語を聞くような思いで耳を傾けた。夜陰に乗じてこの川を下る、と言って木造の小船を指した。舳先に奇妙な記号を描いた小旗が立っている。正助が首をかしげるのを見て朴は言う。
「我々の集落を現す印です。水に浮く死体の片付けは我々の仕事。この旗があると国境警備隊も普通は近づかない」
正助は驚き、そして、ハンセン病患者の集落の不思議な力に感心した。それを見て朴はさらに驚くべきことを話した。
「一番の難所は地底の流れです。そこはわれらしか通れない。悪魔の腸と呼んでいます。京城の頭は用心のためここを通れと言ってきているのです。ロシアでは日本人の捜査に全力を挙げているから、この旗があっても安心できないと言うのです。なあに、任せて下さい。金という悪魔の申し子のようなヤツが同行しますから」
正助は前途に容易ならぬものが待ち構えていることを知って身を固くした。
ある夜、小船は出発した。手漕ぎ船は黒い水面を下流に向けて矢のように速い。時々、舳先の角灯が揺れて黒い岸壁や覆い被さる巨木の影を映す。流れのずっと先は広い川に合流し、海に通じているという。やがて船は激しく揺れ始めた。
「他の川との合流点です。昼間見れば死体の二つや三つはあるはずです」
朴は事もなげに言って角灯を掲げた。そこには不気味は闇が広がっている。その底に何がいるのかと想像して正助は背筋を寒くした。長い長い時が経過したように感じられた。船の揺れ方が違うので、はてと思った時、
「海です。ここからがしばらく危険です」
朴はそう言って、舳先の灯火と消した。はるか前方の水平線が紫色に染まり、その手前に影絵のような島の輪郭が浮かぶ。
その時朴が叫んだ。
「警備艇だ。あなたはその筵の下に」
つづく
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