死の川を越えて 第32回
※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。
六、別れ
正助とさやは、山田屋の主人の計らいで、離れの一室を与えられて生活することになった。人間は心の生き物である。心に何が宿るかにより、人は狂人にもなり革命家にもなる。
追い詰められた男女の心に共通の愛が芽生えた時、それは強い生きる力となって2人をよみがえらせる。絶望のふちに立っていた正助とさやの瞳には、今、燃えるものがあった。
幸い、2人はハンセン病の患者とはいえ軽症といえた。最近の2人を見ると、その生き生きとした動きは健常者と変らなかった。ただ、2人は日々、重傷者の姿を見るにつけ、あれが自分たちの将来の姿かと怯えるのであった。
ある日、正助は、マーガレット・リーが建てた聖ルカ病院を訪ねた。そこにはマーガレットが話していた岡本トヨというキリスト教徒の女医がいた。
岡本トヨは福島県の生まれで、東京の医大で学び、大正6年、マーガレットの招きを受け、33歳で聖ルカ医院の初代医師になった人である。正助が訪ねたのは。医師就任後間もない時であった。
「若い人が将来に不安を持つのは当然です」
トヨはそう言って正助を診察し、正助の不安に耳を傾けた。診察室の片隅に聖母マリアの像が置かれていた。トヨは正助の目を正視して言った。
「この病はまだ良い薬、良い治療法が見つかっていません。無知や迷信が大きな妨げになっているのです。長い間、遺伝病で感染力が強いと恐れられてきましたが、ノルウェーのハンセン氏がらい菌を発見し、遺伝病でないことが科学的に分かりました。そして、このらい菌を研究した結果、感染力が非常に低いことも分かってきました」
正助は初めて聞く事実に驚愕した。にわかに信じられない思いなのだ。トヨは続ける。
「大切なのは心の問題なのです」
正助はマリア像に目をやりキリストの説教だなと思った。しかし、トヨの話は意外であった。
「病は気からと言いますね。これには科学的意味があります。病気を治す力は本来生き物には備わっているのです。それを免疫力といいます。人間は精神的生き物ですから心の持ち方が大いに影響するのです。西洋の例ですが、死刑の宣告を受けた人の髪が一夜にして白くなったことが報じられています」
トヨの口から遂にキリストのことは一切語られなかった。正助の胸はなぜか膨らむのであった。
つづく
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