死の川を越えて 第34回
※土日祝日は、中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。
「分からないんだ。さやちゃん。何も分からない。俺は一晩考えた。さやちゃん、聞いてくれ。俺は思いついた。国のために尽くさなければならない。お国のために働ける機会が与えられたんだ。喜ばなくちゃならないんだよ」
「そんな。私はいや。お国のためなんて分からない。正さんと離れたくないの」
さやは、涙の目で正助を見詰め、正助の膝に両手を置いて肩を震わせている。
「さやちゃん。まだ永久に離れると決まったわけじゃない。俺は泣かないぞ。人間には定めというものがあるんだ。どうにもならないことなんだって。それを泣いても仕方ないじゃないか。さやちゃん、俺に力を貸しておくれ。離れても心は一つじゃないか。体も一つじゃないか。さやちゃんが励ましてくれれば俺は生きられる」
「そんな、私は嫌」
「何だいさやちゃん。泣くなよ。俺まで弱気になるじゃないか」
「ええ、分かっているの。でも、でも」
さやは激しく首を振って正助の膝に顔を埋めた。
「俺たちは、普通の人と違って大変な問題を抱えている。先日話したルカ病院の女の先生の言葉を信じようじゃないか。先生が言うには、人間の体には病気と闘う力があるそうだ。その力を強めるのは心の持ち方だと言うんだ。明るい気持ちで病気と闘うことが大切なんだって。だからさやちゃん。絶望しないで頑張ろうじゃないか」
さやは顔を上げてうなずいた。2人はしっかりと抱き合った。更けていく夜の闇の中で湯川の流れが響いていた。
2人は翌日、万場軍兵衛を訪ねた。
「ほう、お前のところにとうとう来たか」
老人はそう言って、2人の顔をじっと見つめた。
「おめでとうとは言わぬ。困ったことだともわしは言わぬぞ。若い2人は十分に話し合ったことだろう。わしのできることは、側面からお前らの運命を助けることじゃ。正助よ、さやちゃんのことは心配するな。こずえに、助けになるようよく話す。ルカのマーガレット女史にも話してやろう」
老人はそう言って、傍らの書類の山から何やら取り出して目を走らせている。
「世の中、これからどうなるのでしょうか」
正助の声は不安そうである。
つづく
| 固定リンク
コメント