シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一一
※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。
シベリア強制抑留では、六〇万人を超える日本人が抑留され、六万人以上がダモイの悲願を果たせずに死んだ。酷寒と飢えと強制労働の苦しみを耐えて生きたのは、ただ祖国へ帰りたいゆえにであった。その夢が目の前で実現されようとしている。乗船の順番を待つ日本人の心には期待とともに大きな不安があった。それは、ダモイ不適格として再び元の収容所に戻されはしないかということである。事実、人々の間には奥地の収容所へ戻された人のこと、あるいは乗船の順を遅らされた人の話が広く伝わっていた。
青柳さんたちのグループは、乗船の番を待っていたが、なかなか来ない。普通は四、五日待つことが多いが、一週間が過ぎた。後から到着した人たちが次々と帰国船に乗り込んでいくのを見て青柳さんは次第に不安になってきた。何か不都合なことがあって、帰国を取り消されたり、延期させられるのであろうか。青柳さんには、思い当たることはなかった。逆に、ダガラスナでは、ハラショー・ラボーター(良い労働者)としてその勤勉ぶりが高く評価されていたのだから。
おかしいと思って、仲間と話し合っていると、七日目の昼前になってソ連兵がやってきて、ダガラスナ組はもう一度山に入って越冬用の薪切りをやってほしいといきなり言い出した。それを聞いて青柳さんはガーンと脳天に一撃を受けた思いだった。人々の落胆ぶりは表現できないほどだった。やっと日本海が見える所まで来て、祖国の土を踏める日は間近と浮き立つ思いでいたのに、暗い穴底に突き落とされたような衝撃を受け、目の前は真っ暗になった。
当局の理由は伐採に慣れていることと、ハラショー・ラボーターだからだという。ハラショー・ラボーターならすぐにでも帰国させるべきだと必死に主張したが、聞いてもらえない。青柳さんたちは、ナホトカまで来ても、まだ捕虜であることに変わりなかったのだ。そのことを改めて思い知らされた。表現は穏やかだったが命令に変わりはない。拒絶する自由はなかった。
つづく
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