人生意気に感ず「大庄屋森田家の書院と高野長英。楫取素彦と清光寺」
◇26日森田家「書院」特別公開に出た。庭園は何度も観ているが書院の詳しい説明を聴くのは初めてで勉強になった。森田家14代当主森田氏は県内6つの書院を説明した。歴史の素養を踏まえたその語り口に引き込まれたが、私がより興味を覚えたのはこの書院を訪ねた人々のことである。その中に高野長英や11代将軍徳川家斉の妹が居た。この女性は細川豊前守御母堂で総勢200名は森田家の他、野田塾の家々に別れて宿泊したという。細々とした資料が残されているが高野長英のものは不思議にも一切存在しない。長英を匿ったことが知れるのを恐れたためと森田氏は推察する。
私は江戸後期鎖国政策を揺する時代の大波とその中で懸命に生きた蘭学者の運命を想像した。目を閉じると正座して書を読む長英の姿が浮かぶ。シーボルトの弟子でモリソン号事件に接し開国論を唱え蛮社の獄で終身刑に。獄舎の火災を期に各地を逃亡し上州野田塾にも来た。長英はひそかに江戸に戻り薬品で顔を焼いて医者を開業していた。時代は大きく変わりつつあった。老中阿部正弘や奉行川路聖護は彼を罰しない方針であったがその方針が徹底されないうちに役人は彼を見つけ襲った。長英は役人と斬合う中で自らの喉をついて凄絶な最期をとげた。それは1850年で日米和親条約締結の4年前であった。森田家はかつて大庄屋。代々の優れた文人たちの姿を書院で肌で感じた。文人たちは開明な思想と時代を見る目を備えていたはず。それが長英を匿ったに違いない。私はかつて六合(くに)の湯沢家を訪れた。白砂川に沿った一画に長英を匿った古びた家があった。草深い各地で長英を匿った事実は上州の良心と気概を物語るものだ。
森田氏は壮大な庭園を含む文化財を維持することの重要さと困難さを訴えておられた。地域社会が支える文化財は社会の財産であり歴史を伝える森田家の一つ一つの文物は県民の宝でもある。行政の一層の支援の必要を痛感した。
◇森田氏は楫取素彦顕彰会の副会長をされている。この日、私は小冊子「楫取素彦顕彰会の歩みー今なぜ楫取素彦なのかー」を渡した。来年早々にも予定する総会の資料で、森田氏の提案で私が製作した。文明の機械化が加速し精神文化の原点を見詰める時である。楫取を再認識する意義はこの点にある。冊子の表紙は浄土真宗清光寺の正面の姿。吉田松陰の妹で楫取の妻はこの寺の設置に深く関わった。明治維新の群衆が今にわかに甦る。(読者に感謝)
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