シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一七
※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。
自分たちの境遇が悲惨であればあるほど、遠い祖国への憧れはつのる。収容所の人々の話題は、いつも食べ物のことやふるさとの思い出であった。人々は、そのような話に引き込まれていても、ふと現実に戻って、祖国は俺たちのことを忘れてしまったのか、政治家は何もしてくれないのかと、底知れぬ不安と淋しさに襲われるのであった。
ハバロフスクの強制収容所の人々は、入ソ以来七度目の冬を過ごし、今、春を迎えていた。一般の抑留者は昭和二五年春までに帰国したが、戦犯とされた長期抑留者はハバロフスクの収容所で依然として抑留されていた。人々は、永久に祖国の土を踏むことはできないのかと不安を募らせていた。
昭和二十七年五月十一日、ハバロフスク強制収容所第二十一分所に何やら異変が起きた。収容所内は清掃され、営門の付近やポイントの場所にはきれいな砂が撒かれた。普段、このようなことは行われたことがないのである。その日は、日曜日であったが、ほとんどの者は、遠くの現場に駆り出され、増強された兵士によって厳重に監視された。営内に残った者は、生活改善座談会ということで大部屋に集められた。真実を知らない人々は、真剣に収容所側と生活改善について折衝を続けた。この間、二時間以上にわたってトイレに行くことも禁じられた。何事が起きているのか。何かを感じ取った人々の胸に不安と緊張が次第に高まっていった。
ハバロフスク事件を指導した石田三郎は、その著『無抵抗の抵抗』の中で、高良とみ来訪時の収容所の状況を次のように記している。
「収容所の四隅の望楼のマンドリン銃を持った兵士は、身を伏せて外部から見えないようにして警戒していた。一日、二回、作業隊通行時の他は、堅く閉ざされている大門がいっぱいに開け放たれた。あたかも四六時中このようであるかのように。ソ連の案内係は、日本人はみな映画か魚釣りに行っていると説明したが、自由外出、魚釣りなど、私たち日本人には想像さえ出来ないことだ。病室は、花と純白なシーツで整えられ、病人はピンピンしている。高良女史は、さすがにソ連だと感じたことであろう」
つづく
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