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2023年11月11日 (土)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一四

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 やがて、ナホトカの光景は水平線の下に消えた。青柳さんは安堵の胸をなでおろした。しかし、船内には、まだ緊迫感が消えなかった。領海を出るまでは、二人のソ連兵が乗り込んでいて目を光らせている。誰かの秘密が見つかって、連れ戻される危険が常にあるのだ。満州国時代の経歴を隠している者がかなりおり、そういう人は、目をつけられ、声をかけられたはしまいかと生きた心地もなく一秒一秒を必死で耐えていた。

 こういう人にとって、時の進み方がいつもより何倍も何十倍も長く感じられた。その心の苦しみは、他の日本人にも伝わって、時が経つにつれ、船内は沈黙が支配し、異様な雰囲気が高まっていった。

 やがて船が止まった。領海の果てに来たのだ。艀がおろされ、二人のソ連兵が乗り移って、船は再び動き出した。

「ワーッ」とどよめきが上がった。抱き合って喜んでいる人がいる。両手を上げてバンザイを叫ぶ者もいた。船はついに、ソ連の領海を出た。もはや、収容所に連れ戻される危険は去った。それは、長い間捕らわれていたシベリアという罠から抜け出した瞬間であった。船は穏やかな日本海を滑るように南下していた。

 船は貨物船で速度は遅いが、着実に日本に近づいている。船内の食事は、戦時食というもので粗末なものであったが、やはり日本食はうまい。日本も食糧難なのであろうと、青柳さんは想像した。厳しい状況の祖国日本が救いの手をシベリアまで伸ばしてくれたことが、この貨物船や食事から感じられて嬉しいのだ。時々甲板に出て見るが視界に入るものは、すべて穏やかな海であった。青い海と青い空、水平線はどちらを見ても天と海が一つの色になって溶け合っている。天と海が貨物船を包み込んで祖国日本へ運んでいる。これまで、この世に神も仏もないと嘆いてきたことが嘘のように思える。

つづく

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