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2023年11月30日 (木)

人生意気に感ず「日大アメフト部廃部の根は深い。ガザ休戦の延長を実現せよ。交渉役のカタールの力」

◇日大アメフト部が遂に廃部になる。部員3人が麻薬特例法違反容疑で逮捕されている。どろどろした闇はどこまで続くのか。捜査は続いており逮捕者は更に出る可能性がある。麻薬の蔓延の実態は社会に広く広がり深刻である。日大問題の特色は大学という教育機関において、しかも大学の寮で広く麻薬が扱われていた点である。教育界に与える影響は測り知れない。日大アメリカンフットボール部の歴史は長く輝かしい戦歴をもつ。大学日本一を決める「甲子園ボウル」では21度の優勝を果たしている。大麻と関係のない多くの先輩や現在の関係者の心を大きく傷付けているに違いない。アメフト部だけではない。就活で日大の名を出すのが憚られると発言する日大生の姿があった。

 この事態を生じた大学側の監理責任が厳しく問われている。「空白の12日間」である。7月に寮で大麻らしき物が発見されてから副学長が警視庁に直ちに報告しなかったのだ。教育の場で麻薬に対応する大学の姿勢の甘さと無責任さが問われるべきだ。日大はこれまでも不祥事を起こしてきた。大学の体制に根本的な問題があるのではないか。日本の教育界全体に関わることだから文科省にも責任があると言わざるを得ない。

「空白の12日間」で批判されている副学長が林日大理事長をパワハラで提訴した。外野からは日大の不名誉の傷口を更に広げる泥仕合に見えてくる。

◇ガザの戦闘休止が2日間延長された。人道支援物資搬入のトラックが続く光景は全世界をホッとさせる。薬がなく水がなく電力も尽きた人々にとって命の綱である。この命の綱を一時的なもので終わらせてはならない。グテーレス国連事務総長は「ガザの人々への人道支援を更に増やせるように強く望んでいる」と語った。バイデン大統領は「すべての人質が解放されるまで人質解放の取組みをやめるつもりはない」と決意を示した。81歳のバイデン氏の表情が若く輝いてみえる。私はサミュエル・ウルマンの詩を思い出す。その要旨は「人は信念と共に若く、人は自信と共に若く、希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる」である。

◇人質交渉に関し大いに成果をあげているカタールに注目する。ペルシャ湾に面した人口約45万の独立国。今回更なる休止の延長等を協議のため、米CIA長官、イスラエルの諜報機関モサドの長官がカタール入りした。この小さな国にそのような力が秘められているのが不思議だ。(読者に感謝)

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2023年11月29日 (水)

人生意気に感ず「休戦は続けねばならない。変化した国際世論の力。地縄自縛の反スパイ法」

◇この世の地獄とはガザの極限状況に違いない。病院への無慈悲な攻撃で無数の小さな命が連日失われていく。イスラエルを非難する国際世論は一気に高まった。ガザの病院の医師は訴えた。「なぜこれ程人の道に外れたことが出来るのか。攻撃で外に出られない。電源を失い保育器が機能せず生まれたばかりの赤ん坊の泣き声が暗がりで小さくなっていく」。看護師たちは叫んだ。「生きて、生きて」。イスラエルの行方が自衛権行使と離れていることは明らか。ナチスのホロコーストを生き抜いたユダヤ人が今やっていることはかつてのナチスと同じではないか。国際世論の基底にはこの感情があるに違いない。22日の戦闘休止の合意の背景である。国際世論の変化に押されて米政権も大きく変化し動いた。老練のバイデン大統領は81歳とは思えない動きを示した。

 イスラエルのネタニヤフ首相を抑えられるのは米政権のみである。バイデン氏の執拗な外交努力は高く評価されてしかるべきだ。

◇今回解放されたのは子ども・女性・持病のある高齢者が中心である。合意成立直前、小さな命を救った救急隊員の行動が報じられている。31人の赤ちゃんをガザ南部の病院に移したパレスチナ赤新月社の隊員たちである。砲弾が飛び累々とした死体の中を人々は必死で動く。泡を吹く赤ちゃんの泣き声は弱々しい。31人を助けられた。この子たちの未来を思う。

 21日の合意を更に発展させねばならない。合意を作った人々の姿を連想する。そのテーブルはハマスとイスラエルの戦争、そして無数の人々の運命がかかった戦場である。一つ一つの仮題について議論を重ね成果を積み重ねていったに違いない。24日、196台の支援トラックがガザ地区に入った。交渉の貴重な成果である。ネタニヤフ首相は戦争を続けハマスを壊滅させると強調している。しかし、今回の合意の結果はとにかく休戦が可能であり、命の綱である196台のトラックの搬入が可能であることを示した。これを元に戻して再び地獄と化すことは国際世論が許さない。国連はじめ全世界が許してはならない。

◇私は最近天安門で反スパイ法の恐怖を直接体験したが、この法律の影響が非常に大きいことを知った。外国人が企業活動を控えるのは当然だからだ。一方中国の経済状況は深刻だから外国の企業を誘致したい。自縄自縛の面がある。非公開不透明な手続きで牢獄へ送られる恐怖は想像を超える。中国は目に見えるかたちで外国人を安心させるために手を打たねばならないだろう。(読者に感謝)

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2023年11月28日 (火)

人生意気に感ず「大庄屋森田家の書院と高野長英。楫取素彦と清光寺」

◇26日森田家「書院」特別公開に出た。庭園は何度も観ているが書院の詳しい説明を聴くのは初めてで勉強になった。森田家14代当主森田氏は県内6つの書院を説明した。歴史の素養を踏まえたその語り口に引き込まれたが、私がより興味を覚えたのはこの書院を訪ねた人々のことである。その中に高野長英や11代将軍徳川家斉の妹が居た。この女性は細川豊前守御母堂で総勢200名は森田家の他、野田塾の家々に別れて宿泊したという。細々とした資料が残されているが高野長英のものは不思議にも一切存在しない。長英を匿ったことが知れるのを恐れたためと森田氏は推察する。

 私は江戸後期鎖国政策を揺する時代の大波とその中で懸命に生きた蘭学者の運命を想像した。目を閉じると正座して書を読む長英の姿が浮かぶ。シーボルトの弟子でモリソン号事件に接し開国論を唱え蛮社の獄で終身刑に。獄舎の火災を期に各地を逃亡し上州野田塾にも来た。長英はひそかに江戸に戻り薬品で顔を焼いて医者を開業していた。時代は大きく変わりつつあった。老中阿部正弘や奉行川路聖護は彼を罰しない方針であったがその方針が徹底されないうちに役人は彼を見つけ襲った。長英は役人と斬合う中で自らの喉をついて凄絶な最期をとげた。それは1850年で日米和親条約締結の4年前であった。森田家はかつて大庄屋。代々の優れた文人たちの姿を書院で肌で感じた。文人たちは開明な思想と時代を見る目を備えていたはず。それが長英を匿ったに違いない。私はかつて六合(くに)の湯沢家を訪れた。白砂川に沿った一画に長英を匿った古びた家があった。草深い各地で長英を匿った事実は上州の良心と気概を物語るものだ。

 森田氏は壮大な庭園を含む文化財を維持することの重要さと困難さを訴えておられた。地域社会が支える文化財は社会の財産であり歴史を伝える森田家の一つ一つの文物は県民の宝でもある。行政の一層の支援の必要を痛感した。

◇森田氏は楫取素彦顕彰会の副会長をされている。この日、私は小冊子「楫取素彦顕彰会の歩みー今なぜ楫取素彦なのかー」を渡した。来年早々にも予定する総会の資料で、森田氏の提案で私が製作した。文明の機械化が加速し精神文化の原点を見詰める時である。楫取を再認識する意義はこの点にある。冊子の表紙は浄土真宗清光寺の正面の姿。吉田松陰の妹で楫取の妻はこの寺の設置に深く関わった。明治維新の群衆が今にわかに甦る。(読者に感謝)

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2023年11月27日 (月)

人生意気に感ず「10月7日から11月22日に至る壮大なストーリー。劇的変化を生んだ力は国際世論」

◇この冬一番の寒気の中「ふるさと未来塾」は意外に盛会であった。45人を超える人々が熱心に私の話を聴いてくれた。私は午前0時に起きて資料を整理して備えた。中心のテーマはイスラエルとハマスの戦いである。「地獄とは地上にありと閻魔いい」こんな川柳がどこかで紹介されていた。

 中東の争いと混乱は複雑で根が深いが特に第一次大戦でオスマントルコが破れてから列強の理不尽な関与が強まり深刻な事態を加速させた。列強は勝手に線を引いて国境を定めるようなこともした。

混沌とした中東情勢をどのように整理して人々に説明するか思案していて気付いたことがあった。それは、「今年の10月7日から11月22日迄」を一つのストーリーとして説明することである。10月7日はハマスがイスラエルに3000発のロケットを打ち込み240人の人々を拉致し、これに対しイスラエルの報復が始まった日。それは苛烈を極め病院まで対象とされ多くの子どもや女性まで犠牲となりイスラエルが主張する自衛権の範囲かが議論されるようになる。11月22日は戦闘休止の合意が成った日。

 10月7日から11月22日に至る劇的変化を導いたものは国際世論のうねりであった。イスラエルに対する非難、イスラエルを支持するアメリカへの批判が広がったのだ。バイデン大統領は懸命に動いていた。イスラエルを制し得る際大の力はアメリカである。私はホワイトボードにウクライナからイスラエルに至る略図を描いてストーリーを語った。天井なき牢獄と言われた所に追い込まれたハマスがとった手段は総延長500kmの地下道である。地下要塞で戦う様は沖縄戦を思わせた。イスラエルは病院攻撃の大義はここにハマスのトンネルがあるということ。しかしそれは見つからない。ハマスはなぜかくも戦うのか。ユダヤ人がここに強引に建国したことにより追われた人々の怒りの蓄積だという声が大きくなった。ある塾生の女性はホロコーストで苦しんだ人々はなぜ今人道無視のナチスのようなことをするのかと私に訴えた。休戦の合意により救援物資を積んだ何百台ものトラックがガザに入っている。4日間の休戦の行方はどうなるのか。「10月7日から11月22日」のストーリーの行方に全世界の目が注がれる。世界が有効な手を捜し出さねば世界大戦に至る恐れが高い。私は一週間の北京滞在で、超大国中国の存在感を肌で感じた。また、多くの発展途上国と手を組み得る日本の役割の大なることを思った。(読者に感謝)

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2023年11月26日 (日)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一二十

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 警戒兵の厳しい視線にもかかわらず、一人が意を決したように口を開いた。

「日本に帰れるでしょうか。それだけが唯一の望みです。死ぬまでにぜひ、もう一度日本が見たいのです」

 続いて、もう一人が、訴えるように言う。

「我々は日本に帰るのをこんなに待っています。毎日、そのことばかり考えて、何年もたちました。それに対して日本の同胞は何を考えておりますか」

「祖国では常に皆さんのことを心配しております。いろいろな民間団体も立ち上がって、皆さんにどうか一日も早く、お帰り願いたいと、とくに婦人たちは真剣に努力しております。皆さんのご家族は、皆さんの帰ってこられるのを切に待っています。私は、日本の婦人の真心をお伝えに来ました」

 高良とみの言葉を遮るように、隣のベッドの日本人が言った。

「国家の命令で、ここへ来ました。国家の命令で戦場に行ってこうなったのです。いったい祖国は私たちを救う気があるのですか」

 国家の命令ということを重ねて口にし、救う気があるのかと迫るこの男は射るような視線を女史に向けていた。頬がそげおちたこの日本人の姿は、高良とみには抜き身の日本刀のように見えた。

 高良とみは、男を正視し直立不動の姿勢で答えた。

「申し訳ありません。我々の責任です。皆さんがそうおっしゃるのもご無理ありません。だから国民の声によって、何としても、一日も早く国交を調整し、皆さんを内地に復員させたいと思っています。私は、そのために障害を乗り越えてここに参りました」

 高良とみは十八人の日本人に会った。一人ひとりのところへ行き声をかけた。そして、帰国後、家族に消息を伝えるからと言って、順次名前を聞くと、ある者は、自分はもう死んだも同然だから名を聞いてくれるなと叫んだ。

つづく

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2023年11月25日 (土)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一九

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 収容されていたある日本人の証言によれば、ソ連側はあらかじめ女史が見る部屋を決めておき、そこには間もなく退院予定のものを残し、重病患者と外傷患者のすべてを他の分院に移しておいた。だから高良とみが病室を見舞ったとき、病人はみな元気で、ベッドに起き上がれない者、口がきけない者は一人もいなかった。しかし、事実を語ることは禁じられていたし、話したくても周囲は、警戒兵と通訳で固められており、自由にものが言える状況ではなかった。

 高良とみが病室に入ったとき、日本人の目は一斉に彼女が持つハンドバッグに貼られた赤い日の丸に吸い寄せられた。日本の女がいきなり目の前に現れるのも意外なことだが、その持ち物に堂々と日の丸がつけられているのが信じられないのであった。懐かしい祖国の旗。命をかけて戦った日本が目の前にあった。病室の日本人一人ひとりの胸に懐かしいものが込み上げてきた。彼らは高良とみの目を見た。彼女も、目の前の日本人を見つめた。ベッドの日本人は床に座り直し、あらためてじっと食い入るように日の丸を眺め、また、顔を上げて高良とみを見た。高良とみは病人の目から頬を伝わってすっと流れるものを見た。こけた頬とやせた手足、厳しく射るような視線。それは、長い間の苦労の激しさを物語っていた。長い間に何があったのだろう。高良とみは、人々の表情を順に見ながら日本でこれらの人々の帰りを待つ妻や子のことを思った。そして、自分を見つめるこの目の奥には、ふるさとへのどれほどの思いが隠されているのかと思うと、こみ上げるものを抑えられず、ハンカチを出して目頭をぬぐった。

 病室の日本人たちは、密かに伝えられていた限られた情報から判断して、今日の来訪者にあまり期待していなかった。しかし日の丸と目頭を拭く高良とみの姿を見て考えは変った。

 元大本営参謀瀬島隆三は、このとき、この収容所にいた一人であるが、その回想録で次のように述べている。

「昭和二十七年五月、参議院議員の高良とみさんが、単身第二十一分所を訪問した。ちょうど我々は作業に出ていたので会えなかったが、営内にいた人たちからそのときの様子を聞いた。高良とみさんの持っていたボストンバッグに一面日の丸が貼ってあり、大変感動したという。入ソ以来我々に会いに来た最初の日本人であった」

つづく

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2023年11月24日 (金)

人生意気に感ず「いい夫婦で思うこと。悔恨の土下座」

◇11月22日は「いい夫婦の日」であった。いい夫婦は1122(イイフウフ)の語呂合わせであるが、ある新聞社等が夫婦の会話を増やし明るく健全な家庭をつくる目的で定めた。他者と良い人間関係を築くことは簡単ではない。まして特別に密な関係である夫婦においては人生の一大事である。一つの言葉が相手を深く傷付けたり喜ばせたりする。会話は音声によるだけではない。目は口ほどに物を言う。一つの空間で共同生活をする場合、この会話は一層重要な意味をもつ。コロナ禍で夫婦が一緒にいる時間が増えたことが様々な事態を生じさせたことが明らかになっている。

「今日はいい夫婦の日だった?」、その日3人で食事をしながら娘が面白そうに言った。どうなっているのと言わんばかりだ。老いた妻の姿を前にして過去の出来事が瞬時に甦った。

 私は83歳を迎えたがこの女性とは40年以上行動を共にしてきた。前の妻をガンで亡くし再婚したからだ。様々なドラマがあったが、それは県議選の総決起大会である。群衆が広場を埋めていた。選対幹部は一つの決定をもって私に迫った。壇上で私たちに土下座をしろというのだ。妻はそっと呟いた。「もう選挙はしたくない」。私の選挙はほとんどがボランティアによって支えられていた。前回約200票の差で落選した後の補欠選挙で、皆必死だった。断れる状況ではなかった。私は言った。「高い所に立って大切なことを頼むのは失礼だから手をつこう」。妻は無言であった。教師を長く続け、政治への理想を信じて選挙に飛び込んだ彼女には苛酷な現実だった。行動を共にした幼い娘にとっても残酷な舞台であった。「どうしたの」と妻。「うん、昔の選挙のことを思い出していた」。妻も娘も私の胸中を察したようだ。箸を取り直して、妻と娘に対する感謝の念をかみ締めた。いい夫婦の日の思わぬ会話になった。

◇明日は「ふるさと塾」。ハマスとイスラエルの極限を語る準備をした。多くの人は問題の本筋を捉えていない。「地獄とは地上にありと閻魔言い」とどこかの川柳にあった。この地獄を終息させるために中国及び日本の役割は大きい。今私の胸には北京の一週間がある。ピリピリとした天安門広場で私の原稿にスパイかと厳しい視線が注がれた時、この厳寒の広場がガザ、イスラエル、そしてウクライナに繋がっていることを感じた。「北京の今」(仮題)を小著にまとめた。塾ではこの内容も話そうと思う。直ぐに師走がくる。(読者に感謝)

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2023年11月23日 (木)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一八

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 この収容所は、被収容者のほとんどが高学歴のインテリ層であった。それはかつて、満州で関東軍将校、特務機関員、警察官、通信の仕事などに携わっていた人々が収容されていたからである。彼らはその前歴ゆえに「侵略」にかかわったという理由で、戦犯として長期の刑に服していたのである。それだけにロシア語に堪能な者も多く、ソ連の新聞など、限られた情報源から自分たちに関係する情報を入手する者もいた。この時も、日本の国会議員が来るらしいという情報を一部の者は得ていたのである。しかしそれは、首をかしげるような、にわかには信じられないようなことであった。日本政府のパスポートをもらえないでやってくる、女の国会議員だというが、はたして女の国会議員なんていうのがあるのだろうか。日本の戦後の大きな変化を知らない収容所の人々は、仲間からこのことを知らされても納得がいかなかった。

 このころ日本国内は、世の中の流れが180度変わって、民主憲法の下で男女同権が驚くほど進展していた。つまり女性の参政権が認められ、昭和二十一年の第一回衆議院総選挙では女性三十九人が当選した。昭和二十二年の第一回参議院選挙では女性十人が当選した。その一人が高良とみであった。男尊女卑の社会の象徴ともいえる軍隊生活を長くやり、さらにその続きのような、そして閉ざされた特殊な状況におかれている彼らとすれば、女の国会議員を信じられないのは無理のないことであった。

 昭和二十七年5月十一日、参議院議員高良とみの車は営門をくぐり、収容所の病院の前に静かに止まった。きれいに掃除された収容所には、日本人の姿はまったく見られない。

 本日は日曜なので、日本人は街に映画を観に行ったり、川に魚釣りに行っていますと、高良とみは案内係から説明を受けた。病室は花で飾られ、窓にはきれいなカーテンが掛けられ、ベッドは純白のシーツで覆われていた。

 

つづく

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2023年11月22日 (水)

人生意気に感ず「アルゼンチンの大統領にミレイ氏が当選した。33歳でガン死した聖女エバ。アルゼンチンはイスラエル非難に転じた」

◇過激な主張を繰り返しトランプ大統領に例えられるミレイ氏がアルゼンチンの大統領に当選した。空前ともいえるインフレに苦しむ国民が劇的な変化を求めた結果に違いない。アルゼンチンといえば地球の反対側であるが日本とは関係が深い。2005年、県会議長として同国を訪ねた時のことが甦る。当時の永井特命全権大使は、伝説の聖女エバ・ペロンについて語り、私は鈴木貫太郎について前橋市とアルゼンチンの結び付きを話した。

 大使は暗い過去を背負いつつも大統領夫人に登り詰めたエバの壮絶な人生を説明した。彼女は救貧活動や社会福祉に力を入れ上流階級からは悪魔と恐れられ、下層の人々からは天使と慕われた。1952年33歳でガン死した時、通夜は3日間続いた。エバの人生は戦後の苦しかった日本と重なる。食糧難の日本に大量の小麦粉などを援助してくれた。私たちの車が大統領宮廷の前を通る時ガイドは「あのバルコニーからエバはよく演説しました」と話した。私は大使の話を思い出し胸を熱くした。

 私は県人会の人々とも会った。彼らは信じ難いインフレと物価高を語った。「この国の人は自国の通貨を全く信用しません。貯金をしてもインフレ政策で価値がなくなってしまいます」。この度当選したミレイ氏が通貨の米ドル化や中央銀行の廃止を主張していることを聞いたとき県人会の人の話を思い出した。

 私は大使に日本を終戦に導いた鈴木貫太郎が前橋市の桃井小学校の出身であること、日露戦争に際しアルゼンチンから購入した戦艦を日本に導いたことを話した。当時アルゼンチンはチリと戦争の危機にあり、それに備えて最新の戦艦2隻をイタリアに発注した。戦争の危機が去ってこれを日本は購入し鈴木は日本に導いた。2隻は「日進」「春日」として日露戦争で貢献したのである。

◇移民を通じ中東とも深い関係をもつ南米がイスラエルに強く反発していることに注目する。そこで、南米最多のユダヤ系移民が暮らすアルゼンチンの動向が気になる。約40万人のユダヤ人が住み、その関係からイスラエルのガザ侵攻を直接に非難することを避けてきた。そのアルゼンチンが変化したのだ。「国際人道法違反、民間人保護違反はいかなる理由があっても正当化できない」とイスラエルを強く非難した。この姿勢はアメリカ非難に通じるものであり、アルゼンチンの新大統領ミレイ氏にも引き継がれていくに違いない。今度のふるさと塾で触れようと思う。(読者に感謝)

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2023年11月21日 (火)

人生意気に感ず「親鸞の悪人正機説とは。浄土真宗と清光寺、そして楫取素彦」

◇18日、浄土真宗の寺・清光寺では特別の法要が行われた。開祖親鸞の命日を記念して住職の特別の法話が行われた。私はカトリックの洗礼を受けた身で、洗礼名もパウロという重いものだが私の心には浄土真宗が深く根ざしている。住職は私の受洗を承知の上で同寺の役員を託する。もっとも浄土真宗とキリスト教には人間の尊重という点で相通じるものがあるのだ。

 私は大学1年の時、笠原一男氏の情熱あふれる講義を聴いた。その中で、心に残る点は新しい宗教は時代の混乱期に現われ20年で勝負が決まる。それは鎌倉期、明治維新、そして戦後の混乱期であるというもの。親鸞及びその師法然がその教えを広めたのは戦乱と災害が渦巻く鎌倉期であった。それまでの平安時代の宗教は華やかな堂宇を建て、難しい経の修業を求めるもので命をつなぐのに懸命な民衆とは離れた存在であった。宗教の役割は無知な民衆を救うことにあるとする動きが起こるのは自然であった。浄土宗を開いた法然は南無阿弥陀仏を唱えるだけで誰でも極楽に行けると説いた。学問も戒律も必要としないという革命的な教えである。清光寺の住職は法然の教えが燎原の火のように広がったと説明した。弟子の親鸞の教えは法然の教えを更に徹底させ戒律を犯した罪深い悪人こそ阿弥陀仏が救おうとしていると説き悪人正機説をたてた。何の条件も付けず、人を殺しても女を犯しても救われるという教えを住職はこの日コペルニクス的と表現した。逆説的にもとれる悪人正機説は煩悩に苦しむ民衆をそのまま救うことが仏の真意だと説いたのだった。越後に流されていた親鸞は許されて関東へ動いた。碓氷峠を越えて赤城方面に出て常陸(今の茨城県)で教化運動を行い、教行信証の執筆を開始したとされる。親鸞はそれまでの仏教が戒律で禁じた妻帯をした。僧に妻帯を禁ずることは人間としての喜怒哀楽を否定することで、いかにも不自然である。僧としての役割を果たすためにも妻帯は必要なことに違いない。私は楫取素彦顕彰会会長として改めて親鸞の存在を振り返った。清光寺の起源は楫取素彦の妻寿子に深く関わる。熱心な浄土真宗の信者寿子が西本願寺の門主に訴えその説教所としてスタートしたのが清光寺だったからだ。ちなみに寿子は吉田松陰の妹である。人を信じずることが難しい時代、人間が機械にとってかわられる社会が広がっている。人間にとって正に危機の時こそ真の宗教が求められる。私はそんな思いでこの日の住職の法話に耳を傾けた。それは私の心に希望の息吹を吹き込むものであった。(読者に感謝)

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2023年11月20日 (月)

人生意気に感ず「中国のスパイ対策。天安門原稿没収事件の反響。ハマスとイスラエルの戦い」

◇北京報告をブログに載せたら反応があり質問も寄せられた。近く小さな冊子にして日中友好協会の会員及び希望者に読んでもらう計画である。天安門広場で内ポケットの原稿を厳しくチェックされたことには大きな関心が寄せられた。実はこのことに関し帰国前中国の大学関係者と話し合う機会があった。この人物は中国の理系の教授であるが、次のようにこぼしていた。「日本の学者は必要以上に用心し、私たちの所へやってきません。これはお互いにとって研究の妨げです」。私の場合もその場の対応がまずければ一時的に身体を拘束されたり、面倒なことになったかもしれない。私は身に覚えがないので冷静であったが、面倒を避ける人間心理が働いて咄嗟に逃げるような行動をとったなら大変なことに発展したかもしれない。

 中国ではアステラス製薬の日本人社員がスパイ容疑で逮捕された。この男性は懲役12年の判決を受けた。公判を含めた全過程が秘密裏に進められる。これまでに邦人17人が拘束され、そのうち計10人が3年~15年の実刑判決を受けている。日本の憲法が定めるような司法に於ける人権保障はないと思われる。グローバル化が進み多くの国の人が中国で活動する時代である。ことは中国だけの問題ではない。私は改めて人権の普遍性を痛感する。そして、天安門での私の体験の重要性を思う。同時に天安門の緊張が壮大な世界情勢と繋がっていることに驚く。私の原稿の体験は木の葉のような存在だが大きな問題につながっている。このような思いで今度のふるさと塾(11月25日)で触れようと思う。

◇今月のふるさと塾は11月25日土曜日午後6時半、中心テーマはハマスとイスラエルの戦いである。現代中東の争いの発端は1948年イスラエルの建国である。悠久の歴史を迫害の中でさまよっていたユダヤ人は、神に約束されたと信じる地に強引に建国を宣言した。この宣言の14分後に建国を承認したのが米国で以来して最大の支援国となっている。建国はこの地に長く住んでいたパレスチナ人との間に当然ながら激しい争いとなった。ナチスのホロコースを生き抜いたユダヤ人の建国に世界の多くの人々は同情した。今回のハマスの攻撃に対し世界の世論はテロと非難しイスラエルは自衛権の行使と主張する。しかし、自衛権の域を超えることは明らかでその歴史の経緯も踏まえて世界の世論はイスラエル非難に転じた。中国と日本の役割は大きい。中国での体験を踏まえて語るつもり。(読者に感謝)

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2023年11月19日 (日)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一七

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 自分たちの境遇が悲惨であればあるほど、遠い祖国への憧れはつのる。収容所の人々の話題は、いつも食べ物のことやふるさとの思い出であった。人々は、そのような話に引き込まれていても、ふと現実に戻って、祖国は俺たちのことを忘れてしまったのか、政治家は何もしてくれないのかと、底知れぬ不安と淋しさに襲われるのであった。

 ハバロフスクの強制収容所の人々は、入ソ以来七度目の冬を過ごし、今、春を迎えていた。一般の抑留者は昭和二五年春までに帰国したが、戦犯とされた長期抑留者はハバロフスクの収容所で依然として抑留されていた。人々は、永久に祖国の土を踏むことはできないのかと不安を募らせていた。

 昭和二十七年五月十一日、ハバロフスク強制収容所第二十一分所に何やら異変が起きた。収容所内は清掃され、営門の付近やポイントの場所にはきれいな砂が撒かれた。普段、このようなことは行われたことがないのである。その日は、日曜日であったが、ほとんどの者は、遠くの現場に駆り出され、増強された兵士によって厳重に監視された。営内に残った者は、生活改善座談会ということで大部屋に集められた。真実を知らない人々は、真剣に収容所側と生活改善について折衝を続けた。この間、二時間以上にわたってトイレに行くことも禁じられた。何事が起きているのか。何かを感じ取った人々の胸に不安と緊張が次第に高まっていった。

 ハバロフスク事件を指導した石田三郎は、その著『無抵抗の抵抗』の中で、高良とみ来訪時の収容所の状況を次のように記している。

「収容所の四隅の望楼のマンドリン銃を持った兵士は、身を伏せて外部から見えないようにして警戒していた。一日、二回、作業隊通行時の他は、堅く閉ざされている大門がいっぱいに開け放たれた。あたかも四六時中このようであるかのように。ソ連の案内係は、日本人はみな映画か魚釣りに行っていると説明したが、自由外出、魚釣りなど、私たち日本人には想像さえ出来ないことだ。病室は、花と純白なシーツで整えられ、病人はピンピンしている。高良女史は、さすがにソ連だと感じたことであろう」

つづく

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2023年11月18日 (土)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一六

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 用意されている宿舎に入る前に、ある建物でエンジン付きの散布機でDDTをかけられる。頭から背中の奥まで白い粉をかけられた。DDTが終わった者は、次の建物では入浴だという。朝風呂とはありがたいと思っていると、湯舟は冷たいクレゾール液である。アメリカ兵が側に立って物体を消毒するように、日本人の頭から液体をかけている。鬼畜米兵と思い込んでいたアメリカ兵に身近にしかも裸で接するとは思ってもみなかった。彼らに占領されている日本はどうなっているのだろうか、これから自分たちはどうなるのか。一抹の不安が青柳さんの頭をよぎる。

 しかし、そんな不安も次の瞬間吹き飛んでいた。三番目にやっと温かい湯舟が待っていた。人々のどよめきが聞こえてくる。石鹸があって、頭から身体中を良く洗い、ゆっくりと日本の湯につかった。これは、出国以来初めてのことであった。

 入浴の後、調査の書類にいろいろ書き込む作業があり、それが済むと昼食であった。瀬戸焼のドンブリに割箸が並んでいる。懐かしい光景なのだ。青柳さんは故郷の家族を想像した。そして、早くも心は越後の古里に飛んでいた。それは、戦後の青柳さんの新しい人生のスタートでもあった。

 

第四章 高良とみ、国会議員として初めて強制収容所を訪ねる

 

一 日本人抑留者、日の丸に涙

 

 シベリアの長い過酷な抑留生活は、そこに閉じ込められた日本人の身体も心もずたずたにしていた。遠い祖国は手の届かない、まさに憧れの別の世界であった。極限に迫る飢えと寒さと労働は、これでもかこれでもかと打ち付ける鉄槌のように、強制収容所の日本人の頭上に振り下ろされ、耐えきれぬ多くの人々は、無念の涙をのんで凍土の中に打ち込められて消えていった。

 冬の寒さは格別だった。鉛色の、重く垂れ込めた雲の下、大気を引き裂き、一木一草はおろか人の心までも凍らせるツンドラの寒気は、寒さに弱い日本人を恐れさせ絶えず絶望の淵に引き込もうとした。

 

つづく

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2023年11月17日 (金)

人生意気に感ず「帰国して改めて思う万里の長城。ミライズとふるさと塾で語ること」

◇昨日で7回にわたった北京報告は終わった。日本は良い。上州の山河を改めてかみ締めている。それにつけても中国が甦る。中でも万里の長城。何度も登ったが激動の国際情勢の中であの城壁を構成する一つ一つの石段がかつてないことを語っていた。折しも習主席は訪米しバイデン大統領と語り合った。主席の胸の奥には悠久の中国の歴史があるに違いない。

 長城に立つと万感胸に迫るものがある。天高く馬肥ゆる秋とは漢民族にとっては恐ろしいことを意味した。穀物が実り馬が肥えた時期はそれに乗った外民族が押し寄せる時でもあったのだ。長城の歴史は北方の匈奴の侵入に備えたことに始まると言われるが現在の姿になったのは明時代である。明は蒙古帝国を北に退けて成立した漢民族の国である。従って国土を守るために外民族の侵入に対抗して長城を整備することは国家の一大事業であった。城は山々の登り下りに合せ果てしなく続く。所々にある建物は狼煙台である。立ち上がる煙の状況により侵略軍の数を伝えた。この明も外民族満州族の支配に服した。清である。紫禁城の一角には明の最後の皇帝崇禎が自殺した場所がある。私は王朝の興亡とその悲運を想像し胸を熱くした。

「米中もし戦わば」ということが盛んに言われるが、長い歴史を活かして躍動する中国は強い。万里の長城はそれを物語る。今回の日中友好交流会議で、私は中国が覇権を求めるべきでないことを主張した。米中の現実は覇権を競い合っている。米中の間にあり、中国とは一衣帯水の関係にある日本の役割は増すばかりである。アメリカに対しても中国に対しても物が言える日本でなくてはならない。万里の長城に立ってこのことを痛感した。

◇明日土曜日はミライズクラブで、私は「中東の動きーその歴史・現状・課題」につき講演する。そして、次週の土曜日は「ふるさと未来塾」である。ここでの話の中心はイスラエルとハマスの戦いである。ハマスの地下トンネルの総延長は数百キロになるという。イスラエルに対する国際的非難が高まっている。医療崩壊の現状は現代の地獄である。イスラエルと一体となっているアメリカへの非難も高まるばかりだ。この燃え盛る戦火の故にウクライナとロシアの戦いの影が薄くなっているように思えてならない。この点の懸念についても語るつもりである。帰国してにわかに忙しくなった。気がつけば年末である。来年は新たな挑戦の年。前方には目指す人生の高峰が待ち受ける。(読者に感謝)

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2023年11月16日 (木)

人生意気に感ず「天安門で原稿を没収された。緊迫の天安門で国旗掲揚式に出る」

厳戒の天安門広場で私は原稿を没収された。空港のチェックを遥かに凌ぐ厳しさに驚く。日の出に合せた国旗掲揚式に参加する人々は長蛇の列である。身に付けたものは全て探知機を通される。その上両手を上げ脚を開かされタッチされる。その朝書いた内ポケットの「北京報告」に目を付けられた。“面倒なことになる”、瞬間そう思い、持って来たことを後悔したが後の祭り。手書の原稿用紙に役人は強い関心を持ったらしい。「何が書いてあるか。説明して下さい」。外国人の文書の持ち込みは禁止だと知らされた。私の手書きの文書は彼らの注目の的になった。担当の黄さんはバッグの中のノートまで調べられることになった。東京の会議で全国日中友好協会のHさんが「中国ではスパイにされないようくれぐれも注意して下さい」と言っていたことが甦る。長い時間をかけて調べられ、やっと関所の通過を許される。広場に向う人の波は驚く程増していた。前方に毛沢東の写真を掲げた天安門があった。あの上で1949年、毛沢東は建国宣言をなした。私の前に「人民英雄・永垂不朽」と刻んだ巨大な塔があった。1889年民主化を求める若者のうねりとこれを抑えようとする人民軍がここで衝突したのだ。あの時百万を超える大衆に戦車が突入した。戦車の前に立ちはだかる少年の姿をメディアは報じた。今回の天安門の緊張はあの天安門事件とは無関係であるが、新たな緊張の要素がこの広場を覆っていた。その緊張は世界の動きと連動しているに違いない。それはウクライナ及びイスラエルの戦闘であり、アメリカとの対立である。

 広場に集まる群衆は私の予測を遥かに超えて一万人に及ぶのではないか。朝日が空を染め、予定の6時48分が近づいた。天安門の毛沢東の姿の下から一隊の人々が現われ、ポールに中国旗がスルスルと上がり始めた。連日続けられるこの行事は何を意味するのか。一度見た人はリピーターになることは少ないだろう。それでも連日押し寄せる人の波、これこそ中国の底力を示すものかも知れない。

 重装備なのに身を切る寒さ。手袋をしない手は凍えるようだ。米中戦はばいずれが勝つか。私はまさかの時の民主主義と専制主義の力関係のいかんを考えた。長期で見れば民主主義の勝利を確信するし、それが歴史の示すところであるが、無尽蔵の大衆に強権を発動する専制主義に密かな恐怖を禁じ得ない。民主主義は理念であるから現実との乖離はやむを得ない。しかし乖離の定着が続けば民主主義は機能不全になる。現在世界の民主主義は試練の場に立たされ危機にある。(読者に感謝)

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2023年11月15日 (水)

人生意気に感ず「最後の明王の悲劇と清朝の歴史。天安門上の毛沢東。北京最後の朝を走る」

◇今回の日中友好交流会議の成果は大きかった。それは自分の存在の小ささを認識したこと及び人との出会い、更には中国の変化と大きさをその歴史と共に肌で感じたことがあった。

 9日、明日は日本へ向うと思うと心は弾む。故宮博物館は何度も訪れたが、明の最後の皇帝崇禎が自殺した場所は初めてで、その場の光景を想像すると胸に迫るものがあった。漢民族が建てた明は満州民族の清に亡ぼされた。破れた明王は処刑されるのを恐れて自ら命を絶った。妃や娘など高貴な人もことごとく切られた。そこまでもと思うが清は新しい支配者の決意を天下に示したのだ。女たちの悲惨な姿は歴史の冷厳な事実を物語っていた。康煕・雍正・乾隆と優れた皇帝が続くがやがて清は烈強の厳しい侵略に晒される。アヘン戦争に破れ、やがて近代日本と遭遇し日清戦争では日本にも敗れた。最後の皇帝溥儀は数奇な運命を辿る。紫禁城の様々な遺物を見ながら私は中華民国の過去と現在を想像した。

10日は、朝、天安門広場で日の出に合せ国旗を揚げる儀式に参加する。今頭にあるのは1949年中華人民共和国の建国を宣言する毛沢東の姿である。その胸には屈辱から立ち上がって民族の栄光を取り戻す決意が溢れていたことだろう。私は上海を訪れた時、その一角に「犬と漢人は入るべからず」とかつて立て札があったという事実を知らされた。租借地を設けたイギリスは漢人を犬以下に見ていたのだ。現在覇権を求める中国の姿が批判されている。今回、日中交流会議で私はそのことに触れた。強引に覇権を進めることは許されないが、習近平主席等指導層の胸の奥には近代の歴史的事実が渦巻いているに違いない。

◇今回の訪中で中国との対立を深めるアメリカの歴史と姿勢を改めて考えた。イスラエルを適切にコントロールできない現実、分断と対立を深める国内事情など。中国の心臓部北京に立って客観的に世界情勢を考えられたことは一つの収穫であった。

◇北京最後の朝を走った。北京時間3時40分。いつもより速いスタートなのは、5時15分に集まって天安門広場に向うからだ。日の出に合せて国旗を掲げる儀式は警備が厳しい。予約制で細かくチェックされる。改めて書くつもりだ。

 北京の朝よ、いよいよお別れだ。夜の闇が濃い中を足元の大地に呼びかけるように走る。わずかな日数だったが走れたことにより大切な成果を得た。来年の10キロにも繋がるものだ。まだ地下鉄の入口はシャッターが下りていた。東京の天気は良くないらしいが北京は快晴で寒い。(読者に感謝)

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2023年11月14日 (火)

人生意気に感ず「私の部屋を訪ねた人と意外な会話。私の書を読みたいと言う」

◇日中友好交流会議が閉幕した後、私の部屋を訪ねた人物が居た。謹厳実直そうなその人物は今回交流事業の取組みを語る中で青少年の交流の重要性を強調した。この人は私が日中友好条約の中の「覇権を求めない」、「紛争の平和的解決の必要」を強調したことについいて話をしたいという。

「覇権主義が世界に広がっています。中村さんはどうお考えですか」

「ウクライナ侵攻を始めたロシア、現在行われている限度を超えたイスラエルの動きの底にも覇権主義があると考えます。そして今、この北京で発言しにくいことですが、中国の南シナ会問題についても心を痛めています」

 この人は私の発言を待っていたように言う。

「先生は日中の真の友情について時には言いづらいことも発言する必要があるとおっしゃいました。同感です。若者に接する時、難しさを感じます。先生は中国にどういう感情をお持ちですか。若者にはどのように接しておられますか」

「私は中国が好きで尊敬しています。少年時代から三国志の大のファンでした。若者には時々三国志の英雄について話し、現在の大国間の対立は三国志の世界に似ていると話して聞かせます。そしてこれからの若者は歴史を学んで真の友情を築くべきだと考えています」

 うん、うん、と頷きながらこの人は意外なことを言う。

「私は中村先生がふるさと塾という勉強会を長く続けておられ中国に対する本も書いておられることも承知しております。中国との関わりは深いのですね」

「はい。私が群馬の日中友好協会の会長をやっている背景には残留孤児や帰国者の会の顧問をしていることがあります。著書『炎の山河』の中では中国を侵略したかつての日本を強く非難しています。そういう反省を踏まえて中国との友情を築くことを若者たちに教えるようにしています」

 私は北京で交流会議の熱気が漂う中このような会話ができて嬉しかった。

「目の前が開けた思いです。私もそういう歴史の視点を身に付けて若者を指導したいと存じます。先生のその本は書店で手に入りますか」

「今では新刊書として書店で手にすることは難しいでしょう。在庫があるので差し上げます」。

 この人との対話は北京の交流会議を私の心の中で豊かなものにした。この人以外にも私の著書を贈りたいと考える人々の顔が浮かんだ。(読者に感謝)

 

 

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2023年11月13日 (月)

人生意気に感ず「日中交流の広さと深さを知る。万里の長城に登り、北京大学を訪ねた」

◇日中合同の日中交流会議で私は井の中の蛙を反省した。群馬県日中友好協会は堂々とした構成で歴史が浅いとはいえ上昇カーブを描き天下に誇れる存在と思い込んでいた。第二次世界大戦の両国の波乱の歴史を耐えて民間交流の道を切り開いた人々の存在を知った。

 遣隋使、遣唐使に関わった人々の姿が想像される。私は今回壇上で「日中両国は長い歴史の中で重要な文化の交流を重ねてきました」と発言した。しかし会議の全体像の中で、また現場の中国で日中交流に関わる群像に接して自分の認識が表面的だったことを知った。この認識に至ったことが今回訪中で得た最大の成果かも知れない。

 第二次世界大戦に敗れ日本は国家の構造と共に西欧化し、国民はアメリカ文化に呑み込まれてきた。広がる中国嫌いの波はこの流れと共に在る。

 今回中国全土で日本との交流を進める人と団体の存在を知った。彼らは賢い。かつての日本の侵略も、アメリカとの対立も、そして原発処理水放出も承知の上で日本に好意を寄せている。

 兵馬俑で名高い西安市の女性朱婧さんは驚くべき流暢さで日本語を語った。その訳を尋ねると長いこと通訳をやっているという。この人は京都や奈良との交流に力を入れていることを熱く語っていた。

 紹興市人民政府の女性潘さんも印象に残る人。笑顔がきれいな美人で、教育のために福井県などと青少年交流を重ねているという。彼女は紹興市は紹興酒の起こりの場所だと誇らしそうに言う。紹興市と紹興酒か、私は成る程と思った。現在、国宝とも言われるこの名酒はほとんど手に入らないと言われる。

 福岡県及び福岡市の日中友好協会事務局長の中村元気氏は次世代、若い世代の活躍に力を入れているとし、そのために小学校を中国に寄贈したと話していた。それぞれの人々の活動は日中友好の私の認識を遥かに超えて大きいことを物語るものであった。

◇8日、短い時間をつくって北京大学を訪ねた。日本の大学と異なり出入りは厳しくチェックされる。汪婉教授の計らいでスムーズに事は運んだ。来年この大学で私の講演が実現する可能性がある。そう思うと胸が鳴った。

◇この日、行事を済ませて万里の長城に登った。5人で挑戦したが第11ポイントまで登ったのは私と黄さんの二人。83歳でここまで登るのは珍しいとのこと。私の人生で最後になるかという思いがあった。多くのアフリカの人々と出会い交歓を深めたのは思わぬ収穫であった。(読者に感謝)

 

 

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2023年11月12日 (日)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一五

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 青柳さんはこれまで生きてきた人生で最高の至福の時にあった。物心ついたころから血生臭い騒然とした社会で生きてきた。日本人全体が大戦に呑み込まれ、国家滅亡の淵に立たされて多くの人々が命を落とした。戦争が終わったのに俺たちは、より過酷な戦争ともいうべき強制収容所で地獄の苦しみを味わった。すべての難関を幸運にも通過できた者が今、この船の中にいる。この日を夢見つつ命を落とした多くの同胞が今さらながら哀れに思え、青柳さんは北へ向かって静かに手を合わせた。

 青柳さんのメモによれば、昭和22年10月17日午前3時ごろ船は止まった。あたりは真っ暗で何も見えない。何が起きたのか、事故かと人々は訝った。やがて、空がわずか白みかかったとき誰かが叫んだ。

「まわりは島ばかりだ、ここはどこだ」

 続いて別の声が上がった。

「日本だぞ、日本に着いたんだ」

 船内はどっと沸いて、あちこちから歓声が起きている。舞鶴港であった。

 日本の海、日本の朝が人々を出迎えていた。緑であふれるまわりの景色、海の色、流れる空気。どれもみなシベリアとはまったく違っていた。夢のような別世界であった。かつては当たり前と思っていた日本の自然が、シベリアから帰ってみて、新しく出合ったもののように新鮮に見える。日本はいい、と青柳さんは両手を大きく広げて朝の空気を胸いっぱい吸い込みながらつくづくと思った。

 やがて上陸が始まった。長い桟橋から下を見るとボラが群れている。水面まで顔を出して飛び跳ねる魚までもが青柳さんたちの帰還を喜んでいるようであった。

 桟橋が尽きて、陸地に足をつけた。小さな衝撃が身体全体に大きく伝わる。昭和20年1月に出国して以来初めて日本の土を踏んだ。その第一歩の靴音は、万感の思いをこめた祖国との対話であった。ついに生きて祖国に帰った。生きることの喜びが青柳さんの身体のすみずみから湧いてくるのが感じられた。

つづく

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2023年11月11日 (土)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一四

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 やがて、ナホトカの光景は水平線の下に消えた。青柳さんは安堵の胸をなでおろした。しかし、船内には、まだ緊迫感が消えなかった。領海を出るまでは、二人のソ連兵が乗り込んでいて目を光らせている。誰かの秘密が見つかって、連れ戻される危険が常にあるのだ。満州国時代の経歴を隠している者がかなりおり、そういう人は、目をつけられ、声をかけられたはしまいかと生きた心地もなく一秒一秒を必死で耐えていた。

 こういう人にとって、時の進み方がいつもより何倍も何十倍も長く感じられた。その心の苦しみは、他の日本人にも伝わって、時が経つにつれ、船内は沈黙が支配し、異様な雰囲気が高まっていった。

 やがて船が止まった。領海の果てに来たのだ。艀がおろされ、二人のソ連兵が乗り移って、船は再び動き出した。

「ワーッ」とどよめきが上がった。抱き合って喜んでいる人がいる。両手を上げてバンザイを叫ぶ者もいた。船はついに、ソ連の領海を出た。もはや、収容所に連れ戻される危険は去った。それは、長い間捕らわれていたシベリアという罠から抜け出した瞬間であった。船は穏やかな日本海を滑るように南下していた。

 船は貨物船で速度は遅いが、着実に日本に近づいている。船内の食事は、戦時食というもので粗末なものであったが、やはり日本食はうまい。日本も食糧難なのであろうと、青柳さんは想像した。厳しい状況の祖国日本が救いの手をシベリアまで伸ばしてくれたことが、この貨物船や食事から感じられて嬉しいのだ。時々甲板に出て見るが視界に入るものは、すべて穏やかな海であった。青い海と青い空、水平線はどちらを見ても天と海が一つの色になって溶け合っている。天と海が貨物船を包み込んで祖国日本へ運んでいる。これまで、この世に神も仏もないと嘆いてきたことが嘘のように思える。

つづく

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2023年11月10日 (金)

人生意気に感ず「分科会での発言。各地の取組み状況。北京大学教授汪婉氏との懇談」

◇7日、午前の開幕式では両国主催者代表の挨拶に続いて、両国各々の基調報告が行われた。私は西堀正司氏の話がよかったと思う。この人は長野県須坂の人で、日中友好協会本部の専務理事だ。名は聞いていたが会うのは昨日のバスの中が初めて。その時共通の知人田中秀正氏のことで話が合った。元経済企画庁長官の田中氏は長野の貧しい家庭の出で、東大駒場寮時代は寮委員長、西洋史に進み林健太郎先生が仲人を務めた。駒場寮、西洋史、健太郎先生という点で私とは共通の要素を持つ。話はそれたが西堀氏は現在の両国が抱える困難な課題に触れ2千年に及ぶ日中の交流の歴史を語った。西堀氏の話で注目する点が幾つかあったが私が注目したのは西堀氏が民間交流の重要さと呼応するように時の政治を指導する政治家の存在の重要さを語ったことだ。そのような政治家として周恩来と宇都宮徳馬を挙げていた。

 特に周恩来のエピソードはこの会場に、そして現在の日中交流にふさわしい。それはかつて成田知己氏が日中関係につき「小異を捨てて大同に就く」べきと語ったのに対し、周恩来は「小異を残して大同に就く」ことの意義を語ったという。西堀氏は午後の分科会の成功を祈ると言って話を結んだ。いよいよ午後2時から私の出番である。83歳10キロ制覇の力で、北京の朝を走った爽やかさで午後の舞台に挑戦しよう。

◇私は登壇して発言した。「皆さん、日中友好条約の初心を受け継ぎ、新時代の民間交流はいかにあるべきか、それをいかに築くか、これが私に与えられた今日のテーマであります」。そして日中友好条約のポイントを挙げた。

 それは、両国間のすべての紛争を平和的手段で解決すること、全ての地域で覇権を求めるべきでないこと、両国民は民間交流の促進に努めるべきことなどであった。そして私は民間交流の重要性を強調した。それは国と国の間は時に緊張関係に陥り火花を散らすこともあるが、そんな時も民間交流が健全なら国家間の平穏も回復できることは歴史が示すところだからである。

◇他の発言者はそれぞれの日中交流の取組み状況を説明した。例えば東京都は若い世代の会員増に力を入れ、日中間の若者の交流を具体的な目標をあげて提案した。それは5年間で10万人規模の交流を実現しようというものだ。中国側からの日本各地との交流の状況は非常に興味深いものであった。総括の会議も終わり群馬のグループは北京大学汪婉教授を囲む懇談会に臨んだ。(読者に感謝)

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2023年11月 9日 (木)

人生意気に感ず「北京の第二報。袴田死刑囚再審を北京で考える。零下の北京の朝を走る。私の報告をみよ」

◇事務所と連絡をとる。順調らしい。柴犬のさん太に餌を忘れないようにと注意する。私の担当なのだ。今は亡き秋田犬のナナを懐かしく思い出す。海外出張から帰ると狂喜して騒いだ。忠犬ハチ公の系統であった。さん太にそれは期待できない。ケータイから娘の声が。「パパのが上毛新聞の“ひろば”に載ったよ」。日本を発つ前に「袴田死刑囚の再審に思う」を投稿していた。遠く離れた異郷で老いて精神まで蝕まれた老死刑囚を哀れに思う。今自分は民主主義と人権尊重の国を離れ、主義と制度が異なる国にいる。中国の死刑の実態は大いに気になるところである。欧米と比べアジアは総じて死刑存置国である。“ひろば”は死刑反対の信念を心の奥に据えて描いた。

 北京の雰囲気には堂々とした秩序が在った。この世界の超大国はイラク及びイスラエル・ハマスの戦闘にどう対応するのか。アメリカが分断と対立の中でその民主主義が揺れている。対立する中国の存在感が相対的に大きくなっている。その渦中にあって世界情勢が大いに気に掛かる。今日午後の私の演説の中心は「日中友好条約と民間交流の意義」であるが世界情勢を強く意識しながら話すつもりである。

◇北京の朝を走る。北京時間6時。予報では零下になるらしい。ユニクロで買ったズボン下をはき長袖の下着を重ねホカロンも貼った。私はズボン下を身に付けることはほとんど記憶にない。外は暗い。見上げると細い月と星が輝いている。車の流れは激しくなっている。昨日走った通りなので安心して走れた。暗い中を動く姿は道を清掃する人々である。前方の信号が人の形を青く示している。私はスピードをあげた。交通事故は絶対に避けねばならない。異国で、しかも強権力の国での警察沙汰は面倒に違いない。中国の交通状況は日本と比べ人命尊重、歩行者優先ではないと聞く。こちらが青で進んでいるのに車を突っ込ませる場面があった。交通はその国の人権尊重の姿を示すといえよう。地下鉄入口あたりに来ると東の空が明るくなってきた。ポニーテールの娘さんが走っている。仕事に向うらしい人々も徐々に目立つ。公安事務所の所で引き返す。今日の出番をイメージしながら走った。背中は汗であるが手は痛い程冷たい。

◇演説のテーマは「条約の初心を受け継ぎ、新時代の民間交流を」。日中友好条約の基本的精神を強調するつもり。中でも重要なのは全ての地域で覇権を求めるべきでないこと、及び日中の歴史を踏まえた民間交流の重要性である。役割を果たすことが日本への土産になると信じて。(読者に感謝)

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2023年11月 8日 (水)

人生意気に感ず「北京の第一報。気温5度の街を走る。歓迎会は盛り上がる」

◇11月6日、大型タクシーで前橋を午前3時に出発し、羽田空港に向う。北京空港へ向う日本航空は寒冷前線の影響でひどく揺れた。現地に近づくとアナウンスは北京の気温は5度と報じた。前橋は24度位だから夏から冬への突入である。群馬からの参加者は5人。長富宮飯店(ホテル)に落ち着く。夜の歓迎レセプションまでだいぶ時間がある。腹も空いた。そこで、一階のレストランでコーヒーと軽食でもと思ってのぞいて見て驚いた。一流ホテルとはいえ、コーヒーが45元(900円)、サンドイッチが135元(約3,000円)なのだ。北京はこんなにも変化したのか、外国人が多いホテル故の特別なことなのか、ちょっと戸惑った。

 私の部屋は15階。眼下は大通りである。早速走ることにした。訪れた外国の街を必ず走るのが私の流儀である。先日のぐんまマラソン10キロ完走の続きに思える。真っ直ぐの大通りの歩道なので迷う恐れはなかった。タッタ、タッタと小走りに走る。夕暮れ時の車の流れの上に赤いネオンの文が目につく。「小心驾驶」(運転に気を付けて)、「不要分心」(集中して下さい)だ。人々が吸い込まれるように消えていく角に差し掛かる。地鉄永安里站とある。北京の地下鉄であった。かくして私は走ることによって北京の大地に一歩を印した実感を得た。外国で走ることは一歩一歩がその地での対話である。素通りでは得られない感覚なのだ。『北京の大地よ、俺は日本の中村だ』と呼びかけながら走った。

◇歓迎のレセプションはこのホテルの大広間で行われた。主催者は開会の挨拶で「明日の会議の成功を心よりお祈りします」と言った。元駐日大使の程永華氏は「大使を退官して以来、日中交流に打ち込んでいます」と語った。私が「お久しぶりです。明日、汪婉さんと会います」と言うと、「聞いております。妻は北京大学で教えています」と笑顔になった。

 各テーブルには山海の珍味が次々に運ばれ、話に花が咲いた。北京ダックは特に美味しかった。私のテーブルには大学教授のY氏(女性)が居られ、名刺を交換した。楫取素彦につき問われ、初代群馬県令で吉田松陰の義兄弟であること、糸と人づくりで群馬県の基礎を築いたことなどを話した。

 一日が終わった。自室に戻ると昔のことが甦る。県議時代、食中毒を起こしこのホテルで動けなくなった。万里の長城近くで食べたウニにあたったのだ。入院し点滴を受け回復した。食い卑しい自分を大いに反省したのだった。北京の夜は静かに更ける。今日の歓迎会で明日の行事の大切さを認識。頑張ろう。(読者に感謝)

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2023年11月 7日 (火)

人生意気に感ず「マラソンを描いて特賞を得た。それを頭に10キロを」

◇ぐんまマラソン10キロを終えて「特選マラソン大会」を読んだ。私は元総社中学3年の時、昭和30年度前橋市中学校作文コンクールで特選を得た。その題がマラソン大会だった。市が出した『横笛』という本に載ったと聞いていたがその時はそれを求める意識もなく年月はたちマラソンのことも忘却の彼方の存在となった。県議会に入って何かの折りに当時の小寺知事に「特選」のことを話した。しばらくして小寺さんに『横笛』の所在を教えられコピーすることができた。一つの額に賞状と作品が上下に並べて納まって事務所に置かれている。少年時代の勲章である。このマラソン大会で走るのは一年から三年までの男子で、女子は分かれて応援についた。読んでみると当時の情景が甦る。そして毎年のぐんまマラソンと重なり苦しさは基本的に変らないと思えた。同時にあれが自分のマラソンの原点だと分かり、あの時の自分に負けないぞと勇気が湧くのを覚えた。元総社の農村地帯を走っている様子を書いている。「農繁期でお百姓が仕事の手を止めて応援している。遠くの田んぼの向こうに隣村の森が見える。まだ遠いと思うと急に運動靴が石のように重く感じられる。後ろから“ハッハ、ハッハ”と鋭く規則正しい呼吸が迫り抜いていく。これに気付いて俺も呼吸を整えリズムをつくって走る」中略。次は最後の場面である。「学校が近づき、皆最後のスピードを出している。俺も“なにくそ”とありたけの力をふりしぼるがもう身体がいうことをきかない。“もう少し、もう少し”と首を振りながら走る。校門が近づき“わあー、わあー”と声援が聞こえてくる。ありったけの力で走り目の前に白い決勝線が見える所まできた。74番と書いた白い紙を先生から受け取り、係にそれを渡し芝生に倒れ込んだ。青い空を見上げると吸い込まれそうだ。疲れも抜けていく。これで一つ大きな仕事をやり遂げることが出来た」

 タイムスリップして昔の中学時代のマラソンを見てきたようだ。あれは人生の原点でもあった。あの頃、83歳で元気に走ることは夢にも思わなかった。私は102歳まで走ると天下に誓った。あとおよそ20年、今回のマラソンはそれに通じる人生の大事であった。

 走ることの大切さを改めて重く受け止めた。「よくやった」という多くの声が寄せられた。毎日の修練の積み重ねが今回の完走を可能にした。私の完走に勇気をもらったと喜ぶ人もいる。何よりも嬉しいことだ。来年はもっと頑張る。その思いで北京の朝を走る覚悟だ。

(読者に感謝)

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2023年11月 6日 (月)

人生意気に感ず「83歳10キロを制す。新たな挑戦を始めた」

◇83歳10キロを制す。11月3日、天気は予報通り快晴。日中は夏日になるらしい。早朝、いつものように水行をすると心が引き締まる。7時10分頃家を出て、車は敷島公園内の娘夫婦が経営するフリッツ・アートセンターに置く。グラウンドでは既に多くの人々が様々な動きをしていた。第33回ぐんまマラソンの参加者は1万4,726人。人々の表情が活き活きしているのは天気のせいばかりではない。重苦しいコロナも一応収束のかたちとなり人々の心に爽やかさが戻ったからだろう。

 私のゼッケンは11737。グループは最後のE。フルマラソンは9時にスタート、10キロは10時にAグループから順に走り出した。17号に出るまでは芋もみ状態で抜くことも難しい。17号を田口の上武道路下まで北上して左折する。私の前をアジアの外国人不ループが走っている。外国人がかなり目に付くのは今年の特色の一つ。このあたりはなだらかな登りであるが苦しさはない。もう一つの特色と思えるのは見るからに80代らしい人がいないことだ。かつて私と一緒に走った人たちは人生の一線から退いたのか。「ホイホイサッサ、ホイサッサ」と呼吸を整えながら走る。17号から直角に左折して振り返るとハッとした。後続が少なくなっている。恐れていたように筋力の衰えにより速度が落ちているのだ。緊張して速度を上げる。目の前を巨体の人が走っている。背にラグビーの文字がある。最近テレビで盛んなあのラグビーの選手であろうか。抜こうとするがスタコラスタコラ結構速い。利根川沿いの通称国体通りに出ると先の折り返しを過ぎて南下する大勢が動いていく。私の後ろは少なくなっている。ラグビーさんに続いて折り返すと、ふるさと塾のMさんがいて「ビリではないよ!頑張れ」と声援。第一関門、第二関門を越え、フィニッシュが待つグラウンドに走り込んだ。「中村さん、頑張ったね」どこかで声がした。ネットタイム1時間38分13秒。楽しみながら、そして苦しみながら走った記録であり83年生きた証でもある。「ご苦労様でした」と妻。足に痛みはなかった。その晩、いつものコースをペースを落として走った。新たな挑戦が始まったのだ。スポーツの秋の一大行事が終わった。大波のように動く人々を振りかえって、日本の平和を痛感する。しかしそれは累卵の聞きにある。

◇佐田玄一郎さんが旭日大綬章を得た。週刊誌で醜聞を書かれ心配する向きもあった。国民の評価を真摯に受け止め人生の巻き返しを計ってほしい。(読者に感謝)

 

※6日から北京ですが、人生節目の大事業ぐんまマラソンを月・火曜日に書き、北京の報告は水曜日からアップします。

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2023年11月 5日 (日)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一三

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 やっと乗船の時がきた。乗船場に向かって歩いていた時、青柳さんは機関銃を持ったソ連兵に監視された一団の日本人捕虜が作業しているのに出会った。捕虜たちは、乗船組を避けるようにして作業に打ち込んでいる。その後ろ姿が哀れであった。青柳さんは、見ないようにしていたが、一人の横顔がふと目に入って思わず、あっと叫んだ。その日本人は、ダガラスナで懲罰を受け帰国組から外された男に違いない。あいつも一緒に帰りたいだろうにと、その一段と小さくなった男の背中を見ながら青柳さんは胸をつまらせた。

 その船は貨物船で、中を丸太で四階ほどに階層をつくり、各階は板を張って、その上に中国特産のアンペラという草で編んだむしろが敷かれていた。その上に毛布一枚で所狭しと横になるのである。この船の様子から、日本の状況は、教えられていたように非常に悪いに違いないと思われたが、青柳さんにとってそんなことはどうでも良いことで、アンペラのむしろの上は天国のように感じられた。

 船は動き出した。ロシアから離れてゆく。青柳さんは甲板から海岸線の奥に続く光景を見た。丘の彼方には黒い森がどこまでも広がっている。あの森では、自分たちの交代要員として入った日本人が作業していると思うと堪らなかった。森の上に、重いシベリアの冬の雲が動いている。あの雲の下の酷寒の収容所で俺は生きてきた。凍土の上で唸る風の音に怯え立ちすくんだ日々、狂おしいほどに憧れた祖国。さまざまな思いが青柳さんの胸に去来する。

 収容所では毎日毎日が厳しい試練の連続だった。その中で自分よりも屈強な男が次々と倒れて死んでいった。青柳さんは、今生きていることが不思議に思えた。その力は、弱い自分のどこにあったのか。改めて自分を育てた父母や古里の山河を思った。シベリアの強制抑留の生活は、自分とは何かを発見させる場でもあった。それにしてもシベリア強制抑留とは、はたして何だったのか、そう思いながら水平線の彼方に遠ざかるシベリアを青柳さんは、じっと見詰めていた。

つづく

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2023年11月 4日 (土)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一二

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 期間は三ヶ月とのことである。青柳さんたちは、三ヶ月という期限を再三確認して、四〇キロメートルほど離れた伐採地に入ることになった。やっと近づいた祖国が遠ざかってゆくと思うと身体から力が抜けてゆく。ソ連のやることは信じられない。三ヶ月というが、はたして約束は守られるのか。青柳さんたちダガラスナ組は自分たちの不運を怨んだ。

 しかし、冷静に考えてみると、日本海に面したナホトカまで来ていることは事実なのだから、ダモイ(帰国)が不可能になったわけではないだろう。今、重要なことは、怠けたりして懲罰など受けないことだ。懲罰として、もっと奥地へ送られたりしたら、ダモイが本当に不可能になるかもしれない。青柳さんたちはこう思って、またノルマ達成に向けて真剣に作業に取り組むのであった。

 青柳さんは、この作業場で小さな幸運に恵まれた。山作業に入って二日ほどしてから、ロシア兵士約八人の宿舎当番を命ぜられたのだ。宿舎当番の仕事は、普通短期間で交代になるが、青柳さんの交代はなく長くやった。その理由は兵士の食べ物をつくっている時、口に入れたりポケットに入れたりしなかったからだ。

 捕虜たちは、ここでも常に空腹であった。だから目の前で温かい食べ物が煙をあげていれば、隙を見て口に入れたくなる。しかし、それをやると口のまわりが油でぬれていてすぐに分かる。兵士が、物陰から見ていることもあった。青柳さんの実直な姿が高く評価されたのだ。

 約束の三ヶ月が過ぎたが、状況に変化はなかった。また欺されたのか、青柳さんたちは焦った。仲間で何度も会議をし、代表を立てて催促もしたが答えはない。四ヶ月が過ぎようとしていた。恐ろしい冬が進みつつあった。人々は、今年の冬こそはシベリアではなく日本で過ごせると思っていた。日ごとに増す寒さと募る絶望感を乗り越える気力も体力も、もはや人々には残されていなかった。

つづく

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2023年11月 3日 (金)

シベリア強制抑留 望郷の叫び 一一一

※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載しています。

 

 シベリア強制抑留では、六〇万人を超える日本人が抑留され、六万人以上がダモイの悲願を果たせずに死んだ。酷寒と飢えと強制労働の苦しみを耐えて生きたのは、ただ祖国へ帰りたいゆえにであった。その夢が目の前で実現されようとしている。乗船の順番を待つ日本人の心には期待とともに大きな不安があった。それは、ダモイ不適格として再び元の収容所に戻されはしないかということである。事実、人々の間には奥地の収容所へ戻された人のこと、あるいは乗船の順を遅らされた人の話が広く伝わっていた。

 青柳さんたちのグループは、乗船の番を待っていたが、なかなか来ない。普通は四、五日待つことが多いが、一週間が過ぎた。後から到着した人たちが次々と帰国船に乗り込んでいくのを見て青柳さんは次第に不安になってきた。何か不都合なことがあって、帰国を取り消されたり、延期させられるのであろうか。青柳さんには、思い当たることはなかった。逆に、ダガラスナでは、ハラショー・ラボーター(良い労働者)としてその勤勉ぶりが高く評価されていたのだから。

 おかしいと思って、仲間と話し合っていると、七日目の昼前になってソ連兵がやってきて、ダガラスナ組はもう一度山に入って越冬用の薪切りをやってほしいといきなり言い出した。それを聞いて青柳さんはガーンと脳天に一撃を受けた思いだった。人々の落胆ぶりは表現できないほどだった。やっと日本海が見える所まで来て、祖国の土を踏める日は間近と浮き立つ思いでいたのに、暗い穴底に突き落とされたような衝撃を受け、目の前は真っ暗になった。

 当局の理由は伐採に慣れていることと、ハラショー・ラボーターだからだという。ハラショー・ラボーターならすぐにでも帰国させるべきだと必死に主張したが、聞いてもらえない。青柳さんたちは、ナホトカまで来ても、まだ捕虜であることに変わりなかったのだ。そのことを改めて思い知らされた。表現は穏やかだったが命令に変わりはない。拒絶する自由はなかった。

つづく

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2023年11月 2日 (木)

人生意気に感ず「明日83歳は10キロに。嫌いになるイスラエル。誕生祝いのメッセージを背に」

◇いよいよ明日に迫った。ぐんまマラソンは快晴で夏日の予報である。試合に臨む武蔵の心境を思う。昨日はいつものコースを走った他に大きな鳥取公園を10周した。10キロを走る自信は出来たが制限時間内に走れるか不安が残る。人事を尽くしたのだ。83年生きて蓄積した成果が現われる。コースマップを見て現場を走る自分の姿をイメージする。折り返し点を過ぎ総合スポーツセンター北入口前が第一関門で、距離は5.7キロである。ここまでの制限時間が10時50分。スタートが10時だから55分以内で走らねばならない。かつて全コースを56分で走ったことが思い出される。私は今55分の壁に挑戦しようとしている。この差こそ83歳が突きつける現実である。

◇秋の日差しの中、1万4千人がマラソンを楽しむ光景は平和社会の象徴である。その対極にあるのが地獄のガザである。ガザの戦闘は加速し人道危機は極限状況にある。報道される映像はこの世のものとは思えない。ガザの難民キャンプが空爆され50人以上が死亡したという。イスラエル軍のガザ地区攻撃は1万1千カ所以上と発表された。罪のない市民の命を救わねばならない。イスラエルにとって最大の同盟国であり最も大きな影響力を持つアメリカはこの事態を止められないのか。

 私は今、イスラエルを嫌いになりかけている。私は神秘の国イスラエルに同情と理解を抱いていた。さまよえるユダヤ人、ナチスのホロコーストを耐えた人々、神との約束を信じて建国し、アラブの海の中で奇跡の戦いに勝ち抜いた歴史。しかし、現在の非道ぶりは神を恐れぬ所業ではないか。イスラエルに対し「神は偉大なり」とアラーを称える人々。正に宗教戦争である。西側諸国は十字軍であってはならない。この戦争は根が深く、多くの国が関わり炎の勢いは加速していく。大きな戦争に発展する恐れが出てきた。G7の議長国であり、多くの発展途上国に信頼されている日本が果たすべき役割は大きい。

◇誕生の祝いのメールを非常に多くの方から頂いた。私のブログを日頃読んで下さっていることが窺えるものもある。この場で心から御礼申し上げる。「いつまでも元気で後に続く私たちにその背中を見せ続けて下さい。そして健筆を振るい続けて下さい。それが私たちに何よりの励みになります」と寄せられたHさん、「マラソン完走を願っております」と励ましの言葉を下さったSさん等々。恩師のO先生はわざわざお手紙で心温まるメッセージを。明日はこれら皆様の声を背にして頑張るつもり。(読者に感謝)

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2023年11月 1日 (水)

人生意気に感ず「シーボルトと娘の物語を読んで。追放、再開、イネは最初の女医に」

◇「銀のさじーシーボルトの娘の物語」を10月31日読了し感動した。銀のさじを持つ異形の女性いねはオランダの名医シーボルトと遊女たきとの間に長崎の出島で生まれた。それは文政10(1827)年のこと。女性の地位が格段に低かったこと、異国人との混血児として注目されいじめられる中でいねは耐えた。シーボルトは優れた医術で人を助け「神の医」、「奇跡の人」と呼ばれたが日本国の地図をオランダに送ろうとしたことが発覚し国外追放になる。父なき後の母と娘は悲惨だった。母たきは再婚する。たきはシーボルトが最初に愛した日本女性でシーボルトはタク、オタクサンと呼んだ。彼は植物学者でもあり可憐な紫陽花をたきに重ね、その学名にオタクサを入れた。

 長崎の港を船が出て行く時、小舟に乗って手を振る母子の姿をシーボルトは涙で見た。

 シーボルトに学んだ医学者は多かった。そういう人たちはいねにシーボルトの素晴らしさを語った。いねは父を慕い、いつしか自分も医師になろうと決意する。しかし女に学問は不要という時代であった。

 ある時シーボルトに恩を受け弟子でもあった人物がいねに語った。「あなたは出島で生まれた唯一人の女。先生は無事な出産を期してご自分であなたを取り上げられた」と。

 いねはシーボルト縁の人々に支えられオランダ語と医学を学び不思議な運命を辿った。いねは産科の女医となり出産が不浄扱いされている風習に憤る。土蔵の中や地面にむしろをしいて出産するところもあったのだ。いねは言った。「生命の誕生ほど厳粛で尊いことはない。不浄扱いは間違った風習です」

 時代は大きく変化し日本は諸国に港を開くようになった。安政5(1858)年、オランダとの間に通商上条約が結ばれシーボルトの追放命令は解除され、いねは父との再会の時を迎える。白髪の威風堂々の紳士が言った。「イネ、イネデスネ」、「はい」、「オタクサ、ワタシノオタクサ、ドコニイマス」。

 シーボルトはいねの見事な成人ぶりを見た。そして日本で最初の女医になったことを知った。いねが髪に刺した銀のさじを渡すとシーボルトは「オオ、ワタシノサジ」と叫んだ。シーボルトは70歳で永眠、いねは77歳まで生きた。私はかねてシーボルトが開いた鳴滝塾に注目してきた。多くの優秀な日本人がここで学んだ。その門下にはオランダ流の牛痘苗接種を始めた伊東玄朴、開国論で罰せられた高野長英等がいた。シーボルトの影響は大きい。(読者に感謝)

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