« 人生意気に感ず「シベリア抑留。にせの民主運動。シベリアのサムライの再評価」 | トップページ | 小説「死の川を越えて」第261回 »

2020年8月15日 (土)

小説「死の川を越えて」第260回

 ここで尋問は、人権尊重の憲法の下で人権侵害の極致ともいうべき出来事を取り上げた。

「子孫を絶つための断種、堕胎が療養所内で実際に実行されていたというのは信じ難いことですが事実ですか。また、断種、堕胎が事実として結婚の条件にされたのですか」

 大谷は尋問者の顔を鋭く見詰めて頷きながら静かに答えた。

「はい断種、堕胎は実際になされていました。また、結婚の条件にされていたと思います」

 法廷にため息に似たどよめきが起き、重い波のように広がるのが分かった。最悪の人権侵害が行われたことに傍聴人は一様に異次元の世界を覗く思いであったに違いない。

 尋問者は、この光景に驚いたようだ。そして怒りの表情を抑えきれない様子で言った。

「この断種堕胎こそ、人間性を否定するハンセン病患者の隔離絶滅政策の頂点を成すものではありませんか」

 これに対し大谷は言葉を捜している風であったが、意を決したように言った。

「はい、患者さんから未来を奪ってしまったということは、犯罪的な悲しい出来事であったと思います。この断種による心の傷は、犬畜生や猫と同じに扱われたという大変な屈辱感だったに違いありません。人間の尊厳を否定する人権侵害の極致でした」

 法廷はこの言葉に水を打ったように静まり返った。その静寂は人々の強い怒りを語っていた。

 尋問者は務めて平静を装う風にして言った。

「あなたは、厚生省で国立療養所課長に就任以来、隔離政策を弾力的に運用し、らい予防法の死文化、空文化を目指したと言われますが、それはどういう理由ですか」

「はい、私の原点ともいうべき恩師小河原泉氏は、国賊だという批判を受けながらもいろいろとご自分の信念を貫かれました。そこで私としても恩師にならって出来る限りのことはしたいと考えたからです」

 

※土日祝日は中村紀雄著・小説「死の川を越えて」を連載しています。

|

« 人生意気に感ず「シベリア抑留。にせの民主運動。シベリアのサムライの再評価」 | トップページ | 小説「死の川を越えて」第261回 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 人生意気に感ず「シベリア抑留。にせの民主運動。シベリアのサムライの再評価」 | トップページ | 小説「死の川を越えて」第261回 »