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2020年8月13日 (木)

人生意気に感ず「シベリア抑留・望郷の叫び。スターリン大元師への感謝状とは」

◇終戦の夏を迎えてどうしても記したいのはシベリア強制抑留である。あの夏、約60万人の日本人が強制連行されそのうち6万人近くが命を落とした。生き残った人々はそれに劣らぬ苦しみ味わった。シベリアの真実は未だ終っていない。私は平成16年の夏、前橋の二人の抑留体験者と共にシベリアの抑留跡地を訪れた。二人とは塩原眞資さんと青柳由造さんで二人とも既に世を去った。塩原さんは夏草の中に立つ「日本人よ静かに眠れ」と書かれた墓標の前で「俺だけ先に帰って悪かった」と声をあげて泣いた。ギリギリの飢えと酷寒と重労働の中でどこまで人間でいられるのか、私はそれを知りたかった。ニューギニアとシベリアは共に地獄であった。戦争とはかくなるものかを後世に伝えなければならない。私はシベリア訪問で外務省の協力により貴重な資料を入手し、そこで得たものも踏まえて帰国後、「望郷の叫び」を出版した。日本人は酷寒さと重労働の苦しみと共にあるいはそれ以上に孤独に苦しんだ。「狂おしいまでの孤独と不安。歌でも歌わなければ耐えられなかった」。これが日本人抑留者の共通の心理だった。こういう情況で作られた「異国の丘」はシベリア中の収容所で歌われた。「がまんだ待ってろ嵐が過ぎりゃ帰る日も来る春もくる」、「今日も更けゆく異国の丘に夢も寒かろ冷たかろ」、「倒れちゃならない祖国の土にたどり着くまでその日まで」。これを歌っている時、過酷な現実を一時忘れることが出来たと塩原さんは語った。

◇私はこの本で一章をさいて「スターリン大元師への感謝状」を書いた。帰りたい一心で書いた最大のゴマすりの文である。当時、一片の書類も持ちかえることは許されなかった。ましてや屈辱の文を持ち帰ろうとする人は少ない。私は国立古文書館の特別の計らいでコピーを入手した。上層部の承認などの手続きを経たのである。私がもう一つ力を入れて書いたのは日本人が最後に意地を見せた「ハバロフスク事件」である。「サムライはどこに行った」。「日本人の抑留者は奴隷のようだ」と他国の抑留者は言った。この事件は高学歴の長期抑留者が瀬島隆三の指導を得ながら石田三郎が中心になって限られた環境で必死の見事な抵抗運動を展開した。この中の中心人物の一人は貴重な資料を提供して協力してくれた。これらの人々の帰国は故鳩山一郎首相による日ソ国交回復条約によって実現した。(読者に感謝)

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