小説「死の川を越えて」第257話
水野高明がその場の雰囲気を察知して言った。
「私たちはみなさんが心配するような不穏分子ではない。湯の沢の歴史を踏まえ正攻法で動く。国や世論に訴える頭脳闘争ですぞ」
これを聞いて古田園長はやや慌てた顔付きで言った。
「皆さんの気持ちは分かります。国は存亡をかけた危機にある。きれいごとは通らない社会状況です。特高などに目をつけられたら大変です。本省の指導も仰がねばなりません。その際に湯の沢の特色と歴史はきちんと話します」
こう話す園長の顔には、どうか騒がないでくれという腹のうちが現われていた。
古田園長は苦しげな表情を浮かべて結果を水野高明に伝えると言った。水野が京都大学の同窓ということを知り、相通じるものを感じているらしかった。水野は深く頷いて見せた。
本妙寺から送られた37人中、女と子ども計20人は間もなく一般病棟に入れられ、こずえとさやはひとまず胸を撫で下ろした。人々の重大関心事は重監房の件であった。
園側が水野に知らせた結論は中村実平等本妙寺集落の幹部9名を相当期間重監房に入れるということであった。水野たちは古田園長に説明を求めた。
園長は、本省の見解だと断って苦渋の決断を語った。本省とは内務省であり、警察権力もその中にあった。
「本妙寺のいんちき部落を長年束ねた幹部の責任は重いというのです。知事の印を偽造して公文書を作り、各地の寺社から寄付を集めたことは重罪に当たり、裁判にかければ何年も刑務所に入らなければならないところだと言っています。大変な国難の時、国も国民も姿勢を正さねばならないということなのです」
水野たちは、もし裁判になったとすれば、偽造のことは裁判所が立証しなければならないがそれは困難である、また寄付集めは習慣となっていたことであり、詐欺罪の故意はないと主張しようとしたが通用することではなかった。
※土日祝日は中村紀雄著・小説「死の川を越えて」を連載しています。



最近のコメント