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2019年5月12日 (日)

小説「死の川を越えて」第191話

 木檜泰山は開口一番言った。

「近く草津に安田謙岳内務大臣が来る。この湯の沢にも入る予定です。目的は、この湯の沢の移転の適地を見ることです。下村正助君は森山議員を案内して歩いてくれたそうですね」

 それに森山が応じた。

「いや、大変良い所を見せてもらいましたぞ。水原窪、滝窪原、沼神原、芳花窪とか言ったな。安田大臣には私も同道することになるようだが、自分ではあそこへ行けぬ。正助君に案内してもらいたい」

 木檜代議士はすかさず言った。

「森山さんから、そのことは詳しく聞きました。私も、そこを大臣に見せたい。下村君、私からも案内を頼みます。役場には君のことを話しておく」

 昭和5年8月9日、安田内相一行は、草津にやって来た。木檜代議士、堀川群馬県知事、森山県議、警察部長、県衛生課長等が同道していた。

 一行は吾妻渓谷を通り草津に向かった。安田は、天を覆う奇観に圧倒され、故郷熊本の隣県を走る耶馬渓と重ねて胸を躍らせた。温泉街は大歓迎だった。温泉業者は、その発展のため湯の沢集落の移転を強く望んでいたからである。驚くべきことは湯の沢の患者たちの多くが沿道に出て土下座までして喜んだことだ。土下座の姿は、無知で卑屈な民衆の実態を語っているといえるが、止むを得ないことであった。

 この人たちの中からこんな声が聞こえた。

「俺たちのために大臣様がお出でになった。選挙の神様だと聞いたが、それどころか救世主の神様だ」

この人物は、大隈内閣の総選挙で、参政官として辣腕(らつわん)を振るい選挙の神様のニックネームを得ていた。それが湯の沢まで響いていたと見える。

人々は偉い大臣が虐げられた自分たちのためにわざわざ来てくれたということが、それだけで嬉しいのであった。また、湯の川地区の生活が貧しくてあえいでいる人たちの中には、この地区の運命が厳しい方向に動くらしいことを肌で感じつつも新しい所で生活が保障されることをむしろ期待している向きもあったのだ。

 

※土日祝日は中村紀雄著・小説「死の川を越えて」を連載しています。

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