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2019年5月 5日 (日)

小説「死の川を越えて」第189話

 木々の間から響く音に耳を傾けて森山抱月は言った。そこで正助は車を止めさせて、外に出た。

「細い道になるので歩きますが、大丈夫でしょうか」

 正助は万場老人を気遣って目をやる。

「は、は、老体じゃがこの位は何でもない」

 正助は先に立ってゆっくりと森の道に入って行く。細い道の前方はなめらかに谷に落ち込んでいた。

「足もとに気を付けて下さい。このあたりが沼神原、この先が芳花窪です」

「大変な広さですな。ここに草津の温泉を引くのですね」

 森山は遠くに目を走らせて

「森山さん、国の力をもってすれば何でもないことではありませんか。県も力を出すでしょうからな」

「その通りですが、厳しい時勢です。国も金がないなどと言うでしょう。その時は、木檜代議士に動いてもらわねばならぬ」

 この時、正助は大きな櫟(くぬぎ)の下に立ち止まって言った。

「森山先生、湯の沢が動くとか、無くなるなんてことは、俺には考えられない事ですが、もしそういう事になれば、あの請願を出した牛川知事の責任は重大ではありませんか。つい先日、生生塾で万場先生がこの請願について詳しく説明して下さいました。それは、国費をもって、草津温泉を利用出来る所に理想的集落を建設すべしというのです。理想の集落といっても国に金がないとなれば請願は実現出来ませんね」

「その通りです。あの請願を出すについて牛川知事は我々議会の幹部に相談した経緯がある。ですから私も多いに責任を感じとる。それにな正助君、あの請願書には、君の熱意がうつされているのですぞ。だから君にも責任があると言わねばならぬ。は、は、は」

「え、そんなことが言えるのですか」

「君が県議会に来て、私と一緒に牛川知事に会った時のことを覚えているであろう。あの時、君は知事に、確か湯の沢を守って下さい、湯の沢は私たちの宝ですと言った。そしたら、知事は群馬の誇りですなと言った。大切な点なので、私はよくこの胸に刻んでおる。あの請願には、理想的集落をつくってくれと書いてあるが、この理想的という文句には、君に動かされた知事の思いが込められているに違いない。県民の代表たる知事がこの湯の沢のことを群馬の誇りと言った意味を噛み締めねばなりません。それは理想的集落と結びつけて考えねばならぬことです」

 

※土日祝日は中村紀雄著・小説「死の川を越えて」を連載しています。

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