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2019年2月11日 (月)

小説「死の川を越えて」第165話

 

「気の毒な人たちです。私も昔、近くの鉱山で働いた。お元気で、身体を大切にということしかできませんでした」

 

 鄭東順は、人々が去った方向を見ながら言った。

 

 荷車は坂道を西から東に向けて下り続け、村々を北から南に流れる白砂川に行き着いた。渓谷に沿ってしばらく走った時、全大中は手を上げて言った。

 

「止めて下さい。このあたり、あの松の木です」

 

 切り立つ断崖から松の木が宙に浮くように伸びている。

 

「あの松のところから私は落ちました」

 

 鄭東順は懐かしそうに身を乗り出すように眼下を眺めた。

 

「鉱山から重いものを運んで足を滑らせたのです。松の根を掴んだら太い蛇で、蛇が嫌いな私は慌てて手を放しました。後は何も覚えていません。霧の中を彷徨(さまよ)っていました。美しい女の人が現われて手を差し伸べてくれるのです。私は必死でその手を握り歩き続けました。女の人は頑張るのよ、この手を離しては駄目、と励ますのです。意識を回復し目を醒ました時、私はお藤の手をしっかりと握っていました。私をのぞき込んでにっこり笑ったお藤の顔を今でもはっきり覚えています」

 

 明霞とこずえがじっと聞いていた。

 

「お父さん、初めて聞くお母さんとの出会いの話。素晴らしいわ。ここへ来て本当によかったわ」

 

「私の父とあなたのお母さんが朝鮮の海の洞窟に呑まれて死んだなんて、信じられないわね」

 

 明霞とこずえは不思議な運命を身近に感じて驚くばかりだった。

 

 一行は、白砂川を下って、いくつかの集落を回って湯の沢に戻った。鄭と明霞親子は、数日の滞在期間を有意義に過ごし、名残り惜しそうな様子で韓国に向けて帰って行った。

 

 

 

※土日祝日は中村紀雄著・小説「死の川を越えて」を連載しています。

 

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