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2018年9月16日 (日)

小説「死の川を越えて」第116話

 

 こずえは老人が何を話すのか恐かった。湯川の音も耳に入らず身を固くして老人の口元を見守った。

 

「お前の家は前橋でも有数な製糸会社をやっておったが、不況の波をくらって危機に陥ってな、打開を求めて相場に手を出し、大失敗した。一家は地獄に落ちた。祖父母の悲しい出来事は、お前も薄々知っていよう。それは語らぬぞ。今は、お前の母親のことだ。お前の母のお品と妹のお藤は双子で、評判の器量良しであった。まだあどけない少女の身で東京に奉公に出されることになった。実はお屋敷で働くというのは嘘でな、2人は女郎屋に売られる手筈となっていた。それを知って、それこそ命懸けで動いた若者がいた。お前のとこの会社で働いていた大川一太、お前の父親じゃ」

 

「まあ」

 

 こずえは息を呑んだ。懐かしい父親の顔が甦った。

 

「お前の父は賢く正義感の強い若者だった。しかしな、差別された一族の出であることを悩んでいた。そういう背景の中で、わしや森山抱月さんと交流があった。お前の母たち姉妹が大きな借金のために売られると知った時の一太少年の動きは目を見張るものがあった。女郎屋に乗り込んで袋叩きにされたこともあった。しかし、それで事態は動いたのじゃ。森山さんの組織が重要視して行動した。廃娼運動で実績を上げた救世軍の組織と知って、女郎屋の方は大きな社会問題になることを恐れた。かつて、救世軍が娼婦の救出にかけた執念は凄まじかった。女郎屋にとってまさに天敵。その記憶は彼らから消え去るものではない。お前の父が受けた傷害を警察が取り上げたことも利いたであろう。遂に姉妹は危ないところを救出された。感激したお品が激しく泣いたのをわしは忘れられぬ。それは、お前の父と母の出会いであった。あの事件がなければ、お前もこの世に居ないであろう。お前の父が海底洞窟に呑まれたことは前に話したが、お藤がどうしてもと言い張って、洞窟に入って運命を共にした理由がよく分かるであろう」

 

 万場老人の話は衝撃的で、その一語一語はこずえの胸に、湧き出す泉の水のように広がるのであった。

 

 

 

※土日祝日は中村紀雄著「死の川を越えて」を連載しています。

 

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