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2018年4月29日 (日)

小説「死の川を越えて」 第73話

 

「正さん、何とか出来ないかしら。赤ちゃんのことで悩む姿は前の私と似ていると思うの」

 

「そうだね。俺はシベリアの経験で人の命の大切さを知った。俺はハンセンの人たちに助けられた。そのためにもハンセン病の人を救いたい。さやちゃん、急いだ方がいいね。取り返しがつかないことになるよ」

 

 二人はその夜、女に会った。

 

「女房から事情は聞きました。これも同じ病を抱え、悩んだ末に産みました。よかったと思っています。この湯の沢集落にはハンセン病を助けるために命をかけている外国人がいます。俺は最近、シベリアでハンセンの人たちに命を助けられました」

 

 正助の話が女に通じているのかどうか分からなかった。青ざめた表情、時々見せる視線、それは病的で絶望を現していた。正助は、シベリアで追い詰められ爆弾で吹き飛ばされ気を失い土に埋められた時、光の輪の中に妻と子が現れ励まされたことを話した。女の表情に変化が見えたのはこの時であった。

 

「子どもを殺すことは、悪いことですか」

 

女は正助をじっと見詰めて、低い声でぽつりと言った。

 

「悪いことです。自分が産んだ子でも、別の命です。その子の人生があるのです。俺は学問はないが、シベリアで人の生き死にのことをずいぶん考えました。毎日が殺し合いだった。藁(わら)くずのように人が死ぬ中で、かえって、命の大切さを知ったのです」

 

その時、子どもが目を覚まし、何かに怯(おび)えたように泣き出した。

 

「おう、よしよし、みっちゃん、悪いお母さんを許しておくれ。お母さんはお前をこの手で殺そうとしていました。おお、何と恐ろしいことでしょう」

 

女は、子どもを抱き上げて頬ずりをした。

 

さやがほっとした表情を示して言った。

 

「あなた、力を合わせて生きましょうよ。実は私も、この湯川に身を投げて死のうとしたことがあるの。でも生き抜いて幸せをつかみました。子どもを殺すのでなく、子どもを生かすために命を懸けるのよ。そこに生きる喜びが生まれるのよ」

 

女は、子どもを抱いて、さやの話をじっと聞いていた。その顔には、先程までの死の淵を彷徨う狂女の影は窺えなかった。

 

※土・日・祝日は、私の小説「死の川を越えて」を掲載しています。

 

 

 

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