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2015年11月14日 (土)

小説「楫取素彦物語」第62回

 母滝は終日仏壇に手を合わせ祈り続けた。ある日、一族の前で滝は口を開いた。

「大二郎が哀れでならない。苦労ばかりの三十だった。辛かった学問も無駄だったのかと思うと、ああ、耐えられぬ。この家で机に向かったあの姿が目に浮かぶ。今日だけは、母が泣くのを許しておくれ」

 滝は声をあげて泣いた。女たちもすすり泣いた。

「大兄(だいにい)さま、どうして死んだの」

 文がしゃくりながら言った。

 男たちは、唇を噛んで女たちが泣くのに任せた。暫くして伊之助が口を開いた。

「義母上(ははうえ)、お泣きください。今をおいて泣く時はない。義母上の声は松陰殿への最良の供養です。松陰殿も母の心に感謝しているに違いありません。」

 顔を上げた滝はもう泣いていなかった。伊之助の言葉に頷く顔は武士の家を守る女のそれであった。それを見て伊之助は続けた。

「私たちは松陰殿の死を無駄にしてはならない。それを乗り越えて進まねばなりません。松陰殿の理想と信念は私たちの胸の中に、村塾の塾生の胸の中にいつまでも生き続けていきます

 伊之助はここで話すのを止め懐から一枚の紙を出して広げて見せた。

 それには至誠而不動者末之有也、小田村伊之助に与う、とあった。

「私が儒学者であることもあって、義兄は、最後にこれを書き私に遺した。これには、松陰殿の人生が凝縮されております。私は、これを松陰殿の分身と思って殿に仕え、これからの人生を生きるつもりです

 この声に、妻寿の静かに頷く姿があった。

 

※土日祝日は中村紀雄著「小説 楫取素彦」を連載しています。

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