« 人生意気に感ず「原爆と原発。原爆予告は本当だった」 | トップページ | 小説「楫取素彦物語」第29回 »

2015年8月 7日 (金)

人生意気に感ず「鈴木貫太郎のこと。自らつけた戒名は。当時の県会」

 

 ◇私は県議時代、群馬の宰相に鈴木貫太郎を加えることを提案した。桃井小・前中(現前橋高校)を経て海軍兵学校に入学・78歳で総理に就いた。御前会議を巧みに導いて本土決戦を回避させた功績は大きく、日本を救った宰相といえる。桃井小に入ったのは明治10年で群馬では県令楫取素彦が教育に打ち込んでいた。 

◇鈴木は太平洋戦争には徹底して反対であった。どう考えても勝ち目がないのに敢えて開戦したのは「支那事変における失敗を遮二無二国民にかくしてなんとか危地を切り抜けようとした無謀な計画にほかならない」と述懐する。支那事変とは昭和12年の日中戦争のことである。

 

 また、太平洋の広さを忘れ、戦いを長期化させ破局に至った無謀さにつき、鈴木が孫子の偉大な戦術論を無視したものだと指摘した点は注目すべきことである。昨日のブログで書いた「敵を知り己を知らば百戦危うからず」に代表されるのが孫子の兵法である。

 

 組閣の大命が下った時、鈴木は戦争を断固終結させることを密かに決意した。この時、ほとんどの国民・将兵は最後の決戦に向けて志気盛んであった。鈴木内閣成立のおよそ4カ月半前の群馬県議会の状況は全国国民の縮図である。

 

 昭和19年11月21日、石井英之助知事は開会の辞の中で述べた。「粉骨砕身死力を尽くし御奉公の誠を致し(中略)、銃後の生産増強に日夜奮闘しつつある百三十万県民に深く感謝いたします。必勝不敗の大勢を強化することに集中して予算の編成に当たりました」と。

 

 鈴木は、組閣を受ける時、自分は二・二六事件で一度は死んだ身だから生に対して何の執着もない、信ずる目的のために十分活動出来ると決意した。二・二六事件とは、昭和11年(1936)2月26日に起きた陸軍のクーデター。高橋是清、斉藤実も殺され、鈴木は4発の銃弾を浴び血の海に伏したが、トドメを撃とうとする兵に妻がトドメは止めてくれと必死で頼んだため九死に一生を得た。首謀者は全て死刑となった。鈴木は、首相として最難局の日本を処理するに当たり、あの時の銃の傷あとがしきりに思い出されたと語る。命を捨てて自分を救った妻を思い出したのか。鈴木は本土決戦論を巧みに抑えて日本を救った。昭和23年に世を去ったが戒名は自ら考えた「大勇院尽忠日貫居士」。満足の人生だったろう。(読者に感謝)

 

|

« 人生意気に感ず「原爆と原発。原爆予告は本当だった」 | トップページ | 小説「楫取素彦物語」第29回 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 人生意気に感ず「鈴木貫太郎のこと。自らつけた戒名は。当時の県会」:

« 人生意気に感ず「原爆と原発。原爆予告は本当だった」 | トップページ | 小説「楫取素彦物語」第29回 »