小説「楫取素彦物語」第9回
天保十一年、松陰十一歳の時、藩主の前で兵学の講義をした。この年、藩主毛利敬親は初めて国入りし、文武の家の師範を招き日頃の成果を試した。
城中の広間、居並ぶ大家の中で少年の姿は人々の目を引いた。
進み出て正座する少年に藩主は声をかけた。
「名は何と申す。何歳か。余に何を話すか」
「恐れながら、吉田寅次郎、十一歳でございます。山鹿流の兵学です。武教全書の戦法編をお話しいたします」
「ウーム」
藩主はまだ幼さの残る紅顔の少年を興味深そうに見詰るのだった。
松陰に動揺はなかった。積み重ねた厳しい修練が自信を支えていた。よどみない少年の声が広間に流れた。藩主は文章の明晰さと論述の巧妙さ、そして臆することのない態度を賞賛した。
藩主は師は誰かと傍の臣に問い、玉木文之進と知って頷いた。
この夜、杉家は明るい笑いで満ちた。滅多に笑わない文之進の表情もゆるんでいた。
「大さんおめでとう」
母の目に涙が光っている。
「お兄さまおめでとうございます」
妹の寿の声が弾む。
「お兄さま、本当に嬉しゅうございます」
末の妹の文は顔中を笑顔にしてはしゃいでいる。
つかの間の一家の幸せであった。この天保十一年という年は、西暦では一八四〇年で、日本海を離れた隣国清ではアヘン戦争が始まった。
※土日祝日は中村紀雄著「小説・楫取素彦物語」を連載します。
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