随筆「甦る楫取素彦」第120回
明治政府は、「府県会規則」を制定して全国府県の選挙と議会開設を実施した。制限的とはいえ正に画期的なことであった。
群馬県会の最初は明治12年でこれは全国共通だった(群馬県会はこの年5月12日に開会)。政府はこれに先だち、明治11年、府県会規則を発布した。これは、中央集権国家の構造体の一部をなすが民主主義への小さな一歩でもあった。興味をそそられる要点を挙げる。
「府県会規則」
○正副議長は議員中より公選し県令はこれを認可し内務卿に報告する。正副議長議員は俸給なし。但、会期中日当と旅費を給す。(第11条)(俸給なしは、地租10円以上納める有産階級から立候補した人たちだから当然だろう。正副議長を議員から選ぶのは今日も同じだが県令が認可し中央政府に報告する点は、正に中央集権の現われ。中央地方は上下の関係であり知事と県会も今日と違って対等ではなかった)。
○議員は充分討論の権を有す。しかし、人身上の褒貶(ほうへん)毀誉(きよ)に渉ることを得ず。(第29条)。(褒貶はほめるけなす。毀誉はそしる、ほめる。現在は地方自治法で無礼の言を用い他人の私生活にわたる言論をしてはならないと定める―同法一三二条。ほぼ同様の趣旨といえる)
○会議中、国の安寧を害し、或は法律、規則を犯すと認める時は、内務卿は議会の解散を命ずることを得。(第34条)
地方議会も中央政府の統制の下にあったことが分かる。群馬県会が後述のように実際解散させられた例があった|廃娼でもめた佐藤与三知事の時である。
※土日祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。
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