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2014年6月22日 (日)

随筆「甦る楫取素彦」第99回

 群馬県史によれば、慶応4年2月22日、多胡郡神保村(吉井町)の辛科(からしな)神社の境内で数十人の農民が集会を開き下層農民を極度に苦しめてきた商人を攻撃する計画を立てた。これが西上州世直し運動の発端となる。

 目標は米屋と質屋。質物の無償返還、貧農に対する施し金や施し米の要求等を掲げた。村々に廻状を廻し大量動員を図り、およそ千人の農民がかねやタイコを叩き、ほらを吹いて吉井宿に向った。

 以後の世直し隊を勢いずかした第一の要因は吉井藩の弱腰であった。鉄砲を撃って対抗しようとした藩兵に対し、世直し勢の頭は、それならば全てを焼き払うと気勢を上げた。交渉のあげく、結局藩は譲歩して陳謝した。

 吉井藩屈伏の情報は直ちに広まり世直しに参加する農民は一気に飛躍的に増大した。そして、増々勢いを大にした世直し勢に対し、遂に七日市、小幡の各藩も屈伏し、この勢いは各地に波及した。

 幕府に最後の対決を迫る総督府にとって、上州をしっかり押えることが急務だった。そのために世直し参加者の逮捕処罰を命じると共に直轄領の鎮圧に一層の力を注いだ。そして、世直しの指導者を「巨魁の悪徒」とみなして厳しく臨んだ。それは、幕府の脱走兵と世直し農民が連帯することを恐れたからである。

 総督府は、3月、達書(たっしがき)を出し、上州諸藩に世直し一揆の徹底的鎮圧を命じ、農民に対しては騒動を起こして資産家を襲うようなことがあれば、朝敵同様に兵力で鎮圧すると警告を発した。

 以後、上州諸藩は、世直し一揆は朝敵であるとして、その指導者を「博徒」、「無宿」として自由に処刑するようになった。

※土日祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。

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