« 随筆「甦る楫取素彦」第100回 | トップページ | 人生意気に感ず「ジョン万次郎のこと。花燃ゆ。改正DVD法。焼身自殺図る。一太大臣我が家に」 »

2014年6月29日 (日)

随筆「甦る楫取素彦」第101回

荒廃から立ち上がるための財政再建の柱は生糸であった。伝統の養蚕の上に立つ製糸業は、開国によって急速に発展していた。そこで藩は、そのために、有力な生糸商人を助けようとした。

 前橋の江原芳右衛門、勝山宗三郎、竹内勝蔵らが横浜に向け生糸荷主の活動を始めたのは安政6年(1859)の貿易開始の年であり、下村善太郎が生糸商店三好屋を開業したのは文久3年(1863)であった。これらの人々は、やがて県令楫取素彦の諸事業を助けることになる。

 このような新時代の潮流にしっかりと根を張る前橋に城を再建して藩政の拠点とすることを考えるのは自然であった。

 藩主松平直克(なおかつ)は、前橋城再築と帰城を幕府に願い出て文久3年(1863)許可される。直克が提出した願書の大要は次のようであった。「前橋は関東の要衝の地であり、昔から物産に富んでいる。そこに城を築き直克の本拠とすれば、幕府が最も望んでいる富国強兵を実現する絶好の場所となる」(群馬県史、松平藩日記)。物産が生糸を指していることは明らかである。ここに述べられたことは、明治政府が楫取を県令として群馬に派遣した理由の一つにも当てはまる。

 築城にかかる莫大な資金は、前橋町の生糸商人が拠出した。利に聡い彼らは、藩主の前橋帰城によって藩権力の中枢が前橋町に定着することで、町の繁栄及び生糸貿易の飛躍的発展が実現すると計算したのである。この点も、楫取県令が県庁を前橋に決めるに当たって、生糸商人が莫大な資金を拠出した事情と同様である。

群馬は、徳川の譜代、親藩、そして、天領の多い所で、これは、この地が古来、東国支配の要であったこととも関わる。松平直克が「前橋は関東の要衝」と言ったのもこれを指す。

※土日祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。

|

« 随筆「甦る楫取素彦」第100回 | トップページ | 人生意気に感ず「ジョン万次郎のこと。花燃ゆ。改正DVD法。焼身自殺図る。一太大臣我が家に」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 随筆「甦る楫取素彦」第101回:

« 随筆「甦る楫取素彦」第100回 | トップページ | 人生意気に感ず「ジョン万次郎のこと。花燃ゆ。改正DVD法。焼身自殺図る。一太大臣我が家に」 »