« 随筆「甦る楫取素彦」第84回 | トップページ | 人生意気に感ず「渡辺淳一の死。日本のワイセツ感覚。伊勢崎の中学で楫取を」 »

2014年5月 6日 (火)

随筆「甦る楫取素彦」第85回

◇明治4年(1871)、楫取素彦43歳。

この年は、楫取にとって大きな転機となった年である。この年3月、長年、懐刀として全幅の信頼を得た毛利敬親公が53歳で逝去した。楫取は自分の領地があった大津郡三隅村二条窪(にじょうくぼ・現長門市)に隠棲した。なぜ栄達の道を選ばなかったか、大きな謎である。一説には、木戸や伊藤と相容入れなかったためとも言われる。

 それはともかく、この地の出来ごとは、後の群馬の行動とつながる面があるので少し記したい。どこも同じであるが、この地も、維新直後の事とて人々の心は動揺していた。そこで楫取の妻寿子は、小さな堂宇を建て、毎月、浄土真宗の僧を招き地域の人が法話を聞く集いを行った。自ら、集いの一人に徹して謙虚に話しを聞く姿は人々の心を打ったという。それによって、地域の人々は落ち着き、若者も正しい行いをするようになった。この経験を活かして寿子は、前橋で清光寺の源をつくる。二条窪の行事は、小さな部落で今日まで続いている。この経験を生かして寿子は、前橋で清光寺の源をつくる。

 地方紙・「長門時事」の平成24年10月24日号に「萩出身で初代群馬県知事」、「楫取素彦が三隅で暮らす」、この2つの文がそれぞれ縦、横の大きな見出しになって載った。1頁のほぼ全面を使って楫取夫妻が三隅の二条窪(にじょうくぼ)で暮らしたことが細かく記述されているのだ。

 記事は生まれから84歳で生涯を閉じる迄を説明した後、三隅町の楫取と寿子のことを詳しく描く。資料は町史「三隅町の歴史と民話」に求めている。以下要点を紹介する。

※土日祝日は中村紀雄箸「甦る楫取素彦」を連載しています。

|

« 随筆「甦る楫取素彦」第84回 | トップページ | 人生意気に感ず「渡辺淳一の死。日本のワイセツ感覚。伊勢崎の中学で楫取を」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 随筆「甦る楫取素彦」第85回:

« 随筆「甦る楫取素彦」第84回 | トップページ | 人生意気に感ず「渡辺淳一の死。日本のワイセツ感覚。伊勢崎の中学で楫取を」 »