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2014年3月 9日 (日)

随筆「甦る楫取素彦」第65回

和宮の隆嫁は、公武合体策の象徴である。碓氷峠を越え安中を通ったのは、反対派の襲撃を恐れ大井川を避けたからと言われる。安中藩の警備は大変で、藩史によれば、甲賀の忍びの者が多数、沿道の警備に当ったとある。

「和宮の降嫁」

 和宮は孝明天皇の妹である。安政の大獄では朝廷に対する弾圧も強化され、朝幕関係は悪化した。この打開策として、皇女降嫁策は直弼存命中から存在した。それが桜田門外の変後、大きく浮上した。直弼の後を受けた老中安藤信正は、朝廷の権威をかりて尊王攘夷派の鉾先を出来るだけやわらげようとしたのである。

 問題の中心は、条約調印に反対する天皇に逆らって調印を断行した直弼の政策である。つまり調印断行は、天皇を軽んじて外国と手を結ぶことだから尊王(天皇を敬う)攘夷(外国を討つ)派を憤激させ桜田門外の変に至った。皇女と将軍の結婚は朝幕握手を天下に示す最大の演出であった。和宮は当初「東の代官(将軍)のところへいくのはいやじゃ」と強く抵抗した。正に政略結婚だった。幕府は今後7、8年ないし10年のうちに必ず攘夷を実行すると誓約したので孝明天皇は結婚を許した。天皇の勅許が出たのは万延元年(1860)10月18日のことであった。条約批准でアメリカ国民の最大の歓迎を受け帰国の途についた一行が無事品川沖に着いたのは9月27日であった。アメリカの実態を見た人々にとっては攘夷などはおよそ絵空事に過ぎなかった。しかし、現実には、この事をめぐって連日多くの血が流されていた。

 和宮の降嫁もこのような状況下で行われた。それは翌年文久元年のことであった。空前絶後の大行列は中山道を選び上州安中藩を通過した。安中市の国道沿いには和宮の通過を示す木標が現在も建てられている。

※土日祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。

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