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2014年3月16日 (日)

随筆「甦る楫取素彦」第67回

ここで長州藩の動きを見たい。長州は攘夷から公武合体に動き、また攘夷に戻るという激しい変化を示した。変化の狭間に登場するのが長井雅楽(うた)の「航海遠略策」であった。長井がこれを藩主に建言したのがこの年文久元年であった。長井の航海遠略策は藩の方針として採用され、以後翌年の文久2年にかけ長州の藩政は長井を軸として展開する。長井とはどのような人で、その説は如何なるものか。

 長井は名を時庸(ときつね)、通称隼人(はやと)、後に雅楽(うた)となった。萩の生まれである。明倫館で文武を学び若くして注目され、頭角をあらわした。藩主の小姓役から始めて、その後抜擢され重要な役目につくようになった。

 長井は長身色白の美丈夫、頭脳明晰、弁説もよく長州で「智弁第一」と言われた人である。彼の「航海遠略策」は、開国論であり、朝廷との合体を進めようとするもので、この時点の時流に適していた。内容は、朝幕両方、条約調印の争いを乗り越え、朝廷は開国・通商、武威を海外に振るう(「皇国を以て五大州を圧倒」)ことを幕府に命令する、幕府は勅命を守り列藩へ指示する、かくして朝廷を頂点とする秩序が成り国内は統一されるというもの。

 毛利の藩主はこれを受け入れ、朝幕とも困難な政局を救う策として歓迎した。長井は藩主の名代として朝廷に参内し、朝臣の前で「航海遠略策」を説いた。孝明天皇は「胸懐(きょうかい)の雲霧(うんむ)がはじめて晴れた」と喜び幕府へ伝えることを命じた。そこで長井は藩命により江戸へ出向き安藤等老中にこれを説いて賛同を得た。その上で藩主毛利敬親は江戸に向うことになった。「航海遠略策」を携えて公武の間をとりもつことが目的であった。この時楫取は藩主のお供を仰せつかる。外様中の外様である毛利氏が徳川開府以来始めて幕府に口を出すという画期的な場面に楫取が同行したことは注目すべきことであった。しかし、順調にはいかなかった。

※土日祝日は中村紀雄著「甦る楫取素彦」を連載しています。

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