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2012年9月30日 (日)

『楫取素彦読本』第34回

 明治の世になり、吉田松陰の存在は知らぬ者なき程高まっていました。これから、単身、アメリカに渡ろうとする青年新井領一郎にとって、吉田松陰の形見の短刀を、その妹の寿子から贈られた衝撃は大きく、測り知れない勇気を与られたことでしょう。

 新井領一郎は、楫取夫妻に固く約束した通り、アメリカに渡り見事、その目的を果たしました。その短刀は、現在、カリフォルニアに住む、新井領一郎の子孫、新井領蔵(REO)に受け継がれています。

十、楫取素彦と吉田松陰との絆

 ここで、楫取素彦と吉田松陰の関係を示すことをいくつか、整理しておきましょう。

【解説】

明治九年(一八七六)新井領一郎は単身ニューヨークへ渡りました。渡米のため政府の援助を取り付けた人が楫取素彦でした。小さい時から英語を学んだことが役立ちました。驚くほどハンサムのうえ魅力的な青年で、外交官のようだといわれました。

英語力に加えて勤勉で誠実な人柄のためアメリカで大きな信頼を得て、素晴しい業績をあげました。国際ビジネスマンの先駆けであり、群馬の誇りです。

※土日祝日は中村紀雄「楫取素彦読本」を連載しています。

Photo

写真:新井領一郎

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2012年9月29日 (土)

「楫取素彦読本」 第33回

この時、県令の妻寿子は、紫色の錦に包まれた細長い物を新井領一郎に渡して言いました。

「これは、兄、吉田松陰の形見です。この品には、兄の魂がこめられています。その魂は、兄の夢であった太平洋を渡ることによってのみ安らかに眠ることが出来るのです。」

新井領一郎は、驚き、そして、うやうやしく拝受しました。刀は三十五センチ位、国富という銘の入った美しいものでした。

 寿子が語った兄の事とは、前に触れたように、

幕末、下田の沖の黒船に小舟で近づいた吉田松陰がアメリカに行きたいと頼み断られた事件です。

 国のために戦い、新しい日本の建設を夢見ながら二十九歳で首を切られた吉田松陰です。斬首の理由は国禁を犯してアメリカに渡ろうとした事です。

【解 説】

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○江原芳平は嘉永元年(一八四八)前橋に生まれました。この年楫取素彦は、長州で二十歳を迎えています。生糸商で巨万の富を得て前橋第一の富豪と言われた父・江原芳右衛門の跡を継いだ芳平は、下村善太郎らと共に私財を投じて前橋発展の基礎を築きました。

生糸改良のための製糸社天原社を創設しました。また、県会議員三期、前橋商工会議所の初代会頭、第三十九銀行の頭取等を務め、後に貴族院議員を務めました。

楫取が初代県令として赴任した明治九年、芳平は二十九歳の青年実業家でした。県庁を前橋に移転する条件として、楫取は師範学校と県職員の宿舎等の建設費の挙出を求めました。その時、お金を出した二十五人の実業家の中で江原芳平は最年少でした。

楫取素彦に協力した下村や江原の努力がなければ、前橋市は県都とはならなかったでしょう。

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2012年9月28日 (金)

人生意気に感ず「教育委員会の形骸化。いじめ。歴史教育。橋下現象」

◇昨日(27日)から委員会審査が始まった。私の所属は常任委員会では「文教・警察」、特別委員会では「放射能対策」と「決算特別」。昨日は、文教の教育委員会関係だった。5時近くまで続き、夜は「ふるさと塾」。ハードな1日だった。

◇私は、教育委員会の存在意義、いじめ問題、歴史教育などにつき質問した。

 教育委員会の形骸化が叫ばれて久しい。橋下維新の会代表からは、クソ教育委員会と罵(ののし)られている。委員長に教育委員会の役割と決意を語ってもらった。かつて、委員長が常任委員会に出席しないことが常態という時代があった。私がおかしいとただすと、いきなり質問されて委員長が困るという答えだった。そのような軽い人が委員長に就く事がおかしい。現在の委員長は立派に役割を果たしている。公安委員長についてはまだ実現していない。昔、記者会見にも耐えないひどい公安委員長の時代があった事を思い出す。

◇「いじめ」につき、私は、現場の校長の責任が大きいこと、根本的な対策を実行しないから、下火になってしばらくすると大事件が起き、この繰り返しだ、何とかせよ、全校長から決意と対策を文書で出させて公表せよなどと迫った。

◇日本人に一番欠けていることは、近・現代史の知識である。中学校で十分な教え方をしていない。尖閣・竹島問題が起きて痛感する。子どもたちに考える基礎を与えるべきだ。県議会でも「自虐史観」を問題にする向きがあるが、事実を正しく教える事と「自虐」は別である。韓国や中国で日本が侵略をした事実をきちんと教えた上で、日本人が誇るべき史実も教える、これが歴史教育の原点ではないか。現場にインパクトを与える為に高校入試に近・現代史を出題させる事も提案した。

◇「ふるさと未来塾」は奮起して頑張った。タイトルは「橋下徹は信長かヒットラーか救世主か」。文芸春秋、中央公論に載った主な橋下の記事を材料にした。「独裁など起きない」、「橋下ブームは一時的」、「戦争になれば参加する」、「自衛隊はなぜ尖閣に出ない」等いろいろな議論が飛び交い面白かった。

◇橋下市長が掲げる、大阪都、道州制、教育改革、首相公選制など支持する人は多い。しかし、問題は彼の人間性。過激な発言で大衆を熱狂させる様はヒットラーだ。民意で選ばれれば何でも出来る、今必要なのは「独裁」だと叫ぶ。そこに民主主義の危機と橋下の危険性を感じる。(読者に感謝)

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2012年9月27日 (木)

人生意気に感ず「安倍新総裁。石破の大量票。走る。ふるさと塾で橋下を」

◇昨日は重要な政治上の出来事が重なった。安倍新総裁が誕生し福田元首相が次期衆院選不出馬を表明した。安倍さんは挫折を乗り越えて人間的にも政治家としても成長したと思う。かつての安倍さんはボンボンでひ弱さを感じさせた。私は、新総裁の抱負を語る安倍さんの顔をじっと観察した。「日本を取り戻す。強い日本をつくる。尖閣問題では微動だにせず実行支配を守る」と語るその表情に久しぶりに国士の気配を感じた。

◇安倍さんについては、たか派とか極右という見方もあるが、極右は当たらない。民主党の腰のひけた外交が今日の日中・日韓の状況を招いた。平和憲法の堅持を前提に毅然とした意思を示せる日本、サムライの国日本を取り戻さねばならない。 

安倍さんは、かつての長州、山口県の人で岸信介の孫。バックボーンには維新の志士の姿があるに違いない。山口の人は、小さい時から吉田松陰や高杉晋作等の事を教えられて育つ。

 国難の今日、見詰めるべき原点の一つは明治維新の人々だ。この時機に群馬が初代県令楫取素彦を顕彰することにはこのような意味がある。楫取は吉田松陰や高杉晋作等と幕末の日本を熱く生き近代群馬の基礎をつくった男。昨日はこれらの出来事を安倍新総裁実現に重ねた。

◇群馬の総裁選では石破茂氏が驚く程出た。県連3Fの大ホール。正面前列の開票立会人の所に百票の束が集まる。私の担当は安倍氏で隣席の関根県議は石破氏。隣席の束は見る間に他を圧倒した。その数6774票。安倍票は2224票。群馬の持ち票は7で、ドント方式により石破5・安倍1・石原1と配分。

 石破氏に寄せられた地方の期待を新総裁はしっかりと受け止めて活かさねばならない。

◇先日の本会議で県民マラソンに触れた人がいた。すぐ締め切りになって申し込めないという不満など。例年の事で、私は早々と10キロコースに申し込みを済ませた。約1か月後に迫った。今日、早朝、久しぶりに練習のコースを走った。通常のタイムを2分縮めて48分で走れた。秋の冷気のお陰かも知れない。中国から帰国後ひどい下痢が続き暫く走れなかった。反日のボディーブローを食らった思いであった。

◇今日午後7時から「ふるさと塾」で「橋下は信長かヒットラーか救世主か」をやる。日吉町の前橋市綜合福祉会館。誰でも歓迎。民主主義の危機という視点で話すつもりだ。(読者に感謝)

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2012年9月26日 (水)

人生意気に感ず「本会議点描。決算特別委員長。八ッ場。なりすまし医」

◇一般質問最後の日。4人が登壇。いい質問もあった(後述)。その後、教育委員の選任及び副知事の承認があり、更に、決算特別委員会の設置(ここで私が登場)に関する議決があった。ここでこの日の本会議は終了であるが、引き続いて、八ッ場ダム議連(会長は私)の会議があった。これらの中には、かなり重要なものもある。慌しい一日だった。

◇一般質問では後藤克己氏の「森林環境税について」と萩原渉氏の「八ッ場ダムについて」は眠気を醒ますものだった。後藤氏は元県職員・労働組合幹部で所属はリベラル群馬・早稲田出身の二期生。一方、萩原氏は、草津パークランド、自動車教習所、ビュー環境計画研究所などを経営。明治大学出身の二期生で所属は自民党。傍聴席で大きく手を振る奥さんの様子から夫婦の関係は良好と見た。萩原氏は私と組んで「決算特別委」を切り盛りする事に。

◇この日の重要決議事項は決算特別委員会の設置。設置が議決され、46人の委員が決まり、この中から委員長を選ぶことになり私が当選。副委員長は私が萩原渉氏を推薦し賛成多数で決まった。

 私は次のように挨拶した。「議会が議決した予算が適正に執行されているかをしっかりと審査することは極めて重要な事で、県政の重要課題の成否がこれにかかっています。力を合わせて県議会の使命と役割を果たします」

◇本会議終了後に八ツ場議連の会議が。本体着工が遅れていることに関し対策を議論。議連会長の私は「決められない政治状況を打破するために行動を起こさねばなりません」と訴えた。国に早期着工を求める意見書を出すこと、1都4県の大会を開くなどの決定をした。

◇偽物時代、だまし合いの時代である。何でも驚かなくなっているが、偽物医師にはさすがにびっくり。数県の病院で約二千三百人を健診し詐欺と医師法違反等で逮捕された。

 白衣と聴診器を身につけ、受診者に「問題ありませんね」と愛想よく繰り返した。また医療系予備校の名物講師で、迫力の講義は受講生の絶大な信頼だったというから驚きだ。

 私は塾や予備校の世界をある程度知っている。人生の挫折を知る男が名講師となる例はあるのだ。妻と娘が哀れだ。

◇今日は、委員会に備え9時から常任部会。私は文教警察で質問する。10時から総裁選で私は選挙立会を。石破の束がどれ程高くなるか。(読者に感謝)

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2012年9月25日 (火)

人生意気に感ず「本会議点描。議員の今昔。中国の醜態」

◇9月議会が始まって、本会議一般質問の2日目が終わった。1日に4人、計8人が登壇した。人物にも焦点を当て、議会の歩みを振り返えりつつ本会議の状況を説明する。質問者の内訳は、一期4人、二期(女性)1人、三期2人、五期1人。

 私の席は最後列。最前列からの距離は七期の歩みを物語る。それは議会改革の歩みでもある。私が一年生だった頃の議会はひどいものだった。田舎の名士が名誉職を求めてバッジを付けたような人もおり、本会議の質問も自分で書いたか疑わしいような作文を朗読するおっさんもいたりで、その光景は茶番劇にも見えた。私のことを「こいつ」と呼んだ品の悪い同期を思い出す。三期くらいで死んだ。

 議員のレベルは有権者のレベルである。社会は激しく変化し有権者の視線は厳しくなった。議会も議員もそれに応えるべく議会改革に取り組んだ。私が議長の時、質問者と答弁者の関係は、対面で一問一答でやりとりする型を採用、その上、最大の改革はテレビ生中継の実施であった。これは革命的な効果をもたらした。全有権者が、そして自分に一票を投じる支援者が審査員の如く見るのである。質問の作文を読む人は皆無となった。

 今回もきびきびした一期生の質問の姿が見られた。政治家にとって説得力は生命である。一期生は説得力を磨くために鍛えられるのである。

◇今回登壇の一期生は次の通り(敬称略)○高田勝浩、太田市議2期を経て県会に。立教大大学院終了。主に、いじめ問題を取り上げていた。以下同じように記す。○金子渡、渋川市議3期、独協大卒、渋川警察の移転問題。○清水真人、高崎市議2期、明治学院大学卒、副知事の選任について。○安孫子哲、前橋市議2期、国際コンピューター専門学校卒、赤十字病院の移転問題。新人議員の学歴が一般に高くなったのも近年の傾向であり時代の推移を示す。

◇昨日登壇した女性議員はあべともよさん。がん対策、重粒子線治療、ストーカー対策、いじめ問題等を取り上げた。爽風に所属。女性議員は他に茂木英子、桂川孝子、小川昌の諸氏がいる。

◇日中国交正常化記念式典が中止となった。長年中国と関わってきた私は残念に思う。同時に中国を知る良い機会だと思う。長い歴史の過程で中国は絶えず周辺と争そってきた。したたかな国で争そう事も矛を収める方法も心得ている。毅然とした政治力と国民の姿勢を示す事が第一。反日デモは中国の醜態を晒した。

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2012年9月24日 (月)

人生意気に感ず「ふるさと塾は橋下。橋下は信長かヒットラーか。竹島。日馬富士」

◇27日(木)の「ふるさと未来塾」は橋下徹市長を中心とした現在の政治状況を取り上げる。わずか4年足らずの間に、維新の会を立ち上げ、大阪を席巻し、来る衆院選では全選挙区から仲間を立候補させようとしている。その勢いは止まるところがないように見える。橋下徹とは信長かヒットラーか、それとも現代日本の救世主か。真実は分からない。塾では、伝えられる発言や資料から問題点を考えたい。

◇「ふるさと未来塾」は、本来歴史を語る塾であり、既に十数年も続けている。今回も歴史的な問題や背景に注目する。午後7時から、日吉町の市総合福祉会館が会場で誰でも歓迎。ここは、一貫して、私の舞台と考えているので、独断があり、偏見のそりしを恐れない。腹を立てて次から来なくなる人もあった。毎回、面白い議論が活発に交わされる。

◇橋下市長の主張の多くは、重要で、日本の現在と未来がかかっている問題だ。例えば以下の如く。「大阪都」の構想。これは、府と市の存在による二重行政の無駄を改めるため府と市を統合して大阪都にするというもの。その先には道州制を考えている。大胆な公務員制度改革では、大阪府職員基本条例を作り、人事評価で能力とやる気を評価し懲戒処分のルールも明確化した。教育改革では教育の自由化(学校設立・学校選択・教員採用の自由)を進め、教育委員会廃止まで主張。エネルギーも新エネルギー(太陽光)の大量導入を訴える。更に、憲法を改正して首相を国民が直接選ぶ首相公選制を提案。これは、現在の何も決められない政治に対する挑戦だ。

◇それでも橋下氏の方向は危なっかしい。橋下氏は今の日本に必要なのは「独裁」だという。彼の「独裁」とは、選挙による「民意」の支持に基づく政策の断行のこと。しかし、この民意を過信してはならないのだ。出口の見えない閉塞感と極度の政治不信が高まる中で大衆の票は雪崩を打って動く。そこで示された「民意」により全権を任されたと受け止め何でもやれると考えるのはおかしい。

 こういう危険性を橋下市長の言動につき感じる。民主主義は選挙を通して実現される。この選挙という民主主義の血管は動脈硬化を起こしているのが現実。日本は脳梗塞で倒れる危機にある。「ふるさと塾」は勉強のよい機会だ。

◇橋下市長は23日、竹島につき日韓共同管理を主張。日本固有領土論に水をさすのか。

◇日馬富士は全勝し土俵に額をつけ、土俵の神様に感謝と語った。小さな体を支える精神力に感動した。モンゴルの力士にサムライを見た。(読者に感謝)

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2012年9月23日 (日)

『楫取素彦読本』第32回

九、生糸の直接輸出と吉田松陰の短刀

ここで、楫取素彦が生糸業に力を注いだことを示す興味あるお話を一つ紹介します。明治の初め、日本は貿易には慣れていません。今日の貿易立国日本から見ればヨチヨチ歩きの赤ちゃんです。生糸の輸出も、中間の貿易業者に利益を吸い取られてしまうことが分かってきました。

そこで楫取素彦は、アメリカに直接輸出する道を開拓しようと、志ある実業家の渡米を助けることにしたのです。

ある時、新井領一郎という青年実業家が楫取素彦を訪ねました。販路開拓の目的でアメリカに渡る前、県令に挨拶するためでした。

【解説】

下村善太郎は幼名を定之丞といい大変腕白でした。生糸商人として巨万の富を築いた点で前橋を代表する生糸商人でした。そして、桃井小の前身である十八郷学校の開設、明治七年の本町の大火への義援、明治九年の県庁誘致、臨江閣の設置等に率先して私財を投じました。

前橋の誕生は明治二十五年(一八九二)のことで、下村善太郎は初代市長に就任しました。在任一年二ヶ月、六十七歳で病没しました。

その功を表彰するため市は明治二十六年六月市葬を行なうことにしました。会葬者は本町の下村家から、祭場となった竜海院まで続く程盛大だったと長く語り草となりました。

明治天皇が臨江閣にお泊りになったのはこの年十月のことでした。

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2012年9月22日 (土)

「楫取素彦読本」 第31回

前橋にこの製糸工場が作られたのは明治三年のことでした。それは、「日本で最初の富岡製糸」より二年以上も早かったのです。そして、藩の制度が廃止され県が置かれることになった、

いわゆる廃藩置県の実施は明治四年でした。

このような流れの中で、明治九年、楫取素彦は、初代群馬県令として群馬に赴任したのです。

当時、県庁所在地を前橋にするか高崎にするかでもめていましたが、楫取素彦が前橋を県都と定める決断を下したのは、このように前橋に生糸業の盛んな動きがあったからです。

つまり、生糸業を新産業として発展させることによって群馬を興そうとした楫取素彦は、多くの生糸商人が活躍する前橋の地に県庁舎を設けることが得策と考えたのです。

【解 説】

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明治三年に前橋藩が建設しました。動力には、近くを流れる広瀬川の水力発電が利用されたと碑にはあります。広瀬川の水力発電は、新エネルギーとして、現在、甦ろうとしています。

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○前橋藩の日本最初の機械製糸場建設に尽力し、富岡製糸場の所長として活躍しました。

富岡製糸場の世界文化遺産登録の歴史的背景の中に登場する人物です。

○日本最初の機械製糸場跡

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2012年9月21日 (金)

人生意気に感ず「代表選演説の惨状。危険な橋下現象。ふるさと塾は橋下」

◇民主代表選候補者の初の街頭演説が19日JR新宿駅で開かれた。党主催の街頭演説会はこの日が最初で最後。野田首相、赤松元農相、鹿野前農相の演説はいずれも迫力に欠け、数百人の聴衆の拍手はまばら。「恥を知れ」、「詐欺師軍団」、「帰れ」、「やめろ」、「うそつき」等のヤジの嵐だったと言われる。

 自民党は党首選の街頭演説を既に6都府県の7ヵ所で行ったのに対し、民主党はたった1回でしかもこの惨状。党代表を選ぶ選挙の筈なのに、候補者も聴衆も解散後の総選挙で頭の中はいっぱいだったことだろう。

 総選挙を自民党対民主党に限れば勝敗は明らかのようだ。しかし、全体的にみて自民党が優勢なわけではない。自民でも民主でもない無党派層がどう動くかがカギとなる。

◇今日の日本は、後で振り返った時、あの時が最大の岐路だったと言われるかも知れない。そんな渦が猛烈な勢を増す時点に立たされている。渦の中心にいるのが橋下徹という男。心情的には、私はこの男に興味と共感を感じる。同和、暴力団の父、貧しい少年時代。少年時代の私が置かれた社会の最下層という境遇が彼のそれと似ているからかも知れない。更にそれ以上に、出口のない閉塞感に陥っているという一般市民の心理を私も持つからだ。

◇橋下の過激な発言を熱狂的に受け入れる民衆の状況に私は危険を感じる。前回の衆院選では、民主党という名を掲げるだけで当選するものが続出した。有権者は「風」に動かされる。今度の「橋下」という「風」はもっと強力かも知れない。選挙に勝てば、それが民意であり主権者の声となる。それでいいのか。

 民主主義とは理想として美しいが脆(もろ)さと危険を伴う。かつて、ノック知事を生んだ大阪から旋風が始まったことも興味あることだ。先日、大阪で暮らす友人のジャーナリストは、ヒットラーの出現を思わせると語っていた。選挙で勝つことを考える政治屋が合流の動きを見せている。

◇危険を煽る要素に尖閣、竹島、北方領土などの問題があり、北朝鮮の拉致の問題がある。多くの国民はこれらの隣国になめられてなるものかという思いを抱いている。過激な扇動者によって偏狭なナショナリズムが広がることは日本の為にならない。それこそ民主主義の危機。今回の衆院選は民主主義がかかった意味をもつ。27日の「ふるさと塾」は橋下を扱う。(読者に感謝)

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2012年9月20日 (木)

人生意気に感ず「中国リスク管理。中国が抱える矛盾。反日の予測日」

◇中国ビジネスに関するリスク管理は今や中国と取引する企業にとって最大の課題である。今回、中国各地で起きる反日デモの中には暴徒化し破壊や略奪に走るものも生じている。標的にされた企業の損害は甚大である。

 中国とのビジネスがこれからも不可避である以上、リスクを避ける方法、已むを得ない場合でも最少にする対応が求められる。私が会長を務める自民党日中議連は、「最新の中国情勢と中国ビジネスのリスク管理」を内容とする研修会を計画している。

 10月10日午後1時、自民県連3F。現在組織固め等が進行中の日中友好協会(発起人代表は私)の会員にも声をかける。講師は膨大な中国情報とリスク管理のノウハウを持つ東京海上日動リスクコンサルティング(株)ベテラン現地体験者。

◇今回の訪中で感じたことは、中国に出てビジネスをしようとする者は、普通の商人感覚ではだめである。日中の近代の歴史知識、中国人の習慣等を知った上で、大小のトラブルに備えたマニュアルを用意しておかねばならない。

◇尖閣問題は中国が抱える数多い対外摩擦の1つである。そして、それらは、一党独裁の矛盾とも連動し合っている。拡大する貧富の差と汚職に民衆の不満は募り最近1年間の政府に対する抗議行動は20万件に近いという。これらは、天安門事件(1989年)のような民主化運動に発展しかねない。チベットやウィグル自治区の分離独立問題も抱える。中国政府は民衆の不満を「尖閣」に向けたいだろう。

◇中学で日本が中国で行った侵略行為をきちんと教えるべきだ。歴史的事実をきちんと教えることは「自虐」ではない。過去の過ちを認めた上で堂々と胸を張るべきだ。さもないと中国が靖国を初め歴史問題で過敏に反応する理由を日本人は理解出来ない。

◇中国で反日デモが起きる日を挙げると、9月3日(1945年)抗日戦勝記念日、9月18日(1931年)柳条湖事件、毎年10月17日~20日の靖国神社大祭、11月11日(1937年)上海陥落、12月9日(1935年)北京の学生による反日デモ記念日、12月13日(1937年)いわゆる「南京虐殺」が発生した日等。

◇明日21日、朝6時より伊勢崎市の企業人の集りで楫取素彦を講演する。記念事業は終わったが楫取を活かす道は、これからスタートする。

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2012年9月19日 (水)

人生意気に感ず「自民の朝食会で柳条湖を。楫取の諸行事成功す」

◇自民朝食会で訪中の報告ということで「8・19」を話した。県議会初日の恒例の朝食会。何度もこの欄で触れたが、瀋陽総領事館のこと、1931年「9月18日」が日本が敗戦の泥沼にはまり込む発端になった柳条湖事件の日であること等。昨日9月18日は予期の通り中国全土で反日デモが吹き荒れ、瀋陽総領事館は前回に数倍するデモに囲まれペットボトルや汚物を投げつけられた。過去の歴史を知るものとして、今は冷静に耐える時だと思う。

◇初日の議会は10時30分で終わり、楫取の3つの行事が続いた。清光寺法要、臨江閣の偲ぶ会、テルサ記念講演である。

 清光寺は楫取の妻寿子が西本願寺の門主に訴えて開いた浄土真宗の説教所がその始まりである。寿子は吉田松陰の妹で烈婦と言われた。43歳で亡くなった時、楫取は墓誌に妻を讃えその死を慎む言葉を刻んだ。その情は切切として胸を打つ。住職は説明の中で、明治という時代に自分の妻をこのように表現するのは常人に出来ることではないと語った。楫取素彦はこのように誠実さと熱情の人であった。

◇臨江閣二階の大広間は壮観だった。昔はさえぎる物もなく眼下に滔滔と利根の流れがあった筈。楫取が構想したこの場所で百年余を経て共に県都を築いた人々の子孫たちが一堂に会した。歴史が一挙に甦る瞬間であった。私は、楫取素彦の遺徳のなせるわざであり、楫取が培った絆の堅さを物語るものと挨拶した。

◇最後は、午後2時からの前橋テルサでの行事。正面に大きな楫取の肖像画がかけられ、その前に設けられた結界の中で献茶があり能が舞われた。献茶は顕彰会副会長森田宗均氏担当、能は能楽師下平克宏氏が「融」(とおる)を演じた。いずれも日本の伝統文化を、観る人の心に刻むもので、楫取の追善にふさわしいものだった。

◇新井領一郎の子孫、ティム新井氏と楫取の子孫との対面式は会場を驚かせるものだった。時を越え太平洋を越えて実現した不思議な出会いであった。

◇86歳のひ孫小田村四郎氏の語り口は見事だった。幕末の日本の歴史の中に楫取の生きざまをしっかりと描いていた。

 私は挨拶の中で、楫取素彦は、吉田松陰が果たせなかった夢を群馬の地で実現させようと勤めたのですと話した。楫取素彦読本を多くの人が買ってくれたことは顕彰会として有り難かった。(読者に感謝)

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2012年9月18日 (火)

人生意気に感ず「9・18と反日デモ。今日は楫取の集い。子孫が集まる」

◇「よいところで帰った」訪中団の1人が言った。10日、帰国直後に反日デモが激化したからだ。瀋陽総領事、田尻和宏氏は、9・18が心配だと語り、長春の旧満州国宮廷の庭には「勿忘九・一八」(9・18を忘れるな)と紅沢民の言葉が刻まれた大きな石があった。

 9・18とは1931年9月18日、関東軍の謀略による満州鉄道爆破事件(柳条湖事件)があった日。これを発端に満州事変が始まり満州国建国となる(1932年)。そして日中戦争に入っていく(1937年)。9・18は、中国にとって日本の侵略を怨み記念する日である。

 この日に反日デモを呼びかけているから一層激化するだろう。尖閣への漁船の出動の動きも既に伝えられる。中国の知人によれば、中国政府に対する不満の発散と重なっている。現に広東省ではデモ隊が共産党の建物に入ろうとして当局と衝突した。私は、今、イスラム圏で燃えさかっている反米デモの影響もあると思う。

◇ティム新井氏夫妻の歓迎晩餐会があった(17日)。明治9年、楫取素彦の妻(松陰の妹)から松陰の短刀を渡されてニューヨークに渡り、絹生直輸出の道を開いた新井亮一郎のひ孫である。今日(18日)の楫取の法要諸行事のためカリフォルニアから来日した。

 ティム新井氏は完全なアメリカ人だが写真の領一郎と風貌が似ている。領一郎は驚く程ハンサムで魅力的な青年だったと言われる。

 萩の楫取誕生地の顕彰会代表中原正男さん等も参加。「百年の歳月を越えて、アメリカから、そして萩から、関係者がお集りになったことに不思議な気持ちがします。楫取の絆が引き寄せたのです。」私はこのように挨拶した。ティムさんは新井領一郎の出身地・黒保根村に行ってきた。森林を何か所か持っているので管理者に会ったという。

◇今日(18日)は清光寺で百回目の法要、臨江閣で偲ぶ会、午後2時から前橋テルサで、記念講演、「能」、献茶等が行われる。入場無料で多くの一般市民が参加の予定だ。この歴史的な行事に一人でも多くの人の参加を望む。

「能」は無形重要文化財の能楽師・下平克浩氏が「融(とおる)」を30分舞う。記念講演は2人の楫取家の子孫が楫取を語る。5代目当主の能彦氏とひ孫に当たる元拓殖大学総長小田村四郎氏である。

 冒頭、私が約10分話す。「楫取素彦読本」の販売も行う。日本の文化と歴史を学ぶ良い機会だとしてアジアの留学生も多く参加する予定である。隣国では反日デモが荒れる。歴史の理解は重要なのだ。(読者の感謝)

☆土・日・祝日は、「楫取素彦読本」を連載しています。

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2012年9月17日 (月)

「楫取素彦読本」 第30回

幕末に横浜などいくつかの港を開き外国と貿易を始めた頃、日本の輸出品の大部分は生糸で、群馬は生糸の貿易で重要な役割を果たしたことは前に触れました。

群馬は土地の性質が蚕の餌になる桑に適したことから古来養蚕が発達していました。

前橋藩は生糸の生産に力を尽くし、横浜で生糸が取引されるようになると前橋の生糸は大変好評を得ました。外国では、「マイバシ」というブランド名で通るようになったといわれます。

前橋藩は生糸の質を高め、また大量に生産するために、器械製糸場を設けました。現在、前橋市住吉町の国道17号沿いに「日本で最初の機械製糸場跡」という石碑が立っています。

前橋には、この藩営工場と共に、生糸産業を支えた多くの商人がおりました。後に初代前橋市長になった下村善太郎はその代表的人物の一人でした。

【解 説】

前橋のブランド「マイバシ」

○ヨーロッパでは、微粒子病というかいこの病気がはやっていました。

 そこで、質の良い日本の生糸が尊重されたのです。

前橋藩の生糸は、マイバシ(前橋のこと)のブランド名で高い評価を得ていました。

そこで、日本各地では、質の悪い生糸をマイバシの名で売り出す悪質な業者も現われました。

群馬の識字率

○群馬県が堂々たる生糸の歴史を持つ背景には、群馬は畑作地帯が多く、土地の性質がカイコの餌となる桑の栽培に適していたという事情がありました。

なお、生糸は、換金の必要があるので商人とのやり取りの上で字が読めることが重要でした。

これは群馬の識字率が非常に高かったことやかかあ天下といわれる女性パワーの基礎にもなっていたと思われます。因果のつながりは面白いものです

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2012年9月16日 (日)

『楫取素彦読本』第29回

ですから、新政府の最大の課題は、工業力で外国に追いつくことでした。殖産興業といって、新産業を興し発展させることに国運をかけたのです。楫取素彦もこのことは、当然強く意識しておりました。

楫取は、既に群馬で根付いていた生糸産業を基礎に、それを県の政策として位置づけて発展させたのです。

ここで、群馬の生糸産業の歴史を少し振り返ることに致しましょう。

群馬県が堂々たる生糸の歴史をもつことは、「県都前橋生糸の市」、「繭と生糸は日本一」、「日本で最初の富岡製糸」など上毛かるたにも現われています。

戦争直後(昭和二十二年)に作られた上毛かるたは、昔は子どもたちの間で大変盛んで、遊びの中で自然に群馬の歴史を身につけることが出来たのに、今日は関心が少し薄くなっているように感じられます。

【解説】

船津伝次平を推挙

楫取素彦は人づくりと同じ目的で人材の発掘や育成に務めました。この点で注目されることに船津伝次平を政府に推挙したことがあげられます。殖産興業を進める政府は農業の指導者を求めていました。この流れの中で楫取素彦は彼を大久保利通に推挙したのです。

 船津伝次平は、旧富士見村の生まれで若くして篤農技術で名を成していました。 楫取に推挙された伝次平は駒場農学校(後の東大農学部)の教師として活躍しました。

※土日祝日は中村紀雄著「楫取素彦読本」を連載しています。

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2012年9月15日 (土)

「楫取素彦読本」 第28回

八、新産業(生糸業)に力を尽くす

さて、楫取素彦は、任された群馬県を教育と新産業で発展させようとしましたが、新産業とは生糸業のことでした。

産業を発展させることは、明治の初め、日本にとって特別の意味がありました。吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬など幕末の志士が、外国に対して強い危機感をもっていた事を話しました。

外国の力の源泉は黒船に現われた工業力でした。西欧の国々は既に産業革命を達成させ、圧倒的な国力で、後進国を次々に支配下に置こうとしていたのです。当時の国際社会は、弱肉強食の状態でした。

【解 説】

P1010080

○「楫取素彦功徳碑」は現在、県庁舎北西の高浜公園にあります。長崎やニューヨークに至る広範囲の有志が資金を出しました。撰文は初代史学会長・重野安繹、篆額は有栖川宮熾仁親王、書は明治の三筆の一人金井之恭です。楫取が群馬を去った六年後明治二十五年に建てられました。これを見ても、楫取がいかに国中から高く評価されていたかが分かります。

○楫取素彦は、多胡碑を守ることの他に、多くの古墳の調査と保存にも力を入れました。

これは、伝統の文化を尊重し、祖先をうやまうことの現れです。

教育者、そして、文化人としての楫取素彦には、この点においても混迷する現代に於いて模範とすべき点が多くあるのです。

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2012年9月14日 (金)

人生意気に感ず「中国デモ激化。イスラムの反米デモ。楫取の会」

◇私を団長とする訪中団が帰国後、尖閣国有化に反対するデモが中国各地に広がっている。私と会見した瀋陽総領事館が9月18日を心配していた事が改めて思い出される。「9.18」とは満州事変の発端となった1931年9月18日の南満州鉄道爆破事件である。その翌年、中国人が偽満(にせまん)と呼ぶ満州国建国がなされた。18日が本当に心配となった。中国では18日の反日デモが各地で呼びかけられている。

 このような歴史問題と尖閣問題が結びついて反日感情を煽る事態になった。私たちの訪中時は中国人の厳しい視線や態度を感じなかったが、尖閣国有化表明後、上海で、日本人がラーメンを顔にかけられ、レストランで暴行を受けるなどの被害が発生している。日本商品の不買運動も広がり始め、経済界は懸念している。

◇中国との経済活動を進める上でのリスク管理は以前から問題となっていたがここに来て経済界のリスクは深刻となった。私は自民党日中議連の会長、そして進行中の群馬県日中友好協会の発起人代表としてこの問題に大きな関心をもっている。

 10月10日、午後2時から県連で「日中経済活動に関するリスク管理」につき研修会を開く計画である。講師は保険会社のスペシャリスト。同社は、リスク管理に関する多くの資料を持っている。

◇世界が一挙に騒がしくなったと感じさせるのは、イスラム世界の反米デモである。9月11日に事件が発生したことに私は深刻な背景を感じる。

 2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突き刺さったあの衝撃の映像は私のまぶたに焼き付いている。首謀者とされたアルカイダのビンラディンはアメリカの手で殺された。アルカイダの背景にはイスラム世界の根強い反米感情があった。

 今回の事件の発端は、イスラム教の預言者ムハンマドを冒瀆する映像が米で作られたことに対するイスラムの抗議デモであり、その中で米国大使等が殺された。9月11日に合わせてアルカイダ系の策謀があったとする報道がある。

◇キリスト教、イスラム教の対立は十字軍以来永遠の人類史的課題。政教分離の理想など吹き飛んでしまう。日本人の宗教心は限りなく薄い。

◇18日2時「テルサ」で楫取の集いが。子孫が楫取を語り、「能」もある。入場無料。参加歓迎。今日、午後8時20分より、GTVで私は楫取を語る。(読者に感謝)

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2012年9月13日 (木)

人生意気に感ず「新聞人と話す。パラリンピックの背景。橋下現象と民主主義の危機」

◇大学時代の友人H君が紹介したい人がいると言い出して何年か過ぎた。今年は、年賀状に「実現しましょう」とあった。宿願の中馬(ちゅうまん)氏との会見は信濃毎日新聞社の一室で行われた。H君は不自由な足を引きずりながらその友人O氏を伴って大阪から駆けつけてくれた。3人は、かつて、朝日新聞で活躍した同志であった。

 H君の足は脳梗塞の後遺症を示す。倒れた時は俺の人生も終わりと思ったそうだが不屈の闘志で立ち上がった。駒場寮時代の懐かしい出来事も話題になった。

 新聞人の話題は豊富で面白かった。席を移して、イタリア料理を楽しみながら話は尽きない。パラリンピックについて、へえーと思う話があった。伝聞として紹介しよう。

 パラリンピックの選手にはチェルノヴィリの被災者が何人もいる。事故は1986年だから、26年が経過した。その後に生れた子どもも20歳をこえる。手足が奇形な子どもで捨てられたりして孤児院に入りそこから養子に出される子がいるという。引き受け手はアメリカ人が多い。アメリカは偉いところがある。キリスト教をバックにした人道主義だろう。養親は、自律のためスポーツまで身につけさせる。日本人には、なかなか出来ない。こんなことが話題になった。

◇私の近況が聞かれ、楫取素彦に打ち込んでいることやつい最近中国を訪問した感想などを話した。「楫取素彦読本」を渡すと新聞人たちは、頁をめくりながら、奴隷船マリア・ルス号事件も出てますね、とか、楫取は、廃娼運動をやったのですかなどと興味を示していた。

◇群馬で「維新」の動きはどうですかと始まり、橋下現象が話題になった。2人は大阪なので、大阪の空気をたずねると、ヤツはヤバイ、過激な発言が大衆に受けている、心酔派と大嫌い派と両極端だ、選挙の当選目当てで近づく政治家が多い、ヒットラーの時に似ている。こんな発言を聞きながら私も同感であった。

 橋下徹の実態はよく分らないが、外交、経済、原発等問題山積状態の中、大変な政治不信が渦巻いている。多くの国民は、決められない政治と閉塞感から抜け出したいと願っている。こんな時、過激なアジテーターに国民が動かされるのはうなずける。私もヒットラーの出現時と似ていると思う。その意味では民主主義の危機である。総選挙が近づいた感じだ。選挙は民主主義実現の重要な手段だが、選択肢が限られていることが民主主義の危機を増幅させる。(読者に感謝)

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2012年9月12日 (水)

人生意気に感ず「長春の偽皇宮。満州国の末路。天城山心中」

◇瀋陽総領事の田尻和宏氏が「9.18と重なる」といって懸念したのは、1931年9月18日の柳条湖事件、つまり関東軍の謀略による南満州鉄道爆破事件である。これが発端となり満州事変が起こり、1932年満州国が建国される。中国人は偽満(にせまん)と呼ぶ。

 9月8日、私たちは吉林省の長春の至り、「偽皇官」を視察した。長春は、かつての満州国の帝都・新京で皇宮は皇帝溥儀が暮らした宮殿である。一歩はいると「勿忘、九・一八」(九・一八を忘れるな)と刻まれた大きな石が置かれている。署名は江沢民である。

 満州国の事は、「ふるさと塾」で何度も取り上げたことがある。しかし、宮廷内に入り、溥儀、婉容などの写真や遺物などに接し改めて歴史の重さと壮大な悲劇のドラマを肌で感じた。江沢民が「勿忘九・一八」と石に大署している事実は、中国政府が、この宮廷及び「満州国建国」を日本の侵略の象徴として如何に重視しているかを示すものだ。

 宮廷内には婉容と溥儀の写真が多く展示されていた。婉容は満州族の娘で17歳の時溥儀と結婚した。瞳が大きく貴品に満ちたはっとするような美人である。ある部屋に、横たわってアヘンを吸う婉容の人形があった。一説によれば溥儀には男性の能力がなかった。婉容は侍従との不倫におちアヘン中毒になった。日本が敗戦し、満州国が滅びた後、満州の荒野を逃げる婉容は糞尿もたれ流しでその狂った姿は衆人の好奇の目に晒されたという。

 宮廷内には皇帝を事実上操った吉岡安直の執務室があった。また廊下には訪れた著名人の写真が並び、その中にはかつての中曽根康弘氏や最近失脚したのものもあった。(その妻・谷開来は英国人殺害の罪で執行猶予付死刑判決を受けた)

◇私はバスの中で、溥傑と嵯峨浩の結婚、二人の子慧生が天城山で心中した出来事を話した。皇帝溥儀には子がなかった。日本人の血を帝室に入れたい日本は皇帝の弟溥傑と嵯峨侯爵の娘浩を結婚させた。その間に生れた慧生は学習院大学に進み同級生大久保武道と恋愛したが天城山で心中した。死後慧生から寄せられた多くの恋文が発見される。武道がいた学生寮の寮監穂住吾一は二人を哀れんで、「我れ後見を愛す」として出版。この学生寮は私がいた本郷3丁目の東大の近くにあった。正に「天国に結ぶ恋」であった。(読者に感謝)

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2012年9月11日 (火)

人生意気に感ず「中国のエネルギー・風力発電。心の交流会」

◇田尻総領事は、中国のエネルギー事情に関する私の質問に次のように答えた。「石炭70.4%、原油17.7%、水力6.0%、天然ガス4.5%、原子力0.7%、再生可能エネルギー0.7%」。火力発電が圧倒的であることが分かる。

 「日本の原発事故の影響は」と問うと、この数字は「3.11」以前のエネルギー政策だと言う。また、総領事は、2015年までに再生可能エネルギーの割合を20%にすると述べた。私は、日本の「3.11」は中国へのエネルギー政策に影響を与えるに違いないと思った。

◇再生可能エネルギーの1つ風力発電につき注目すべき光景を見た。瀋陽から長春へ向かう電車の中でふと見ると、並行して走る丘陵地に白い風車が林立している。高速で動く車窓に風車は数分間登場し、丘陵が方向を変えると共に風車群も視界から去った。かなりの数に違いない。広い中国は、現在世界の工場として躍進中だ。それを支えるのがエネルギーである。風力、太陽光、地熱などの再生可能エネルギーでまかなうのは容易でない。結局中国は原発を増やさざるを得ない。その安全性は政治態勢と密接に関わる。一たび事故が起きれば放射能は風下の日本を襲うことになる。「3.11」を経た日本の新たな恐怖である。

◇7日夜、今回の訪中最大の成果と思える出来事があった。帰国者協会副会長の森田洋一さん(胡万海)は吉林省出身である。東北各地に友人知人が沢山いる。11日の夜、瀋陽市の飯店で森田さんの友人たちが歓迎会を開いてくれた。市の要職にある人、金融の仕事にたずさわる人など多彩な顔ぶれである。

 中国料理と白酒で時が経つのも忘れて話がはずんだ。彼らの語ることは生きた中国情報である。尖閣の反日デモのことや日本がかつてこの地で理不尽な侵略をしたことも彼らの視線や言葉には表れていなかった。

 私もその事を忘れていたが、やがて今進行中の交流の重要さに気付いた。私は立ち上がって言った。「私たちは、心配しながら中国に来ました。日本人は帰れと言われるかと思いました。皆さんの温かい心に感謝致します」「私は森田さんとポンヨオ(親友)です。だから皆さんともポンヨオです」市の部長職にあるという女性が言った。他民族との攻防の歴史を乗り越えてきた中国人の強(したたか)さと懐の深さを感じた。日中友好を進める上での要点である。(つづく)

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2012年9月10日 (月)

人生意気に感ず「緊迫の瀋陽総領事館。まぼろしの満州国」

◇中国残留帰国者協会訪中団一行は、初日7日、瀋陽総領事館へ向かった。瀋陽は、遼寧省の省都で、かつては、奉天だった。瀋陽総領事館のガードは極めて厳重だった。高い塀には、先の尖った鉄柵がならびさらに数十メートルの距離に塀を囲むように柵がもうけられていた。指定の午後二時半、狭い門扉が開き副領事の山崎亜季子氏があらわれた。手にする紙片には私たち13名の氏名がある。「パスポートを提示して下さい」と彼女は言った。ピリピリとした緊張感の中、廷内に入る。この厳しさが尖閣問題に起因する事は明らかだった。私は、かつて、南米ペルーの日本大使公邸を訪ねた時の光景を思い浮かべた。  会議室では、総領事に対面するかたちで席に着いた。私の正面が総領事の田尻和宏氏でその左右は主席領事である。  田尻氏は、予め私が提出しておいた質問項目について説明した。尖閣、中小企業の進出、エネルギーなどに関する事である。  総領事は、尖閣デモにつき約300人が詰めかけ、ペットボトルが投げられたりした事、また、九月十八日は、柳条湖と重なるので心配している事などを語った。  総領事が言う柳条湖とは、昭和六年(1931)九月十八日に起きた柳条湖事件の事である。関東軍の謀略による南満州鉄道爆破事件である。それは、奉天(現在の瀋陽)郊外で起きた。これが発端となって満州事変が始まり、翌昭和七年日本の(傀儡かいらい)満州国が建てられた。中国人は、九月十八日を、日本の侵略と結びつけて特別の思いで迎える。尖閣と重なるようにこの日がせまる。総領事の懸念はこの点にあった。 ◇総領事の話は、大澤知事の訪問も含めさらに続くが、ここでは、まず、満州国に触れる。中国人は偽満(ウエイマン、にせ満)と呼ぶがこの言葉に満州国建国に関する歴史的事実と中国人の強い感情が凝縮されている。  その昔、中国東北部は、満州族が住んでいた。彼らは中国を征服して清王朝を建てる。その最後の皇帝が溥儀である。日本は廃帝溥儀を利用して満州国を建てた。溥儀が祖先の地に自らの意思で建国したという筋書きである。中国は国際連盟に提訴。リットン調査団は、民族の自決による建国だという日本の主張を認めなかった。日本は国連を脱退。孤立化し太平洋戦争への泥沼に入っていく。今回の訪中は、躍動する現代中国とその背景にある日中の近代史を学ぶ旅である。(つづく)(読者に感謝) ☆土・日・祝日は、「楫取素彦読本」を連載しています。

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2012年9月 9日 (日)

「楫取素彦読本」第27回

上毛かるたに「昔を語る多胡の古碑」とあるように、多胡碑は、古代の中央政府の支配関係が上野(群馬県)の地にいかに及んでいたかを語る貴重な資料です。

 また、自ら書の達人であった楫取は、多胡碑に刻まれた書の価値を見抜き高く評価しました。 多胡碑の書は、一見、素朴で平凡、そんな素晴しいものに見えません。しかし、県書道界のトップを極めた人があれだけの書は書けないというのです。

 楫取素彦は、この多胡碑の拓本を中国人書家・楊守敬に贈呈しました。そして、揚守敬がその著書「楷法遡源」でこれを紹介したために書道的価値が広く認められようになりました。

【解説】

「古代の群馬は東国の中心だった」

古代の上野国は政府にとって東国支配の拠点として極めて重要な地でした。多くの古墳の存在はそれを物語るものです。また、当時、馬は特別貴重なものでしたが、上野国には国家の「牧」が多数あって、この馬を朝廷に貢納しました。

上野国には、先進の技術や文化が中央からもたらされました。それを担った人々は「渡来人」と呼ばれた朝鮮半島から来た人々でした。

多胡郡とは外国人が多い郡を意味したという説があります。胡人とは中国で昔、辺境の異民族を指したからです。上毛国の古代の謎は国際的で壮大ですね。

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2012年9月 8日 (土)

「楫取素彦読本」 第26回

 七、楫取素彦と多胡碑

楫取素彦は、文明開化の行き過ぎを抑えようとしたことを述べましたが、彼は同じ考えに基づいて、古来の先人が残した歴史遺産を守ろうとしました。先人の業績を尊重することは、祖先を尊う心や郷土を愛する心を育てることに通じ、道徳教育の基礎であると考えたのです。

 そこで、楫取は古墳や古碑の調査、保護に努めました。今日、東国文化に光をあてることがクローズアップされていますが、その中で、多胡碑の存在が注目されています。

 楫取素彦は多胡碑のことを日本三碑の第一位であるとし、「碑亭」を作って永久保存に努めました。日本三碑とは、群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑、宮城県の多賀城碑を指します。

【解 説】

   多胡碑

Photo

碑文

『弁官符す。上野国片岡の郡・緑野の郡・甘楽の郡、せて三郡の内三百戸を郡と成し、羊に給いて多胡の郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅に宣る。左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊。』

○碑文の要点は次の通りです。政府の命令で、上野国(当時の群馬県)の片岡の郡、緑野の郡、甘楽の郡の三つの郡から三百戸を分けて新しい郡をつくり多胡郡としなさい。羊という人に支配させる。

○和銅四年とありますが、西暦では、七二年で、奈良時代が始まったのが七一〇年でした。

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2012年9月 7日 (金)

人生意気に感ず「瀋陽と長春を訪ねる。満州の歴史。いじめで地方と国が協力を」

◇今日、7日から4日間、中国帰国者協会は訪中する。昭和47年(1972)田中内閣の時、日中国交回復し今年は40周年。協会の人たちは、国交回復を機に旧満州から引揚げた人たちが中心。

 私は「炎の山河」で、松井かずの生涯を書いた。彼女は吾妻郡の生まれで前橋市の製糸工場で働いていたが敗色濃い昭和20年5月(終戦は8月)勤労奉仕隊に参加して満州に渡り死線をさまよう体験をした。帰国後は協会の前橋支部長を務めたが数年前に亡くなった。情報を知らない国民が悲劇を味わう典型である。

◇満州国は、清朝最後の皇帝であった溥儀を利用して日本が建てた国で、日本のかいらい国家だった。中国は日本の侵略だと国際連盟に提訴。日本は連盟を脱退、やがて日中戦争となり、太平洋戦争の泥沼にはまり込んでいく。

 満州国のあった東北三省の地はもともと清朝の祖先、満州族が住んでいた。だから、清朝の最後の皇帝だった廃亭溥儀が祖先の地にかえって満州国を建てるという筋書きであった。国連のリットン調査団はこれを認めなかった。中国人は偽満(ウェイマン、にせの満州)と呼ぶ。この旧満州国の首都が新京で今日の長春である。

 私を団長とする訪中団は瀋陽(満州時代は奉天)と長春を訪ねる。瀋陽では日本総領事館で総領事と会い、最近の中国東北の事情を聞く。

 瀋陽と長春では、最近、尖閣問題でデモがあった。彼らの心理には日本の満州侵略のことがあるかも知れない。県が進める国際戦略、及び、現在進行中の群馬県日中友好協会に対する一助になればという思いもある。中国からレポートを送るつもりだ。私を団長とする13名は、午前4時、前橋をスタート。自宅を出るのは3時20分。(この文は前日夜に書いている)

◇札幌の中1男子が「いじめられて死にたい」とメモを残して自殺した。なぜ連鎖するのか。やりきれない気持ちだ。いじめ問題は役所の感覚では解決出来ない。地域社会全体で取り組むことが必要だ。山口県の先日の調査で地域社会の学校応援隊が活躍していることに注目した。上手くコーディネートすればいじめの有効な対策になるだろう。

◇文科省は、いじめで学校や児童生徒を支援する専門家の組織を全国200地域に設置する考えで希望する自治体から「計画」を募り選定するという。群馬県教育委員会も、積極的に対応すべきだと思う。生徒・児童の命にかかわる事だから国と自治体が力を合わせねばならない。(読者に感謝)

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2012年9月 6日 (木)

人生意気に感ず「原発ドームを見る。広島県警と暴力団。広島の奇怪な事件」

◇5日、視察最終日、朝5時30分、グランドインテリジェントホテルを出て、大通りを走った。既にまちの営みは始まっていて、人々の動きがあり朝の音が流れていた。どこを走っているのか分からない。25分程走った時、頭を上げるとはっとした。商店の上に、目に入ったのは鳥の巣のような円形の構造物。瞬間、原発ドームと思い走り込む。

 以前来ている所であるが、ドームを見る目に気持ちが乗っていた。柵を一周しながら赤く錆びた鉄骨、崩れた壁面を見る。説明のプレートには、藩政の頃から賑やかな所で猿楽町、細工町があったとある。ドームの隣りを流れる川は干潮時で水は少なかった。67年前、この川に人々は争って飛び込み、死体があふれたという。地獄絵図を想像した。そして福島第一原発の事故の惨状と重ねた。

◇上空約600mで爆発。爆心地付近は3千度から4千度で熱せられ半径1キロ内の瓦の表面はあわ状に火ぶくれを起こした。人間などはたまったものではない。半径500m以内の人はほぼ即死、1・2キロ以内の人も50%が即死あるいはそれに近い状態で死亡。3カ月内に死亡した人の数は13万~14万人に。

 被爆者の癌が増え始めたのは10年~15年後。甲状腺癌、乳癌、肺癌、胃癌、結腸癌、泌尿器系癌など多岐にわたる。人類初の放射線の恐怖を教育の場で教えてこなかった事の異常さを改めて思う。原爆資料館を視察した。

◇広島県議会で県警の犯罪対策を視察。ここでは「日本一安全・安心な広島県の実現」に取り組んでいる。かつて「仁義なき戦い」といわれた暴力団の抗争があった。暴力団対策の先進県。私は暴力団の現状、暴力団排除条例の関係などを質問した。

◇実は前日(4日)、広島市で起きた奇怪な事件が耳に入っていた。鳴り響いたサイレンはこれだったのか。大学生が女児を乱暴目的でカバンに押し込みタクシーに乗って連れ去ろうとした。塾帰りの6年の少女。運転手にはトランクから助けを求める声が聞こえたという。逮捕されたのは20歳の成城大学生。何を狂ったのか正気の沙汰ではない。

◇3日間の県外調査は有益だった。私の心に残るのは萩博物館に於ける楫取素彦の研修と呉市海事歴史博物館視察。ここでの体験を群馬の教育に役立てたいと思う。7日は、早朝中国に向かう。旧満州と関わる瀋陽と長春の視察。(読者に感謝)

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2012年9月 5日 (水)

人生意気に感ず「山口のキャリア教育。呉の海事歴史科学館。自殺対策」

◇どこの県も教育については悩み模索している。他県の取り組みは参考になる。山口県議会でこの取り組みを視察した。吉田松陰を初め近代史における多くの逸材を輩出させた県だ。それらをどう生かしているか興味があった。

 山口県はキャリア教育を目標に掲げている。キャリアとは本来、経歴、資格などを意味する。説明を聞いて、「自立できる社会人」を目指していることを知った。素材として地域の伝統や文化を重視している。郷土の偉人はこの中に含まれているのだ。

 私が重視したのは、「コミュニティスクール」地域のいろいろなポイントをつなぎコーディネートする。四千人の人材バンクを教育応援団として位置付ける。うまく機能させれば偉大な教育力となりいじめにも対応できると思った。

呉市

海事歴史科学館(大和ミュージアム)を視察した。休館日だが特別に対応してもらった。ここでの私の感想は、全てを戦争に注ぎ自滅した日本が、戦争のために蓄積したものを戦後の発展のために生かした事を知って嬉しかったことである。

 戦艦大和の技術やゼロ戦の工夫が戦後日本の発展に貢献していることをよく知ることが出来た。平和な国日本、科学立国日本の基礎となっている。よく、「貴い英霊のお陰で今日の繁栄がある」と表現するが、多くの人はその意味がよく分からない。ここに来て、彼らの努力と今日の科学技術との結びつきを知って、納得する。

 戦争を子供たちに教えるひとつの切り口と目標を知った思いである。井田委員長が修学旅行の目的にすべきだと語っていたが、私と同じ思いを抱いたに違いない。私も修学旅行の目的地にふさわしいと思う。1万機のゼロ戦のうち6千機が群馬の中島飛行場で作られた。郷土の誇りに出来る事実である。道岡学芸員の説明には魂がこめられていると感じた。

◇自殺大国日本の現状はなげかわしい。国は自殺防止対策を打ち出した。地方がそれを受け止めねばなない。毎年3万人超の連続はいかにも異常。戦艦大和の犠牲者6千人とつい比較した。

 山梨県が青木ヶ原樹海での自殺シーンのロケを禁止する方針を県の自殺防止対策に盛り込んだ。当然の措置だと思う。山梨県は自殺率ワーストワンだという。

◇今日は、広島県警。かつて「仁義なき戦い」と言われた暴力団抗争があったまち。暴力団排除条例につき質問しようと思う。

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2012年9月 4日 (火)

人生意気に感ず「萩市で楫取を学ぶ。明倫小。私の文が載る説明板。山口を走る」

◇文教警察常任委員会の視察第一日目、楫取素彦研修は萩博物館で行われた。主任研究員の道迫氏は、楫取と吉田松陰の堅い絆について説明した後、次のように語った。維新政府の非常に高い地位に就いた後、山口に戻って隠棲していたが政府から群馬県(当時は熊谷県)へ行くようにと命ぜられる。民情が荒く難治といわれる地に楫取は気が進まなかったが大久保利通に懇懇とさとされ決意した。この事を示す資料が見つかったという。

 私は発言の機会を得て提案した。楫取素彦が生涯で最も輝いていたのは群馬の県令時代だった。群馬にはその時代の楫取の資料がある。群馬と山口の資料を交換し合うことによって楫取の姿が鮮明になる。道迫氏は賛成した。群馬と山口の絆も深まり人造りの基盤も厚くなる。

◇藩校明倫館の説明もここで受け、その後、明倫館の後を継ぐ明倫小学校を訪ねた。一時は千数百人の生徒数を誇った同校も時代の波で現在は約七百人。古い木造の校舎群が並ぶ光景は歴史を遡る感を与える。正面玄関を入った所に吉田松陰の座像があった。生徒は毎日松陰先生に接しているのだなと思った。明倫館の頃、楫取もここで教えた。教育者楫取が近代群馬の教育の基礎を築いたことに改めて思いを馳せた。

◇明倫小の近くに楫取生誕の地・今魚店町(いまうおのたなちょう)がある。昨年この地の楫取素彦顕彰会によって、町の一角に楫取素彦顕彰説明板が建てられ、その中に私の一文が取り入れられた。中村紀雄の議員日記より抜粋とある。楫取の妻寿子が兄松陰の形見の短刀を新井領一郎に渡す場面である。視察団がこの説明板を見れたことは私にとって光栄であった。この説明板にならって、群馬でも8月14日(楫取の命日)、楫取素彦功徳碑に隣接させて顕彰説明板が建てられた。

◇中国新聞を読む。山口県企業局は宇部丸山ダムを利用して小水力発電所を新設する。再生可能エネルギー固定買取り制度を利用するもので、同ダム以外でも小水力発電所を新設する機運が広がりそうだとある。こちらでは原発への関心は高くないと見るが、再生可能エネルギーは全国的うねりであることを感じる。

◇山口市の朝を約一時間走った。朝の気温は適温。朝、町を走ると町の素顔が見られる。木戸神社、木戸孝允旧宅跡もあった。

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2012年9月 3日 (月)

人生意気に感ず「楫取法要。今日は萩市へ。尖閣調査。世界遺産登録」

◇昨日県庁舎南の清光寺を訪ねると入口の掲示板に「至誠にして動かざるは未だこれあらざるなり。 吉田松陰」とある。松陰が刑場に引かれる直前に楫取素彦に与えた言葉である。18日、この寺で行われる顕彰会主催の楫取素彦百回忌法要の打ち合わせを行った。当日は、楫取能彦氏(五代目当主)、小田村四郎氏(楫取のひ孫)等、楫取家の人々、及び、県、市の来賓等が参加の予定。同寺は楫取の妻で松陰の妹・寿子の尽力で建てられた浄土真宗の寺である。

◇実は、今日県外調査で山口県萩市に行く。5時目を醒ますと夜来の豪雨は止み虫の音がしきり。萩市の調査目的の主なものは楫取素彦である。

 今年は没後百年で、前橋、萩両市で記念行事がある。混乱と国難の中で歴史的原点を見詰めるべきだという雰囲気が高まっている。教育を担当する委員会として、初代県令を正しく深く認識するには出身地での足跡を知る必要がある。

 長州時代に楫取が教師を務めた明倫館を継ぐ明倫小学校も訪ねる。萩博物館では今月22日から楫取素彦特別展を開くが、その主な資料も調査する。

 楫取の生涯で一番輝いたのは群馬の県令時代である。そこで、群馬に於ける業績を萩に伝え萩市にある資料も得たい。連携を深めることによって楫取像もより確固となる。今回の調査をその第一歩として意義あるものにしたい。

◇県外調査後、一日おいて中国へ行く。瀋陽の総領事館では尖閣に関する反日感情も話題にする。

 2日、都は尖閣諸島の魚釣島などを調査した。中国が不可解な主張をしている。日本海の波高し。歴史的にも国際法上も日本固有の領土である。各政党、各メディアも一致している。島には石垣や船着場の跡が残り、日本人が生活していた跡が明瞭である。

 1940年(昭和15年)頃まで約250人の日本人が暮らしていた。1970年代島の海底に石油があることが分かってから中国は領有権を主張。強かな中国に対し強かに対応せねば。

◇知事と政策につき懇談(31日)。富岡製糸場の世界遺産登録には普遍的な価値が外国人の目で認められることが必要だが心配だと発言。産業遺産が世界遺産として認められることは非常に少ない。それを考えると、普遍的価値の説得力が少ないと思う。一層の研究が必要と発言。知事も同意。(読者に感謝)

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2012年9月 2日 (日)

「楫取素彦読本」第25回

楫取は、この心の教育を基礎にして教育環境の整備につとめました。

つまり、義務教育を理解していなかった当時の県民を説得し、豪農や豪商に資金を出させ小学校を建設させたりして就学率を全国トップレベルに高めました。就学率の点では、「西の岡山、東の群馬」と称されました。

その他、楫取県令は、幼稚園、中学校、女学校、医学校、師範学校などを整備し先進的な教育環境を実現させました。

このようにして、楫取県令は教育県群馬の基礎を築きました。

【解説】

○現在、いじめやいじめによる自殺が大きな問題になっています。貫太郎少年が耐えて乗り越えた話から、いじめる人もいじめられる人も学んで欲しいと思います。

※土日祝日は、中村紀雄著「楫取素彦読本」を連載しています。

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2012年9月 1日 (土)

「楫取素彦読本」 第24回

鈴木貫太郎の父は武士でしたが、明治になり県庁に就職することになりました。そのとき、千葉県と群馬県の両方の県庁にチャンスがありました。しかし群馬県の方が教育の面で進歩していて評判が高かったので、父は、群馬県庁を選び貫太郎少年と共に前橋に移り桃井小学校に転入したのでした。

この時の群馬県令が楫取素彦だったのです。鈴木貫太郎のお話からも当時の人々は、楫取が吉田松陰と関わりが深かった人物で、群馬でしっかりとした心の教育を行い実績を上げていることを高く評価していたことが分かります。

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〇前橋市の桃井小学校には、「正直に腹をたてずにたゆまず励め」という鈴木貫太郎の言葉を刻んだ碑が建てられており、かつては、明倫小学校のように朗唱が行なわれました。

鈴木貫太郎は日本を救ったと言われる名宰相ですが小さいと時は泣き虫で泣き貫と言われました。

 前橋の厩橋学校に転入した時、よくいじめられました。そんな貫太郎少年に父は、人間は怒るものではないよ、怒るのは根性が足りないからで怒ってすることは成功しないのだよと諭しました。

父の教えは人生を貫く一生の指針となりました。後に、長い波乱の人生を振り返って、鈴木貫太郎は自分の友だちの中で、あの頃の前橋の人たちが一番懐かしいと述べています。

(鈴木貫太郎自叙伝より)

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