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2012年1月31日 (火)

人生意気に感ず「山本りゅう・元総社の戦い。日本のポンペイ秘話」

◇嬬恋村がポンペイと友好都市となる。提携の準備書に調印した。イタリアのポンペイは79年ベスビオ火山の大噴火により火山灰に埋まり壊滅した。嬬恋村の鎌原は、1783年の浅間山大噴火により埋没し日本のポンペイと呼ばれる。東日本大震災後に嬬恋村の鎌原遺跡が世界的に注目されることには格別な意味がある。

◇同じように火山の噴火で灰の下に埋没したポンペイと鎌原であるが、両者には大きな違いがある。ポンペイは完全に滅びた町であるのに対し、鎌原は生きのびた人たちが共同結婚して再生を果たした村であることだ。

 村人は押し寄せる熱泥流に追われて観音堂の石段を登った。昭和になって2人の女性の遺骸が発掘された。それは、あと一歩のところで泥流に呑まれた姿で、「天明の生死を分けた十五段」という句が観音堂に残る。

 毎月8日の命日には村人が集まって供養の和讃を詠じる。その一節に、「妻なき人の妻となり、主なき人の主となり」という文句がある。ここには鎌原村再生の不思議で、感動的なそして、特に東日本大震災後の今日、全日本人が、また、全世界が注目すべき物語が秘められている。

 観音堂の石段を必死で登って命を得た93人は、身分や貧富の差を越えて、リーダーの選択に異をとなえず新たに夫婦の契りを結んだ。無慈悲な地獄の大魔王がつくり出した荒涼たる熱泥流跡地から人々を立ち上がらせたものは人間の絆であった。

 極限状況における新たな男女の性的結びつきは、通常の論理観を超えて無限の勇気を与えたに違いない。このようにして大災害から立ち上がって復興に力を合わせた例は世界にないだろう。東日本大震災で見せた日本人の姿は世界に感動を与えた。現在、鎌原の奇跡をもう一つの日本人の原点として注目すべきである。

◇昨日(30日)のJA元総社支所に於ける山本りゅうの集会は感動的だった。この地は私の熱い支援者が多い地域であるが、今回は難しい状況に落ち山本の集会を開く事は容易でなかった。私の中学の同級生など個人的な関係に働きかけて準備した。大きくない会場だが溢れる程に集まってくれた。私は市長が代わればこの地域はもっと良くなると訴えた。山本りゅうも疲れを忘れたように語りかけていた。元総社を中心に我が陣営の展望が開けるという確信を得て更に勝利に近づいた。気持ちが高ぶって眠れなかった。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2012年1月30日 (月)

人生意気に感ず「山本りゅう肉迫。県民会館大ホールの集会。市民の声」

◇市長選の幕開けが近づいた。2月12日告示、19日投票である。実質的には終盤に近い感じだ。挑戦者「山本りゅう」にとって立ちはだかる現職の壁は厳しい。しかし、山本りゅうとその支援者の懸命な努力は確実に実を結びつつある。長年、選挙を経験してきた者には、選挙の空気が感じられるのだ。小集会での人々の反応、政策宣伝カーに手を振る人々のちょっとした表情、まち角で立ち話しをする人の輪から耳に入る会話の一言、二言、それらは底に流れる世論の状況を知る貴重な手掛かりである。私は、山本りゅう支援組織の中枢に居るが、ここに来て、前方を走っていた現職に肉迫し、遂に肩を並べるところまで来たことを感じる。

◇この感じを更に一歩進めたのが27日ベイシアホール(旧県民会館)大ホールの集会だった。勝敗を占う上で重要な大集会だが、果たして大勢集まってくれるか心配だった。かつて、中村後援会の集会でこの大ホールを満員にした経験をもつ私だが、今日、時代が変わり、選挙の集会で人々が集まらなくなっている事が頭にあった。

 午後6時半の開会時、全席が埋まりなお入場する人は続く。開会を5分遅らせた。座席数は2千であるが一、二階ともかなり立つ人が出た。集計の結果は2150人。(一部マスコミは1900人と発表)。

 山本りゅうの政策発表の様子もよかった。勉強し、リハーサルして備えた。軽いとか、暴走するとかいう一部の見方を打ち消して、安定感と信頼感を与える姿を示した。

◇山本事務所に多くの市民の声が寄せられている。その一部を紹介する。「私の主人は零細建築業の経営者です。来る市長選で現職市長を応援しなければ市の関係の仕事は出さないと言われ、主人は困っています。こんな事ってあるんでしょうか。不公平な市政だと皆怒っています。私は主人と対立しても市長を交代させ公平な市政を実現しなければと思っています(市内若宮町35歳主婦)」

「私は県職OBです。現市長が県会議員の時のいくつもの疑惑を県職の立場から見てきました。例えば、元総社の染谷川沿いの高圧線下の土地を高額で県に買わせたなどです(特別委員会の追求は、時が経つなどして核心に到達できなかった)。その不動産屋的体質を現在も引きずっています。信頼できる市長の実現を切望します(旧市街・65歳県退職者男性)。「私はある短歌の会の会員です。市民の文化活動に理解ある市長さんを望みます。寒風の中で演説している姿を見て感動し一首浮かびました。身も凍る真冬の風にしみわたる市長かえよの声にうなずく」(読者に感謝)

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2012年1月29日 (日)

上州の山河と共に 第100回 政治家への道 

 鈴木さんの経歴が面白い。彼は中学校を卒業するとすぐに上京し、ある企業に就職して、持前の頑張りと行動力を発揮して、すぐに社長夫妻に認められる存在になった。夜の大学に通いながら仕事の腕を上げ、実績を重ね、やがて独立し、故郷の芳賀で会社を興し、現在多くの社員を擁する会社の社長として頑張っている。口の先から生まれたかのように良く喋り、よく笑い、時にその振る舞いは大胆で傍若無人に見えるが、裸一貫から企業を興し成功するだけあって、繊細な一面を持つと同時に、緻密な計画性を備えた大した男である。ちなみに、社名のアームストロングというのは、かつてアメリカの宇宙船が初めて月に着陸した時のアームストロング船長の名をとったというのであるから、なかなかのアイディアマンでもある。芳賀の人達は、この人のことを通称“アームさん”と呼んでいるが、アームさんは鳥取町の人達と共に、本当に良く頑張ってくれた。

 元総社を中心とした利根西も、今でこそ各町に後援会が出来ているが、当時は、そこまではゆかず、私の元総社中学の同級生を中心として作られた利根西クラブが活動の主体であった。ここでは、同級生の松田博や石井敏美、そして、元中後輩の関谷俊雄さんなどが中心となって動いてくれた。

 関谷俊雄さんは、思慮と行動力に富んだ立派な人物であるが、その後、自らの政治理念を実現する為に、前橋市議選に立候補した。私と同じような草の根運動を展開、見事高得点で当選し、現在、前橋市議として大いに注目されている。(読者に感謝)

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2012年1月28日 (土)

上州の山河と共に 第99回 政治家への道

この当時、桂萱地区で、曲がりなりにも地域後援会が出来たのは、私が長く学習塾をしていた西片貝町だけであった。そして、ここでは、高橋甲子雄(きねお)さんが支部長となり、その下で、砥上三千雄さんを中心とする青年部の人達が活躍してくれることになった。

 この当時、地元芳賀地区においては、連合自治会長の村山栄一氏がいろいろと骨を折って下さったが、後援会の関係では、芳賀地区の後援会である「中村のりおを育てる会」の会長として、六本木近男(ちかお)さんが大変頑張ってくれた。

 近男さんは、五代町で農業を営む、いかにも律義な人で、人の前で演説をしたこともないと言いながら、よく大役を果たしてくれた。

 芳賀地区では、後になって、村山栄一氏、小林清六氏、宮内禎一氏等を柱とする本格的な後援会組織が出来るが、その基礎を作ってくれた六本木近男さんの御苦労に対しては、今でも深く感謝している。

 私の住んでいる所は、芳賀の中心に位置する鳥取町という小さな町である。ここは、地元中の地元ということで、町民の皆さんにことの外お世話になっていた。ここでは松本利之さんが初代の支部長を引き受けて下さった。温厚篤実な立派な方であったが病気の為世を去られたことは残念でならない。その後は、加藤市郎さんが支部長として尽力されているが、この加藤さんの下に鳥取町青年部の皆さんがいた。鈴木安雄さん、佐藤英教さん、大沢照庸さん等を中心とするグループで、皆、元気の良い人達であるが、中でも、鈴木安雄さんは自ら行動隊長と称するだけあって、血気盛んな快男児である。(読者に感謝)

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2012年1月27日 (金)

人生意気に感ず「放射線対策係。がれきと中之条町。国際戦略」

◇原発事故以来10ヵ月が経過したが放射性物質の不安はなくならない。何と言ってもその総量は放射線量から概算して、広島型原発の20個分になるというから容易なことではない。この大量の放射性物質に関する大きな課題は、測定と除染である。一般の関心は低くなっているが故に、住民の健康にたいして責任を有する行政の責任はかえって重くなっているというべきだ。

 県は新年度、放射線対策係を新設し、従来いくつもの部局に分かれていた放射線対策の窓口を、ここに一元化する。さもないと県民から見て責任の所在がはっきりさせず分かりづらいからだ。市町村の除染もここで指導する。

◇除染問題の一環として被災地のがれきの処理がある。岩手、宮城両県から本県にその処理に協力を求める声が寄せられている。県議会には賛成の声がある。この声に押される形で県担当課は市町村に協力要請しているが、これ迄に市町村の反応は冷たかった。受入れ実施県は現在の所、東京都と山形県内の施設のみ。

 このような状況で県内に新しい動きが起きた。中之条町の新町長・折田氏ががれきの受入れを表明したのだ。「困っている人がいれば助けるのが人の道、被災地にがんばれという気持ちも込めたい」と決意を示した。折田さんは南三陸町を視察してこの思いをつのらせたものと思われる。放射線に対する安全対策に万全を期すと語る。町長は、人情に厚い住民だから理解してくれるだろうと住民の説得に自信を示す。中之条がこの問題で道を開く事が出来れば、他の自治体も続く可能性が出るだろう。私が属する県議会の特別委員会も近くこの問題を議論する。東京、山形に続く受入れ県となる可能性がある。この問題が重要なのは、日本中が東日本大震災の痛みを分かち合うという象徴的意味を持つからだ。

◇総務企画常任委員会が開かれた(26日)。議会閉会中の1日委員会。議題は県の国際戦略体系(案)。重点は中国だ。観光誘客促進、農産物等の販路拡大、企業進出の支援が柱。中国は本県にとって魅力的巨大市場だ。重点地区は上海及び東北部の瀋陽や大連である。

 私は、大連外国語学院との連携を活かすことを提案した。県立女子大との連携もあり、私は長年日本の本を送っている。また、目先の利益でなく、日本産の品質で勝負し信頼を築く事を主張した。(読者に感謝)

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2012年1月26日 (木)

人生意気に感ず「東大の秋入学。ダルビッシュ。大地震近づく」

◇東大が秋入学を打ち出した事は、日本の大学全体に対してのみならず、社会にも大きな影響を及ぼすことは必至である。多くの大学が東大に続く姿勢を示し始めた。根本の目的は大学改革である。国際化の時代なのに、日本の学生は内にこもって留学に踏み出さない、また受け入れる留学生も少ない、これでは知的な刺激もとぼしく井の中の蛙になってしまう。

 その一因は、国際標準とのずれにある。世界の多くの大学は秋入学なのだ。東大は他大学と足並みをそろえるため協議組織を作る考えだ。卒業時も変わるから採用側の企業との協調も必要だ。

 大学改革は大学の自治の問題でもあるから、秋入学の実施は大学が自主的に研究すべきだが、政府の協力はもとより必要である。政府は国家公務員採用で秋入省・入庁の検討を始めるという。県もこの問題を考えるべきだ。

◇秋入学を実施しても入試は春に実施するとしているから、合格から入学までの期間を様々な体験に活かすことができる。その間で得た成果を単位に認定するなどのルールを工夫すべきだ。発展途上国でのボランティア、国内の福祉、医療、教育分野でのボランティアなどが考えられる。

◇東大が秋入学を初めとする改革に躍起となっている背景には、東大の国際ランキングが低いことに衝撃を受けている事実がある。このところ、22位、26位、30位と落ち続けている。これは日本の実力が凋落を続ける象徴でもある。東大の実力は決してこんなものではないと信じるが、改革すべき点は多いはずだから謙虚に受け止めて改革を断行すべきである。

◇東大生が海外に出ることが非常に少なくなっているらしい。日本の若者にガッツがないことの現われか。そんな中で、スポーツ選手が日本の存在感を示しているのは救いだ。イチロー選手もそうだが、今、日本中を沸かせているのはダルビッシュ。大リーグのレンジャーズへの移籍が決まった。札幌ドームでの退団会見では1万人以上のファンが詰めかけた。

 世界一の投手になるという宣言。「日本の野球が下に見られるのは嫌だった」という。沈みがちな日本の社会を勇気づける出来事だ。

◇ある新年会で私は昨年の大地震は序曲かもしれないと話した。首都直下型の大地震が4年以内に起きる確率は70%だといわれる。房総沖、東海、東南海、南海と、巨大地震が目をさましつつある。大地震と共存する時代に。(読者に感謝)

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2012年1月25日 (水)

人生意気に感ず「キムジョンナムの独占告白。首相の施政演説」

◇話題の書「父・金正日と私」を読む。売り切れの書店もあった。「私」とは最近亡くなった金正日の長男金正男(キムジョンナム)氏。正男氏といえばかつて日本に不法入国しようとしてつかまり、不法入国の理由をディズニーランドに行きたかったと語り大きく話題になった人物。その風貌からも無能な遊び人と思っていたが、この書は、それとは違う事実を伝えている。それは、賢明にして冷静な男で、北朝鮮が生き残るには社会主義体制を維持しつつ経済の改革開放を進める中国式のやり方しかないと信じ、これを父親に進言してきた唯一の人物であることを明らかにしている。金正男氏が、なぜ記者である著者の長時間に及ぶ取材に応じたかは謎である。

 彼は、父である故金正日総書記が三代の世襲に最も反対だったと衝撃的なことを明らかにしている。彼は語る。「封建王朝以外、権力世襲はもの笑いの対象になるでしょう。社会主義理念にも符合しません。しかし、北朝鮮の内部安定のために三代世襲というおかしな権力継承を選択しなければならなかった」。だが「改革・開放」は父親が最も忌み嫌っている言葉であり意見するたびに激怒されたという。

 また、正男は語る。「海外にいて北朝鮮住民の事情を聞くとき本当に心が痛い、父親やその後継者を支える幹部の中に北朝鮮住民の民生に心から心配する人がどれ位いるか考えてみたが遺憾ながらそんなに多くない、自分の生き残りのために精一杯のお世辞で生きていく奸臣ら、自分らの安楽だけを追求し、国事について嘘をついて住民と指導者の間に障壁を形成する者らは父親と後継者の周囲から消えて欲しい、彼らは北朝鮮の発展と後継者の将来に絶対役に立たないと考えます」

 北朝鮮に関する情報は溢れる程あるが独裁者故正日の長男の発言には驚くばかりだ。崩壊寸前の北朝鮮の動向は私たちの安全に密接に関わっている。

◇野田総理は昨日(24日)国会で次のように述べた。「北朝鮮の動向については金正日の死去を受けた情勢変化を見極め不測の事態に備え万全の態勢で臨む。拉致問題は被害者全員の一刻も早い帰国を実現するため政府一丸となって取り組む。核、ミサイルを含めた懸案を解決し不幸な過去を清算して国交正常化を図るべく努力していく」と。北朝鮮の存在は私たちにとって巨大地震と同様目が離せない。(読者に感謝)

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2012年1月24日 (火)

人生意気に感ず「明子さんいじめ訴訟と私の主張。国際戦略課の意義」

◇上村明子さんの自殺に関して訴えが起こされたのは平成22年12月である。今月20日第5回の口頭弁論が開かれた。原告は両親、被告は県と桐生市である。私は、自殺の直後、桐生市新里町の明子さん宅を訪ね少女の遺影の前で両親の話を聞いた。そして、この年の11月県議会でいじめ問題として取り上げた。

 20日の口頭弁論で被告側は、自殺は家庭内の事情に起因する、学校内での出来事と自殺との因果関係はない、そして、いじめから自殺を予見することは全く不可能であると主張した。訴訟の場の攻防とこれまでの経緯を振り返って、私は、まだ解決しないのかという感を強く抱く。

 私は県議会で次のように訴えた、「先日、私は上村明子さん宅を探し当て、両親に会う事が出来ました。アパートの小さな部屋の明子さんの遺影に手を合わせたとき、12歳の少女の死を実感する事が出来ました。そしてなぜこの子を助ける事が出来なかったのか、恐らく沢山出ていたに違いないシグナルをなぜ受け止めることが出来なかったのか、そこには根本的な問題が横たわるに違いない。このような問題を再発させてはならないと思います。事件が起きると大騒ぎし、冷めるとまた繰り返される、この連鎖を群馬で食い止めることが明子さんの死を活かす唯一の道だと信じます」

◇私は、この問題を訴訟に持ち込んではならないと主張してきた(例えば平成22年12月24日のブログ)。訴訟は最後の手段である。訴訟にたよらずに解決することが教育行政の責任なのだ。訴訟になれば、勝ち負けをめぐって法律論を戦わすことになり、たとえ原告が勝っても賠償金で片が付いたとの感を残すことになる。教育委員会は、全国的に大きく注目されたこの事件を真に解決し、この種の問題の繰り返しを群馬で食い止める事が出来るのか。

◇県は国際戦略課を設けることになった。分かれている国際戦略担当をまとめ、観光の推進、企業の海外進出サポートなどを効果的に行うことを目的とする。

 私は、昨年10月29日から上海、成都、西安を視察し、群馬県の国際戦略につき考えさせられることがあった。一つは今後増加する県内中小企業の東アジア進出のサポートの必要性、二つは観光で重要なことは県内の文化や歴史などの特色をしっかりと示せること等である。

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2012年1月23日 (月)

人生意気に感ず「佐田代議士の新年会。尾身の落選。原発後の議事録。石巻小の悲劇」

◇佐田玄一郎代議士の新年互例会に初めて参加した。これまで、私は、おなじ一区の競争相手尾身幸次氏の選対本部長だった。前回衆院選の敗戦で尾身氏は落選し政界から去った。私は壇上に立って、前回の衆院選を感慨深く思い返した。平成21年8月の衆院選のドラマは私の脳裏に焼きついて離れることはない。選挙活動が終わった後のセレモニーで尾身さんは語った「最後の政治生命をかけて戦いました。皆さんにメチャクチャなことをお願いしてきました。私も命がけで戦いました。今、生きてここにいられることを感謝します」と。

 しかし、非情な天の裁断は下る。敗戦の挨拶で尾身さんは次のように語る。「20数年の政治家の生活は大変有意でありました。政治家としての尾身幸次はこれで終わりですが、日本のため世界のためこれからもやることがあるので頑張っていきたいと思います。皆さん本当に有り難うございました」強烈な個性で信念を貫いた政治家であった。さしもの尾身さんも民主党の嵐の如き時代の流れに勝てなかった。解散がまた近づいた感じだ。尾身幸次氏のようなキャラクターの政治家は、当分現れそうにない。

◇福島第一原発直後の事態を検討する会議に於いて、議事録が作成されなかったことが報じられた。信じがたい事だ。会議で明らかになったこと、そこで語られたことは、自己を再び起こさないための貴重な資料となるはずだ。専門家は国民的損失と言っている。

 NHKが情報開示請求を行って明らかになった。いくら混乱時とはいえ、このような事を2度と起こさない為に記録を残そうという気に誰もならなかったのか。責任逃れのために追求される資料を残さなかったとすれば、余りに身勝手。後に発覚して恥を晒すことに思い至らなかったとすればこれまた余りに単細胞。

◇宮城県石巻市の大川小の悲劇が改めて注目されている。釜石の奇跡と対象的な出来事だ。釜石では片田群大教授の日頃の防災教育が実って全員が奇跡の避難を達成したのに比べ石巻では74人の児童と教職員10人の死亡行方不明者を出した。地震発生から50分児童は校庭に待機していた。裏山に道がなかったというが、それこそ命がけで這い登れば避難出来た筈。教育委員会は人災の部分もあったと認めた。

 後世に残すべき教訓として、釜石と石巻の二つの例を特筆すべきだ。次の巨大地震がすぐそこに迫っている。(読者に感謝)

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2012年1月22日 (日)

上州の山河と共に 第98回 政治家への道

 

 一紀会の会長は、道上文教君である。彼は、私の前高定時性時代の同級生である。定時制高校時代の彼は、昼間は、運輸会社で働き、夜は学校で学ぶという、二つの生活を両立させていたが、彼の凄い点は、定時制の4年間を無遅刻、無欠席で貫いたということである。これは、並みの人間の出来ることではなく、私も脱帽し、敬服しているのである。

 道上君は、同じ運輸会社に現在も同じペースで勤務している。彼の外見は極めて穏健、ソフトで、内に秘めた精神力や過去の生活歴を他人に微塵も感じさせない偉い男である。

 一紀会が分離独立した後は、水洋会、一紀会、それぞれの特色を発揮しながら、活動し、大いに会を発展させることになった。

地域後援会

 運動を始めて一年近くが過ぎようとしていた。さすがに、この頃になると、地域後援会も、ぼちぼちできるようになってきた。

 地域後援会の重点地区は、西片貝町を中心とした桂萱、私の住む芳賀、そして、元総社を中心とした利根西であった。そして、各種後援会を統括する連合後援会の会長には、福島貞雄氏が就任した。この人は、福島浩の実兄で、赤城自動車工業の会長であった。

 福島貞雄氏は、当時、五十歳を少し越えたばかりの働き盛りで、細身で精悍な風貌の中に知性とエネルギーを感じさせる人であった。通常、連合後援会長といえば、かなりの年輩で、黙って全体を眺めているといった感じの人が多い。ところが、我が陣営の福島氏は、自らてきぱきと判断を下し、そして、自ら行動する人で、道なき道を切り開いて進まねばならない我が陣営には誠にふさわしい、そして、頼もしい人物であった。

 そして、連合後援会の中枢にあって、福島氏の良きパートナーとして重要な役割を果たしてくれた人に、小沢利治氏がいた。小沢氏は、その父親が市議会議員を数期勤めた桂萱の名門の出で、地域社会に影響力を持つ人物であった。小沢氏のような地域の重要人物が、私のような、とかく泡沫候補と見られがちな新人に、本気で応援してくれることは稀なことであって、大変ありがたいことであった。(読者に感謝)

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2012年1月21日 (土)

上州の山河と共に 第97回 政治家への道

初代会長は、島倉政栄氏だった。水洋会には、個性豊かな人達が集まっており、皆、目的の為に真剣であったから、時に火花が散り、トラブルが起こることもあったので、島倉氏のご苦労も大変なものであった。

 水洋会の会員は、会則の第三条にあるように、地域にとらわれずに、いろいろな所から集まっていた。そして、彼らの職業も、保険代理業、測量士、不動産業、八百屋、建設業、農業、看板業、自動車のセールスマン等、実に様々であった。そして、水洋会は、後に、私を支援するいろいろなボランティア団体の中心的存在として活躍することになる。現在の水洋会の会長は、前橋青果株式会社の社長吉田伊四郎氏である(平成6年当時)。

 水洋会は、地域後援会の結成がなかなか難しいことから考え出された苦肉の策によるものであったが、この会の運動の過程で、幾つもの類似の団体が作られていき、意外な展開を示してゆくのである。

 ある団体は、方針をめぐる争いで水洋会から脱会した人々によって作られたし、また、ある団体は、水洋会の会員として活躍していた人が自分の別の仲間に呼びかけて、独立の会として作られた。これらの団体は、次第にそれぞれの特色を発揮して活動するようになっていった。これらの団体の共通の特色といえば、それぞれの内部では、みな対等な仲間であり、自分達はボランティアでやっているという意識を持っていることであった。

一紀会

 

主な団体については、後で触れるが、ここで一紀会という団体について少し触れたいと思う。

 一紀会の〞紀〝は、中村紀雄の〞紀〝である。そして、一つにまとまる、一丸となる、という意味を込めて、〞一〝の字が使われている。また、この会の成立のいきさつからして、百姓一揆の〞一揆〝がイメージされていたといえるのである。水洋会の中に、一際行動的で、血の気の多い人々がいた。彼らは、水洋会の穏健なやり方に物足りないものを感じていた。このグループの中心であった小泉信治さんは、強い意志と緻密な計画で動く行動派であったが、いつも言っていた。

「中村のりおを当選させることは、大変難しいことだ。水洋会のように仲良しクラブのような動きをしていたのでは、当選できっこない」

 このような考えであるから、水洋会の中にいても、とかく意見の衝突がみられた。私は間に立って悩み、調整に心懸けたが、それはなかなか難しいことであった。結局、分離独立して別の会を作り、同じ目的を追求しようということになり、一紀会が誕生した。(読者に感謝)

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2012年1月20日 (金)

人生意気に感ず「暴力団の発砲を問う。暴力団と振り込め詐欺。マチダ平和資料館

◇2月議会に備えた警察関係の政調会で、私はスナック・夜来香(いえらいしゃん)に対する発砲事件を取り上げた。私の質問、「みかじめ料を払って表に現われない人は多いと思います。断った勇気ある人が発砲で脅かされました。警察は断固たる決意を示すべきです。市民は期待しています。徹底した捜査で犯人を捕まえて欲しい」警察当局の答え「組織暴力対策の第一課と第二課が協力し、暴力団の分析を行い、いい捜査をしている。警察の威信にかけてやります」

昨年施行の暴力団排除条例の命運がかかると言っても過言ではない。この条例は暴力団を資金面からも追い詰めるという目的がある。そのために暴力団に利益を供与する市民の行為も違法とした。

◇犯罪の認知件数は全国でも県でも減っているが、逆に増加しているのが振り込め詐欺である。昨年の被害額は128億円。

 背景に、資金獲得に苦しむ暴力団の存在があるといわれる。生活に困って万引きをする組員もいる状況。振り込め詐欺は少ない人手とケータイがあれば出来る。この分野に暴力団の参入が続いている。暴力団排除条例が犯罪状況に影響を与えていることを感じる。もぐらたたきのようだ。

◇マチダ平和資料館の事が新聞で大きく報じられた。福田元総理に説明する町田錦一郎さんの写真が紹介されている。ブロック会社の会長で私とは長い付き合いになる。

 実は資料館は、「シベリアコーナー」の実現で完結する。私は、一画を与えられ何年か前から構想を練っている。シベリア強制抑留の真実を伝えるのが目的。私が現地で撮った夕日が沈むアムールの写真を中央に据える。展示資料中には、日本では恐らく初めて公開される「スターリン元師への感謝文」もある。

 私は平成16年、強制抑留を体験した2人の老人と共に、ハバロフスクを中心とした強制抑留地跡を巡り又、ハバロフスクの国立古文書館で資料を調べるなどして、その後「望郷の叫び」を書いた。マチダ平和資料で展示する資料はこの時のもの。

 およそ60万人の日本人が酷寒の中で飢え、重労働、精神的苦痛と闘い、約6万人が死んだ。生存する体験者は年々少なくなる。シベリアの悲劇をこのまま忘却の彼方に葬ってはならない。忘却の流れに杭を打ち込むつもりでシベリアコーナーを作ろうと思う。マチダ平和資料館の存在意義を高める一助にしたい。(読者に感謝)

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2012年1月19日 (木)

人生意気に感ず「震災後の自殺者。汚染砕石と最近のセシウム。群馬の災害」

◇統計値が発表され、昨年の全国の自殺者は減少した事が分かった。昨年4月22日のブログで私は自殺について次のように書いた。「毎日、大災害の意味を考えている。世の中はこれを機に大きく質的に変化するだろう。文明観が変化し人々の死生観も変わると思う。そこで一つ思うことは自殺者の数が減少するのではないか。年間の自殺者3万人以上が13年も続いている。巨大津波は2万人に及ぶ人の命を木の葉のように奪い去った。大量の命の消滅の中でかえって命の大切さが自覚される。死を選ぼうとする人は必死に生きる被災者の姿を見て死ぬ理由を失うだろう」

 昨年の県内の自殺者は509人で前年より63人、率にして11%減少した。この14年間で最少だった。全国の数は3万513人。こちらも前年比3.7%減。減ったとはいえ毎年3万人以上の自殺は異常である。社会全体が病んでいることの現れだ。大震災を機に心の通い合う社会をつくることが出来れば、日本全体が健康体を取り戻し、それによって自殺も更にぐっと少なくなるに違いない。

◇セシウムで汚染されたコンクリートで建てられた新築マンションが大問題となっている。除染の方法はないという。汚染された砕石場の砕石が原因。群馬の砕石場は大丈夫か。

 年明けから福島市と千葉市における放射性セシウム降下量の急増が報じられている。原因は何か。大量に降ったセシウムが風で舞い上がったと見る説も。

 群馬は大丈夫かという不安の声が私のところに寄せられた。県立衛生環境研究所に問い合わせたら、降下性セシウムの検査は昨年末で打ち切り現在は行っていないとの事だった。

 寄せられる不安の声の中には、群馬にも大量のセシウムが降った。ホットスポットもあるに違いない。砕石場がホットスポットだったという事があるかもしれない、もしそうとすれば、群馬の新築マンションは大丈夫なのかというものがあった。県は、この不安にこたえるべきである。

◇釜石の奇跡を導いた群大の片田教授が講演会で「群馬は安全と断言するのは愚の骨頂」と発言した。100年、150年間隔で大災害が起きる、群馬で最も危険なのは土砂災害と火山災害、火山灰性の土壌で簡単に壊れる等指摘。県は土砂災害の危険箇所を示し対策を進めている。しかし一般の関心は薄く対策も不十分だ。(読者に感謝)

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2012年1月18日 (水)

人生意気に感ず「楫取素彦顕彰を知事に提案。がれきの受入れ。天明の恩返し」

2月議会(220日開会)が近づき、それに備えた動きが始まった。昨日(17日)は、知事との政策懇談会があった。発言の機会を得て、私は楫取素彦の顕彰を県として進めるべきことを主張した。知事は、「生活文化部の方で中村議員の意見に基づいて進めている、今後、細かい点は検討して進めます」と答えた。知事の発言を引き出すことが今後の推進力となるのだ。

◇東北被災地のがれきを群馬県内で受け入れるべきか否かの議論が行われている。これは、国民的課題であり、受け入れることになれば、全国民が力を合わせ助け合うことの象徴的意味を持つ。東京都が受け入れを開始したが他の自治体は反対である。

 昨年12月の県議会特別委員会では、「震災直後の助け合いはどこに行ったのか」と執行部にがれきの受け入れを求める意見が出た。私も同感であった。県内自治体には万トンの受け入れ能力がある。県は今月11日、自治体の担当者を集め受け入れを要請したが反応はよくない。

◇宮城県議会議長の中村功氏から群馬県議会議長宛にがれき受け入れの要請がなされた。これを受けて2月8日の特別委員会で対応を協議することとなった。

 多くの県民が感情論として反対するのは放射線に対する懸念である。安全性確保の対策を万全にしながら前向きに検討すべきものと考える。

◇群馬と長崎両県の間には助け合いの歴史がある。今、参考にすべきだ。天明年間、浅間の大噴火の時、細川藩は「手伝普請」として膨大な資金援助をした。群馬県史によれば鎌原村など被害が甚大であった吾妻19か村には復興資金として4766両が与えられた。

 時代は下って平成3年長崎県島原の雲仙普賢岳の噴火はこの地に甚大な被害をもたらした。そして、嬬恋村は、天明の恩返しとして新鮮なキャベツ10トンを島原市役所に寄贈した。当時の森田啓次郎村長は「私たちも昔九州から援助していただいた。お役に立ちたいと思い新鮮な野菜を届けました」と言って鐘ケ江市長に手渡した。およそ230年の時を超えた心の交流は被災者を大いに勇気づけたことだろう。

◇がれきの受け入れは、このような過去の助け合いと違った難しさがある。助けた方が放射線で汚染される恐れがあるからだ。技術力によってこの懸念を克服することが前提となる。特別委員会ではこの点を議論するつもりだ。(読者に感謝)

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2012年1月17日 (火)

人生意気に感ず「大型客船の惨事。タイタニック号。阪神大震災」

◇イタリアの大型豪華客船コスタ・コンコルディアが座礁し、死者7人、行方不明者約30人(17日現在)と報じられた。的確な情報が遅れ、退避は座礁後1時間以上もたってからとか、船長が先に逃げたとか、避難時の生々しい混乱が報じられている。船長の判断ミスが重大な結果を招いたとも。

 乗員、乗客は約4200人だった。浅瀬の事故でなく深い洋上の事故で沈没していたら世紀の大事故になっていたかも知れない。この事故は、現代技術の粋を尽くしても人為ミスで事故が起きることを改めて教えている。

◇この大型豪華船の事故で誰もが直ちに連想するのはタイタニック号の悲劇である。私は映画・[タイタニック号の最期]を何度か見た。死と向き合う様々な人間ドラマ、黒い海に没していく巨大な船体などが瞼に焼き付いている。

 イギリスからニューヨークに向けた処女航海だった。大西洋上で氷山に衝突したのだ。不沈船、洋上の高級ホテルと言われた。世界で初めて発信された、SOS信号をキャッチしたのは近くにいた船でなく遠くにいた船だった。乗客乗員2200人中1513人が海に呑まれた。奇跡的に救出された乗客中に唯一人日本人がいた。後に4000mの海底でタイタニック号は発見された。御巣鷹の日航ジャンボ機の悲劇もそうだが、大型の事故は忘れた頃に必ずやってくる。東日本大震災は人間界の事故にも警告を放っているといえる。

◇今日1月17日は阪神・淡路大震災から17年目を迎える。1月17日は毎年来るが、今年は特別にしっかり受け止める必要がある。現在、東日本大震災の余震が続く状況下にあって、次の巨大地震も近いといわれている。

 阪神淡路と東日本、この2つの大地震から最大限の教訓を引き出さねばならない。阪神淡路大地震の経験は今回十分に活かされたのか。結果から見てそうは思えない。阪神地域という想定していない地域に大地震が起き、それを忘れたところで今回の巨大地震に見舞われた。17年前の出来事を謙虚に受け止める努力を継続していれば、「想定外」と言って慌てふためく度合いも少なかったろう。わずか17年の歳月で私たちは大惨劇を忘れてしまう。この事をしっかり踏まえよう。房総沖、首都直下、東海、東南海、南海と巨大地震は確実にやってくる。その備えは過去の教訓を活かす事から始めねばならない。(読者に感謝)

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2012年1月16日 (月)

人生意気に感ず「どんど焼き。入試の混乱。新築マンションの放射線」

◇昨日(15日)は、各地でどんど焼きがあり私は朝8時の会場を皮切りに3か所を回った。今年は、小屋づくりに使う竹、松、杉、ワラなどが放射性物質で汚染されている事を恐れこの伝統の行事を中止する地域も出た。

 川場村は樹皮をはがした木材や家屋内保管の材料を使い、規模も極く小さくして実施したらしい。同村は、県の調査で放射性セシウムの量が高かった地域である。又、高崎市の榛名地域の里見小学校区では安全性が確約出来ないとの判断から一律に中止した。放射線量の高低にかかわらず一律に中止を決めるのはいささか過剰反応の感がある。

 放射性セシウムは半減期が30年と長いからどんど焼きの問題は今後も続く。放射線の専門家の見解を聞きたい。どんど焼きの行事には、不安な時代において、無病息災、地域安全を願って住民が心を一つにする重要な意味がある。

◇どんど焼きの現場には赤い消防車と地域の消防隊員が配置されていた。子ども育成会など自治会主催で町を挙げて行われるところが多い。今昔の感がする。昔は、各地が競争で大きなものを作った。競争が高じて競争相手の小屋に火を付け中で守っている若者が焼死するといった事故が起きたこともある。私は、「無病息災を願い心を合わせて災害に立ち向かう年にしましょう」と挨拶した。

◇大学入試センター試験でトラブルが大量に発生している。問題の配布ミスなどで、入試開始時に配布が間に合わなかったり配り忘れ等があった。入試は公平性が命だ。受験生の困惑は深刻だろう。大学入試を経験した者なら痛い程分かる。受験生から「人生がかかっている」という声が聞かれた。当然である。

 昨年は京大入試で、ケータイを使った受験生の不正が発覚して大問題となったが、今度は入試の運営側で4500人以上に影響を与える問題を起こした。入学試験が正しく行われることは、公正公平な社会の基礎に関わることであり、若者にとっては正しい人生を歩む第一歩である。

◇新築マンションの工事に放射線で汚染されたコンクリートが使われたため高線量が計測された。福島県二本松市の新築マンション。コンクリートの原料の石は、避難区域内の砕石場のもの。マンションは毎日の生活の場だから微量でも気になる。調べ出したら群馬の新築マンションでも検出の可能性があるのではないか。汚染された砕石場は恐らく存在するだろうから。(読者に感謝)

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2012年1月15日 (日)

上州の山河と共に 第96回 出馬を決意

とにかくこのようにして、毎週水曜日の夜、20名から30名程の人が事務所に集まるようになった。参加する人達は、20代後半から30代が中心であった。

 これらの人達は、会議に参加して、やがて自分達が中心であることを知って、皆、一様に驚くのだった。県議選を目指すからには、既に大きな組織があって、年輩の肩書きのある人達が大勢役員として名前を連ねていて、自分達は無視されるようなそんざいに違いないと思っていたらしい。ところが、実際は、これから何もないところに組織を作ってゆくのだと言われ、その為にはどうしたらよいかと発言を求められるのだから、当惑するのも無理はなかった。

 初めは、口が重かった人達も、やがて、自由な雰囲気に慣れて活発に発言するようになり、時には激しい口論も起こり、会議はいつも活気に満ちていた。

 当初から、会議の議題は、いかにして後援会員を増やしてゆくかということであったが、会議を重ねるうちに、この集まり自体を組織的なものにしてゆくべきだという意見が出てきた。「このような会議を毎週やっていても、烏合の衆では、力を出せないのではないですか。会の名前を付けて、役員を決めて、きちんとした組織にすべきだと思いますが」ある参加者が、こう発言すると、多くの人が同じような不満を感じていたらしく、忽ちそうしようという事になった。会の名前については、いろいろな候補が上がったが、結局、「水洋会」とすることになった。それは、会議が毎週水曜日に開かれていたことから、水曜日の「水」の字を採ったのであるが、また、水が広がるように大きくなれという願いも込められていた。「洋」の字は、これと同じく、太平洋の如く、大きな組織にしてゆこうということで決められた。次いで、会則の案が一条ごとに討議されて作られ、これらが役員名と共に総会に図られて決定し、ここに名実共に「水洋会」が誕生したのである。当時の会則をひもとくと、次のような懐かしい条項が目に入る。

第一条       本会は、水洋会と称し、中村のりお後援会の一支部とする。

第二条       本会は、事務所を前橋市鳥取町786番地の2に置く。

第三条       本会は、地域にとらわれず、広くそして絶えず、中村のりおの後援活動を支援し、あわせて会員相互の親睦と研修を目的とする。

第四条       本会は、目的を達成する為、次の事業を行う。

1、政策研修、討論会の開催

2、会報の発行

3、 懇談会、旅行会などの親睦

4、 その他必要な事業 以下、11条まで続いている。

これらを見ると、タバコの煙がもうもうと立ち込める狭い事務所で、喧喧ごうごう、議論がたたかわされていた様子が昨日のことのように目に浮かぶ。(読者に感謝)

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2012年1月14日 (土)

 上州の山河と共に 第95回 出馬を決意

水洋会の結成

 中村塾卒業生や私のいくつかの同級生などのグループは、もともと私と関係があった人々が構成員となっている。こういうグループだけでは発展性がない。新しく開拓した人々から成る団体を作ってゆかねば成らない。私の運動が幾分進展し、新たな段階に入ったと意識した頃から、この事は大きな課題となっていた。

 それは、初め、数人の会合から始まった。そこでは、どうしたら形のある会をつくることができるか、また、どのような方法で仲間を増やしてゆけるかということが真剣に話し合われた。そこで得られた一つの結論は、とにかく、毎週水曜日の夜、それぞれの仕事が終わってから会合を開こう、その時は、各自が新しい仲間を誘って参加しよう、そして、その次の週には、前回初めて参加してくれた人にも、更にその知人、友人を誘って参加してもらおう、こうして、会合を重ねるごとに新しい仲間を増やしてゆこう、ということであった。

 第一回の拡大会議は、大変な努力をした結果、30名程の参加者が得られた。

 この会議を成功させる為に、妻も必死だった。実は、妻はこの頃、まだ教師として勤務していたが、家に帰ると熱心な事務員に変身し、資料の整備や手紙の宛て名書き、あるいは、昔の教え子に対する電話連絡などを進めていた。

 このような仕事を、妻は、私が運動を始めた当初から熱心にやっており、私を支える陰の柱であった。そして、事務所で毎週大勢の会議を開くとなると、私の訪問者リストに載っている人に電話で参加依頼したり、仲間に対する呼びかけを引き受けている人に確認を求めたり、あるいは、これら参加予定者の人数を掌握したりで、妻の仕事はにわかに忙しくなった。(読者に感謝)

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2012年1月13日 (金)

人生意気に感ず「平田信・斉藤明美、800万円提出。大震災の影響」

◇交番の前を通ると電子掲示板にオウムの特別手配犯高橋克也、菊地直子、平田信の文字があった。その1人平田容疑者が出頭し、彼の長い逃亡生活を助けたとされる元信者の美女が続いて出頭した。ミステリアスな逃亡劇とその背景には興味がそそられる。平田信に関して事情を知るために松本智津夫死刑囚や教団元幹部の上祐史浩・「ひかりの輪」代表等からも警視庁は事情聴取するという。上祐と言えば、かつて、教団広報係としての驚くべき巧みな説明振りを指して「ああいえばじょうゆう」と言われその格好良さに一部のはね上がり少女たちの追っかけも現れた男だ。

◇一時、警視庁は警察長庁官狙撃事件の関連で総力をあげて平田を追った。そして、平田を捕まえるために逃亡協力者の女を懸命に捜したといわれる。

 警察庁長官狙撃は警察への真っ向からの挑戦であり犯人逮捕は警察の威信にかかることだった。平田をマークした理由は教団内射撃名手リストの筆頭に彼の名があったからだ。教団は平田の逃亡を助けるため一千万円と若い女を与えた事が分かっていた。そして、警察は具体的なこの「女」の情報を入手する。女を追えば平田に至る。女を追う捜査陣の努力と執念は凄かった。膨大な監視カメラを徹底的に洗い、遂に東京駅で東北新幹線の時刻表を見上げる「女」を発見。東北新幹線の駅のカメラを次々に調べ、栃木県小山駅の改札口のカメラの映像を見つける。捜査陣は何日もかけ小山市内でローラー作戦を実施。「女」は気配を察して小山市を脱出し新幹線で北上。捜査陣は仙台市で寮付きの職場を捜し続け遂にある寿司屋を突き止める。アパートの部屋には一組の夫婦茶碗があった。しかし、ここも踏み込む直前に風を食らって逃亡。これら大捜査戦の記事を読むとスパイ映画のように面白い。

 結局捜査陣は逮捕出来ず月日は流れ、昨年大みそかの平田の出頭、そして、先日の女の出頭となった。2人の調査からまだ解明されないオウムの闇に光が当たるのか、菊地直子や高橋克也の逮捕につながるのか、今後の進展が注目される。

◇出頭した女性は斉藤明美容疑者。福島県出身。県立女子高を卒業して看護師になった。2人の衣類などをダンボール箱に入れて提出。800万円を被害者の家族にと差し出した。気持ちを整理し、覚悟を決めての出頭だろう。2人の心に東日本大震災が影響を与えたに違いない。未曾有の大災害で津波に呑まれた多くの人々の姿は、人間であれば誰であろうと、まともに生きる力を揺さぶるのだろう。(読者に感謝)

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2012年1月12日 (木)

人生意気に感ず「刑事被告人小沢一郎。中曽根さんの田中論」

◇今、政界で最も注目されている人物は、政治資金規正法違反の容疑で刑事被告人として法廷に立つ小沢一郎氏である。一般市民からなる検察審査会の決議で強制起訴された経緯やいかにも黒そうに見えるあの悪人面などがあいまって政治不信が渦まく世相の中で、一層世人の好奇心を駆り立てるのである。

 4月に判決が出るらしいが、その結果は、いずれにしろ政局に大きな影響を与える。

 衆議院選挙が近づいている。仮に有罪なら、一審であることを考慮しても民主党のダメージは大きいに違いない。小沢一郎氏の政治手法とその風貌はどこか田中角栄に似ている。

◇文藝春秋、2月号の特別企画・「嗚呼同級生」の中に面白いものがある。中曽根康弘さんが政治の「同級生」田中角栄を語っている文だ。その中で小沢一郎氏も登場する。もっとも、ここで私が注目するのは、乱世の雄、田中角栄で、小沢氏は付属物に過ぎないが。

 昭和22年4月の総選挙で共に初当選した時の事から中曽根氏は語り始める。新人議員の集まりの時、ニッカボッカにハンチング帽の青年がいた。その表情に並々ならぬ闘志を表し「普通の新人議員とは違うな」と感じさせる男、それが「田中君だった」。

 田中角栄は、「コンピューター付ブルドーザー」と異名をとる突進力で「列島改造論」をひっさげ、一気に天下を取る。中曽根さんは、それを見て、「俺は田中的総理にはならん」と心に誓ったという。次の部分は政治家の一人として私も引きつけられる。「田中君の列島改造論の演説を聞きながら私は何て単細胞的な国家論だと思った。土木事業的国土改造を全国各地でやるという発想は、ただセメントをこねて国家をつくるようなものだ。田中君の在りし日のニッカボッカ姿を思い出さずにはいられなかったのだが、ここに欠けているのは国家像にあるべき精神的要素である。代議士が言う国家論の中には必ず歴史や文化、教育についての考えが反映されてしかるべきだ」

 また、中曽根さんは次のように言う。「田中君に敵わなかったのは集金力と子分を作る力だ。(中略)小沢一郎君にも似たところが大いにある。田中君が自らの後継者として育成していた小沢君には良きにつけ悪しきにつけ集金力と親分肌の部分が伝わっているのだろう」。今法廷に立つ刑事被告人小沢氏の背景には中曽根さんの指摘するような実態があるに違いない。(読者に感謝)

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2012年1月11日 (水)

人生意気に感ず「木嶋佳苗は連続殺人犯か。小沢の公判。平田を匿った女」

◇連続殺人容疑者木嶋佳苗の初公判が10日、さいたま地裁で始まった。平成22年2月5日の私のブログには次のように記されている。「祖父は町会議員、母はピアノ講師、中学時代の成績は優秀、彼女の身辺では少なくとも4人の男が不審死(今回起訴は3人)、練炭自殺を偽装したと報じられている。太っちょの不美人。もてない男たちは、どこにもいる不美人ゆえに親近感をもったのかも知れない。心が満たされない孤独なおとこは現代社会が生み出したもので限りなく多い。被害者の男たちは私たちの身近な隣人に違いない」

 判決は4月13日、裁判員裁判では過去最長の裁判日程。木嶋被告は殺害を否定した。明確な証拠はなく状況証拠型事件。有罪なら死刑もあり得る。弁護側は無罪を主張。

 今回起訴された殺人事件の概要は、サイトで知り合った男たちから多額の金を奪って殺したというもの。当時41歳と53歳の2人の男は結婚サイトで知り合い、それぞれ470万円、1700万円を渡し、もう1人(当時80歳)は介護サービスサイトで知り合いヘルパーとして出入りしていた彼女に約180万円を渡したとされる。果たして真実は。裁判員たちの判断は。裁判員制度がスタートして3年になる。定着したかに見えるこの制度が、この大きな裁判で役割を果たせるかが問われる。

◇司法改革・市民の司法への参加という点で注目されるもう一つは検察審査会制度。検察が不起訴にしたものを一般市民から選ばれた検察審査会が2度、起訴の議決をすると強制起訴となる。小沢一郎氏は、この制度の下で政治資金規制法違反の罪で強制起訴され、10日、被告人質問が行われた。

 小沢氏は、報告書への虚偽記載、元秘書との共謀、いずれも否定し、無罪を主張した。小沢氏の発言で気になる点は、「私の関心と仕事は天下国家の話である」、「収支報告書は見たことがない」という発言。前段はいいとしても後段の「見たことがない」は大きな問題だ。裁判の行方にどうかかわるかはともかく、政治家の発言として許されない。裁判の行方が政局に大きく関わることは必至だ。

◇オウムの逃亡犯を匿った女性が出頭した。長い間一緒に暮らし、自分は看護士として働き生計を支えたらしい。平田容疑者に対する尊敬の気持ちが愛情に変わったと発言している。犯人蔵匿の疑いで逮捕された。今後が注目される。(読者に感謝)

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2012年1月10日 (火)

人生意気に感ず「初市の火。電力業界の寄付。原子力ゼロの時代に」

◇幾分夜明けが早くなった事を感じる。6時、快晴の朝の東の空は白ばみ、少したつとほのかな紅色が地平線上に広がり始める。私は、6時にスタートして芳賀グランドの外周を10周する習慣である。温かくして無理をしないで走る。走れる事は自分の財産で、心と体の老化を押し除ける妙薬でもある。鼻を突く寒気の中で味わう達成感は心の滋養だ。

◇まちは、初市のはじまりで活気にあふれていた(9日)。間口2m程の出店がそれぞれの準備で忙しそうだ。既に多くの客が歩いている。天気のせいもあるが、例年の祭りと違ったものを感じる。

 10時から八幡宮のお炊きあげの神事が始まる。積まれたダルマの周りに多くの人垣が出来ていた。人々の心にあるのは、一様に今年一年の安全、そして、災害からの復興であろう。神官ののりとに続いてダルマに火が移される。たちまち音をたてて立ち上がる紅蓮の炎。火は人間の心の底に潜む原始の存在を刺激する。私は、倒壊する家々、押し寄せる津波を赤い炎に重ねていた。我に返ると、火の山は、震災後の社会を復興させる大きな力に見えた。火はエネルギーの歴史を語りかける。私たちは、科学の力で開放した原子力の火を甘く見ていた。その反省を謙虚に受け入れて活かすときが来た。お炊き上げの炎を見て、私は今こそエネルギー政策の転換点に立っている事を感じた。

◇政府や電力業界が一体となって原子力発電の安全神話を強引に作り上げてきた事実が明らかになる中で、国民の不信感をふくらませるような事実が報じられている。政府の原子力安全委員会の委員たちが審査対象の電力会社などから多額の寄付を受けていた事実だ。

 更に、東電が電力会社に大きな影響力を持つ国会議員のパーティー券を大量に購入していた事実も明らかにされた。驚くばかりだ。

◇原子力発電の将来は限りなく細くなる事が確実だ。政府は原発の運転期間を原則として40年に制限するように法改正を行うことを明らかにした。これによれば、今後脱原発が急速に進み、震災前54基あった原発は2050年にはゼロになる。新基の原発は事実上無理だから、日本は原子力以外のエネルギーに頼る方向に大きく舵を切らざるを得ない。国が決断すれば、日本の技術力で、それは可能だと信じる。この原子力政策の大転換により多くの産業が生まれ雇用が創出され、日本の社会が変化し発展するだろう。(読者に感謝)

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2012年1月 9日 (月)

上州の山河と共に 第94回出馬を決意

 他の団体についても同じような現象が見られた。これらの団体にも選挙運動の経験者はやはりほとんどいない。また、地域社会のボスであるとか、企業の経営者とか、上から権力を振るうような人もいない。だから、皆平等であり、また、それぞれが運動の主役であるという意識を持つことができたのである。

会議を、重ねるうちに、皆、次第にのめり込んできて、会議の場は、熱気に包まれるようになっていった。

<たかが素人の寄せ集め、大したことは出来ないだろう>

 世間ではこう噂しているということが、私の耳に入った。

 そんなことはない、我が陣営は、未経験者の集まりで、しっかりした組織になっていない点を指摘してそう言うのだろうが、組織があればそれだけで大きな力が出せるとは限らない、と私は思った。組織は古くなると形式的となり、硬直するものだと思う。また、階級的な秩序も、時には内部の力を外に出せず、逆に押さえ込む作用を果たす場合もある。幕末の頃、高杉晋作の奇兵隊が、幕府の正規軍に対抗して大きな力を発揮したのも、一人一人がやる気を起こして、新鮮なパワーを爆発させたからではないか。

 こう考えると、私の各種部隊も、この奇兵隊のように、新鮮な大きなパワーを発揮してくれるように思えるのだった。だから、これからも、私自身が直接出会う人達の中からグループをつくる、あるいは、そういう人からその仲間に呼びかけてもらって、五人でも十人でも良いから、小さいグループを作ってもらう、これが、この時点での私の作戦としては最良のものと思えたのであった。

※土日祝日は中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2012年1月 8日 (日)

上州の山河と共に 第93回 出馬を決意

 これからは、このプレハブ小屋を拠点として、出来るだけ回数多く会議を開くことにしよう、そして、これと並行して、従来のように、私自身が出かけて行って直接会うという作戦を続け、その中で、会議に出てくれる人を探してゆこう、私はこのように考えをめぐらせながら、新たな作戦に進む決意を固めていった。

 プレハブ小屋での会合は、中村塾の卒業生、妻の教え子、私の中学時代の同級生、宮城村時代の同級生、そして、定時制高校時代の同級生、といった順で開いていった。

 会議に参加するものは、ほとんど選挙に関しては素人であった。だから、具体的にどうやって運動を進めたらよいか分からない。

 中村塾卒業生たちの会合でのこと。

「先生、公職選挙法というのがあって、やたら選挙活動をするのはやばいって、おやじに言われてきたけど、大丈夫なんですか」

 もう二十五、六歳になっている筈のKが言った。

「うん、確かに公職選挙法では、選挙運動が出来る時期は決められていて、それ以外は出来ない。しかし、今我々がやっているのは、選挙運動ではない。中村のりお後援会活動なんだ。我々国民には、憲法で保障された政治活動の権利があるんだ。そういう風に理解してくれないか」

「へえー、そんな、分かったような分からないような事言ってたんでは、ピンとこないぜ、先生。俺の仲間なんか、みな、選挙になんか行ったことがない者ばかりだ。俺が、先生に投票してくれって頼めば、みんな、投票するぜ。後援会に入ってくれなんていう言い方じゃ説得力がねえよなあ」

「馬鹿だなあ、お前、そんなこと、頭で考えて、適当にやれよ」

 Kの同級生Yの言葉である。

 こんな具合であるから、民主主義社会における選挙の意義というようなことから始めて、公選法の説明まで詳しく話そうとすると、

「まるで、昔の中村塾みてえじゃねえか。先生、俺達、月謝払わねえんだから、あんまり細かく教えてくんなくもいいよ」

 誰かが言って、みんながどっと笑った。

それでも、中村塾の卒業生たちは、自分たちが主役となって頑張ってゆこうという気になってくれて、それぞれの立場で、自分の仲間に呼びかけ、支援者の輪を拡げる為に大いに活躍してくれた。

※土日祝日は中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2012年1月 7日 (土)

上州の山河と共に 第92回 出馬を決意

それにしても、そろそろ支援者が会合を持てる拠点が必要だという事になり、手分けしてプレハブの古いやつをやっと見つけ、私の家の近くの空き地を借りて、みすぼらしい、小さな後援会事務所が建てられることになった。

後援会事務所ができてみると、新たな感慨が湧いてくる。それは、ちっぽけで、みすぼらしいながら、一つの城であった。私は、事務所の窓から前橋を見下ろして、少年の頃親しんだ太閤記や三国志の世界を思い浮かべていた。よし、孫子の兵法で、一つ、あの市街地へ攻め込んでゆこう。私の心は、少年のように熱く燃えるのであった。

十坪ちょっとのプレハブ小屋はあるが、そこは、ゼロから出発した私達が会議を開き、知恵を出し合い、そして、秘策を練るにはふさわしい空間であった。

三人寄れば文殊の知恵というが、何人かが集まって会議を開くと、いろいろな良いアイディアが飛び出すし、また、意見をたたかわす中で、同志的な心の連帯が生まれてくるのだった。

 このことは一つの重要な発見であった。今まで一人でこつこつと歩き回って知り合った人達の中からグループを作ることができれば、そこからは、一プラス一は二以上の新しいエネルギーが生まれるに違いないと思われた。一つの体験から新しい理論が生まれ、それに基づいて、また、新しい行動が展開していくのだと気付くと、手探りでやってきた闇の中に一条の光を見つけた思いがするのだった。

 振り返れば、運動を始めてからすでに半年以上がすぎていた。もう、私一人で行動している段階ではない。自分一人の力は微々たるものである。これからは、如何に多くの人に協力してもらえるかに、この運動の成否がかかっている。こう考えると、私の運動も新たな段階に進むべき時に来ているように思われた。

※土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2012年1月 6日 (金)

人生意気に感ず「県議団総会で楫取を。夜来香。暴対法改正」

◇公的諸活動が一斉に開始した日だった(5日)。朝9時半から、自民党の常任役員会、同県議団総会、八ッ場ダム推進議連賀詞交換会、県議会新年賀詞交換会、上毛新聞新年交歓会と続いた。

 常任役員会と県議団総会で、私は萩市の講演につき話した。萩では楫取素彦没後百年を迎えるにあたり顕彰の動きが盛り上がっているのに、群馬では関心が薄い。初代県令(県知事)の業績を学び、しっかりと顕彰しようではないかと呼びかけた。県庁裏の楫取功徳碑が埃にまみれ周りが草だらけになっていて萩で恥ずかしい思いをした事も話した。

 事実、講演会場で、私は楫取素彦の功徳碑を掃除したという人に会った。バスでやってきた「奇兵隊」のメンバーである。今、準備している楫取素彦顕彰会が出来たら、第一の仕事として、皆で、「碑」を掃除し周辺を整えることをしたいと思う。

◇八ッ場ダム推進議連賀詞交換会には自民党、みんなの党の国会議員も全員参加。最初に挨拶に立った私は、ダム建設継続決定の意義を語った。

◇「八ッ場」から上毛新聞の集いに至る3つの新年会で感じた事は、国会議員の発言や態度に見られる解散・総選挙の雰囲気である。山本一太さんは、必ず選挙がある、政権を奪還すると意気盛んだった。いつもの例で、このようにして解散総選挙に向けて多くの国会議員が走り出すと止まらなくなって選挙をやらざるを得ない状況になっていく。今回は、消費税の問題があるので、国民に是非を問う総選挙は避けられない。

◇大みそか深夜、銃撃されたスナックは前橋市千代田町の夜来香(イエライシャン)だ。みかじめ料請求の事実があったという。警察は威信にかけて逮捕すると言っている。昨年4月実施の暴力団排除条例を生かすためでもある。大自然の脅威に対して安全安心がかつてない程叫ばれている今日、暴力団の排除は喫緊の課題だ。

◇暴力団対策法の改正案が提案される。暴力団排除条例を実効あらしめる目的がある。排除に取り組む者への襲撃が続いているからだ。

 指定暴力団のうちとくに凶悪と判断した組織を「特定暴力団」に指定し規制を強化する。注目点に、暴力団事務所使用差し止め請求訴訟を暴力団追放運動推進センターが住民に代わって行える制度などがある。法案を見守りたい。(読者に感謝)

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2012年1月 5日 (木)

人生意気に感ず「吉田松陰との出会い。楫取素彦顕彰の意義」

◇年頭に当り、我が心に例年と違う手ごたえを感じるのは、昨年末萩市で得た成果の故だ。年末に、群馬の初代県令(県知事)楫取素彦の群馬に於ける業績につき、楫取生誕の町で講演する機会を得た。

 今、振り返って、「我が生誕の地に来て我をもっと良く知れ」という楫取の霊に導かれてあの町へ行ってきたという感を抱く。

 楫取素彦に関する私の理解は不十分で表面的であったことを恥じる気持ちだ。萩での、楫取素彦や吉田松陰との出会いがこの感を抱かせる。そして改めて、群馬の建設に打ち込んだ楫取の信念の強さと深さに思いを致すのである。

 萩で得た資料に、小田村伊之助に与ふ(東行前日記・安政六年五月十八日)、「至誠にして動かざる者未だ之れあらざるなり」がある。

 吉田松陰が罰を受けるために江戸へ送られる直前、小田村伊之助に、自分が最も大切にしている信条を送ったのだ。小田村伊之助とは楫取素彦のこと。

◇山口県教育会が「松陰先生の人となりや心根、実学・実行の様相をわかりやすく、手軽な読み物としてまとめた」書・「松陰先生に学ぶ」の初めの頁には、その全面を使って、「至誠而不動者末之有也」と松陰の書が紹介され、その裏ページには小学生にも分かるような次の説明がある。「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり、と読みます。人はまごころをもってすればどんなものでも感動しないものはないということです。この書は松陰が江戸へ行く前に書いて小田村伊之助にあたえたものです。」

◇私は松陰が「人間尊重」の信念で行動していた事を改めて確信した。男女の差、身分の差をこえて人に接した。獄中の勉強会の実施、被差別の民の女(登波)の行動を碑文でたたえたこと、女性だけの読書会を開いたことなどにも現れている。この松陰が松下村塾を託した人が小田村伊之助、即ち楫取素彦だった。

◇この楫取素彦が明治になって群馬に来て人づくりに情熱を燃やしたのである。日本で最初の女性解放ともいえる廃娼県確立のために楫取が動いたことも、吉田松陰との深い関わりを基本において見た時、十分にうなずく事が出来る。

◇この楫取素彦を群馬県は大切にしていないことを残念に思う。県庁裏には

立派な顕彰碑があるが、日陰の草に囲まれた存在で知らない人が多い。没後百年、そして「3.11」後の群馬のスタートを期して楫取を改めて顕彰したい。(読者に感謝)

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2012年1月 4日 (水)

人生意気に感ず「オウム特別手配犯の出頭。前橋の発砲は」

◇新年が始まった。新年早々日本中を驚愕させるミステリーなニュースが報じられた。オウム事件で特別手配されていた容疑者が大みそかの深夜警視庁に出頭し元旦未明逮捕されたのだ。オウム真理教元幹部平田信容疑者である。昨年12月21日、13人目の死刑判決が確定し前代未聞の特異な犯罪の幕が下りた直後である。

 逃亡17年にしてなぜ今出頭か、逃亡を助けた人はいるのか、麻原死刑囚の執行に影響はあるのか、平田容疑者が語る事に社会が注目する。

◇麻原など死刑囚の執行に影響を与える恐れとは冤罪である。死刑に関して冤罪は絶対にあってはならない。しかし、現実には少なからぬ例がある。そして、執行後の冤罪はとり返しがつかない。

 警視庁は逮捕監禁致死容疑で逮捕したが、平田容疑者は公証役場事務長拉致事件で特別手配されている男だ。そして、松本死刑囚、井上浩死刑囚、中川智正死刑囚もこの拉致事件に関与した事が認定されている。という事は、平田容疑者が拉致事件で起訴されれば拉致に関して新たな事実が明らかになる可能性が有る。それが、松本等死刑囚の再審に結びつくとは考え難いが、万が一ということもあり、執行には踏み切れないのではないか。平田容疑者の出頭はその事を狙ったという見方もある。注目される事だ。

◇大みそかの午前1時35分ごろ、前橋市のスナックに銃弾が打ち込まれた。経営者が「暴力団へのあいさつ料を断ったからではないか」と話していたらしい。

 気にかかる事は暴力団排除条例との関係である。暴力団への利益供与を禁じた同条例が本県でも、昨年の9月議会で成立し、今年4月に施行された。もし、あいさつ料を断った事へのいやがらせだとすれば、暴力団排除条例への挑戦である。放置すれば、影響は大きい。県警は徹底して調査して欲しい。平成15年の三俣事件は暴力団の抗争が前橋市民を恐怖におとしいれた。東日本大震災後の新年を暴力団の影から守らねばならない。

◇萩市のローカルテレビ局から嬉しい便り。昨年12月20日の萩市における私の楫取素彦に関する講演の様子がニュース番組「萩あれこれ」で放映されたという。そして、「ニュースを通して萩市民の皆様に楫取素彦が群馬県で残した功績について知ってもらうことが出来ました」とあった。(読者に感謝)

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2012年1月 3日 (火)

上州の山河と共に 第91回 

S氏の助言で、特に印象に残っていることがある。それは、地元、芳賀で後援会がなかなか出来ないという私の悩みに対するものだった。S氏の考えは、地元は、時期がくれば必ずそれなりにまとまりができる、周辺に支援者を増やしてゆけば、それが地元に良い影響を及ぼしてゆくだろうというものであった。そして、その後の展開は、大筋として、彼の言った通りになっていった。S氏との間に培われた友情は、今でも変わることがない。

 S氏のように、他の政治家との繋がりを気にして、表に出たがらない人が意外に多いことに初めは驚いたが、考えてみれば、すでに秩序ができているところに、新人が割り込んでゆくのであるから、これは当たり前のことであった。

 S氏のように名乗り出手くれて、私と直接の関係を持ってくれる人は、その後も、徐々に増えていった。私は、戦いの時迄には、まだ時間がある、今は、点を重視した作戦を続けていこう、いつかはそれが線となり、さらに面となる時期が来るだろうと考え、少しずつ現れる運動の効果に励まされながら、足で稼ぐ作戦を続けていった。

 福島浩、芝基紘そして町田氏とは、1ヵ月に一回位会って、私の運動の状況を聞いてもらい、また、お互いの情報交換をしていた。

 私が運動を開始して三カ月の時点で、彼らに報告した感想は次のようなものであった。前橋市を地域別に見ると、現職の県議のいる農村部は中々入り込めない。このような地域は、親戚関係や同窓生の関係など特別なルートを頼らないとつながりがつくれない。これに対して市街地や新興住宅地は、ほとんどが固まっていないと言って良い状態である。そして、年齢の関係では、三十代半ば位までは、圧倒的に無関心層であり、投票所へ行ったこともない人が非常に多い。また、作戦の面では、現職と四つに組んで同じような戦い方をしたのでは勝ち目がなく、従来の政治家が対象にしなかった、あるいは、対象にできなかったと言うべきかもしれない層に直接働きかけることが非常に有効である。だから、現在、私がこつこつと直接に訪ねて歩いていることは、的を得た作戦だと思う。これは、小さな種子を蒔いて歩いているようなもので、きっと芽が出るに違いない。ざっと以上のようなことであった。

※土日祝日は中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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上州の山河と共に 第91回 

S氏の助言で、特に印象に残っていることがある。それは、地元、芳賀で後援会がなかなか出来ないという私の悩みに対するものだった。S氏の考えは、地元は、時期がくれば必ずそれなりにまとまりができる、周辺に支援者を増やしてゆけば、それが地元に良い影響を及ぼしてゆくだろうというものであった。そして、その後の展開は、大筋として、彼の言った通りになっていった。S氏との間に培われた友情は、今でも変わることがない。

 S氏のように、他の政治家との繋がりを気にして、表に出たがらない人が意外に多いことに初めは驚いたが、考えてみれば、すでに秩序ができているところに、新人が割り込んでゆくのであるから、これは当たり前のことであった。

 S氏のように名乗り出手くれて、私と直接の関係を持ってくれる人は、その後も、徐々に増えていった。私は、戦いの時迄には、まだ時間がある、今は、点を重視した作戦を続けていこう、いつかはそれが線となり、さらに面となる時期が来るだろうと考え、少しずつ現れる運動の効果に励まされながら、足で稼ぐ作戦を続けていった。

 福島浩、芝基紘そして町田氏とは、1ヵ月に一回位会って、私の運動の状況を聞いてもらい、また、お互いの情報交換をしていた。

 私が運動を開始して三カ月の時点で、彼らに報告した感想は次のようなものであった。前橋市を地域別に見ると、現職の県議のいる農村部は中々入り込めない。このような地域は、親戚関係や同窓生の関係など特別なルートを頼らないとつながりがつくれない。これに対して市街地や新興住宅地は、ほとんどが固まっていないと言って良い状態である。そして、年齢の関係では、三十代半ば位までは、圧倒的に無関心層であり、投票所へ行ったこともない人が非常に多い。また、作戦の面では、現職と四つに組んで同じような戦い方をしたのでは勝ち目がなく、従来の政治家が対象にしなかった、あるいは、対象にできなかったと言うべきかもしれない層に直接働きかけることが非常に有効である。だから、現在、私がこつこつと直接に訪ねて歩いていることは、的を得た作戦だと思う。これは、小さな種子を蒔いて歩いているようなもので、きっと芽が出るに違いない。ざっと以上のようなことであった。

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2012年1月 2日 (月)

「上州の山河と共に」第90回 出馬を決意

「私は、いままで、いろいろな選挙にかかわってきたが、もう選挙は飽きた、というより嫌になっていたんです。もう二度と選挙はしたくないと思っていたところに、あなたの話を聞いて、若い頃、理想に燃えて飛び廻っていた頃のことを、今、懐かしく思い出していました。あなたに会って見て、もう一度よく話を聞いて、できたら、応援したい気持ちになってきました。」

「ありがとうございます。是非、会って私の話を聞いて下さい。」

 私は、声の主にすぐにでも会いたい気持ちであった。そして、このような電話をくれる人が出てきたことは、この運動が、自分の知らない所でも反応を引き起こしている証拠だと思えて嬉しかった。

 23日後、私は、打ち合わせをしておいて、S氏に会った。S氏は、60に手が届くほどの、がっしりした体格の立派な人物であった。彼は、今まで、様々な選挙に関わってきて、現在も、何人かの政治家とつながりをもっているので、名前を表に出すわけにはいかないが、今までの経験を生かして、力いっぱい応援すると約束してくれた。

 S氏は約束を守り、その後、私の運動が展開してゆくなかで、時々、重要なアドバイスをしてくれたし、また、自分の人脈の中で、信頼できる人を次々と紹介してくれた。

※土日祝日は中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2012年1月 1日 (日)

新年明けましておめでとうございます

新年明けましておめでとうございます。

昨年は未曾有の大震災の中で日本中が混乱した一年でした。混乱はまだ続き、その先には新たな危機や大変化が待ち受けているに違いありません。

今年は、このような状況をしっかりと見据えながら新しい道を切り開かねばなりません。東日本大震災が私たちに突きつけた課題は多岐にわたり、その一つ一つが重大です。

 私たちは、それを謙虚に受け止め力を合わせて乗り越えねばなりません。

 そのためには、大切な情報を共有ことが求められます。私のブログは、小さな情報の発信基地ですが、また読者の皆様と意見を交わせるコミュニティの役割を果たしたいと願っています。今年も、決意を新たに取り組んでまいります。

皆様の御健勝を心からお祈りいたします。

                      中村のりお

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