« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月31日 (日)

「上州の山河と共に」 第41回 東大紛争・林健太郎先生との出会い

 しかし、代々木系全学連民青と反代々木系学生との主導権争いは、絶えず乱闘事件を引きおこし、時には数百名の重軽傷者を出すようになると、一般学生の心は次第に冷めていった。特に、機動隊の再度の導入が噂されるにともない、他大学の学生が多数入り込んで、目に余る破壊行為を行なうようになると、彼らと行動を共にする全共闘に対して、一般学生はむしろ批判的に傾いてゆくようになった。

 私は、一般学生の一人として、やり切れない気持ちで紛争を見ていた。学園外の一般社会で生きてきた私にとって、学生同志の議論のやり方には、ついてゆけないところがあった。彼らは、そんなこと世の中では通用しないと思えることでも、自分の理想と理屈に合っていれば、どこ迄も押し通そうとする。その純粋さは時に羨ましく思うこともあったが、活動家の押し付けがましい強引な態度にはいやけがさしていた。

 私は、林健太郎先生のゼミで、「若きマルクスの人間像」という題のドイツ語の原書をやっているうちに、紛争が本格的となり、授業も打ち切られることになった。クラス討論、学部集会などが絶えず行なわれ、ストライキの是非、紛争の解決策などを巡り、議論が交わされた。

 私は、紛争が東大を正常なものにするという本来の目的からはずれているから、ストライキを止めるべきだと発言したことがあるが、やじと怒号で吹き飛ばされてしまった。しかし、私に同調する声も多いということを周りの視線から感じることができた。

 紛争中のある夜、現在、読売の政治部にいる松本斉君と、善福寺の林先生宅を訪ねたことがある。松本君も私と同じように考えており、先生を囲んで、学部の様子、他学部の状況などを話し合い、また、先生から求められて、自分の考えを述べたりした。林先生の冷静沈着な御様子は、紛争の渦中にあっても変わることがない。口数は多くないが、発する言葉には、大変な重みが感じられた。

 その後、先生は文学部長となり、そして、有名な173時間の軟禁事件に遭遇されるのである。(土日祝日は中村紀雄著『上州の山河と共に』を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月30日 (土)

「上州の山河と共に」 第40回 東大紛争・林健太郎先生との出会い

 東大では、先にもちょっと触れたように、その時々の政治問題に学生が敏感に反応して反対集会やデモ行進などが絶えず行われていた。しかし、これらの運動は、いわゆる活動家学生のものであって、学園全部を巻き込んだものではなかった。全国の人々の目をテレビに釘付けにしたあの凄絶な安田講堂の攻防戦に発展する東大紛争は、医学部問題から始まった。当時、東大医学部では、「インターン制度」、「登録医制度」が争いの種となっていた。これらの制度に反対する学生と教授会の対立は、時がたつにつれて深刻となり、ついに、団交を求めて教授を取り囲んだ学生の一人が暴力を振るうという事件が発生するに至った。医学部では、この学生を処分したが、この処分を不当とする学生達は、医学部の建物を占拠するに至り、紛争はにわかにエスカレートすることになった。

 医学部問題の根底には、帝国大学以来の封建的権威主義、あるいは、周りの社会の変化から取り残された硬直した学部運営など東大の体質的な欠陥が横たわり、これに対する学生の根強い不信感があった。だから、医学部の問題は、何かきっかけがあればすぐに全学部に波及する要素を持っていたのである。

 医学部の紛争には、他大学の学生活動家が多数参加するようになり、彼らは、安田講堂を占拠するに至った。これに対して、大河内総長は機動隊を導入して建物を奪還したが、機動隊をいきなり導入したことに対する非難の声は全学的に広がっていった。そして、安田講堂は再び占拠され、全学部の自治会がストの決議をするに至り、これを機に、東大闘争全学共闘会議(全共闘)が結成された。

 この当たりまでは、一般学生(ノンポリ)もストに同調的であった。なぜなら、彼らは、東大独特の改革されるべき弊害を除きたいという共通の意識を持っていたし、さらに、学問の自由、大学の自治というこの上なき重要な権利を、大学側は、占拠学生を説得する努力を十分しないまま、機動隊を導入する事によって侵害したという点でも共通の認識を持っていたからである。 (読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月29日 (金)

中村のりお・人生意気に感ず「江田法相は死刑執行を命じない。死刑を議論しよう」

◇江田法相は、28日、当面死刑執行を命じないことを明らかにした。執行に怯える死刑囚はほっとしているだろう。江田氏は死刑廃止論者。法相の信条によって執行の数が極端に変わる。鳩山邦夫法相は在任中13人の執行を命じ「正義を実現するために粛々と執行している」と発言し、社会に異様な衝撃を与えた。

 憲法は残虐な死罰は絶対に禁ずると定めるが(36条)、最高裁は現行の死刑執行は残虐ではないとしている。国民の8割は、死刑制度を支持している。世界のすう勢は廃止である。国連は死刑執行の停止を求める決議案を採択した。江田法相の発言は、法務省に死刑の存廃を含めた死刑制度の勉強会が行われていることと関係しているらしい。江田氏はまた、「冤罪は起きる。誤判の恐れが内蔵されているのが裁判制度。これに執行されたら取り返しのつかない死刑が結びついていいのか」と語る。

 裁判員裁判が始まり、司法に国民が参加するようになった今日、死刑について国民的議論がなされるべきだ。冤罪・誤審の例としては、最高裁で死刑確定後再審で無罪となったものに、八海事件、免田事件、財田川事件、徳島ラジオ商殺し事件などがある。そして、「取り返しがつかない」例となる可能性を孕むものとして、飯塚事件の死後再審請求がある。

 福岡県飯塚市で起きた小1の2人の女児殺害事件では犯人とされた男は08年に刑を執行された。今から見れば、精度の低いDNA鑑定の結果を有力な証拠とされた。超高精度のDNA鑑定技術の下で09年10月福岡地裁に再審請求がなされた。その動向は、我が国死刑制度を根底から揺り動かす可能性がある。

◇平成21年の裁判員制度の実施によって、死刑は身近な問題となった。一般市民が裁判員に選ばれれば人の生死を決定する作業に関わることになる。死刑を遠くの存在と考えていた人は多いが今は違うのだ。身近な死刑がらみの事件といえば、裁判員裁判とは別に、平成15年の前橋三俣町のスナックで起きた暴力団抗争事件が記憶に生々しい。実行に関わった3人が死刑判決を受け1人については最高裁で確定している。

◇死刑は最高刑でかつ極刑であるが、次の無期刑との差が大きすぎる。無期刑は一定期間経過後に社会に出られるからだ。そこで死刑にかわる刑として終身刑を設けるべきだとの意見も多い。立法は国会の義務だ。群馬県出身の国会議員にこの点の意見を聞きたいと思う。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月28日 (木)

人生意気に感ず「汚染牛は食の安全の発火点。市との会議。中国新幹線」

◇汚染牛問題は広がる一方だ。放射性セシウムに汚染された「稲わら」が出発点。稲のわらが汚染されているとすれば「米は大丈夫か」と不安の声が出るのは当然だ。現在の汚染の原因は飛散したセシウムであるが、セシウムは当然土壌を汚染するから現在田植えした稲の収獲米が心配になる。土壌汚染の関連からすれば他の作物にも不安は広がる。また、大量の放射性物質が海に入ったから魚介類の汚染も心配だ。現に高濃度の検出が報じられている。放射性物質は陸と海から広がり、汚染食品は流通システムに乗って国民の食生活を脅かすに至っている。

 放射性物質については、「食の安全」の問題として今後、更に深刻な広がりを見せるだろう。どうしたらよいのか。国や自治体は信用を失っているが、国や自治体の役割は極めて重要で、事態を打開するにはこれらの力が中心にならねばならない。国や自治体の第一の使命は国民の生命と健康を守ることだ。

◇昨日(27日)、前橋市の会議に出て、県と市の協力関係の重要さを痛感した。これは、県と市町村との連携の重要さの問題である。

 前橋市は毎年、重要事項につき県に協力を求める。要望書を知事に渡すとき、前橋の県会議員が間に入ってサポートする。昨日の会議はその事前打ち合わせで、高木市長以下市の幹部職員が出席。要望事項の1つに放射線対策があった。

 焼却灰や下水処理場の汚泥から高濃度の放射性物質が検出されるなど市が困っている実情がうかがえた。要望は、放射性物質の測定や処理の費用の支援、県関係機関が持つ放射線関係の専門的知識とノウハウの提供等である。専門家の知識など県は豊富にもつ。市町村とうまく連携すれば大きな効果を上げることができる。まさかの緊急時なのにこの連携が進んでいないことを感じた。私はこの会議で食の安全について質問した。そして、県、市町村、議員の合同会議で議論すれば大きな成果が得られるだろうと思った。

◇中国の列車事故は体制を揺るがす大問題に発展する可能性がある。人命軽視を世界から批判される中、被害者家族らが異例の抗議活動を始めた。当局に達しこれを阻止出来ない。地中に埋めた車輌も掘り出した。国民に批判を許さぬ体制は限界で一触即発状態。民主主義と一党独裁の矛盾は一挙に爆発する危険を孕む。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月27日 (水)

人生意気に感ず「放射能の勉強会実施。驚異のテロリストは日本を絶賛」

◇ベクレル、シーベルト、放射線、放射能、放射性物質、ヨウ素、セシウム、ストロンチウム、安全基準等々、様々な言葉と様々な意見が飛び交っていて、これらを理解し、何を信じたらよいかわからない。これが多くの人が、現在抱く、いつわらざる感情だろう。

 国も地方自治体も、このような状況の中で果たすべき役割をはたしていない。とすれば、住民は生活を守るために自己防衛を考えねばならない。そのための最小限の知識が必要だ。「放射能・放射線は何がどれだけ恐いのか」、「放射能のリスクはどこまでが安全か」、「安全な食べ物をどう見きわめるか」、「土壌や海、空気はどこまで汚染されるか」これらについて知りたいという要望が地域から出されている。そこで、専門家を招いて勉強会を開くことになった。

◇去る23日、ふるさと塾で、福島の原発事故について話しをした時、地域で勉強会を開く必要性を痛感した私は、早速26日の午後準備会を開いた。地元3校のPTAの役員、自治会代表、健康科学大学の事務局の人が参加し、9月10日(土)、午後1時半、芳賀公民館での実施が決まった。難しい事を話されても分からないから、知識ゼロの私たちの目線で易しく話して欲しいという声が前記の要望とともに出された。

◇新型インフルエンザについても、私は地元で講師を招いて勉強会を実施した。今回の「放射線」はより重要で深刻だと思う。私たちは、「群馬は大丈夫」という「安全神話」に包まれている。しかし、風の流れに県境はないし、流通システムによって汚染物質は食卓まで押し寄せる。放射線セシウムに汚染された宮城の稲わらが群馬に来ているし、汚染わらを食べた牛の肉が近くのスーパーに並んでいる可能性もあるのだ。私自身が講師になって各地で出前講座をしたいと思っている。サポーターが必要なので、志のある方は知らせて頂きたい。かつて、平成12年に介護保険制度がスタートした時、各地の公民館で説明会を実施した事を思い出す。

◇92人の犠牲者を出したテロの容疑者、ノルウェーのブレイビクは、イスラム移民に敵意を抱いている。厳しい移民政策をとる日本を称え、会いたい人として麻生太郎を挙げる。欧州の底流には時代錯誤な極石の動きが根強くある。容疑者は正常なのか。死刑がないノルウェーでは人道に対する罪として最高刑の禁錮30年を初めて検討。国民の間では死刑復活の声も。日本やアメリカなら間違いなく死刑だ。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月26日 (火)

2011726日(火)

人生意気に感ず「中国の新幹線事故の衝撃。36万人甲状腺検査」

◇中国の新幹線大事故は現在の中国が抱える実態を象徴している。一言で現せば人権軽視の一党独裁国家の矛盾である。20m超の高架から車輌が転落、35人が死に200人以上が負傷した。直後には運転室などが壊されて地中に埋められたといわれる。日本では信じ難いことだ。私の周辺では、こういう国で「原発」が進められたら大変だという声が上がっている。

◇私は09年4月に、山東省を訪ね、済南市まで新幹線「和諧号」に乗った。日本の新幹線と比べ質素だが、乗客の中国人の表情は誇らしげであった。最高時速242キロで「ビニールの海」を走った光景が甦る。視界の限りに大海原のように広がるのは、野菜をつくるビニールハウスであった。沿線では随所に台形状の煙突から煙が上がっている。火力発電所の姿は躍進中国の苦しい電力事情を語っていた。それは中国が原発を求める姿でもある。

 青島の日本総領事、伊勢崎市出身の斉藤さんが、「中国は国家の権力が強いので思い切った政策を極めて短期間で行うことが出来る」と語ったことが、今、「脱線事故」と重なって思い出される。

◇昔、日清戦争の頃の中国は眠れる獅子と呼ばれたが、現在の中国は目を醒ました恐竜のようだ。胡錦涛国家主席は政治スローガンとして「和諧社会」を掲げる。和諧は日本語の協調である。速度第一の経済発展から質を重視する呼びかけである。私が乗ったものも今回の事故車輌も「和諧号」だ。

 日本やドイツなどの技術に全面的に頼りながら独自開発であることを強調し、外国で特許申請を出す厚かましさには驚かされる。この調子で原発の開発が進められたら大変である。

 天安門事件の人権抑制はまだ尾を引いている。それは、主導者の1人劉氏のノーベル平和賞に反対する中国政府の姿に現れている。「人権」は人間の真の豊かさと幸せを支える基盤であることを思い知らされる。

◇福島県では全県民対象に放射線被曝の調査をする。特に36万人の子どもの甲状腺検査は重要だ。25年前のチェルノブイリ事故で子どもの甲状腺がんが激増した事を受けている。甲状腺ホルモンをつくる要素として放射性でないヨウ素が必要とされることから、放射性ヨウ素も甲状腺に集まってしまう。宮城県知事も国に全県民の調査を求めた。群馬とて他人事ではない。「広島」、「長崎」の再来と受け止めるべきだ。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月25日 (月)

人生意気に感ず「ふるさと塾で原発を語る。セシウム汚染広がる」

◇久しぶりのふるさと塾は盛会だった(23日)。テーマは東日本大震災。初めに、多賀城市街が津波に襲われる迫真の映像を10分程流した。県外調査で訪れた時(14日)、見せられたものをふるさと塾の為に送ってもらったのだ。私は、菊地市長が869年の貞観地震を振り返って、「歴史は嘘をつかない」と語ったことを紹介し、それは「歴史から学ばねばならない」という意味だと話した。

 長年続けている「ふるさと塾」は、私が自分の考えを語れる舞台である。福島第一原発がもたらした放射能汚染問題では、日本は広島、長崎で人類初の原爆被爆国でありながら原発の危険性について国民的議論をしないまま世界の原発大国であり続けてきたが、今日の混乱と惨状は、そのつけが回ってきたことを意味すると訴えた。54基の原発は世界三位である。

 また、具体的問題では、チェルノブイリとの比較、全国の原発の災害対策、放射能は何がどれ程恐いのか、放射能汚染から身を守る方法等につき映像を使って説明した。放射線についてはヨウ素とセシウムを取りあげた。

◇放射性セシウムに汚染された肉牛問題が全国的に深刻化している。汚染された稲わらを牛が食べたことによる牛の内部被曝である。汚染された牛肉を人間が食べれば人間の内部被曝の原因となる。

 福島、岩手、宮城、秋田、栃木の各県の牛の肉からは基準値を超えるセシウムが検出されている。群馬でも宮城県の業者から稲わらを買っており、そこから検体をとって調べたら基準値を超えるセシウムが検出された。

◇肉牛が暴落して農家は大打撃を受けているが一消費者の間にも不安が広がっている。基準を超える汚染物を食べても「健康に直に害を与えるものではない」と政府は説明するが、「直ちに」とは何か、直ちに理解し難い表現だ。低量の放射線でも長く続けて被曝された場合どうなるのか、子どもは別に考えるべきではないか等、私のまわりでも若いお母さんの不安の声があがっている。

◇セシウムは体内に入ると内臓や骨に蓄積され遺伝子に害を与え発がんの原因になりうる。半減期は30年。放射性ヨウ素は甲状腺に集中的に集まる。チェルノブイリ事故後、放射性ヨウ素に汚染された牛乳を飲んだ子どもたちの間で甲状腺がんが激増した。ヨウ素の半減期は8日間。今や日本は、広島、長崎に次ぐ3番目の原爆投下に見舞われたような観がある。(読者に感謝

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月24日 (日)

「上州の山河と共に」 第39回 私の東大時代

駒場時代は、広い視野にたって勉強しようと思い、中屋健一の「米国史」や玉野井芳郎の経済のゼミなどに意欲的に出ていたことは前に触れたが、同じような観点から、社会科学への興味が広がるのに伴い、友人の誘いもあって法学部の授業にも出席する気になったのである。

 二つの講義のうち、一つは、川島武宜先生の民法総則で、これは、「優」をもらった。そして、もう一つは、団藤重光先生の刑法総論で、こちらは「良」であった。民法の「優」については、法学部の友人も驚いていた。

 勉強の上の体験のもう一つは、中屋健一の「米国史」の中のアメリカの独立宣言に始まり、西洋史に進んでから勉強したフランス革命とそこにおける人権宣言、そして、ドイツに関してはワイマール共和国のワイマール憲法というように、一連の基本的人権の系譜を学び、これに強い興味を抱いたこと、そして、これらの関連を憲法という面から体系的に学ぶとどうなるか、という関心から、法学部の講義にも顔を出していたことである。

 このような体験から、法律は未知な領域ではなく、やればなんとかなる、と一人よがりに思い込んでいたのであった。

 司法試験を決意した私にとって大きな励みとなったのは、中崎敏雄君の存在であった。彼のことは前にも触れたが、同じ文学部の級友で、駒場の校舎で夜遅くまで勉強した仲である。彼は、教養学科の国際関係論というところに進んだが、やはり悩んだ末に、司法試験に挑戦する決意をしていた。

西洋史の勉強と司法試験の勉強を両立させることは、そんなに易しいことではなかったが、私は、東大受験の時のような緊張した気持ちで取り組んだ。

 憲法、民法、刑法、商法の必須科目、そして、訴訟法は民事訴訟を選び、その他の選択科目は刑事政策と心理学であった。法律を始めて一年程の月日は、あっという間に過ぎた。私は、卒業を目前にして、一年卒業を遅らせるかどうか多いに迷ったが、法律を勉強するには、大学にいた方が有利と判断し、ついに留年に踏みきったのであった。そして、留年した為に、東大紛争に遭遇することになるのである。

土日祝日は中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月23日 (土)

第38回 私の東大時代

司法試験に挑戦

 私は、結婚を意識しだした頃から、卒業後の進路について考えるようになった。みじめな境遇から脱け出したいと一心で、また、単純な立身出世の夢を描いて東大に飛び込んだ私であったが、学園生活を重ねるうちに大分違う考えをするようになっていた。

私の学園生活は、ただ一筋にわき目もふらずまっしぐらに突き進んできたそれ迄の生き方を振り返る場であったし、また、それは、いろいろな本を読み、様々な人に出会うなかで刺激を受け、目を開かされ、考えたり悩んだりする場でもあった。

 西洋史をでた者は、新聞、ラジオ、テレビなどの報道関係や出版関係、あるいは大学などの教育関係の仕事に就く者が多いが、銀行や商社などに入る者もおり、その行き先は多彩である。私は、規律に縛られるのが嫌いな性格と大学に入る迄の生活習慣とから、卒業後、組織に入って堅苦しい生活をするのは嫌だと思っていた。割田千鶴子は、私の進路について直接には何も言わなかったが、私は彼女の存在に影響を受けていたし、また、大きな責任を感じていた。

 卒業後の進路について悩む私の周辺には、西洋史の仲間の他に法学部の友人達がいた。彼らの多くは司法試験に取り組んでいた。同室の家久君も法学部だから法律に関する話はいつも身近にあった。

 ある時、友人の一人から、君も仲間に入ってやってみては、と、ゼミに誘われたのがきっかけとなって、私はいつしか司法試験に本格的に取り組む方向に傾いていった。東大では、自分の専門の単位の他に他学部の単位を一定範囲で取ることが認められる。私は、西洋史の必須科目の他は、法学部の授業にも積極的に出るようにした。

 私に司法試験を目指して法律を勉強することを決意させてものの中には、次のような、私の勉強の上の体験があったと思われる。

 その一つは、駒場の後半に、九百番教室における法学部の二つの講義に出たことであった。これは、きちんとノートを取り、学期の試験も受けたのである。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月22日 (金)

人生意気に感ず「東電エリートOL殺人事件の闇。汚染牛はどこまで」

◇東電OL殺害事件に新たな展開があった。不可解な事件である。ネパール人ゴビンダさんは地裁で無罪、高裁で逆転無期懲役、それが最高裁で確定。ゴビンダさんは一貫して無罪を主張、日弁連は冤罪として公式に支援を決め再審請求がなされていた。今回、最新技術によるDNA型鑑定の結果新たな事実が。

◇今でこそ東電社員は小さくなっているが、本来東電は超一流企業である。被害女性は一流私大を卒業し、東電の中でも当時女性として珍しいエリートコースにいた。父親は東大出の東電の幹部社員。どこでどう狂ったのか彼女は仕事が終わると渋谷の街に立って客引きをするようになった。その事は暴力団関係者を含めかなり知られた存在だったといわれる。

 彼女は売春状況を日々手帳に克明に記載していた。恐るべき「黒革の手帳」である。今、ケータイから情報がゾロゾロとバレルことがよく報じられるが迫力と凄みはその比ではない。日付、客の名、料金、そして名前の分からない客については。「?」とか「外人」などの記載がなされていた。

 この記載の正確度も問題となった。この点控訴審判決は「記載は書き誤りがないばかりでなく書きもらしも見出し難いという点において非常に確度が高いと認められる」と結論した。東電のエリート社員の業務日誌の様なものか。

◇足利事件の菅家さんを救ったのと同様な超高精度の鑑定の結果、現場で見つかったゴビンダさんとは別人男性の1本の体毛と女性体内の精液のDNA型が一致したことが判明。ゴビンダさんを有罪とした確定判決は、現場であるアパートの部屋にゴビンダさん以外の男がいた可能性を否定していた。

 菅家さんの場合とは異なり、この「新証拠」は直ちにゴビンダさんの無罪を導くものではないが、「疑わしきは罰せず」の大原則からすれば重大な「新証拠」である。再審の扉が開かれるのか非常に注目される。

◇セシウムで汚染された牛肉問題がますます深刻になっている。県は風評被害を抑えるために必死になっている。基準値以下だから健康に害はないと表明しても人々の耳には空しく響く。国や県が出す情報が信用されなくなっている。原爆、原発、放射線などを避けてきたつけが一挙に回ってきた。地域が立ち上がる時だ。8月地元公民館で放射線の勉強会を開くことになった。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月21日 (木)

人生意気に感ず「敗戦と重なった東南海、南海の巨大地震」

◇昔の人は、大地震は乱れた悪政に対する天の戒めと考えた。科学が発達した現代に於いても巨大地震や大津波に見舞われた時は、神秘的な何かの意志の働きを想像してしまう。終戦記念日が近づく。敗戦に向かう頃大地震が頻発していた。

 太平洋戦争は1941年(昭和16年)に始まった。緒戦は優勢であったが、やがて追い詰められ敗色が濃くなっていく。ちょうどこの時期に合わせたように巨大地震が日本列島を次々に襲った。政府は情報を管理して必死に隠そうとした。国民が天も味方しない戦争と受け止め戦意を喪失させることを恐れたのである。

 43年、ガダルカナルで大敗を喫し、44年にはサイパン島も奪われ、この島を基地としたB29の本土襲撃が始まり、45年8月には2発の原爆を落とされ日本は無条件降伏する。

 この時期に1000人規模の死者を出した大地震の発生が重なった。即ち、43年の鳥取地震、44年の東南海地震、45年(終戦)の三河地震である。この動きは日本が降伏しても止まず、翌46年には南海地震が発生した。

 このうち、東南海地震と南海地震は、東海地震と共に、近い将来発生が確実視される海溝型の巨大地震であった。

 44年(昭和19年)12月7日に発生した東南海地震は、遠州灘から紀伊半島沖を震源とするもので死者行方不明者は1223人であった。名古屋市などの軍需工場に多くの死者が出た。その中には、戦闘機「零戦」の工場もあった。この時期に多くの飛行機工場が倒壊することは日本の戦力にとって一大打撃であった。

 戦争遂行に不利な情報は国民に伝えることは出来なかった。新聞もこの惨害を紙面の片隅に大した被害はないと小さく扱った。

 終戦の年(45年・昭和20年)1月深夜、三河地震が発生し渥美湾沿岸の死者は2306人に達した。東南海地震からひと月余り後の空襲下の出来事。断層の活動による内陸直下地震であった。三河地震では東京や名古屋から疎開していた多くの学童が犠牲になった。

 終戦の翌年紀伊半島から四国沖を震源とする海溝型巨大地震・南海地震が発生し死者は130人とされた。終戦の復興期は巨大地震のない安定期に恵まれ経済は奇跡的に発展した。ところが、今再び活動期に入った。かつてと違う状況は日本列島には54基の原発があることだ。有史以来の新たな国難が迫る。この事を考える8月15日にしたい。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月20日 (水)

人生意気に感ず「ナデシコに世界の声。男女同権は日本の力をアップ」

◇記者会見に臨んだナデシコたちは戦士から普通の若い日本女性に戻っていた。気負いも示さず喜びを語る表情は美しかった。世界のメディアが例外なく賞賛している。

 政治的には対立があり国民感情も良くない国例えば中国やロシアの賛辞には注目してしまう。中国の国営通信は、「日本の奇跡が世界を制した」との見出しの下、「大和なでしこの華麗なサッカーと奇跡は地震、津波、原発事故という災難を受けた民族にこの上ない自信をもたらした」と報じた。ロシア国営テレビは、日本の粘り強さをたたえ、選手は強い意志と執念で勝利をつかんだとナデシコジャパンの優勝を紹介した。

 ライバルとして日本と戦い日本よりも上位にランクされる国も一斉に賛辞を送り高く評価している。ニューヨークタイムズは「なでしこのピンクの花のように自信が開花した」と評価。ドイツの新聞は、「日本は大地震という困難の中で驚異的な成果をあげた」と報じ、英紙ザ・タイムズは、日本のチームは、震災からの復興を目指して鉄の意志を示し、予想もしなかったW杯優勝で悲劇からの夜明けを迎えたとたたえた。

 スポーツの良い戦いは、国境を越えて人々の心を打つ。今回のナデシコジャパンの優勝はこのことを強く印象づける。彼女たちの活躍は、東日本大震災で見せた日本国民の特性と結びつけて全世界から評価される結果となった。その意味でも歴史的な意味がある。後世、大災害から立ち上がる復興の第一の狼煙(のろし)は、ナデシコジャパンの手によって高く揚げられたと言われることだろう。

◇少子高齢化が進み、国民が元気と勇気を失い日本の国力が低下しているとき、女性が自信をもって力を発揮することには大きな意義がある。ナデシコジャパンのW杯優勝は男女同権を進める上で大きな弾みとなるだろう。そして男女同権の進展は日本の国力を増進させるだろう。男女同権は、いくら叫んでもそれだけでは実現しない。権利とは勝ち取るものだ。ナデシコの戦う姿はそれを象徴する。

◇県議選、知事選のためしばらく休んでいた「ふるさと未来塾」を再開する。7月23日(土)午後7時、市の総合福祉会館(日吉町21710)。テーマは、東日本大震災(巨大地震と福島第一原発事故)。巨大地震、原発事故は21世紀を生きる私たちにとって不可避な問題。危機意識の共有が大切。是非ご参加下さい。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月19日 (火)

人生意気に感ず「ナデシコジャパンの奇跡。貞観大地震の教え」

◇驚いた、奇跡だと思った。女子ワールドカップ決勝戦を深夜から全部見た。女のサッカーと軽く見る思いがどこかにあった。男かと思ってしまう岩石のようなアメリカ女性と身体でぶつかり合うナデシコの姿を見てこれは本物だと思った。「やまとなでしこ」とは、日本の女性のやさしさ・美しさをたたえて表現する言葉。そこには、男性中心社会で作られた控え目で従順という日本女性の美徳が込められていた。現代のナデシコたちは、空中を飛んでボウルを蹴り、監督に飛びついて喜びを表現していた。

◇ナデシコジャパンの女性たちは最後の瞬間まで望みを捨てずに頑張って堂々と勝利を得た。「うーん」、これこそサムライだと思った。

 彼女たちの心には、東北の被災者のことがあったに違いない。被災者は、ナデシコの戦う姿から大きな勇気を受け取ったことだろう。

 ナデシコジャパンの快挙を機にサッカー少女が増えるだろう。日本のスポーツ界に新しい大きな渦が出来ることは素晴しい。沈滞する日本社会に活力を与えるもの、それはスポーツだ。ナデシコジャパンの勝利は新しい時代の到来を予感させる。私も新しい勇気をもらった。

◇先日(14日)宮城県多賀城市を視察した時、菊池健次郎市長が「歴史は嘘をつかない」と語った事が頭から離れない。市長は、869年5月26日に貞観地震が起き多賀城で千人の人が津波で亡くなったと語った。今回は187人の死者が出た。市長は、歴史的災害を後世に伝えるために「津波ミュージアム」を作ると述べた。

◇仙台平野では、過去3000年間に3回の津波が遡上した形跡が見られ、その間隔は800年から1100年と推測されている。公式史書「日本三代実録」には貞観地震の記述がある。それは生々しいもので、あたかも東日本大地震の惨状のようだ。主な点は次のようだ。「5月26日陸奥国で大地震が起きた。人々は叫び声をあげて身を伏せ立っていることができなかった。ある者は家の下敷きになって死にある者は地割に飲み込まれた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり川が逆流し津波が長く連なって押し寄せたちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり野原も道も大海原となった。千人ほどが溺れ死に後には何も残らなかった」歴史は嘘をつかないという意味がよく分かる。災害の歴史は最良の教訓を提供している。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月18日 (月)

)「上州の山河と共に」 第37回 私の東大時代

当時の私には、彼女が話すイエスキリストについては理解できない点が多かったが、信仰に打ち込む彼女の姿はさわやかに思えた。そして、信仰の点を除けば、二人の価値観は多くの点で共通しているように思われた。彼女は、弟の賢三が家族の中心になって必死に働く姿に大いに感心し、何とかお手伝いしたいとしきりに言った。

 私は向ヶ岡寮にいて、勉強の合い間によく手紙を書いた。前橋の彼女からも毎週のように封書が届く。同室の家久君が、ふと「君は、千鶴子さんを尊敬しているんだな」と言った。私は、それには答えなかったが、自分の腹の中を探り当てられたような気がしたのを覚えている。

 私は、秘かに結婚を決意した時、先ず、福島浩に相談した。彼は非常に驚いた様子であった。聞けば、彼が以前勤めていた日本生命で彼女と一緒に仕事をしていたということであった。そして、福島浩は、彼女との結婚を強くすすめ、祝福してくれたのであった。

 結婚式は、前橋の臨江閣で質素に行った。しかし、弁論部の仲間達は、仲間うちで初めての結婚式なので、皆、コンパにでも出席するような気持ちで大勢押しかけて、大変賑やかな結婚式となった。家久君などは、自分が嫁さんを貰うかのようにはしゃいでいたのが昨日のように目に浮かぶ。

 結婚後は、私は寮で前と同じような生活を続け、彼女は私の実家に入り、毎日、朝から晩までダンゴ屋の手伝いを続けたのである。

 毎週土曜日、講義が終わると、私は、向ヶ岡寮の坂を下り、不忍の池を抜けて上野駅まで走る。電車が前橋駅に着くと、窓から見える位置に立って手を振る彼女の姿が必ずあった。彼女は、「賢三さんとのおダンゴの配達は、とても楽しいのよ」と言ったが、その窪んだ目は、仕事が彼女にとって相当厳しいものであることを物語っていた。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月17日 (日)

「上州の山河と共に」 第36回 私の東大時代

 研究室で顔を合わせる先生方には、村川堅太郎、林健太郎、堀米庸三等、教科書やいろいろな書物で馴染みの教授がおられた。駒場の時は、ゼミの場を別とすれば、教師との間には距離があり、個人的に言葉を交わす機会などなかったが、本郷では、ゼミ、小グループの授業、あるいは研究室で、教師と直接に接することが日常の事であるのが特色であった。

 林健太郎先生とは、今でも毎年お会いするが、当時の先生は、端正な顔、冷静な表情の中に、強いエネルギーを秘めておられるような御様子であった。本格的な歴史の学問ができると思うと私の胸は高なるのだった。

 私は、小さいときから歴史が好きであったが東大に入り、駒場時代、鳥海靖、笠原一男、あるいは中屋健一などの講義を聞き、歴史への関心は一層高まった。また、仲間との読書会で精読したEH・カーの「歴史とは何か」からは、自分が知らなかった歴史の見方、考え方、あるいは、歴史の役割というようなものを教えられ、目が醒める思いであった。

 そして、歴史を勉強する中で、近代日本が西洋からの大きな影響力の下で生まれたこと、ギリシャやローマなどから流れ続ける西洋文明の大きな流れの中に、我々の現代文明が置かれていることを、折に触れ考えるにつけ、日本の歴史をより深く理解し、日本の現実と将来を考える為にも、西洋史を勉強することが必要と思い、私は西洋史学科に進んだのであった。

「割田千鶴子と結婚」

 本郷に移った年の秋、人生の一大事を経験する。私は、割田千鶴子という女性と結婚した。彼女は、群馬県警察学校長や渋川警察署長をした警察官割田幸蔵氏の長女で、大学に入った年にふとしたことがきっかけで知り合い、交際するようになった。彼女は敬虔なクリスチャンで、文学を好む理想家肌のタイプであった。やや病弱で、ほっそりしていたが、芯は相当に強い女性であった。

 私は少年の頃、吉川英治の宮本武蔵を夢中になって読んでいたが、そこに登場するお通さんは、私にとって憧れの女性像であった。割田千鶴子に出会った時、私には、彼女がこのお通のように思えたのであった。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月16日 (土)

「上州の山河と共に」 第35回 私の東大時代

 家久君の本当の凄さは、こんな所にあるのではない。彼は、弁論の仲間が一致して認めるように、一種の天才である。一見して、勉強家に見えないし、事実ガリ勉タイプではない。しかし、成績は、全部「優」で、駒場時代を通しての平均点が85点かそこらであり、文科系ではおそらく一番であった。法学部を卒業する時は、どこか大手の社長に三顧の礼をもって迎えられて、しぶしぶ就職したが、窮屈を感じて、間もなくそこを飛び出し、しばらくは恩師の世話で官庁の外郭団体で働いていたが、この間、学生時代から付き合っていた自慢の彼女と結婚し、子どももできたので落ち着くのかと思っていたら、ある時、電話で北海道の医科大学に入ることにしたので引っ越すからと言ってきた。

 北海道時代は、学習塾をやりながら悠々とやっていたが、卒業後は、郷里の福井県に戻り、福井大学で働くことになった。それからまだそれ程の年数も経たないが、現在、福井大学の助教授として活躍している。

 大変な人情家でもあって、私の妻が死の床であえいでいる時、福井から奥さんとかけつけ、いろいろ力になってくれた。意識が薄れてゆく妻の枕元で<いい女性(ひと)だったのになぁ>と言って、ぽろぽろと涙を落としていた。

「本郷での生活」

 いろいろの思い出のある駒場時代を終えて、私は本郷へ移り、西洋史を専攻することになる。しかし、ほぼこれと同じくして、学園は、新たに騒然とした空気に包まれてゆく。

 本郷の生活は、向ヶ岡寮で始まった。文京区弥生町の向ヶ岡寮は、東大農学部の北に接して置かれている古い木造の建物である。ここは、駒場寮とは違って、畳の部屋に2人ずつ入る仕組みであった。私は、前記の家久勅男君と共同生活することになった。

 西洋史の研究室は、東大の正門を入ると、正面の安田講堂に向かって、右側に位置する法文系の大きな建物の一画にあった。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月15日 (金)

人生意気に感ず「知事の女性問題。多賀城市と福島県庁の調査」

◇大地震対策特別委員会2日目調査先は、宮城県多賀城市と福島県議会。ともに密度の濃い調査が出来成果を得た。私たちを迎えたこれら調査先には並々ならぬ熱意と誠意が感じられた。彼らは群馬県に世話になっていると感謝の意を述べていたが、調査する側とされる側の呼吸が合った勉強会が実現した。

◇多賀城は陸奥の国府、鎮守府として置かれ、蝦夷(えぞ)と対決する大和朝廷の北の拠点、最前線だった。有名な多賀城碑は群馬の多古碑、栃木の那須国造碑とともに日本三古碑を成す。

 県議出身の菊池市長は、挨拶の中で、過去には東北に大地震があり多賀城でも多くの死者が出たと史実をあげ、「歴史はうそをつかない」と語った。ここでは、海岸から離れているにもかかわらず、津波が押し寄せ多くの人命が失われたこと、他県の公務員の応援で1カ月後に市の業務が復活できたことなどの説明を受けた。私たちは大災害の時の他県の自治体との協力、助け合いの重要性を学んだ。

◇福島県は、福島第一原発事故の直接の被災県である。説明に当たる職員は「全世界の中の福島となった」と苦悩を表現した。そして3月11日は議会開会中だったが、早急に災害対策委員会を立ちあげたこと、3月4月5月は、新しい問題が次々に発生し、県職員は休みがとれなかったことなど深刻な現場の状況を話した。

 私たちは、「生活環境における放射線量低減対策」、「高線量を示す地点、いわゆるホットスポット対策」、「環境放射線監視体制の整備」「放射線量分布及び推移の状況」、「原子力事故による避難の状況」等々、生々しく、かつ驚くべき深刻な課題を説明され、衝撃を受けた。

◇県外にあって、大沢知事の女性問題が全国的な話題となっていることを感じた。衝撃度は、大地震並みである。大沢知事は「愛人関係はない」と表明しているが、あのように報じられてしまうと、多くの人が知事の弁明を信じない。政治の信頼の問題は結果責任である。私たちは、大沢さんの人格と政策を県民に訴えて選挙を戦った立場として大きな責任を感じる。私は、知事を信じたい。公の場で追及して黒白をつける問題ではないし、それは混乱を招くだけだ。国難といわれる時、県職員の志気が低下することを恐れる。知事は命がけで決然たる態度で県政の課題に取り組み、その成果をもって反省の実を示して欲しい。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月14日 (木)

人生意気に感ず「大澤知事の女性問題。東北の災害を調査」

◇13日、14日の両日は大規模地震対策特別委員会の県外調査の日。13日の調査先は東北地方整備局と女川町役場であった。仙台市にある東北地方整備局の道路部長は、最近まで群馬県の県土整備部長を務めた川瀧弘之氏である。 整備局の説明で、災害時、瓦礫の山で埋もれた道路を切り開くことがいかに重要かを知った。この作業を「啓開」と称することも初めて知った。津波の威力は想像を超えるもので全ての道路が姿を消してしまった。これでは救援のための人も物資も届かない。全国の整備局から人があつまり、東北地方の建築土木業者に呼びかけて「啓開」作戦を遂行した。震災後1カ月で国道等の主要な作業を完了。さすがだと思った。 また、整備局の災害対策室では、津波襲来に関する未公開の映像を見た。国道に突如水の壁が迫り、直前の乗用車は必死で向きを変え逃げる。後を追う津波は速い。あの車は呑まれてしまったのか。生々しい映像は悪夢のような大災害の現実を突きつけていた。

◇女川町は津波の力が最も強かったといわれる所で、町役場も流されたため小学校の一画で業務が行われていた。高台に立つと彼方にのどかな美しい湾が広がっている。そして、眼下には信じられないような光景があった。3階建ての鉄筋コンクリートの建物が基礎から引き抜かれ横倒しになっているのだ。専門家はめずらし例だからといって保存を望んでいるという。 女川町では群馬県の職員が復興の業務にたずさわっていた。群馬県の災害対策のための貴重な経験を積んでいるに違いない。女川町の深刻な状況を見て、群馬にとって最も重要なことは、群馬県は大丈夫という安全神話を捨てることだと思った。

◇13日発売の週刊新潮で大澤知事の女性問題が大きく報じられた。調査団のメンバーが皆週刊誌を持っている。様々な会派があつまっているが、小声で話題にしているのが耳に入る。公舎に愛人を泊めた事が重視されている。ケータイに地元の支援者の声が入り事実なのかと厳しく迫る。自民党の県議団総会がこの日急遽開かれ知事が釈明した。その様子を私は調査先で知った。知事は、誤解を招く行為を反省し、DC初め山積みする県政の課題に真剣に取り組むと語ったらしい。女性の厳しい反応がまたケータイに入る。この人は一票を返して欲しいと私を責める。9月議会で追求されるのは必至だ。知事は、猛省を。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月13日 (水)

人生意気に感ず「今こそ放射線を学ぶとき。健康科学大を訪ねる」

◇放射線に対する不安が広がっている。当局が安全基準以下だから大丈夫といえばいう程新たな不安が生れるようだ。背景には政治に対する極度の不信がある。正しい情報が生命と健康にとっていかに大切かをこれ程つきつけた例が過去にあったろうか。

 私は、ブログで、ヒロシマ、ナガサキと福島第一原発事故は同根だと書いた。多くの日本人がその事を意識しなかったつけが今回まわってきたと思える。教育に関して言えば、学校の現場は、原爆の問題を意識的に避けてきた。従って、原発事故や放射線についても正面から取り上げなかった。来年から新学習指導要領に放射線が登場するが、ここに至っても、小中学校の教室で、原発事故を取り上げようとしないのは、教育委員会にも、現場の教師にも教育者としての志がないことを示すもので、腰抜けと言われても仕方がない。

 私は5月議会で、放射線教育の推進、各中学校におけるサーベイメーターの設置、教科の中で被災地の出来事を教材として使うべきことなどを提案し、また、全県にわたって放射線の状況を調査し汚染マップをつくるよう訴えた。

◇県民健康科学大学を訪ね診療放射線学科の倉石准教授に福島第一原発に関する最近の放射線状況などについて話しをうかがった(12日)。同大学は、県内唯一、放射線学科を有する大学で、今その役割につき脚光を浴びている。県民の健康に奉仕する理念に立つこの大学を、この難局に当り、積極的に利用すべきだと私は考える。倉石先生は、県内の公立校663校のグラウンドで放射線を測定したこと、ヨウソやセシウムばかりでなくストロンチウムも、群馬に飛来する恐れがあること、子どもについては大人よりも放射線におかされる危険が大きいことなどを語ってくれた。なお私の訪問の目的は、地元で予定する放射線に関する勉強会への出席依頼であったが、快く引きうけてくれた。充実した勉強会にしたいと思う。

◇福島第一原発事故では大量の放射性物質が海水を汚染している。倉石先生は小魚の体内に入った放射性物質が、食物連鎖を通じて濃縮される事実を指摘しておられた。これは魚介類を常食としている漁業国日本の食の危機でもある。現在、自治体等が進める調査によれば、福島県や茨城県沖の海産物から高濃度の放射性物質が検出されているといわれる。これらは流通によって私たちの食卓に直結している。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月12日 (火)

人生意気に感ず「北関東道を走る。栃木、茨城両議会から学ぶこと」

◇議会図書広報委員会の県外調査で栃木県議会と茨城県議会を訪れた(11日)。北関東自動車道を利用した始めての視察。議会バスで朝8時半スタート。ハードなスケジュールを一日でこなした。

 県民にとって議会で何が議論され、また、どのように予算審議がなされるかを知ることは極めて重要である。県民のために、県議会に関する情報を提供する使命を担う委員会が図書広報委員会なのである。

◇情報提供の手段として、どの県も、広報誌の発行及び、展示コーナーや図書室の設置等について工夫と努力を重ねている。これらについて他県の状況を知ることは多いに参考になるのだ。

 広報誌では、「いばらき県議会だより」が、群馬、栃木両県のものと比べ、その質と格調の高さに於いて優れている。栃木と群馬のものは月並みで権威を感じさせない。多くの人に読む気を起こさせないだろうと思った。群馬県議会だよりの編集にたずさわったものとして反省した。もとより「いばらき県議会だより」には格段の予算をかけているだろうが、予算が少ないことは言い分けにならないのである。

◇議会図書室は一般県民にも開放されている。栃木、茨城両県の図書室には、地震、つなみ、原発事故等の書物がそろえられていた。いずれの書物も書店で手に入るものであるが、議会の意志でセレクトして県民に提供する姿勢が重要なのである。群馬県議会図書室の今後の在り方として、時代の課題を知る手がかりを提供することによって、議会図書室に一般県民をひきつける工夫をすべきである。なお、月刊誌「ニュートン」は、我が県のみが購入していることを知った。地震、津波、原発事故などにつき素晴しい絵と解説がある。購入は私の提案によるものである。

◇栃木県の本会議場に入って、ひとしおの感慨を味わった。平成17年12月、この議場の本会議を傍聴したのである。それは、群馬県議会の一大改革の1つである対面演壇による一問一答形式をスタートさせる直前のことであった。栃木県議会では一足先に、平成16年から同様なことをはじめていたので実際に見学し参考にすることが目的であった。両議会がこの改革に踏み切ったのは「県議の質問は職員が書く」という批判があったからだ。テレビの生中継の実現も加わり議会の八百長劇は姿を消した。昨日の栃木県議会は改革の歴史を静に語っていた。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月11日 (月)

人生意気に感ず「マチュピチュの少年は今。東大同窓会設立」

◇最近、マチュピチュ遺跡発見100年記念式典のことが報じられた。新聞の一コマの写真を見て忘れられない光景が甦る。特に、日本語を叫びながら私たちの後を追ったあのアンデスの少年の姿が。

 平成8年5月、群馬県議会の南米行政視察団はブラジル、アルゼンチンを経てペルーに向かった。私は副団長であったが、スペイン人に征服されたインカ帝国の歴史には深い関心を寄せていた。

 かつてインカ帝国の首都があった歴史都市クスコはアンデス山脈に抱かれるように標高3000mの高地に広がっていた。マチュピチュの遺跡はクスコの北約100キロの所にあった。

 空中都市の名にふさわしく、石を刻んで築かれた遺跡は切り立つ遙かに高い絶壁の上にあった。そこに立って、私は息を呑んで立ち尽くした。石を切って精巧に組み立てた石畳や神殿跡は、私たちに何かを語りかけている。まわりの高い山々は、遺跡を見下ろす神々の姿に似て、眼下には、ウルバンバ川の流れが細く白い糸のように見えた。石積みの段の上でリャマが静に草を食べていた。私はなぜか涙が出てとまらなかった。

 不思議なドラマは帰りのバスの外で起きた。麓までの道は遺跡の発見者の名をとってハイラム・ビンガム道と呼ばれている。バスは螺旋(らせん)状に蛇行した急峻な斜面の道を走っていた。その時、バスの中にどよめきが起きた。一人の少年が繁みから現れ、「サヨーナラ」と叫びながら追ってくるのだ。現地の子どもが日本語で呼びかけている。カーブを曲がると少年の姿は消えた。なんだろうと驚く。すると次のカーブで再び少年は現れ「サ・ヨ・オ・ナ・ラー」と一語一語句切るように叫んでいる。少年は山の木々の間を一直線に走り下っているのだ。何度か対面を繰り返し谷間にこだまする少年の声はやがて消えた。あれから15年が経った。あの少年はどうしているだろう。私の思いは遥かなアンデスに飛んだ。

◇群馬県東大同窓会・群馬銀杏会の設立総会があった(9日)。ないのは群馬県だけだった。独立法人化された大学を同窓会が支えるという目的もある。発起人代表の石原信雄さんが議長席について会則等が決められた。濱田純一総長は挨拶の中で総長就任のスローガン「森を動かす」について語った。一本一本の木ではなく「森」全体を動かす決意で大学を改革し世界のトップを走りたいというもの。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月10日 (日)

「上州の山河と共に」 第34回 私の東大時代

 大した奴だと思っていたが、その後、別れ別れになって長い年月が過ぎた。一昨年であったか、突然、年賀状が届いた。上野の法律事務所に行ってみると、あの時と変わらぬような調子で、ぼそぼそと話す、地味な安田君の姿があった。嬉しかった。

 今年(平成4年)になって来たハガキは、PTA会長の役目を無事終えたという挨拶であった。PTAのお母さん方の意見をいちいち聞いてやり、また、学校側にも、論理を尽くして言うべきことは言って、生真面目に頑張ったのだろう。額の髪をかき上げながら<しかしですよ、それは、ちょっとおかしいのじゃないかなぁ>とよくやっていた寮委員の頃の彼の姿が偲ばれるのである。

駒場時代の仲間については、思い出が多いが、皆、様々な人生を歩んでいる。秀才と言われながらも、挫折して中退して行った者も何人かいる。弁論の同じ部屋にいた二人の先輩のうち、阿部孝夫さんは自治省の高級官僚をやめて、最近新しくできた北陸大学の法学部教授になったし、松本仁一さんは、朝日新聞のカイロ支局長として活躍している。また、寮外の先輩、伏屋和彦さんは、大蔵省主計局法規課長として大活躍だ。隣のベッドにいた同輩の一人には、戸沢義男君がいて、現在、県立女子大の教授として頑張っている。その他弁論の仲間は、銀行やジャーナリズムで仕事をしている者が多い。

 駒場の弁論部の仲間で、特に親しくなり、また、私が大きな影響を受けた男がいた。それは、弁論部の家久勅男君と言って、初対面の印象は、素っ頓狂で、見るからに型破りの男であった。知識欲が異常に旺盛で、丸い目からも、盛り上がる筋肉からもエネルギーが溢れている感じである。

 私が秘かに観察していると、彼のものの見方が面白い。それは、あらゆることに批判的であり、学生にしては老成(ませ)ていた。<君らはそういう風に観ているが、こういう見方もできるんだよ、こういう論点もあるんだよ>と、問題を分析し、本質をえぐり出してみせる。その手法が私には痛快に見えた。

 彼の目に、私のことは、弁論部にけったいなのが入って来たと映ったらしい。二人は意気投合し、その後はよく行動を共にした。本郷に移ってからは、2年間、狭い、向ヶ岡の寮の部屋で過ごした。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 9日 (土)

「上州の山河と共に」 第33回 私の東大時代

 寮では思うように勉強できないことが多い。そんな時は夜、昼間は学生が使う本館教室へ行って勉強する。寮は大学の同じ構内にあるから、本館まで歩いてわずかである。物音一つしない夜の教室で一人本を読んでいると、定時制時代を思い出したりする。

この本館の別の部屋で、私のように毎夜勉強する男がいた。中崎君という同じクラスの人である。もう帰ろうかと隣を覗くとまだ電気がついている。それでは自分ももっと頑張らねば、という気になって机に向かう。

 中崎君は兵庫県の出身であるが、私と仲良くなり、夏休みには前橋へ来たりして、群馬が気に入ったらしい。卒業後も、前橋の私の近くに来ていたが、高崎の女性と知り合い、結婚して上州の住人となった。今、弁護士となり、高崎で、中崎法律事務所をやっているのが彼である。

 駒場時代、思い出に残る勉強といえば、二つのゼミに参加したことである。一つは、玉野井芳郎先生の経済学のゼミ、もう一つは、中屋健一先生の米国史のゼミである。

 中屋先生のゼミは人気があって、なかなか入りづらい。簡単な選考テストがあったと記憶している。仲間の中には、弁論の部屋でベッドを並べている松宮勲君がいた。彼は、現在、通産省で大臣官房審議官として活躍している。

 このゼミは、米国史を原書で読んでアメリカをいろいろ考えるもので、英語を読むのは辛かったが、大変勉強になった。玉野井ゼミでは、ロストウの発展段階説とか、シュンペーターの「資本主義、社会主義、共産主義」などを勉強した。このゼミは難しかったが、新鮮な知的刺激を味わった気がする。

 駒場寮2年目になったとき、私は選ばれて寮委員になった。私の実社会での経験は、寮内の雑事の処理やトラブルの調整の為に役に立ったようである。寮委員の仲間には、いろいろ多彩な人物がいた。群馬で予備校小野池学園をやっている小池隆義君もその一人である。また、現在警察庁で随分偉くなっている兼元君もそうで、私が県会議員になってから陳情で警察庁に行ったら、丁度彼がいて、私の顔を見て驚いた様子であった。

 寮委員仲間で、特に親しくなった人に安田秀士君がいた。私達は、この後間もなく、東大紛争に巻き込まれてゆくが、彼は、その紛争の中、わずかの時間を見つけて辛抱強く勉強し、司法試験にパスしたが、紛争の行き詰まりで、卒業が出来ない破目になった。多くの者は、留年の道を選んだが、安田君は、東大卒の肩書きなどいるもんかと、あっさりと中退して行った。別段力むでも、いきがる風でもなく、日頃の彼の態度からしてそれは自然のことに見えた。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 8日 (金)

人生意気に感ず「コンクリートから緑か。原子力教育。原爆の日」

◇「今回の東日本大震災は私たちの社会に様々な問題を突きつけた。私たちは、これを謙虚に受け止めて教訓として活かさねばならない」この文句は、3・11以降、私が何十回も演説や文章の中で使ってきた。これからも続けるだろう。

 民主党政権は、「コンクリートから緑へ」といういかにも耳に心地よく響く言葉を、マニフェストというスマートな衣に包んで流した。今回の大災害は防災という観点から道路も防潮堤も必要なものはしっかりと進めなければならない事を示した。

 大地震は近い将来必ず起きると見なければならない。日本全土が本格的な地震の活動期に入ったといわれる。東海地震、東南海地震、南海地震などが確実視されているのだから、日本が蓄積した建築土木の技術を結集して、防災に備えるべきだ。美しい日本の自然、そこで生きる人々の安全、これらを守る要素としてコンクリートは必要なのだ。

◇これから起ることが予想される大地震との関連で重大な恐怖は原発事故である。福島第一原発の事故は、日本人の鈍感さに誠に厳しい一撃を与えた。66年前の広島、長崎の出来事と今回の福島第一原発の事故は同根の問題として考えねばならない。人類史上唯一の核被爆国でありながら学校教育は、広島、長崎のことを正面から教えることをしなかった。これは、歴史教育の目的からしてもおかしいことだ。

 そして、原発の放射線についてもほとんど教室で取り上げてこなかった。来春から完全実施される新学習指導要領では、理科の科目で放射線教育を登場させる。これは、福島第一原発事故を予想したものではないが、タイミング的には原発事故に一致することになった。遅きに失すると思うが、群馬の教育行政は、勇気をもって臨んで欲しい。5月議会における、放射線の知識を教えようという私の発言も、このような視点からとらえて欲しいと思う。

◇また、終戦の日、原爆投下の日が近づいた。広島、長崎両市の市長は、式典で読み上げる平和宣言の中で、エネルギー政策の見直しを求めるといわれる。いずれも福島第一原発事故を受けての事だ。全世界は、日本の新たな決意と受け止めるだろう。

◇今朝、大沢新知事の初登庁が行われる。歴史的転換点に立った船出である。知事の胸中にも新たな決意があるだろう。県議会も同様だ。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 7日 (木)

人生意気に感ず「放射線教育を。孫氏のエネルギー構想・群馬の場合は」

◇東日本大震災は時代の方向を変える要素となる、様々な問題点を私たちに突きつけているが、その最大なものの1つはエネルギー問題だと思う。「3.11」の直後の停電の中で、今日の文明を支えるものは電力であることを思い知らされた。この事を踏まえて、今や、エネルギー政策の大転換、そして、新エネルギーの研究とその実践が焦眉の急となった。

◇私は、今年の5月議会で、いくつかの新エネルギーを取り上げたが、特に太陽光の利用について提案した。それは、県民の意識を変える上で象徴的な意味を持つといえる政策として県や市町村が管理する公の建物の屋上をすべてソーラー発電所にすべしというもの。

 新エネルギー政策は本来国が大胆にそして強いリーダーシップで進めるべきだが、もたもたしている。そこで注目されるのが民間と自治体の連携である。ソフトバンクの孫正義社長は、各地の自治体と組んで「自然エネルギー協議会」の設立を7月13日に予定している。

ソフトバンクの計画は、協議会参加の自治体から用地の提供を受け太陽光発電事業を行おうというもの。既に、北海道、神奈川、愛知、大阪、熊本、群馬などが参加を表明、最近更に原発被災県福島も加わり、先月24日現在でその数は、35道府県に達した。

 群馬は豊かな太陽光に恵まれている。民間がこの動きに協力し、耕作放棄地や家屋の屋上にソーラーパネルを並べれば太陽光電力の一大供給基地が実現する。私が提案する公共建物の屋上の太陽光発電所化は、この時代の流れを促進させることになるだろう。政府は法律を作って、このようにして作られた電力を円滑に買い取る制度等を早く実現すべきである。福島県の広大な汚染地帯が見渡すかぎりのソーラーパネルの海と化す光景を想像する。

◇放射線の健康への影響が大きな問題となっている。安全基準は信用できるのか。子どもに対しては別の基準が必要では。安全とされる量でも長く蓄積された場合はどうなる。今日の状況は、学校で放射線について基礎的なことを教える必要性を痛感させる。

 私は今年の5月定例議会で、放射線の知識を理科教育の中で教えるべきこと、そのための教材として各中学校にガイガーカウンターを一台ずつ設置すべきことを提案した。来春から実施される中学の新学習指導要領では理科で放射線が登場する。誠にタイムリーなのだ。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 6日 (水)

人生意気に感ず「両県にまたがる未解決事件。粗にして卑なる政治家」

◇栃木と群馬両県にまたがるわずか20キロ圏内で起きた5件の幼女殺害失踪事件に関して「足利・太田連続未解決事件家族会」が最近結成された。これらのうちの2件・大沢朋子ちゃん(当時8歳)と横山ゆかりちゃん(同4歳)の事件は群馬で起き、横山ゆかりちゃん事件だけは時効が完成していない。菅家さんが再審無罪となった足利事件は、松田真実ちゃん(同4歳)に関するもの。これら一連の事件については同一犯の疑いがあり、真犯人は漫画の主人公ルパン3世に似た人物だと主張する民間人の執拗なそして執念の追及が注目されている。

◇群馬県議会でこの問題を取り上げるのは当然のことだ。私は昨年の11月議会で質問した。切り口は、「犯罪予防で大切なことは重要事件を未解決のままにしないこと」だった。そして、私は、横山ゆかりちゃん事件の犯人は栃木の人かもしれない、群馬県警は栃木県警と協力して捜査すべきだと主張した。

 県警本部長の答弁は歯切れの悪いものだった。そこには前代未聞の大事件に対する警察の苦渋の色がにじんでいるようであった。菅家さんは訴える。「真犯人が捕まらなければ私は一生グレーのままで白とは思ってもらえない。無実の私が刑務所行きで真犯人は逃げ得ですか、このままでは終われません」と。菅家さんの訴えに足利市長は、「未解決事件に対し不安を訴える市民は多い、警察当局の尽力を期待したい」と答弁した。 今年の文藝春秋2月号では、足利市長の答弁と関連させて、「群馬県議会でも県警本部長が足利事件と横山ゆかりちゃん事件との関連を問われている。市民の感覚ならば当然のことだろう」と書いている。私の発言を指していると思われる。

 同一犯ではないかという事は国会でも取り上げられ、最高検察庁も、同一犯の可能性を認める状況にある。今回の「家族会」発足の背景にはこのような大きな社会状況の変化がある。そこで、群馬県警には改めて、栃木県警と協力して一連の未解決事件の解決に取り組んで欲しいと思う。

◇松本復興相はわずか9日で辞任した。被災地の知事室での態度はあきれるものだった。漁業権の問題について、地元のコンセンサスをつけろ、さもないと何もしないぞと命令調で発言。「粗にして野だが卑ではない」と辞任の弁の中でかつての石田国鉄総裁の言を引いていたが、「卑」そのものではないか。こういう人物を任命した総理の責任こそ重大である。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 5日 (火)

人生意気に感ず「長寿遺伝子の発見。生命の起源は教える」

◇老化防止の遺伝子を発見したというNHKの特集を見た。昔から長寿の秘訣はと問われ「腹八分目」と答える高齢者の姿をよく見てきた。どうやら、これは最先端の科学的研究の成果と一致するらしい。

 2つの群に分けた80匹ものアカゲザルを20年以上も観察した結果が紹介される。一方の群は、毛が抜けた尻の皮はたるみいかにも老猿であるが、他の群のサルは毛の量も多くそのつやもよく若々しい。同年齢のサルとは見えない。その秘訣はエサの量にあるという。カロリー制限が若さの秘訣であることを実験結果は物語る。動物実験の例はマウスでも紹介される。

 そして、遂に人間の「実験例」が登場する。アメリカのカロリー制限協会の人々の事だ。30%のカロリー制限を続ける会員たちは、血管の壁がうすく、普通より30歳若いというのだ。30歳の根拠は、普通70歳の人の血管の壁の厚さは0.9ミリであるが、カロリー制限を続けている人は、70歳にして40歳の人の血管0.6ミリを示したことによる。

◇マサチューセッツ工科大学のレオナルドガレンテ博士は遂に人間の細胞の中の老化防止遺伝子を発見する。長寿遺伝子である。サーチュイン遺伝子と名付けられた。普段はこの遺伝子は働かないで眠っている。それがカロリー制限によって目を醒ますというのだ。

◇今日の地球上の生命の祖先は、30億年も前に1つの細胞としてスタートした。この生命体は進化の過程で突然変異により飢餓を生き抜く力を獲得した。この遺伝子は今日の我々の細胞にも受け継がれている。もともと飢餓対策の遺伝子だから空腹になると、スイッチオンとなる。これが、カロリー制限によって長寿遺伝子が働く理由だといわれる。3週間から7週間のカロリー制限により、細胞レベルで変化が現れる。今、世界の製薬会社は、カロリー制限以外の方法で長寿遺伝子を活性化させる方法、つまり薬の開発に懸命になっているといわれる。

◇昔、東大の教養課程にいたころ、オパーリンの「生命の起源」を読書会で読んだ。オパーリンは、実験室で単細胞の生命が生まれる過程を実証しようとした。やっと生まれた私たちの御先祖様は、様々な危機を乗り越えて進化の道を歩んだ。その危機の1つに飢餓があった。長生きしたければ、御先祖様の飢えの苦しみの万分の1でも見習えと、現代の研究成果は教えている。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 4日 (月)

人生意気に感ず「大沢圧勝の意味。白根開善学校の創立記念」

◇午後6時半前橋市野中町の大沢事務所は全ての報道陣が慌しく動き回り、大勢の議員や首長が詰めかけて物々しい雰囲気に包まれていた。7時が過ぎるのを待っていたように大沢氏の当確が報じられると一際大きな歓声が起きた。大沢さんは長く選挙をやっているがこんなことは初めてだと笑った。

◇圧勝は予想していたが、後藤氏との票差や前橋市の状況等が気になっていた。全県では、大沢氏39万2千票、後藤氏14万9千票で、その差は約24万票となった。後藤氏の得票は大沢票の半分にはるか及ばなかった。惨敗というべきである。

◇県都前橋は決戦場だった。選対本部は各支部選対の目標を出させた。前橋選対は投票率を40%以上とみて6万票の数字を提出していた。結果は、投票率37%で55,448票。後藤氏に17,174票の差をつけた。

 県都を決戦場と意識したことには来年2月の市長選との関連があった。今回の知事選を小寺前知事の選挙と結びつけて「怨念」がらみと表現するマスコミの動きがあった。敢えてこんな表現が多少とも説得力をもつと思えるのは、来年の高木現市長との戦いに関してである。「怨念」の底には前橋市の民主主義を打ち建てるという問題がある。高木疑惑はどこに行ったのか。この問題を甦らせることが1つのカギとなる。

◇海老根氏は私が議長の時議会とトラブルを起こした人で当時私の家に来て口論した事もあった。昨日吾妻を走った時数枚のポスターを見た。300万円の供託金は没収となるだろう。過去最低となった今回の投票率を見ると、多くの人が大切な一票を放棄する中自ら立ち上がった熱意には、敬服するという見方がある。

◇白根開善学校創立33周年記念式典に出た(3日)。朝7時に家を出て、友人のNさんが運転、私の妹も同行した。長男周平が中高合わせて6年間過ごした学校は六合(くに)の奥地にある。吾妻渓谷の景観は八ツ場ダム関連工事で一変した。白砂川沿いの道を北上し、尻焼温泉を眼下にみながら白樺林に囲まれた校舎に着く。式の前、佐々木理事長の部屋で、創設者本吉修二氏を偲んだ。本吉氏は健康を害して理事長を退き、今学園にその姿はない。

 私は、本吉氏のこと、周平のこと、百キロ強歩のことを「遙かなる白根」に書いた。本吉氏が高い教育の理想を掲げ、無謀な計画を訴訟をも乗り越えて実現させた学園は、大震災後の今、その存在意義を一段と高めている。佐々木理事長は挨拶の中で、私が唯一人で、百キロ強歩に挑戦し70キロでリタイアしたことに触れた。私は与喜屋公民館から星空の下で本吉氏に報告したあの日の出来事を思い出していた。

(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 3日 (日)

「上州の山河と共に」 第32回 東大受験を決意

「駒場の生活」

 家からの送金ゼロを当然と考えていた私にとって、落ち着く所は金のかからない寮より他は考えられなかった。簡単な選考基準をパスして駒場寮の住人となる。駒場寮は、明寮、北寮、中寮からなり、400人以上の生徒がすべて何らかのクラブに所属し、同じクラブの者が同室となる仕組みであった。

 私が弁論部に所属したのには、次のような経緯があった。新しく入寮する者は、所属がきまるまで、仮宿といって、空いている所へ適当に押し込められる。私の場合、それがたまたま弁論部の部屋であった。後で知った事であるが、仮宿で一度ある部屋に入ると、その部屋の住人とつながりが出来てしまって抜けられずに、そこに落ち着くことが多いのである。私の場合もこんな風に事が運び、弁論部の一員となってしまった。

 一部屋4~5人で、弁論部の部屋は四部屋あった。弁論部には、寮に入っていない人達も多くいて、全体としてはかなりの大所帯であった。

 弁論部といっても、声を張り上げて雄弁術を競うということはしない。時局の問題や学問上の問題などから多くの論点を拾い出しておいて、それについて、意見を発表したり、討論したりすることが多かった。

 寮に入った為に、弁論部に限らず、いろいろな人と付き合うこととなった。寮内の雰囲気、学園の様子は、私にとって新鮮であり、刺激的であり、また、ある意味では奇異に感ぜられた。

 前橋の田舎でダンゴを売って歩いていた時は、自分の意見をストレートに人にぶつけることなど滅多にない。相手の考えに反対であっても、曖昧に受け応えして相手の機嫌をそこなわないように気をつかっていたが、それと比べると、ここは全く別の人種の集まる別世界のように感じられた。仲の良い相手でも、考えが違えば議論して妥協しない。寮内でも、クラスでも、大学の構内でも、いたる所、議論をたたかわす渦があった。

 また、私が入学した年は、昭和三十九年であるが、いわゆる学生運動がまだ盛んな時期であった。ベトナム戦争、原子力潜水艦入港などをめぐって、駒場の構内は、各グループの立看板が林立し、アジ演説が飛びかい、活動家同志のトラブルが絶えなかった。これらの光景は、私の目には一層奇異に映った。

 いろいろな人と接する中で感じたことは、自分の勉強不足ということであった。田舎の特殊なところから出て来たのだから、囲りに追いつくにはうんと勉強しなければと自分に言い聞かせて頑張った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 2日 (土)

「上州の山河と共に」 第31回 東大受験を決意

 東京大学は、その設立以来、日本の近代史の中心になって歩んだが、1947年(昭和22年)には新制の国立大学として再出発し、この年から女子に対しても門戸が開かれるようになった。

 そして、1949年(昭和24年)には、一高、東京高校を合併して、駒場の一高跡に教養学部が開設された。

 忠犬ハチ公で有名な渋谷から京王井の頭線に乗って、二つ目の駅、駒場東大前で降りるとすぐに、教養学部一号館の時計塔が目に入る。ここは、渋谷から僅かの距離で、私達は、渋谷で遅くまで飲み、道元坂、松涛町を通って構内の一角にある駒場寮まで歩くことがよくあった。

 東京大学は、文科一類、二類、三類、そして理科一類、二類、三類と分かれて試験を受け入学してくるが、これら全ての者が、1年2年の間は、この駒場の教養学部で学ぶのである。

 そして、3年からは、それぞれの専門の学部に進むが、その校舎は、先に触れた赤門のある文京区本郷のキャンパスである。もっとも、教養学部の教養学科だけは、3年、4年も駒場で学ぶわけである。

 各類と専門学部との関係は、大体次の通りである。即ち、文科系では、文科一類の者は法学部に、文科二類の者は経済学部に、そして文科三類の者は文学部と教育学部にそれぞれ進むのである。

 そして、文学部については、更に、第一類・主に哲学、第二類・史学、第三類・語学文学、第四類・心理学と分かれる。第二類の史学は、国史学、東洋史学、西洋史学、考古学等に分かれるが、私は、後に、この中の西洋史に進むことになるのである。

 理科系について説明すると、理科一類の者は主に工学部に、理科二類の者は主に農学部、理学部、薬学部に、そして理科三類の者は医学部に進む。

 この本郷のキャンパスは、西郷さんの在る上野の山から見れば、不忍の池をはさんだ対岸の丘にある。ここには、東大紛争で有名になった安田講堂、そして、三四郎池や銀杏並木などがある。(読者に感謝)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月 1日 (金)

人生意気に感ず「最後の選対会議。玄海1号は最も危険。県民マラソン

◇前橋選対最後の会議があった(30日)。議題の中心は、2日午後3時からJA農業ビル駐車場で行われる投票日前日の総決起大会についてであった。全体の進行を25分で終わらせる。誰に挨拶させるか、檄に女性も登場させるか等をめぐり激論を交わす場面もあった。いよいよ7月に入ったのだ。期日前投票の数は前回知事選に比べて低い。投票率が低いことは大勢にどう影響するか。17日間の熱い闘いの結果は3日の夜に判明する。全国の目が集まる選挙であるが、県内的には県都前橋の動向に大きな関心が集まっている。

◇佐賀県玄海原発の再稼動に関し、知事が容認の姿勢を示した事が大きく報じられている。停止中の35基の原発中最初に再稼動する可能性が出てきた。脱原発の激しい世論の中で、どの自治体も再稼動のトップランアーになることを嫌がっている。それだけに佐賀県がどのような結論を出すか、その影響力は大きい。

◇私は基本的には脱原発に賛成だが、一気に全部の原発を廃止するのでなく安全なものは残しながらエネルギー政策の大転換を図るべきものと考える。浜岡原発は東海地震の直撃を受ける位置にあるが故に廃止は避けられない。

◇では玄海原発は大丈夫なのか。1号機から4号機まであるうち、今回問題になっているのは停止中の2号機3号機である。実は1号機は日本で最も古い原子炉の一つで老朽化による大なる危険があると専門家は指摘する。

 原子炉の圧力容器には放射性物質を出す燃料棒が詰まっている。老朽化するとこの圧力容器が放射線によって劣化して割れる危険が生じる。圧力容器が割れたら核反応の暴走を防ぐことは難しく、福島第一原発でも起きなかった大爆発を起こすといわれる。玄海原発1号機は稼働歴36年で日本1危険な原子炉といわれる。このような周辺の状況を承知の上で、2号機・3号機の再稼働を認めるのか。

◇今日(1日)から県民マラソンの受付が始まる。私にとっては大切な、人生を整える意味がある年中行事である。もう長いこと10キロを1時間以内で無理なく走っている。今年は駄目かと心配させた珍事があった。私は演説の時マイクを振るくせがある。それを見た人が脳梗塞の前兆かと心配してわざわざ妻に知らせた。直ちに心臓血管センターで調べ異常はなかった。走れることの有難さを気付かせる出来事であった。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »