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2011年6月30日 (木)

人生意気に感ず「平泉と小笠原諸島、登録の意義。長崎の視察」

◇岩手県の「平泉」がユネスコの世界文化遺産に登録された。タイミング的には絶好である。かつて平安時代東北地方は血生臭い戦乱に明け暮れた。争いのない平和な浄土(極楽)を求める思想が起るのは当然であった。「平泉」は浄土の実現を願って藤原氏が造営した。東日本大震災の惨状は、千年前の東北の悲劇以上であろう。被災地の人々は、「平泉」の歴史的由来に思いを致し、大いに勇気付けられるだろう。

◇「平泉」の登録成就は2度目の挑戦の結果である。ユネスコの審査は厳しくなっている。そこで、「次は富岡製糸場だ」という声が上がっているが、容易なことではない。県議会でも毎回議論されているが、戦略を工夫しないと難しい。普遍的価値の説得力がカギだ。

 08年(平成20年)10月、総務企画常任委員会の一員として、私は長崎県を訪れた。私たちの目的は、長崎県の世界遺産への取り組みを調査することであった。長崎県の「キリスト教関連遺産」は群馬の「富岡製糸場遺跡」と同時期に世界遺産斬定一覧表に登録され、両県とも本登録に向けて懸命の努力をしていたのであった。

 私は、長崎県が世界に誇るキリスト教文化遺産の凄さに圧倒された。「国宝・大浦天主堂は秀吉の命で処刑された26人の殉教者に捧げられたものであった。また、五島市には多くの隠れキリシタンの遺跡があった。そして、県と市の職員の姿勢には、文化遺産に取り組む真摯な情熱が感じられた。私はこの時、群馬は余程頑張らないと成功しないだろうという感を抱いた。

◇もう1つの朗報は、小笠原諸島が世界自然遺産に登録されたことだ。日本人の心を明るくする出来事である。また、この自然遺産登録は、美しい自然の国日本に、自然を守ることの大切さと難しさを改めて教えるものとして重要である。

 小笠原諸島は東京から千キロの南にあり交通手段は船のみで東京から25時間30分かかる。南海の孤島群は父島、母島、聟島(むこじま)、硫黄島などからなる。島の名も子どもたちの夢をかきたてる。喧騒と猥雑をもって鳴る東京都の一部である。容易に近づけない位置にあるのがよい。生物の固有種が多く東洋のガラパゴスと呼ばれる。固有種の多くは持ち込まれる外来種により絶滅に瀕している。世界遺産となることで遺産を消滅させてはならない。東洋のガラパゴスは、日本再建の希望の光である。(読者に感謝)

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2011年6月29日 (水)

人生意気に感ず「文化団体の集会。松井かずの死。私は脳梗塞か」

◇27日の夕刻、急遽私が関係する団体の人たちに集まってもらった。準備期間は実質2日間。文書も用意出来ず、当日の直前まで電話による呼びかけを続けた。心配したが約百人が参加し、大澤事務所には新鮮な充実感がみなぎっているようであった。それは、私との信頼関係と一体感を示すものかも知れなかった。

 群馬県接骨師会、群馬県柔道連盟、群馬県弓道連盟、群馬書道協会、群馬県中国残留帰国者協会、日本ポーランド親善協会、群馬カラオケ連盟、群馬県動物愛護協会、NPO群馬情報バンク、その他の団体の人たちであった。

 大澤候補は、館林、邑楽の地域を回っていて戻ることが出来なかった。大澤さんのメッセージを山本龍君が読み上げた。そこには、「私は知事に再選させていただいたら、ふるさと群馬の文化の一層の振興を目指します。そのために、中村先生と力を合わせ文化振興基本条例の制定に取り組んでいます」という一節があった。大澤候補は文化関係に弱いという一部の見方がある。この集いの目的は、文化関係の人々に協力を求める点にあった。東日本大震災後の群馬は豊かな心と人間の絆を重視した社会を築かねばならない、それを支える基盤は地方の文化である、大澤知事は、日頃このように私に語っていた。

◇中国帰国者協会との関係は長くそして深い。残留孤児だった人などを中心とした人々で、群馬で約2千人ちかくおられる。先日、その一人松井かずさんが87歳で亡くなり、私は弔辞を読んだ。日中の歴史の狭間でたどった波乱の人生だった。

 私は、著書「炎の山河」の中で彼女のことを詳しく書いた。前橋の製糸工場で働いていたかずさんは22歳の時、勤労奉仕隊に加わって満州に渡った。昭和20年5月のことだった。間もなく敗戦。ソ連が参戦し、彼女は大混乱に巻き込まれ、地獄のような逃避行の末中国人男性と結婚し5人の子供をもうける。家族と共に日本に帰れる日を夢みてかずさんは子どもたちの教育に力をいれた。文化大革命の中を生き、日中国交回復の後、家族と共に悲願の帰国を果たした。帰国者協会の人々は現在、日中の大切な架け橋となっている。

◇この日の私の演説を見て手が震えている、脳梗塞ではと妻の所に電話があった。すぐに断層写真をとって調べた。異常はなく脳は若いと言われた。健康の有難さをかみしめた。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2011年6月28日 (火)

人生意気に感ず「内部被曝の恐怖。地球最強の生物の謎」

◇このところ「内部被曝」ということが大きな問題となっている。福島県民の健康に関してこの内部被曝の調査が始まった。福島第一原発の事故によってヨウ素、セシウム、ストロンチウムなどの多量の放射性物質がまき散らされ、それから危険な放射線が出ているからだ。

 体の外から放射線を浴びるのが外部被曝であり、汚染された水や食べ物と共に体内に入った放射性物質が出す放射線によるものが内部被曝である。体内に入るのだからこちらの方が重大だろう。

 内部被曝についてはまだ良く分かっていないのが実情らしい。放射性物質が長い間体内の臓器に蓄積されると考えると無気味だ。5月23日のブログで、私は長崎大学の内部被曝の研究に触れた。それは、65年前、原爆で死んだ人の細胞内に残った放射性物質(プルトニウム)から今なお放射線が出ていることが判明したというもの。プルトニウムの半減期は24千年というから恐ろしい。このプルトニウムが福島第一原発の敷地外の土壌からも検出されている。なお、今回の健康調査の対象はヨウ素とセシウムだけである。

◇放射線の健康への影響を探る研究が大学などで盛んになっている。原発事故がこの動きを加速させている。内部被曝の事も詳しくわかるだろうが、分かってからでは遅い。

 実験材料として注目されているのがクマムシである。「地球最強の生物」といわれるのは、空気や水がなくても生きることが出来、高い放射線耐性を持つからだ。1ミリ位で脚が8本、奇怪な姿をした謎の生き物である。

 ヨーロッパの科学者が07年乾眠状態のクマムシを人工衛星にのせ宇宙空間に10日間直接さらす実験をした。極端な昼夜の温度差、真空の宇宙空間、そして強力な放射線がそそぐ状況下である。地上に戻して水分をかけるともぞもぞと生き返った。これは、宇宙空間でも生き延びられることを実証した初めての動物例となった。宇宙空間ではけた違いに強力な放射線が降り注ぐ。クマムシは、放射線でDNAが傷ついてもすばやく修復する能力をもつという。世界中の科学者がこの点に注目している。東大の学者等はクマムシのゲノム(遺伝子情報)を解読し、現在、放射線により傷ついたDNAの修復に関わる仕組みの解明に取り組んでいる。この研究により、放射線対策やがん治療のための大きな手がかりが得られると期待される。下等で単純な動物が私たちがこの宇宙で生き延びるための神秘な力をもつ。不思議なことだ。全ての生き物に存在価値があることを示す。(読者に感謝)

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2011年6月27日 (月)

人生意気に感ず「27ヵ所の決起集会。解散の影。中国の電力不足」

◇大変な1日であった(26日)。午前820分から始めて、前橋市内27ヵ所の決起集会が行われた。私が挨拶したのは8ヵ所。このような集会で一番の関心事は人の集まり具合である。先日のような記録的酷暑では多くの人の集まりを期待する方が無理だ。昨日の救いは24日と比べ格段に涼しかった事で、私が心配した元総社地区も大勢の人が集まってくれた。福田、佐田、山本の自民党国会議員3氏は、全部の会場で挨拶。公明党の国会議員加藤氏もいくつかの会場で顔を出していたようだ。

 前橋選対がこのように力を入れるのは、前回、大澤氏は、前橋で小寺さんに4千票差をつけられたからである。今回、全体の勝利は間違いないと思うが、県都前橋で勝つことには格別の意味がある。来年2月の市長選、そして、可能性としては想定すべき衆院総選挙の動向に、県都の勝敗は影響するからである。

◇東北被災地の惨状をみれば、今、国政選挙が出来る状態でないことは明らかである。しかし四面楚歌の状況下、菅総理の最大の武器は伝家の宝刀解散権である。菅総理はこれを抜く大義名分を真剣に考えているかも知れない。国会は混乱し、国難に対し十分に機能していない。国政に対する信頼は地に落ちている。とすれば、大震災後の日本の再建につき目指す方向を提示し国民の信を問うこともあり得ないことではない。これから起るかも知れないM8級の地震と比べたらずっと現実性があると思う。各会場を必死で回る衆院議員佐田玄一郎氏の胸中には、解散総選挙への備えがあったに違いない。

◇ある会場で国会議員の面々を背にして私が先に挨拶することになった。「皆さん、国難の時に当たり、国会は混乱して頼りになりません。それだけに、地方がしっかりしなければなりません。今回の知事選は、群馬に於いて、このような地方の力を生み出すことが目的です。子どもや孫たちのためによりよい未来を残すための戦いです」私はこのように訴えた。

◇中国に出ている群馬の企業関係者から中国の深刻な電力不足について聞いた。前日になって、突然、停電を通告されるというのだ。急激な経済成長、13億の国民の生活の近代化に電力の供給が追い付かない。かつて山東省を新幹線で通過したとき、いたる所に太い火力発電の煙突があった。中国は石炭による火力発電が主流である。中国には現在11基の原発がある。今後新規の計画は不可能だろう。中国も新エネルギーに大きくカーブを切るに違いない。(読者に感謝)

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2011年6月26日 (日)

「上州の山河と共に」 第30回 東大受験を決意

 事態は少しずつ、好転しつつあった。引っ越して、環境が変わったせいか父の心臓ぜん息もピタッと起きなくなり、父も多少働けるようになった。末弟の秀雄もよく家業を手伝うようになった。私がもっと仕事に専念すれば、家族はもっと楽になるのに申し訳ないと思ったが、今はただ、前に進むのみと自分に言い聞かせ、私は悲壮な決意で、予備校、英数学館の門を叩いた。

 英数学館の一年間は、密度の濃い、思い出に残る毎日であった。毎月の模擬テストは、何としても上位の成績をとろうと工夫を重ねた。ある時、勉強の方法に迷いが出て、東大の駒場寮まで出向いて、東大生に勉強の体験を聞く、ということまでした。

 このような努力のかいあって、翌年、念願の合格を果たすことができ、私は、東京大学文科三類に入学した。このことは、勤労学徒の模範だとされ、朝日新聞に、家族との写真入りで大きく報道されたりした。こうして、私は、長く暗いトンネルを抜けて、全く未知の世界に踏み込むことになった。

 「私の東大時代」

 東京大学の概観

私の東大生活を書くことに先だって、東京大学の姿を概観してみたい。

東京大学の起源は、徳川幕府の学問所である昌平黌、そして、同じく幕府の研究所である洋学所まで遡るといわれるが、明治十年、東京開成学校と東京医学校が合併して、加賀百万石前田家の江戸屋敷跡に、我が国最初の大学として東京大学が誕生したのである。

東京大学のことを赤門と呼ぶのは、前田斉泰が将軍家斉の娘と結婚するに当たり、朱塗りの門を作って迎えたが、この門がその後、東京大学の一つの門として使われ、その歴史的由来と国宝とされる程の立派さから有名となり、東京大学の象徴の一つと見られてきたからである。

 本郷三丁目で地下鉄を降りて本郷通りを進むと、まず赤門に、そして少しの間隔を置いて正門に出合う。赤門は、その周囲のアカデミックな雰囲気とマッチしながら、大学の歴史を今日に伝える役割を果たしている。

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2011年6月25日 (土)

「上州の山河と共に」 第29回 東大受験を決意

 二次試験の数学は、五題出て、二題解くのがせいぜいであった。英語の問題も私の実力を超えていた。予想通り、二次試験の結果は不合格であった。しかし、手応えは十分に握ることができたと思えた。理科ニ科目、社会二科目も、時間をかければ必ず征服できると思えた。

 定時制も終了となり、夜の時間は以前よりも有効に使える。私は勇気百倍の思いで勉強に打ち込んだ。仕事のほうも一生懸命やった。お得意先でも、お兄さん頑張れよ、と励まされるようになった。ようし、俺は見事仕事と勉強を両立させてみせる、と私はなお極めて強気であった。しかし、その次の年も、一次合格、二次不合格であった。

 私は大きな壁に突き当たって悩んだ。体にも疲れを感じるようになった。お得意先でダンゴを並べている時も、立っているのが苦しい程、背中が痛む。家に帰り、畳の上にうつ伏せになって母に背中を踏んでもらうと心地良い。しかし、やがて踏んでもらわないとがまん出来ないようになり、毎日こんなことを繰り返すようになった。

 強気の私も、不安と焦りを感じるようになった。東大に入れれば良いが、という心境から、何としても入らねばならぬ、もう後がないという心境へ。そして、身体もおかしくなってゆくことによる恐怖にも似た心境へと追い込まれていった。しかし幸いなことに、こんな追い詰められた私にとって救いの神が現われたのである。

 私の弟、賢三は中学生であったが、身体も大きく、中学一年の頃から仕事を手伝っていたから、中学三年の頃はもうダンゴ屋も一人前であった。この頃、私の家は、また総社町山王から西片貝一丁目に引っ越して、賢三は桂萱中学の三年生であった。賢三は、私の片腕となって実に良く働いた。

 ダンゴ屋というのは、朝早くから働く仕事である。毎朝四時ごろから仕事をして学校へ行くから、賢三は学校でいつも居眠りをしていたらしい。しかし、成績はかなり上位であったから、周囲も、高校へ進むと見ていたであろうし、本人もそう考えていた。この賢三が、「兄ちゃん、俺は定時制に行くから勉強に専念しろよ」と言ってくれたのである。

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2011年6月24日 (金)

人生気に感ず「新島襄・湯浅治郎、楫取素彦、廃娼運動・マリアルス号」

◇2013年に放送するNHK大河ドラマは新島襄の妻の生涯を描く。元同僚県議の岡田安中市長も喜んでいる。新島襄は安中藩士の家に生まれ幼名を七五三太(しめた)と言った。女ばかりが生まれる家に初めて男子が生まれ、祖父が思わず「しめた」と叫んだことが名の由来とか。幕末、アメリカへの密航に成功し、キリスト教徒になって帰朝、安中に帰って近隣の者にアメリカの事情を話した。襄の感化を受けてキリスト教徒になった若者が出たが、その中に湯浅治郎がいた。湯浅は、現在も安中市でしょう油の醸造販売を営む有田屋の人で、その財力でもって同志社大学の創立に尽くし、また、日本で最初の図書館といわれる便覧社を作った事でも知られるが、注目すべき点は県会議員となって廃娼運動で目ざましい実績を挙げたことである。県議会には2代目議長として彼の写真が掲げられている。

◇私は、かつて、ふるさと塾で群馬の廃娼運動の歴史を何回かにわたって話した事がある。明治の初め開国による新しい時代の風は国中にみなぎり、群馬の地でも、社会改革の気運が、特に若者たちを衝き動かしていた。ここで大きな問題として、廊の存在があった。群馬は多くの街道が行き交う交通の要衝で宿場ではいわゆる飯盛り女がおり、各地で廊が発達していた。

 廊の存在は近代化を目指す社会の大きな妨げだった。若者の勤労精神を蝕み子どもは廊ごっこで遊ぶ状態で、廓のあるところでは市が立たないといわれた。時の県令は吉田松陰ゆかりの楫取素彦で新生群馬を教育と近代産業で発展させようとしていた。一方当時の県議会には進歩的な思想を持った者が多く、その中には湯浅のようなキリスト教徒も何名かいた。このような県議会で廃娼の是非が激しく議論された。当時の議事録には天賦人権論に基づいて女郎の人権を論ずる議員もいた。

 また議会の外では廃娼を求めて激しく活動する青年たちの存在があった。彼らはわらじと馬で反対派の議員のところを説得に回った。これは市民運動のはしりといえた。このような状況の中で議員は廃娼を決議し群馬は全国にさきがけて廃娼県の金字塔を打ち建てる。その立て役者が新島襄の弟子湯浅治郎であった。なお、この動きには、ペルー船籍の奴隷船・マリアルス号事件の影響があった。県議会の復権が叫ばれる今、廃娼の偉業を成し遂げた先輩議員のことを学ぶべきだ。(読者に感謝)

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2011年6月23日 (木)

人生意気に感ず「群馬DCと観光立県。SLの勢ぞろい」

◇県を挙げての一大事業「群馬DC」が7月1日から始まる。そのための推進協議の総会があった(22日)。群馬DCというと、それは何ですかと多くの人は言う。巨額の予算を注ぐ割に盛り上がらない原因の1つは、DCというネーミングのせいだろう。Dはディスティネーション、Cはキャンペーンのそれぞれ頭文字。ディスティネーションとは目的地を意味するが、ここでは観光目的地のことでキャンペーンは宣伝の事。DCなどと言わず、「観光祭り」と言った方が分かり易い。JR6社と組んで群馬の観光を全国にアピールし、客を呼び寄せる事業だ。

◇多くの県議会議員が参加し、冒頭、私が代表して挨拶した。「東日本大震災がDCの前に立ちはだかったが、災い転じて福となすべきだ、群馬は災害の少ない、人情と文化と伝統が豊かなことを全国に知らせる好機である」と私は述べた。大震災を機に社会は、地域の文化を尊重し人間の絆を大切にする方向に大きく転換するだろう。群馬DCは、時代の新しい潮流にサポートされると考えれば勇気が湧く。

◇今、巷には、知事選がらみで「最下位脱出」という看板が目立つ。大沢県政を攻撃する手段として群馬の知名度が低いことを言わんとするようだ。しかし、この大変な国難の時に、ずい分皮相的なことをあげたと私は思う。知名度など気にせず県民の生命財産を守るための本質的な政策に取り組むべきだ。知名度は後からついてくる。

◇私の主張は、DCを推進することと矛盾しない。DCは一時的な群馬の宣伝を目指すべきではない。「観光」を新しい時代の産業と位置づけることが重要である。観光立県がこれからの群馬の大きな旗印となる。DCはそのスタートである。

 観光とは、本来、地域の光を観(み)せること。それは、地域の人々の誇りや郷土愛に支えられるものだ。新しい「観光」は、地域のコミュニティにと結びついたもので、東日本大震災後の社会でますます重要視されるだろう。

◇群馬DCの開幕を記念し、7月2日、3両のSL、C61、C57、D51が高崎駅に集合し同時に発車する。また、開幕に備え、新しいリゾート列車「リゾートやまどり」がデビュー。高崎駅~万座・鹿沢口駅間を快速で走る。群馬は全国有数の車社会であるが軌道交通を見直すきっかけになればと思う。

◇福田元総理が選対事務長として連日頑張っている。この選挙を群馬再建のカギと考えているのだ。(読者に感謝)

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2011年6月22日 (水)

人生意気に感ず「大澤候補の発言・市町村との協力。井上成美のこと」

◇知事選は中盤に入った。一般の関心は低いようだ。昨日(21日)は大澤候補について主要な企業等団体を回った。大澤候補は多くの会場で、4年間の実績を説明する際、市町村との信頼、協力関係の樹立と中学3年生までの医療費無料化を取り上げた。ある企業の会場で「あるほど」という声が聞こえた。2つの政策が結びついていることに納得した声であった。

 この医療費無料化には膨大な予算が要る。税収が厳しい中、県単独で実現は不可能だ。県と市町村が半分ずつ負担することでこの制度は実現したが、それには、県と市町村との信頼関係が前提であった。なるほどの意味はここにあった。ちなみに、平成22年度の県と市町村の負担分は、約38億4千万円であった。この医療費無料化は、全国にさきがけるものであり、現在、東京都も実施している。

◇地方分権の時代が進む中で、地方の役割はますます大きくなりその課題は増大している。これを乗り越えるには、県と市町村との協力関係が必要である。このことは、東日本大震災後の今日、更に重要な意味を持つ。時代は正に歴史的転換点にあって、未知なる課題に取り組むために、地方の真価が問われているからである。今回の知事選は、このような地方の力を生み出す点に一つの目的がある。私は、今回の知事選は、従来のものと異なり特別な意味があると訴えているが、それは、このようなことを意識してのことである。

◇先日、井上成美(しげよし)の事を書いたら、実父が江田島の兵学校で井上から「薫陶を受けた」という女性からメールをいただいた。それには、兵学校では井上校長の英断で戦争中も英語や一般教養を大切にしたこと、実父は戦後東大に入り化学を学んだ事などが述べられていた。

 戦争中、敵性語として英語排撃の動きが高まっていた。野球でもストライクは「よし」アウトは「それまで」という風であった。海軍兵学校でも生徒採用試験で英語は廃止すべしという声が上がった。井上は、世界の公用語である英語は絶対に必要だ、私が校長の職にある限り英語の廃止は絶対許可しないと主張した。戦後、大学に入り直す者にとって兵学校の英語は役に立ったに違いない。井上大将は立派な政治家であると同時に偉大な教育者だった。今日、教育改革が叫ばれているが井上のような見識と勇気を備えた教育者はいない。(読者に感謝)

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2011年6月21日 (火)

人生意気に感ず「最後の海軍大将井上成美に理想の政治家像を見る」

◇知事選の中で、政治家の使命は国民の生命と財産を守ることですと幾度となく訴える。その度に思うことは東北の被災地の惨状だ。3ヵ月が過ぎるのに取り残された人々の姿が目立つ。国会議員は不毛の論争を繰り返しているように見える。日本の国力をもってすれば被災者をもっと迅速に救えない筈はない。政治家は何をしているのか。政治不信が巷に渦巻いている。

◇大澤事務所に元海上幕僚長の古庄幸一氏が来て講演をした時(14日)、私は井上成美(せいび)をどう評価しているかと質問した。井上成美は江田島の海軍兵学校校長、海軍次官、最後の海軍大将等として知られるが、日独伊三国軍事同盟に徹底して反対した人物として、特に注目される。古庄氏に質問したことを機に私は愛読書の1つである阿川弘之の「井上成美」をまくら元に据えて眠りにつく前の短時間読んでいる。昔赤線を引いた所が、単なる歴史的知識としてでなく政治家の使命のほとばしりとして胸を打つ。信じた事を直言して、少数意見を貫く異常なまでの苛烈さは、これが本物の政治家かと思わせる。

 井上はアメリカと戦えば必ず負けると上申書に書き、陸軍はもち論、世論も三国軍事同盟締結の方向で湧き立っている時、「同盟」は必ず、米英との戦争に至ると、締結が迫るぎりぎりの会議でも自説を曲げなかった。ぼう大な予算をさいて大艦建造に走る方針に真っ向から反対し、これからは戦闘機の時代だといって、海軍の空軍化を主張した。また、山本五十六が1年か2年は頑張って見せますと総理に発言したことに対しても、戦えば負けるとはっきり言うべきだと厳しく批判した。私は、古庄氏に日本敗戦の原因はこのような意見を容れることが出来なかった旧軍の体質にあるのではないかと質問したのである。今の国会の醜態を見ると、国会議員の姿が井上と比べて雑魚に見える。

◇すったもんだの混乱の末、やっと、20日夕方、参院本会議で復興基本法が可決成立した。大震災後百日以上が過ぎている。この間、救済の遅れ故に命を落とした人は多い。遅れの原因は政治の貧困である。復興の実施権限をもつ復興庁の設置、その長となる復興相を置くこと、財源となる復興債の発行、復興特区を設けることなどが内容となる。この法律を新生日本のスタート台にしなければならない。大きな歴史の曲り角に立ってその方向が示された。(読者に感謝)

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2011年6月20日 (月)

人生意気に感ず「水田で思う放射能汚染。子どもの鼻血続く。小水力発電」

◇「はばたけぐんま」の政策広報車に乗って大澤候補の政策を訴えた(19日)。車から見る農村地帯は見わたす限りの水田に苗が植えられ緑の海原が広がっていた。大澤正明は農業を守ります、放射能の情報を正しく伝え安全安心な社会を築きますと演説しながら、田植えが出来ることの幸せを感じた。

 東北の津波被災地では田植えどころではない瓦礫の水田地帯が広がる。また、フクシマの原発汚染が懸念される地域では、田植えがなされたとはいえ、汚染米の生産の不安が指摘されている。

 チェルノブイリ原発の被災地では土壌汚染と農業の関係が研究されている。それによれば湿地帯で高いレベルの放射能汚染が残るという。湿地帯といえば先ず水田である。福島県では、水田のセシウム検査が不十分なまま水田耕作が行われていることが報じられている。稲の収穫後にセシウムに汚染された米であることが判明し大騒ぎになれば大変だ。その影響は福島の米以外にも及ぶだろう。

◇放射性物質セシウムは半減期が30年で、骨に蓄積されがんの原因になる。チェルノブイリの近くでは子どもの甲状腺がんの死亡率が異常に増えた。セシウムによる汚染米が生産される場合、米は主食として毎日食べるだけに被害は深刻だろう。専門家は、わずかな汚染でも毎日食べることにより身体に溜まっていくことを指摘する。フクシマ第一の事故が将来表面的に収まっても、農業への影響は尾を引くに違いない。また、農業に限らず、放射能の危険性に敏感になり、正しい知識を身につける契機にしなければならない。

◇原発から50キロ離れた福島県郡山市で子どもの鼻血が続くなどの体調異変が問題になっている。放射能との因果関係は明らかになっていないが原発事故の直後、そして、原発に近いことから不安を抱くのは当然だ。原発事故の場合、最初に出るのが放射性ヨウ素である。だから対策として初期の段階でヨウ素剤を飲ませることが重要なのだ。私はNPOの仲間と被災地を訪れた時、福島県に入るときこのヨウ素剤を飲んだ。行政の役割は大きい。

◇地元の「時事を語る会」で小坂子町の小水力発電所を説明した(19日)。エネルギー政策大転換を目指す時流の中で注目すべき存在となった。渋川の浄水場との落差は約33m。年間供給電力量は180軒分。石油節約量はドラム缶860本分。小中学生に見学させるべきである。(読者に感謝)

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2011年6月19日 (日)

「上州の山河と共に」 第28回 東大受験を決意

試験の会場は本郷である。広い構内を全国から集まった受験生が埋めていた。誰の目にも緊張感がみなぎり、構内は興奮が高まっていた。私は、三四郎池の木陰に腰を下ろし、定時制での勉強やダンゴ売りのことなどを思い浮かべながら、とうとうここまで来たという感慨に浸っていた。

英語は長い文章で、その中に空欄の括弧がいっぱいあって、そこを適当な語で埋める問題が中心であった。国語は、誰か女流作家の随筆が出て、わりかし楽に中味に入り込むことができたという感じであった。

英語と国語は驚く程のこともなかったが、問題はやはり数学であった。大きな問題が5問、それぞれに四つの小問があった。一つ一点で、15点位がボーダーラインと聞いていた。4問までは無我夢中であったが、手応えもあった。いわゆる三角方程式というやつで、sin xcos yなどから成り立っている連立方程式である。

 これを見て、それまでは何とかなると思って進めてきたのに、ああ、これで駄目か、と思った。しかし、気を落ち着けて考えてみると、Ⅹ,Yの値は、30度、45度、60度、あるいは90度と言った特定の角度である可能性が強いと気付いた。そこで、最後の五分間、必至の思いで、サイン30度なら1/2、コサイン45度なら1/2と、あてずっぽうに当てはめていった。一次の試験は答えだけが求められ、式は要らないのである。連立方程式にちょうど当てはまる数字が見つかった時、カランカランと終わりを告げるカネの音が聞こえた。兎に角、終った。全力を出しきった快感と興奮に浸りながら私は前橋へと急いだ。

 私の留守の間、家では代わりに妹の恭子がバイクでダンゴの配達をしたりで大変であった。一次は、幾日も経たずして発表になるから、普通の受験生は宿舎に留まって結果を待つのである。しかし私には、そのようなことは許されない。発表の日も、朝の仕事は済ませて上京した。

 発表は駒場のテニスコートに番号をはり出して行われる。落ちる気もしないが、合格するとも思えない、複雑な気持ちであった。テニスコートには、発表の時間はとうに過ぎ、もう人は去って誰もいない金網に受験番号を書いた白い紙の張られた板が付けられている。胸が高鳴り、心臓の音が聞こえるようである。私の視線は、数字の列の上を突き刺すように走る。

「あった」

 私は、声を出して叫んでいた。自分の番号を見つけてみると、改めて、信じられないことに思える。東大が俄にての届くところに来たように思えた。しかし、そんなに甘いものでないことを間もなく思い知らされることになる。※土日祝日は中村紀雄著「上州の山河」を連載しています。

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2011年6月18日 (土)

「上州の山河と共に」 第27回 東大受験を決意

後になって、なぜ夜間高校から東大を受ける気になったのかと人に聞かれることがあった。暗い谷底から何を目指して抜け出そうかと目標を捜す私の目に、たまたま学問の府としての東大の姿がきらきらと眩しく映ったのであるが、中学以来の、勉強したくもできない、思いっきり勉強したいという欲求不満の鬱積も、私を動かすエネルギーになっていたに違いない。 

また、夜の学生は、昼間の前高を意識するところがあったが、それは私も同様だった。福島浩や芝基紘達は、名門前高のエリートとして良い教師、良い環境の下で学び、良い大学へ進むことが約束されている、それに比べて、同じ前高とはいえ、自分達は惨めだなあという思いであった。

ある教師がこんなことを話したことがあった。それは、夜間部で一番の者も、昼間に行けばビリだろうというのである。前高のレベルの高さを言いたかったのであろうが、複雑な心理を抱く私達の前でこのようなことを言う教師の心を、私は理解できなかった。よし、それなら見ていろ、と私の心は逆に燃えるのであった。 

父との確執、仕事と勉強を両立させる悩みなどいろいろ抱えながら、いよいよ東大の受験を迎えることになった。文科1類に願書を提出、一次試験は3月の初めで科目は英、数、国の三科目であった。 

試験の前日の朝、ダンゴの仕事を早めに終えて上京し、浅草山谷の簡易旅館に泊まる。ある程度話に聞いていたので驚かなかったが、おそらく、あれが一生に一度の体験になるだろう。下駄箱はなく、靴は自分で持って枕元へ置くのである。薄暗い部屋には、畳一畳を入れた木の枠が壁に沿ってぐるりと作られ、そこに薄い蒲団が敷いてある。木の枠は二段になっていて、上に登る小さな梯子が付いていた。 

学生服を着た客は珍しいらしく、兄さんはどうしてここへ泊まるのかと土木作業員風のおじさんたちが訊く。明日、東大の試験を受けに行くのだと答えると、驚いている風であった。 

風呂はタイルの張られないザラザラのコンクリートの浴槽で、おじさんと一緒に並んで入り、一日の汗を流した。

ベッドに戻ると一斉に電気を消され、あとは廊下から漏れる薄明かりの中で、何人かがぼそぼそと話をしていたが、昼間の疲れの為か間もなく皆静かになった。明日のことを思うと、心がときめくが、私も間もなく眠りにおちた。次ぐ朝、宿を出る時、同室のおじさん達が、兄さん頑張ってな、といってくれたのがとても嬉しかった。(読者に感謝)

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2011年6月17日 (金)

人生意気に感ず「知事選告示日の状況。歴史的な選挙だ」

◇知事選の決戦の火蓋は切られた(16日)。早朝、前橋市の八幡宮で必勝祈願を行う。7時ジャスト、元総理で選対事務長の福田康夫さんが到着し、同時に儀式が始まる。神殿に登るのは、国会議員、県会議員、主な支援団体の代表など。心を1つにするための儀式であり日本の伝統の文化である。歴史を知らぬ外国人は不思議に思うだろう。文字通り命をかけて戦った戦国の武将たちは、神殿の奥の神の存在を信じて手を合わせたに違いない。

◇儀式は約10分で終わった。7時45分に始まった亀里町の農協ビルの各種団体出陣式は超満員で外のロビーにも入り切れない人は、建物の外にあふれた。会場の空気には、緊張と手応えが流れていた。ここから直ちに北へ向かい8時45分にはマーキュリーホテルで群支部の人々の出陣式が行われ、9時30分県庁前で第一声が放たれた。私も4月の県議選では、ここで「第一声」をやった。演説を聴く人は少ないが、ここでの「第一声」は祈願祭と似て一種のセレモニーともいえる意味をもつ。候補者は第一声を放ったことを自覚して遊説をスタートさせるのだ。

◇この日の最後に、前橋市富田町のJA前橋本所で前橋市全体の出陣生気が行われた(16日、午後6時半)。前橋市の支援者も、この日、亀里の農協ビルやマーキュリーホテルに、既に大勢参加していた。この種の集会の成否は参加者の数で測られる。心配したが、大変盛会だった。大澤さんは、ここに来るまで正直少し心配でしたと発言し、福田康夫事務長は、ほんの少しほっとしましたが油断は禁物ですと語った。

 ここでは私の出番もあった。県議を代表しての挨拶で要旨は次のようなもの。「この選挙はこれまでの知事選とは違います。東日本大震災後の健全な社会を再建するためのもので、安定と変革が求められます。それは、大澤県政4年の成果を踏まえた変化でなければなりません。戦後瓦礫の中から立ち上がった時のように力を合わせなければなりません」

◇この富田町のJAの会場に沼田市長がいて、一言と請われると、県産材センターを作ってもらった事を紹介した。大澤候補は、一次産業の大切さを訴える中で、群馬は日本一の森林県だが林業は遅れている。全ての間伐材を有効利用するために渋川・県産材センターを作った。日本一の林業県を目指すと決意を述べた。檀上の弁士は前橋が天王山と訴えていた。前回は全体で勝利しながら前橋市で4千票負けたのだ。(読者に感謝)

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2011年6月16日 (木)

人生意気に感ず「知事選候補者の品格。調査広報課甦る」

人生意気に感ず「知事選候補者の品格。調査広報課甦る」

◇知事選がいよいよ始まる(16日)。17日間の戦いの火蓋が切られる。スタートはいつものパターンで、前橋市内の八幡宮での午前7時の必勝祈願である。4年前の緊張した光景が甦る。あの時は、優勢が伝えられる小寺王国に対する挑戦であった。

 前回は平成19年7月5日が告示であった。7月6日の私のブログは、前日を振り返って熱く厳しい一日だったと記す。そこでは八幡宮の必勝祈願祭とマーキュリーホテルの出陣式の緊張した様子が描かれている。笹川県連会長(当時)は「地を這い泥をすすっても」と決意を述べ、福田元官房長官は、「選対本部長を引き受けたからには一生懸命やります」と語った。冷静な語り口に静かな迫力が感じられたと私は感想を記している。

 今、16日の午前5時である。今回は前回程の緊迫感はないと思う。最大の敵は油断の2文字である。大きな選挙には大義が求められる。今回の知事選の大義は大震災後の安全な社会の再建である。それは、大澤知事の4年間の成果を踏まえたものであるべきだ。対立陣営は、群馬の知名度の低さなど枝葉の部分で争っているように見える。

 大澤知事の表情が良くなった点が注目される。派手さはないが、品格が感じられるようになった。混乱の社会情勢の中で示す静かな決意は県民への確かなメッセージである。これに対し、巷にあふれる対立候補の顔には品格が感じられない。この両者の違いは、表面的な様でありながら実は本質的なものだ。勝敗を左右する重要なポイント一つになるかも知れない。

◇図書広報委員会があった(15日)。今期の県議会の静かな、しかし、確かな変化の1つは、この委員会の変化だと思われる。従来、この委員会は、とかく軽視されがちで、どちらかといえば存在感にとぼしかった。この委員会の重要な仕事として、全県民に発する「群馬県議会だより」の作成と議会図書室の在りかたの検討などがある。県民に情報を提供することは極めて重要な県議会の使命である。私はこの委員会の重要性について発言した。今期のこの委員会は、従来と比べ審議の内容に於いて一変して充実した。この委員会を支えるものは調査広報課である。私は、過日、この課を厳しく批判したが、この課の雰囲気も格段に良くなった。議員の自覚と調査広報課の活性化が一体となって動き出したと感じられる。(読者に感謝)

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2011年6月15日 (水)

人生意気に感ず「最後の海軍大将井上成美のこと。原爆と原発は同根」

◇元幕僚長古庄幸一氏の話を聞いた(14日)。大澤知事とは海上自衛隊幹部養成校「江田島」の同期で、この日は知事の応援であった。話の後、多少質疑の時間があったので次のような質問をした。「江田島海軍兵学校校長井上成美をどう評価しますか。いくさ下手といわれましたが、三国同盟に強く抵抗し、大艦巨砲主義に反対した。こういう人の意見を容れなかった点に敗戦の一因があるのではないですか」古庄さんの話で、当時の兵学校の生徒で井上さんを悪く言う人は一人もいなかったという部分が胸に響いた。

 阿川弘之著「井上成美」は私の書斎の重要書物の棚の一冊だ。日独伊三国軍事同盟締結阻止に全力を傾けた。日米開戦を避けようとしたのだ。しかし、戦争となるや提督として珊瑚海海戦をたたかい、その後江田島の海軍兵学校の学長となった。最後の海軍大将である。「正しいと思ったら言う」これが井上の信念で、この人はそれを貫いた。海戦の10ヵ月前、建白書を提出し、その中で、戦えば日本は負けることを具体的に述べた。異常なまでに清冽で苛烈な人であった。戦後は横須賀の山中で英語塾を開いた。塾の教え子たちは、後に人間の生き方を学んだと言った。古庄さんから井上の本質に迫る話を聞くことは時間の都合上無理であった。

◇昔、学習塾で教えていた頃、話を脱線させて原爆と原発について話したことがある。後年、その頃の生徒に会うと脱線を覚えていて面白かったと言う。学校でも東日本大震災を材料にして有意義な脱線を工夫すべきである。

 原爆と原発については最近のふるさと塾でも話した。原発の危険性を知るためには原爆との関係を理解する必要がある。両者は同根なのだ。そして、両方の被害を被ったのは人類史上日本人だけである。

 ウラン原子に中性子を照射すると原子核が分裂し、その時、計器の針が振り切れる程強力なエネルギーが検出されることを発見したのはドイツの科学者であった。このエネルギーを爆弾に利用したのが原爆で、うまくコントロールして発電に結びつけるのが原発である。核分裂によるエネルギーで蒸気をつくりその力で発電機を回すのだ。核分裂のとき放射性物質が発生する。原子炉が破壊されると、これが外部に出てがんの原因となる。今騒がれているヨウソ、セシウム、ストロンチューム、プルトニウムなどだ。フクシマは、人類の「火」を転換する歴史的契機になりつつある。(読者に感謝)

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2011年6月14日 (火)

人生意気に感ず「御巣鷹日航機事故を活かす。イタリア・スイス・ドイツの脱原発」

◇毎日、新聞で死亡と行方不明者の数が表示される。死者の数が増え、行方不明者の数が減る。この数字の変化から、被災現場の深刻なドラマが想像される。被災地では瓦礫の中を今も愛する家族を探す人がいる。遺体安置所を訪れ行方不明となった肉親の手がかりを求める人がいる。

 大震災から3カ月が経過した今も、安置所には一日数体の遺体が運びこまれているという。そして、死者の数が増え、行方不明者の数が減っていることは、必死の確認作業と遺族等の執念が成果を上げていることを示すものだ。

 山と積まれた遺体は身元が確認されなければ行方不明者のままだ。それでは遺族が困るのはもち論、行方不明扱いの死者が浮かばれない。大規模災害の場合、身元の早期確認は人間の尊重と不可分に結びついている。

◇大規模災害に際しての遺体の身元確認作業のマニュアルを作っておくことは危機管理の重要な一環である。一九八五年(昭和60年)の上野村の日航機墜落事故の時は、身元確認作業で歯科医師が重要な役割を果たした。最後は歯が決め手となることが多かったのである。私の知人で歯科医の大國勉さんは正に命がけの活躍をされた。クリスチャンとしての使命観に燃えていたと思われる。

日航機事故の一年半前、県内の医師、歯科医師有志は、「県内でも予想される大規模災害・事故に備えて検屍および法医学の研さんを行う」事を目的として、群馬県警察医会を設立していた。それが役に立った。

◇岩手県の身元確認において、岩手県歯科医師会の動きは早かった。地震の夜には方針をかため、翌日の朝には県警と歯科医師会は協議を進めていた。それは、県歯科医師会が、日航機墜落事故を受けて大規模災害時に県警と協力する旨の覚書を結び、それに基づく講習会などを行っていたからだという。御巣鷹山の日航機事故の教訓が東日本大震災で活かされていることを今、かみしめている。

◇イタリア国民は、国民投票で脱原発の意思を圧倒的な数字で示した。「イタリアにとって歴史的な出来事だ」、「原発は時代遅れだとフクシマの事故で確信した」デモの人々はこのように叫んでいる。この影響は世界に広がる。既にドイツ、スイスが脱原発を決めた。「フクシマ」は、ナガサキ、ヒロシマ以上の人類史上の出来事になる。日本人の決意と技術力で新エネルギーに道を開き世界に示す時だ。(読者に感謝)

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2011年6月13日 (月)

人生意気に感ず「知事選公開討論会。東海地震等三連動地震近づく」

◇知事選公開討論会に出た(11日)。予め決められた政策課題につき候補予定者が自説を主張した。それぞれが、聴衆に向かって自分の政策を述べる形式で、討論とか論戦というには、程遠い中味で緊張感に欠けた。県議会本会議が採用するような対面式のものでないと本物の論争は実現しない。

 せっかくの討論会を盛り上げるには場所も適切ではなかった。高崎の中心部から離れたわかりづらい所のせいか、一般市民の参加は少なかった。中味の点で注目したことの1つは、群馬県中小企業憲章に触れた候補予定者がいたことだ。「憲章」の提案議員であるためにとくに注目したわけだが、中小企業政策の重要な一環として、取り上げる意義があったと思う。

◇小中三校のPTA協議会に出席した(10日)。ちょうど県議会終了の日であり、私は議会で問題となったいくつかの問題点を話した。その中には、教室で社会、理科、道徳などの教科の中で被災地の出来事を取り上げるべきこと、特に中学の理科教育の中で原発と放射能を教えることが重要だと話した。ある校長は、これに対して教材がないともらしていた。教材は新聞記事を使うなど工夫できるのではないかと思った。校長のリーダシップとやる気に掛かっていることだ。

◇PTAの会合では、近づいているといわれる東海地震等についても話した。警鐘を鳴らしたいという思いがあった。改めて、このブログで警鐘を発したい。

 今後30年以内にマグニチュード8クラスの大地震が起きる確率として、東海地震は87%、東南海地震は70%、南海地震は60%と予測されている。これらは、大体100年に一度起きるとされるが、東海地震は約150年起きていない。最後のものは、1854年の安政東海地震である。東海地震は富士山の爆発、浜岡原発の事故と結びつけて懸念されている。

◇更に恐るべきことは、東海、東南海、南海の3つの大地震が連動して起こる可能性が高いことだ。それは約300年に一度といわれるが、3連動の最後のものは、1707年の宝永大地震で、既に300年以上が経過している。最近の研究では、東海地震が引き金となって3連動地震が大津波を伴って起きる可能性を指摘する。現実となれば人口密集地帯があるだけにその被害は測り知れない。私たちは、今回の大地震を最大の教訓として次に備えねばならない。私たちは、安全ぼけしている。反省点である。(読者に感謝)

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2011年6月12日 (日)

 「上州の山河と共に」 第26回 東大受験を決意

私は、別にいい気になっていたわけではないが、眠い目を擦りながらじっと耐えている仲間の中には、鞄を抱えて出て行く私に反感をいだく者もいたに違いない。

気狂いのように、一筋の道を進むことは意外な成果を生むものである。英語は山崎貞の英文解釈の研究、数学は森繁夫の数Ⅰ、数Ⅱの研究を何とか八分通り征服した。なぜ、この本を使ったかと言えば、石田道夫の案内書に、東大受験生は、多くの者がこれを使うと書いてあったからである。

後に、受験生を指導する立場に立って、勉強の方法について聞かれたり、実際、いろいろな受験勉強に取り組んでいる人と接して思うことは、ベストの勉強方法、つまりこれをやれば労少なくして成果を上げられるという意味の最良の方法などはあり得ない、大切なことは、自分の決めた方法をやり抜くことだ、ということである。ほとんどの受験生が、参考書を取り替えたり、勉強の方針について迷ったりして、一貫性のないことをやって、同じところをぐるぐるまわっているように見える。

私の場合、参考書でも、勉強の方法でも、選択肢はほとんどなかったから、これと決めたことを信じてやり抜いたのである。だから、暗闇の中を手探りで走っているようで、実は一番近道をかなりのスピードで走っていたのかも知れない。

英語については、英作文が出来ないで困ったが、英作文には英文の暗記が何よりと聞いて、一年の時のリーダー「ニューメソッドイングリッシュリーダー」を、第一章の「うなぎの旅」から始めて、一冊をほとんど丸暗記するようなことをやった。

当時私達一家は、元総社から母の実家がある総社町の山王に越していたが、天川原の前高から、山王まで、自転車で一時間ほどかかった。この学校帰りの夜の時間を私は英語の暗記に充てたのである。23頁の、要所要所を紙にメモして、そこをたどりながら声を出して覚えるのである。ペダルを踏みながら、手を伸ばしてヘッドライトの光でメモを見ては、大声で英語を叫ぶ姿も、人が見たら変に思ったに違いない。

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2011年6月11日 (土)

「上州の山河と共に」 第25回 東大受験を決意

この頃の私の悩みは父との確執であった。父は、私が仕事と共に勉強に打ち込む姿をにがにがしく見ていた。大学に合格する筈はない、仮りに合格したとして学費はどうするのだ、それから、肝心なことは、お前が大学へ行ったらダンゴ屋の商売はどうなるのだというのが父の反対の理由であった。 

今から考えると、分別のない少年の思い込みは恐いものだと思う。同じような一途な思い込みが悪もなすし善もなす、そして世人を驚かすようなだいそれた事も仕出かす。 

私の性質はどちらかといえば楽観論者である。先のことはきっとどうにかなると思ってやってしまう。東大受験についても、合格すれば、父が心配するようなことは、きっと解決の道が開けると信じていた。 

私は、ダンゴを串に刺しながらも、英語の単語を暗記し、配達の時も、自転車の上で、片手に単語帳を握って暗記しながらペダルを踏んだ。今程、自動車交通が激しくない時期であったが、一度、道路に止まっていたトラックに追突したことがあった。 

自転車の上で本を読むということは、なかなかの技術を要することである。前後左右に注意を払いながら、揺れ動く小さな字を読み取るのである。こんなことを続ける中、私は、どんな凸凹道であっても、左手に乗せた紙の上の活字を正確に読み取れることが出来るようになった。 

私は、人の目を気にしないでいたが、道行く人の目には奇異なことに映ったに違いない。後年、耳にした事であるが、大渡橋を渡り、大屋敷から山王に至る私の通り道では、自転車に乗っていつも本を読んでいる変わった子どもということで話題になっていたらしい。 

当時、東大を出て、早稲田の生産技術研究所に通いながら、夜、前高の定時制で教鞭を取る妙見先生という方がいた。私が東大を受けることに理解を示された方で、<お前、俺の授業の時は、隣の空いた部屋で勉強してよい>、とか、<後の授業がないときは、早く帰って、自分の数学をやれ>、とか言ってくれた。学校の授業内容では、とても受験に対応出来ないと、私は知っていたので、先生の嬉しい指示に従うことにした。

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2011年6月10日 (金)

人生意気に感ず「県立病院改革の成果。全国初の中小企業憲章成る」

◇県立病院の赤字がやっと、大幅に減少することになった。2010年度の赤字額が前年度の約半額の8億円余となった。私は長いこと議会で県立4病院の赤字体質を追及してきた。かつてある県立病院の責任者は、議会の答弁の中で「経営のことは最も不得意で」と、優れた医師は経営については不得意が当然だといわんばかりの発言をしたことがある(05年10月議会)。

 私はこの時それは違うと思った。良質の医療サービスの提供と経営の安定は不可分である。県立病院で大きな赤字が続くことは病院で働く人々の志気を低下させひいては人の生命を扱うという緊張感を鈍らせる。病院を改革し赤字をなくす病院責任者の決意と志の高さが求められていた。

◇私はかつて、全国自治体病院の中でワースト1で国から廃院の勧告を受けた坂出市立病院を立ち直らせた塩谷院長を訪ねたことがある(平成15年)。私は塩谷氏を群馬に招いて多くの医療関係者と共にその話を聞いた。塩谷氏は改革の結果、医師から看護士、事務の人に至るまでが自信を取り戻し、そのことが良質の医療の提供につながったと語った。

◇全国で自治体病院の医療崩壊が続いていた。総務省の資料によれば全公立病院973のうち75%に当たる726病院が経営赤字に陥っていた。そこで国は全ての公立病院に対し平成20年度中に改革プランを作り3年間で黒字の達成を目指すよう要請していた。この時、県立4病院の累積赤字はおよそ120億円であった。

◇小規模企業経営者の小規模な集りで群馬県中小企業憲章について話した(9日)。この憲章が作られるまでのいきさつとその意義について説明すると、皆真剣に耳を傾けていた。

 難産であったこの憲章がついに成文化され10日県報で公布される。東日本大震災後の今日、中小企業の存在意義は一段と大きくなった。国は、「国の経済政策の根幹に中小企業を据えよう」と昨年6月「中小企業憲章」を制定した。

「群馬県中小企業憲章」では、「未来を担う世代が中小企業に誇りと夢を持てるようその重要さを伝えます」、あるいは、「施策の立案実施にあたっては中小企業の立場に立ち経済環境の変化に対応し常に迅速かつ適切な対策を講じます」などが光る。これをいかに活かすかが今後の課題だ。そのために7月26日、中小企業庁から講師を招いてセミナーを開く予定。(読者に感謝)

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2011年6月 9日 (木)

人生意気に感ず「汚染マップを作れ。3年1組回れ右。君が代訴訟」

◇8日の大規模地震対策特別委員会は委員数15人の大所帯。委員長を除く全員が質問した。農政部が土壌汚染対策として「放射性物質マップ」を作成することを明らかにした。私はNHKの特集を引き合いに出して、農政の土壌対策に限定せず、群馬県全体の汚染マップを作るべきだと発言した。NHKの特集は、北大講師の木村真二さん等2人が放射能汚染地図を作ったことを紹介した。それによって、国や東電から知らされていない高濃度のホットスポットも明らかになった。県の組織をもってすれば、実現は容易だと思う。的確な情報の提供は県民の信頼と生命の確保に不可欠で思い切った事をしないとそれは不可能である。

◇「君が代」斉唱で教諭を起立させる校長の命令は、思想良心の自由を保障した憲法19条に違反しないとの判断を最高裁は初めて示した。このニュースを聞いた時、私の頭に直ちに浮かんだことは、前橋市立桂萱中の「回れ右」事件である。昭和45年のことで、私は、この中学の近くで学習塾を開いていたので事件の反響はすぐに伝わってきた。卒業式で「君が代」斉唱の際、担任の小作(おさく)先生は突然、「3年1組は回れ右」と号令を掛けたのだ。造反教師をなぜ放って置いたのかと騒ぎになり小作さんは依頼退職に追い込まれた。

 小作教諭のまぶたには戦時中ベッドに横たわる瀕死の兵士に対し君が代を歌えと命ずる上官の姿が焼きついていた。「君が代」は人々を戦争に駆りたてる手段であり、生徒にこれを歌わせないことは彼の思想良心の命ずるところであった。国旗・国歌法はまだなかった。

◇この度の最高裁判決は、起立斉唱は、慣例となっている儀礼的な行為であって思想良心の自由を否定するものではないとした。判決は、君が代が法律によって国歌となっていることもあげている。国旗国歌法の施行は平成11年である。

◇1人の最高裁裁判官の次の補足意見は私たちの常識に訴えるものがある。「国際社会では他国の国旗・国歌への敬意の表明は国際マナーだ。国際常識を身につけるためにも、まず自分の国の国旗・国歌に対する敬意が必要で学校教育で配慮されるのは当然だ。教員は生徒を指導する義務を担う立場にある。起立斉唱を拒否する行動をとるのは生徒の模範となるべき教員の職務に抵触すると言わざるを得ない」現在の教育界は教育の根幹に関して緊張感が欠けている。この判決を議論する好機だ。(読者に感謝)

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2011年6月 8日 (水)

人生意気に感ず「プルトニウム検出の衝撃。新しい文明を輸出する時」

◇5月20日の深夜・午前1時半からのNHK特集「放射能汚染地図」(再放送)を見た時、気になるシーンがあった。北大講師の木村真三さんが福島第一原発の敷地外で土を採取する姿だ。原発敷地内の土壌からは既にプルトニウムの検出が報じられていた。木村さんは敷地外でプルトニウムが検出されることを懸念していた。

 木村さんから分析を依頼された金沢大学低レベル放射能実験施設は、最近、原発から放出されたと見られるプルトニウムがごく微量検出されたと発表した。その量は過去の核実験で国内に降ったプルトニウムと同じレベルだという。

 プルトニウムはウラン原子の核分裂によって生じる恐怖の放射性物質で極く微量でも呼吸で体内に入ると発癌の原因となる。

 長崎大学の研究では、65年前原爆で死んだ人の細胞内に残ったプルトニウムから今なお放射線が出ている事実が判明した。プルトニウムの半減期は、実に2万4千年である。

U氏から貴重な情報が電子メールで頻繁に送られてくる。今回の「日本再生のチャンス到来」は私のブログで是非紹介したいと思う。

 先ず、前半で原発政策を次のように厳しく攻撃する。原発は24時間365日テロの対象となり、その防衛には膨大な経費がかかる。テロは恐いし守るのは至難である。だからやめる。これが欧州主流国の常識だ。日本が恐れる最悪のシナリオは、北朝鮮が崩壊の瀬戸際で全54基の原発にミサイルを撃ち込むというもの。

 そして、氏が強調したい後半の結論は次のようなものだ。この大災害の教訓から原発依存度をゼロにして文明の形を大きく方向転換させようではないか。それは東北地方全体でもう始まっている。世界でも日本人だけが人類の先駆的な挑戦だと肝に銘じて全国規模で試みたらいい。その成果は世界へ「輸出」できる。新しい文明の「輸出」だ。それは「心」を無料で輸出する文明である。フクシマは、ヒロシマ・ナガサキと同様に日本人が世界へと発信する平和のメッセージとなる。氏がいうようにこの大災害を地球社会に向けた大きな新しいスタートにしなければならない。

◇今日(8日)は、大規模地震対策特別委員会の日。この特別委では、大地震対策の他、フクシマ原発事故に係る県内放射線被害対策等も対象とする。前記のような文明観の転換を頭に描きながら重要な課題を論じたいと思う。地方の決断と実行が正に試されている。(読者に感謝)

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2011年6月 7日 (火)

人生意気に感ず「ケイコ・フジモリの敗北。事業仕分けの必要。君が代訴訟」

◇6日の深夜の時点で、ペルーの大統領選の大勢を知った。ケイコ・フジモリの敗北は確実となった。獄中の元大統領はさぞ落胆したであろう。百パーセント日本人の血が流れる元大統領はテロの撲滅、経済の立て直しなどで目覚しい成果を挙げたが強権の発動が過ぎて失敗した。日本人に対する現地の期待は非常に大きいだけに、娘が大統領になって父の及ばなかった分まで頑張ることを期待したが残念だった。

 最初の南米移民を乗せた佐倉丸がペルーに着いたのは明治32年だった。移民は奴隷のような苦難の中で生きて地歩を築いた。そして大統領を生み出すまでになったのだ。その歴史を振り返ると感慨ひとしおだ。

 テレビは、かつてスラム街が広がっていたあたりに立つ高層ビルを映す。大きく変わりつつあるのだ。赤い山肌のアンデス、そしてナスカやマチュピチュの遺跡が瞼に甦る。

◇6日の総務部の常任委員会では行政改革、危機管理などにつき質問した。行政改革で言いたい事は、時代の大変化を踏まえると行政は必然的に改革が必要だというもので県政の最重要な課題の1つである。

 私の発言を図式化する。社会の構造的変化=高齢・少子化で労働力減→税収減・財政悪化、しかも新たな行政ニーズは増加→事業仕分けで行政の不要な部分、無駄な部分、役割を終えた部分を切り捨てる。→残った行政部分も出来るだけ民間への委託を検討する。総務部長は、民間人も参加させた事業仕分けを進めると答えた。本気でやれば行政のスリム化が進む。

◇君が代起立命令に関する最高裁の合憲判決は、この本会議でも触れられた。私たち教育界に突きつけられた重要な問題である。

 事件の要点は、君が代斉唱を義務づけることは憲法19条に違反するかどうか。昔、前橋市の桂菅中でも教師が生徒に回れ右をさせる出来事があった。

 憲法19条は、思想良心の自由は、これを侵してはならないと定める。君が代斉唱に反対することは思想良心の自由である、これを命令によって強制するのはこの自由の侵害だと処分された教師は訴えた。最高裁は、この自由を間接的に制約する面はあるが、式典の目的に照らして必要な許される範囲のものであり合憲だと判断した。県議会議場正面には日の丸が掲げられている。平成11年国旗国家法が公布されたからだ。合憲判断の1要素としてこの法律の存在がある。続きを明日のブログで。(読者に感謝)

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2011年6月 6日 (月)

人生意気に感ず「情報は命の糧。ヒマワリは放射能を食べる」

◇外国には日本の原発事故の状況につき違った情報が伝わっているらしい。私の知人はアメリカに住む娘からアメリカ移住するようにと真剣に勧められているという。日本国内の情報とどちらが正しいのか。放射性物質に関する正しい情報は命の糧だ。政府や東電が情報を隠すとすればそれは一大犯罪行為である。政治への信頼は今や原発事故の情報にかかっているといっても過言ではない。

◇県内各地の下水道処理施設の汚泥、焼却灰、溶隔スラグから放射性物質が検出され、各自治体は頭を痛めている。国が明確な取扱い基準や処理方法を示さないからだ。県は、政府に対し取り扱い基準の明示や処理費用の支援などを求める要望書を提出した。

◇前橋市六供町の水質浄化センターでは、法律で定める労働者の放射線被曝量の上限を超える数値が測定された。そこで市は、作業員に防護マスクと防護服の着用を義務づけた。前橋市は「健康に問題ない」としているが果たして信用出来るのか。六供の浄化センターで測定した数値は、上沖町の県衛生環境研究所が同日、同種の測定器で測った量の128倍だという。市民の間では、これらの放射性物質がどこから来るのか、県内広域に放射性物質が降り注いでいるのではないかという不安が広がっている。正確で分かりやすい情報を一刻も早く提供することが政治と行政の使命である。

◇ヒマワリが、20日間で放射能を95%以上除去したという研究の記録が存在するという。他にトウモロコシ、菜の花などもその能力が報じられる。北里大学の研究室の情報だ。

 今、注目され脚光を浴びているのは「ファイト・レメディエーション」という技術。植物が根から水分や養分を吸収する能力を利用して土壌の汚染物質を除去する技術である。放射性物質についてはヒマワリが抜群の吸収力を示すといわれる。事実なら原発の汚染地域にヒマワリを植えつくすことも考えられる。ただ放射性物質を吸収したヒマワリをどう処分するかという問題が残るだろう。

◇津波の海水で濃い塩分に覆われた水田から塩分を除去する食用植物として「アイスプラント」が注目されている。私は知人からもらって実際に食べた。生で食べられ、しょっぱい。葉の細胞に塩分を蓄える。これなど商品作物として有望なのだから塩害対策として有効だ。植物の不思議なパワーに助けられようとしている。(読者に感謝)

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2011年6月 5日 (日)

『上州の山河と共に』 第24回東大受験を決意

安保反対闘争の中心として連日新聞テレビを沸かす全学連の動きは私の目には社会正義に燃える若者の叫びと映った。その中心は東大の学生達であった。

35年には、この安保闘争の中で東大生樺美智子が死亡し、数千の学生による抗議集会が国会構内で行われる。安保条約の中身がよく分からないまま、私は平田宏と、岸内閣はけしからん、ということを盛んに議論し血をたぎらせた。

この頃、岸内閣に対する反対とは別に、私の中で、東大というものに対する憧れが高まっていた。それまで、学問の最高峰ということで、雲の上の存在として遠くから眺めていた東大であったが、何とか入れないものであろうかと思うようになり、いつしか、よし、挑戦してやろうと思い込むようになっていた。

今から振り返れば、自分のおかれている情況からして全く無謀のことであったが、体力も気力も人生のピークに立つその頃の私には、不可能なことには思えなかったのである。木下藤吉郎が一介の足軽の分際で大望を抱き、勢力的に動き回った様を自分の姿と比べながら、私は意気軒昂であった。

東大への思いは日毎に募るが勉強方法も分らないし、指導者がいるわけでもなかった。煥乎堂で手に入れた確か、石田道夫という人の「東大への道」という本を心をときめかして読んだ。

東大の受験科目は、英語、数学、国語の他、理科二科目、社会二科目の計七科目であった。私は、受験を決意して以来、トイレの中にも、英語や社会の暗記物を置いて頑張った。一つの単語を覚えること、一つの歴史の事柄を頭に入れること、これらの一つ一つが東大への距離を一歩ずつ縮めるのだと思うと勇気が湧き疲れも消えるのであった。 

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2011年6月 4日 (土)

『上州の山河と共に』 第23回ダンゴ屋になる

私の家は、ダンゴのお陰でやっと御飯が食べられるようになった。ダンゴ屋が繁盛することは、一家にとって大変嬉しいことであったが、私の心は複雑であった。今まで煎餅が売れないときは、こんな商売をいつ迄していても仕方がない、勉強をして、いつかこの境遇から抜け出さなければと思って、私は寸暇を見つけて勉強に心懸けていた。大学に進めるかどうかは漠然としていたが、チャンスがあれば、大学へ行きたい、その時のために少しでも実力をつけておこう、という考えであった。

ところが、ダンゴの売れ行きが良くなると、父や母も、当然のことながら、商売として、これを大きく伸ばしたいと考え、私がその方向で一層努力することを期待するわけである。

私はジレンマに陥った。このまま商売に徹して商人として大成する道を取るべきか、それとも、もっともっと勉強し、夢を求めて未知の世界に飛び込むべきか。

勉強を捨てて自分の全知全能を商売に注いだなら大金を手にすることは、それほど難しくない現実的な目標と思えた。しかし、私の中で脈々と流れているものは、目先の現実よりも、未来の夢に私を駆り立てるのであった。

宮城村の山野で耐えられた体力や気力、福島浩や、上野和仁等と歴史上の人物につき語り合うなかで憧れ、育てた理想像、これらは極貧の生活の中にあっても、心までも泥沼につかることのないように私を支える力であった。

「東大受験を決意」

この頃、世相は騒然として、社会の底辺に生きる私達にとっても刺激的な政治的社会的出来事が次々に起きていた。昭和34年は岸内閣の時代であり、安保の時代の始まりであった。

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2011年6月 3日 (金)

人生意気に感ず「国民不在の茶番・不信任案の否決。被災住民の怒り」

◇自民党控室の議員たちの目は、2日の昼休み、テレビに釘付けになっていた。テレビは内閣不信任案をめぐって衆議院の慌しい動きを伝えていた。憲法69条は次のようになっている。「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決したときは十日以内に衆議院が解散されない限り総辞職をしなければならない」。つまり、午後2時過ぎに予定されている採決で不信任案が可決されれば、解散か総辞職が憲法上の残された手段なのだ。そして菅総理は既に解散の意向を表明している。

「こんな時に解散しても選挙が出来るのか」このような県会議員の声が聞こえた。私は、福島・宮城の荒涼とした被災地の瓦礫の原を想像した。県議選も出来なかったのだ。それよりも、東北被災県の人々の心は選挙どころではないだろう。こんな時に国会は何をしているという声が全国で上がっている。もし、解散して総選挙を実施すれば、投票率は史上最低を記録するだろうと思った。投票率が極端に低ければ、選挙の正当性が問われることになり、国政に対する信頼は地に落ち、被災地の救済は更に遅れるだろう。私は、こんな思いを巡らしながら、固唾をのんで菅総理の演説を見守った。菅総理は、当面の震災対応を終えたら若い人に道を譲ると述べた。その表情からは中々の決意がうかがえる。「これで態度を変える民主党議員はいるのだろうか」こうつぶやく声が聞こえた。

 私はかなりの影響があると直感した。予想では70~80人の造反者が民主党から出て不信任案が可決される可能性があった。結果は大差で不信任案は否決された。民主党議員はほとんどが反対に回ったのだ。この不毛の戦いに勝利者はいない。国会の醜態を国民の前に晒すだけの結果となった。

 自民党は解散に追い込んで総選挙をやれば政権を奪い返せると見込んでいたのだろう。大きな戦いには大義が必要だ。国民の支持が得られない不信任案提出には大義がなかったのだ。

◇今日(3日)から委員会審議が始まる。私が属するのは総務企画常任委員会と大規模地震対策特別委員会。「総務企画」では、行財政改革や新エネルギー対策が課題となる。財政難、社会の構造的変化を踏まえてこれらに取り組むつもり。特別委員会は、今回の東日本大震災が突きつける課題を審議する。群馬は大丈夫という安全神話を破ることからスタートする。まず、群馬の地震の歴史を調べる。(読者に感謝)

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2011年6月 2日 (木)

人生意気に感ず「3人の少年犯罪に死刑・悪夢の残虐さ」

1日の一般質問で本県の少年犯罪の増加と凶悪化が明かにされ、地域社会の教育力の低下が指摘された。少年は環境に左右され易い。血も凍る少年の凶悪事件に接すると人間の心には悪魔のタネが存在し環境が悪いとそれが育ってしまうのかと思ってしまう。

◇その血も凍る少年凶悪事件の典型が大阪・愛知・岐阜連続殺人事件だ。事件当時少年だった3人の男の死刑が今年3月最高裁で確定した。3人の弁護人は再審請求すると報じられた。

 一審の公判中主犯格の少年は傍聴席の仲間に笑いかけるなどし、「俺は未成年だから死刑にならない、俺の計はどの位なの」と発言した。死刑を求刑されると態度を変え「生きて償いたい」と言い出した。

◇大阪事件では、3人は無職の男性を強盗目的で拉致し19時間にわたって監禁暴行を繰り返した上絞殺した。遺体は鎖骨・肋骨が折れ内臓が破裂し、その顔は家族が判別できないほど腫れあがっていた。愛知事件では、仲間を惨殺した。ビール瓶や鉄パイプなどで8時間にわたり暴行し瀕死の男を木曽川に突き落としてシンナーで焼き殺した。岐阜事件では、2人の男性を鉄パイプなどで執拗に暴行して殺害。2人の遺体は、頭蓋骨や腕などが全身骨接し、血管の大部分が損傷を受け大量出血という無残な状態。なお、彼らは犯行に反対した仲間の少女2人の殺害も計画していたという。

◇名古屋地裁は主犯格の1人を死刑、他の2人は無期懲役とした。名古屋高裁は3人の役割に差はないとして3人に死刑を言い渡し、最高裁は今年3月10日、犯行は執拗で残虐、地域社会に与えた影響は大きいとして上告を棄却、ここに、元少年3人の死刑は確定した。少年法は、少年であっても犯行時18歳以上の者は死刑の適用を認めている。

 報道機関は死刑確定後元少年の実名を公表した。少年につき実名を明かさないのは、更生の妨げとなることを考慮するからだ。

◇犯行時19歳のMは、生後すぐ母親と死別し親戚の養子に。中学時代から万引き恐喝を繰り返し中学の終盤は教護院で過ごした。犯行時19歳のKは定時制高校に進むが1年で中退。ホストクラブで働いた後暴力団の準構成員に。犯行時18歳のTは、7人兄弟で貧しく放任の家庭で育った。3人は現在35歳から36歳。再審はあり得ない。現在、悪夢を見た思いで振り返っているだろう。大震災をどう考えているか。(読者に感謝)

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2011年6月 1日 (水)

人生意気に感ず「ペルーのフジモリ情勢と日本人の力」

◇フジモリ元ペルー大統領の長女が大統領に当選する可能性が出てきた。元大統領は在職中の行為が罪に向われ禁錮25年の刑に服している。私はフジモリ元大統領の誕生に大いに興味をもっていた。平成8年に県議団でペルーを視察した時は、是非会って欲しいと出発前に手紙を出した程だ。だからケイコ・フジモリの大統領選の決選投票の行方に大いに関心をもっている。移民の子が大統領選に出馬し当選する過程は血塗られたアンデスの歴史と共に私をわくわくさせるものであった。

◇フジモリは大統領に当選後両親の故郷、熊本県河内町に来て「私は百%ペルー人です。そして百%河内の血が流れています」と語った。

 フジモリが大統領に就任する前のペルーは信じられぬ程ひどい状態だった。インフレは年間2775%、テロによる死者は10年間で1万7千人に達した。テロの背景にはこの国の深刻な歴史が横たわる。ピサロに象徴されるスペインの残酷な侵略で殺されたインディオの怨みは現代にも引き継がれている。

 ペルーの改革はインディオの末裔たちにも選挙権を与えた。彼らは一握りの白人支配に反対し選挙には関心を示さなかったが、正直、勤勉、技術をスローガンに掲げるフジモリに雪崩を打って投票した。移民の子を自分たちサイドの人間とみた。そして、日本人の血、背後の日本の支援に期待したのだ。泡沫だったフジモリは一回目の投票で2位になり決戦投票で当選した。

 リマ市を訪れるとアンデスから下りた人々のスラムが広がっていた。活気に満ちた光景を見て、私はこれがやがてペルーの経済を支える中小企業に発展するに違いないと思った。フジモリの失脚は本当に残念であった。民主主義が未発達な国で思いきった改革を実行しようとする指導者はとかく独裁者になり政敵の罠にはまる。

 ペルーの貧しい人々の中で、フジモリに寄せた日本への期待は消えていないのだろう。それが、ケイコ・フジモリを支える力になっていると思う。

◇今回の日本の大災害はケイコ・フジモリにプラスに作用するかも知れない。日本人の美徳に世界が注目しているからだ。ペルーは南米移民の最初の国である。そのきっかけをつくったのは、明治初年の奴隷船マリアルス号事件である。多くの中国人を解放した人道上の快挙だった。みな、日本人が元気を取り戻す材料にしたい。(読者に感謝)

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