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2011年5月31日 (火)

人生意気に感ず「歴史的議会の私の質問。ドイツの脱原発。知事選」

◇30日の本会議一般質問、私の登壇は3人目午後1時15分に始まった。質問項目は6コ。65分はあっという間に過ぎるのである。対面する質問席に立つ前に議長席の前で約3分間、6項目のベースにつき演説した。その中に次の一節を入れた。「この議会は特別なもので後世の人は震災直後の県議会で何が問われたかを注目するでしょう」歴史的県議会なのである。

◇今後の布石を意識して敢えて県議会基本条例制定の必要性と議会事務局の改革について触れた。私の悲願は議会の復権である。立て前は知事と対等である筈の議会の現実は、まだお粗末だ。かつて議会事務局の存在は欺まん的に思えた。知事が派遣する職員を議長が任命するのだが認命権は形式的である。歴代の議長の中には認命権の存在を認識しない人もいたのではないか。この認命を実のあるものにするために私は派遣者である知事の考えを求めた。知事は議長と協議して人選を進めると答えた。私の発言は1つの刺激剤になるだろう。

◇群馬県中小企業憲章を大震災後の中小企業振興にいかに活かすかという質問を知事と産経部長に投げた。私が提案者となったこの憲章の成立は、実は、苦しい妥協の産物であったが今となっては良かったと思っている。全国初のこの憲章を今後最大限に活かす事はこれを生み出す私たちの使命である。

◇教育長は、大震災の現実を教材として積極的に活用すべし、また、各中学校にサーベイメーター(ガイガーカウンター)を設置すべしという私の提案に前向きな答弁をした。被災地の現実は「生きる力」の生きた教材である。また、それは命の大切さと助け合うことの大切さを教える道徳教育のまたとない教材なのだ。サーベイメーターの設置は理科教育の切り口となり、放射能の現実を学ぶ手段となるだろう。

◇福島第一原発の事故の衝撃波は世界に波及している。ドイツは2022年迄に全部の原子炉を廃止することを決めた。ドイツには17基の原発があり全電力の23%を原子力に依存していた。今後風力などの代替エネルギー源をひろげる方向に動くのだろう。これは世界の潮流となるに違いない。日本はこの面で世界のリード役を果たす良い機会である。

◇知事選が動き出している。前橋選対の発会式があった(30日)。震災後の群馬の建設は大澤路線の継続で実現しなければならない。私は挨拶の中で、最大の敵は油断だと述べた。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2011年5月30日 (月)

人生意気に感ず「議会一般質問の日。所信演説をイメージす」

◇今日は、私が本会議で質問する日。質問項目を最終的に整理するため朝早く起きた。昨夜から激しい雨が続いている。議場を想像すると感慨が湧く。現在のような対面演壇による一問一答の質問形式は私が議長の時議会改革の一環として実現した。これによって、それ迄の議員席に向かって質問書を棒読みするような光景は姿を消し、議員は自分の言葉で自説を展開し質問を発するようになった。生き生きとした議場が甦ったのである。そのスタートは平成17年12月9日である。翌日の私のブログは次のように記す。「議場に入ると傍聴席はほぼ満席。場内にはドラマの幕開けを待つような緊張感が流れていた。金子泰造君。私が名前を呼ぶと金子議員は演壇に立った。金子氏の質問がひとまず終わると知事が答弁席に立って答弁する。同じフロアで両者が向き合って質疑応答する姿にはやはり新鮮さがある」と。ここに知事とは小寺氏のことである。小寺氏も金子泰造氏も今は亡い。政界の移り変わりの慌しさと人の命のはかなさを感じるのだ。

◇質問席に立つ前に議長席の演壇で所信演説するのが一般。今回私もやる。イメージトレーニングをしてみた。次のようなものだ。「自由民主党の中村のりおでございます。最長老といわれますが、一兵卒としてここに立っています。巨大地震、巨大津波、最悪の原発事故が重なり日本は人類史上稀な大災害に見舞われました。私は、66年前のあの敗戦に匹敵する事態だと思います。この災害の前から日本の危機が叫ばれていましたが、この災害は日本の危機を現実のものとし決定的なものに致しました。この災害は私たちに様々なことを突きつけています。私たちはそれをしっかりと受け止めて日本を再建しなければなりません。日本人の真価が問われています。全世界が注目しています。そして日本再建のカギは地方が握っています。地方の政治力が問われています。このような歴史的大転換点にこの県議会が開かれたことを私は重視したいと思います。そして、この議会で質問の機会を得たことの意義を踏まえて質問に臨みます。答弁者も覚悟と決意をもって答えて欲しいと思います。」

◇昨日、娘にいわれて床屋にいった。頭がすっきりすると心も晴れる。ついでに今日はネクタイをして登壇しようと思う。(読者に感謝)

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2011年5月29日 (日)

『上州の山河と共に』 第22回ダンゴ屋になる

問題は、ダンゴにつける垂(たれ)の作り方であった。熱湯にザラメという茶色い大粒の砂糖を溶かしこみ、これに片栗粉を水に解いたものを流しこむ。これが大雑把な工程であるが、片栗粉の分量や、これを熱湯に流し込むタイミングなどによって熱湯と片栗との一体化がうまくゆかない。とろっとした良いものが出来たと思って、ダンゴに付けて見るとダンゴに付着しないで流れ落ちてしまったりする。市内のダンゴ屋から実物を買って来てその垂を分析し、まるで理科の実験のような作業を何度も繰り返した。

串に四つの丸い玉を刺した小さなダンゴ。小売価格は、15円、おろし値は350銭であった。試作品は煎餅のお得意先で売ってもらうことにした。はじめの反応は以外に良好であった。10時や3時のお茶のとき、また、子どものおやつに、便利で手頃な食べ物であった。恐る恐る始めたダンゴ屋であったが、何とかゆけるのではという見通しの下に、煎餅からダンゴへと全面的に切替えることになった。

はじめの内は、竹を買って串を作ることまで自分の家でやった。ダンゴの作り方といえば、白米を粉にして蒸して搗(つ)いたものを、粳粉(しんこ)餅、簡単に粳粉というが、この粳粉を細長い棒状の形に伸ばし、これを糸で括(くび)って切り離したものを串に刺すのである。一つ一つ糸で切っていては埒(らち)があかない。そこで私は一つの道具を考案した。20センチ程の高さの板の囲いをつくり、その上に等間隔に細い針金を張って、その上に前記の粳粉(しんこ)の細長い棒を乗せ、これを上から手で押すと、一度に230個のダンゴの玉が切られて下に落ちる仕組みである。

串に刺す方も手仕事であった。これは、近所の子ども達やおばさん達を1時間、いくらときめて、朝の12時間、作業してもらった。

今は弟の賢三が家業を継いで頑張っているが、そこではこのような作業は、全て機械がやり、粳粉(しんこ)を入れれば、ダンゴは串に刺さって、人の手の何人分もの速さで、次から次へと、飛び出してくる。私は、時々弟の工場で、機械から送り出されるダンゴを見ながら、昔の手作りの光景を思い出すのである。 

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2011年5月28日 (土)

「上州の山河と共に」 第21回 前橋高校定時制

昭和34年、私は定時制高校3年生になっていた。この年4月、皇太子成婚。妃となる正田美智子さんが群馬の出身ということもあって町中どこへ行ってもこの話題でもちきりであった。

私も、商売をしながら、お得意先のテレビで、華やかな行列と美智子さんの正装の姿を見た。戦後、天皇が人間宣言をされ、皇室が民間に近づいたとはいえ、まだ、私達から見ると雲の上の存在だった。馬車に乗った美智子さんの姿は品があり気高く見えた。そして、天皇家がぐっと近づいて、自分たちの天皇という感じが自然に湧くのを覚えた。

ダンゴ屋になる

定時制の3年生の頃、私の商売の上で変化が起きた。煎餅の製造販売は率の悪い仕事であり、その上売れ行きも悪く、煎餅で利益を上げることは大変なことであった。前橋のお得意だけでは捌(さば)き切れず、高崎にも新しいお得意を開拓し、そちらにも自転車で卸しに行くようになった。 

前橋・高崎間の道路は、当時、まだほとんど舗装されておらず、がたがたと振動が激しいものだから、売れ残って持ち帰った煎餅は、擦れて縁(ふち)に傷がついてしまう。その部分に刷毛(はけ)で醤油を塗ってまた売りに出すというような始末であった。 

そんなわけで、何とかしなければと、私はかねがね考えていたが、あるとき、煎餅のもとである餅をついていてふと思いついたことがあった。 

それは、この餅をこのまま丸めて串に刺したらダンゴとして売れるのではないかということであった。煎餅にするには、前にもちょっと触れたが、白米を粉にして、それを蒸して、餅にしたものを伸ばして、形に切って、乾燥し、これを焙炉(ほいろ)というものにかけて温めたものを焼いて醤油をつけるという、面倒で長い工程を必要とする。 

これに比べたらダンゴを作ることの方がはるかに簡単である。父も賛成であった。早速、試作にとりかかった。ダンゴそのものを作るのは、串に刺しさえすればよいのだから簡単であった。

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2011年5月27日 (金)

人生意気に感ず「フクシマは世界を動かす。新エネ。死後再審」

◇先日、県企業局の職員を案内して前橋市田口町の細流を視察した。ひと跨ぎ出来る程の川幅であるがかなりの水量が音を立てて流れていた。私には、小水力発電所の適地に見えた。当局は、検討するという。私の地元では群馬用水の落差を利用した小坂子発電所が稼動している。脱原発を目指す今こそ、小水力発電所の候補地を徹底的に探し出すべきだ。ソーラー、地熱、地中熱、風力、バイオなどの新エネルギー源問題と共に30日の質問で取り上げるつもりだ。

◇「フクシマ」は今や世界の原発反対の旗印となった。イタリアで原発反対を叫ぶ市民が持つのぼり旗にFUKUSHIMAの文字が見てとれる。フクシマを許すなというものだ。イタリアでは原発再開を無期限に凍結する法案が成立する見通しだといわれる。ドイツは、既に、原発廃止へカーブを切った。スイスも25日、国内全ての原発を34年度迄に全て廃炉とすることを表明した。

◇福島第一原発の事故は、地球環境は一体であることを示した。一国の大事故は世界中に影響を及ぼす。フクシマを機に世界のエネルギー政策が変わる。日本がその先頭に立つチャンスである。それを支える力は復興にこめる「日本人の決意」と「日本の技術」である。日立では火力発電から出るCO₂の9割以上を回収できる技術を開発中である。

 「日本人の決意」は地方から示さねばならない。私は「役所や学校、病院など公的建物の屋上は全て発電所にすべきだ」と主張してきた(例えば平成22年2月3日のブログ)が、大震災後の今日、その意義は一変して大きくなった。この点も30日の質問で取り上げる。

◇布川事件の再審無罪を昨日のブログで書いたら死刑執行後の再審は有り得るかと問われた。恐ろしい事だが有り得るのだ。飯塚事件の動向がそれを示す。死刑執行後の再審請求が平成21年10月福岡地裁に対してなされた。その後の動きに大きな関心をもっている。

 飯塚市の久間(くま)氏はDNA鑑定の結果を証拠として、2人の女児を殺したものとして死刑判決を受け、判決確定後異例のはやさで死刑が執行された。

 決め手となったDNA鑑定は足利事件の菅家さんを有罪にしたのと同じ精度の低い鑑定方法であった。しかも、別の鑑定人は違う結果を出している。死後再審で無罪となっても命は戻らないが、死刑制度を揺るがす大事件となる。日本列島は大災害一色だ。治安問題も激しく動いている。今日は本会議一般質問の日。(読者に感謝)

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2011年5月26日 (木)

人生意気に感ず「質問の通告終える。選後初の県議会。布川再審」

◇昨日は多忙だった。前日早く寝たので午前三時に起きた。6項目の質問につき構想を練り要旨を文章に起こした。農協組合総代会などいくつかの会議もあった。午後5時、議会で質問要旨の通告を行った。

 議会図書室から外に出ようとしたら片隅に沼田市長の星野巳喜男さんがいる。「やあ変わらないですね」、「頑張っていますね」などと始まりしばらく時局の話などをした。かつての県議会の同期生である。一緒に県議会に入った仲間は12人程いたが現在私一人になった。

 星野さんと語りながら私の胸に県議会の変遷が甦った。長い間に様々なことがあったが、今回の大震災のようなことは初めてである。改めて歴史的時点に立っていることを感じる。30日の私の質問はほとんど大震災と関連づけて行う。長老などと不本意な表現で語られる立場になったが私はいつも一兵卒である。30日はその心意気で質問に立つ。

◇現在の状況はあの終戦時に似ている。私は敗戦後初の県議会を群馬県議会史でのぞいてみた。昭和20年11月の通常県議会で、知事は高橋敏雄、議長は菅谷勘三郎であった。知事は開会の挨拶で、日本民族の上に山積する苦難窮乏は予想以上に深刻だろうがいかなる事態に立ち至っても我等国民は平和日本再建のためにあらゆる苦難を突破しいばらの道を切り拓き民族発展を図らねばならぬと決意を述べている。

 私は、30日の質問の第一に、大澤知事に、「東日本大震災によって社会が歴史的に転換しようとしている時、知事はどのような決意と時代認識でこの変化に向き合うのか」と質問する。

◇布川(ふかわ)事件再審無罪に注目した。送られてくる「冤罪ファイル」で再審公判傍聴記などを読み関心をもっていたからだ。

 最高裁までいって確定した事件をやり直すというのは余程のことがなければ実現しない。戦後死刑または無期懲役が確定した事件で再審無罪となった事件は7件ある。

 杉山さんと桜井さんの拘束期間は29年間、96年に社会復帰。無罪を勝取るまでに44年かかった。有罪の証拠は目撃証言と自白。有利な目撃者は他にいた。自白には誘導があった。なぜ冤罪は繰り返されるのか。冤罪の裏で逃れた真犯人がいる。警察検察の威信回復は震災後の社会安定の鍵。取調べ過程の全面可視化の動きが進む。裁判員制度は進化するか。(読者に感謝)

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2011年5月25日 (水)

人生意気に感ず「東日本大震災と八ッ場ダム。群馬の安全神話」

◇東日本大震災の衝撃の陰にかくれて八ッ場ダムへの関心がすっかり薄れたようだ。しかし、事業費4600億円の巨大事業が消滅したわけではない。実は、大震災はダム建設に微妙な影響を与えている。今、非常に重要な状況にあって行動を起こす時を迎えている。

 24日、久しぶりに、八ッ場ダム推進議員連盟の会議が開かれ現状が語られ対策が協議された。私は議員連盟の会長である。

 巨大地震の衝撃は八ッ場ダム問題にも次の点で波及している。1つは想定外の自然災害にも備えをしなければならないこと、2つは、脱原発の動きの中で水力発電の重要性が増したことである。

 八ッ場ダムの発電能力は、一般家庭11千軒分の電力を1年間に供給する。CO₂はゼロである。これを石油で生産するとすればドラム缶4万1千本、排出されるCO₂は1万5千7百トンである。八ッ場ダム問題につき政府はおかしな動きを始めた。頑張らねばならない。現地視察の時期等が話し合われた。

◇今回の大震災が私たちにつきつける最大の課題の一つは危機管理である。私たちは自然の力がいかに強大であるかを知った。そして、これまでの危機管理が人間のおごりに基づいたものであることを思い知らされた。

 群馬は大丈夫という安全神話が支配的である。県民の生命と財産を守る対策はこの安全神話を否定することからスタートさせなければならない。

 

聚国史には、弘仁9年(818年)に関東地方に大地震があり、上野国では洪水も重なって多くの人命が失われたとある。赤城南麓には大規模な地割れの遺跡があり、近年の発掘調査の結果、その年代は弘仁9年に非常に近いことが判明した(赤城山麓の歴史地震―新里村教育委員会編集)。およそ230年前の浅間の大噴火は正に歴史的なもので想像を絶する被害をもたらした。また昭和22年のカスリン台風は、699人の死者・行方不明者を出した。今度の大震災は、原発事故による危険な放射性物質が本県にも飛来することを示した。私たちは、危機管理・防災対策の中に放射能の危険も盛り込まねばならない。新しいウィルスの脅威もある。私たちは、これ迄の危機管理を根本から見直さねばならない。これを緊急に実施することは正に県政の差し迫った課題である。30日の質問で取り上げるつもりだ。(読者に感謝)

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2011年5月24日 (火)

人生意気に感ず「今こそ群馬で子どもたちに大震災を教える時。」

◇大体、教育効果が上がらない大きな原因は子どもたちの興味が向かないからだ。そして、こどもは自分の生活体験と関係ないことや現実と離れた事には興味を示さないのが一般である。だから、自分も巻き込まれるかもしれないどえらい出来事と結びついた事なら大いに興味を示し学習効果が上がる筈だ。東日本大震災は、正にこのどえらい出来事である。社会全体が、現在、このどえらい出来事の渦の中にある。今が教えたり学んだりの絶好のチャンスである。

 児童生徒が今学ぶことは彼らの生涯を通して、東日本大震災の時こういうことを学んだと胸に刻まれるに違いない。大震災を教材として使わない教師は教育を放棄していることになるのではないか。じりじりとした思いが湧く。

◇米国の中学や高校では、日本の地震、津波、原発につき学ぶ動きが広がり、全米の教師は震災をどう考えるか懸命に模索しているといわれる。

 恐らくこれは米国に限らない。日本は、今、世界中から注目されている。日本の教育はこの事態に十分対応しているのか問いたい。

◇調べてみると日本でもこの大震災を教えている学校はかなりあるらしい。栃木県では、「学級・ホームルーム担任の教育相談」として、子どもがもっている「危機を乗り越える力」を援助するためのアドバイスを種々の角度から提供している。危機を乗り越える力とは生きる力に他ならない。

 「新聞の活用」を授業で実践する学校は多いが山口市の阿知須中の先生は東日本大震災の記事を積極的に効果的に活用している。栃木県教育委員会は、大震災、原発事故を受け、支え合い、助け合い、つながり合いのための教育、原子力に関する正しい知識を身につけさせる教育に力を入れる。大阪市羽曳野市はこの夏被災した岩手県の中学生を招待し勉強会を開くことを計画している。

◇群馬県でも薄根小(沼田)、万場小、広沢小(桐生)、片品小、板倉町立北小、塚沢小(高崎)、桃井小等で大震災との取り組みが行われたらしい。

 県教委は市町村教委と連携して、大震災から学ぶ教育を進めるべきだ。そして、各教科の中で取り組むことも積極的に推進すべきである。今日の状況は未曾有の歴史的事態である。群馬の次代を担う子どもたちに正しい知識を与え、危機を乗り越える力を育てねばならない。その先頭に立つのは、知事であり、県議会であり、県教育委員会である。(読者に感謝)

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2011年5月23日 (月)

人生意気に感ず「社会力・人間力を教育の場で。汚染地図。体内被爆の恐怖」

◇地元のイベント会場で小中三校の校長に、大震災を教材として活用しているかと訊いたらそういうことはないということだった。学校によっては、新聞記事を読んだ感想を発表させたり、ホームルームで話し合う機会を設けたりと教材として活用することに工夫しているところもあるらしい。

 何もしていない学校に対しては、教育の意義をどう考えているのか問いたい。良い大学へ行って良い会社に就職するためというのは、今日、教育の大義ではあり得ない。今や、教育の目的は「生きる力」を身につけさせる事だ。とすれば、大震災の中で苦しみ助け合う人々の姿は教育のまたとない生きた教材ではないか。学校は、あらゆる知恵を絞って、大震災を教材として活かすべきだ。30日の一般質問では、このことも取り上げたいと思っている。

◇インターネットに「社会力」の3文字を打ち込むと3億6千7百万件の関連記事の数が表示される。「子どもの社会力」に絞っても2千170万件であるから驚異的だ。「人間力」でみたら1300万件である。私の推測だが、3・11以降増えているのではないか。生きる力は社会力であり人間力である。大災害を天の啓示と受け止め、先ず、教育の世界で行動を起こすべきだ。

◇NHK特集・放射能汚染地図を知人に勧められて見た。20日午前1時半から90分。木村真三さん(43)と岡野真治さん(84)は事故原発から半径10キロ圏にも入り、汚染地帯を3千キロも走破して放射能汚染地図を作った。木村さんは元放射線医学研究所の研究員だが研究所に辞表を出して臨んだ。岡野さんはチェルノブイリの事故後の調査をした放射線測定の草分け。

 浪江町赤宇木では、セシウムやヨウソが突出した濃度なのに人々は何も知らされていなかった。飯館村の農家の人は、タネモミに罪はないと嘆いていた。福島市では校庭の汚染土が問題になっていた。木村さんは原発の敷地外の土を採取した。敷地内で確認されたプルトニウムが住民宅にも存在する可能性があるからだ。プルトニウムは最大の恐怖の存在なのだ。

◇長崎大学の研究で、65年前、原発で死んだ人の細胞内に残ったプルトニウムから、今なお放射線を出し続けている事実が判明した。放射線が体内に入った場合の影響はこれからの重大な課題だ。正しい情報こそ国民の命を守る第一歩である。(読者に感謝)

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2011年5月22日 (日)

「上州の山河と供に」 第20回 前橋高校定時制

 後に、大学で、人格とは、環境の影響を強く受けながらも、主体的に形成してゆくもので、その主体的な面において人は責任を問われる、という理論を読んだとき、真先に頭に浮かんだのがこの事件であった。李少年は、結局死刑になった。そして、この事件は、大島渚監督によって映画にもなった。

 私はこの少年のことは、新聞から知り得る程度であったが、死刑にするには気の毒だと思った。李事件を材料にして、死刑という制度の是非についても、彼と激論を交わした。

 今から思えば幼稚な議論であったが、<それは、見せしめの為に死刑は必要だ、いや反省している人間を殺してしまうのは、国が人殺しをやるのと同じだ>あるいは、(裁判に間違いがあった時、取り返しがつかないではないか)というような点が中心になったと思う。

 この頃、相馬ヶ原演習場で、ジラード事件が起きた。薬きょう拾いをしていた農婦が、米兵、ジラードに「ヘイ・ママサン」とからかい半分に声をかけられ、射殺された事件である。

 日本がアメリカと戦って敗れたという事は、分かりすぎる程分かっていた。赤城の山奥で開墾生活をすることになったのも、食べ物がなくて薩摩芋ばかり食べさせられたことも、敗戦の結果であると考えられていた。しかし、既に昭和二十六年、サンフランシスコ講和条約が結ばれ日本は独立し、その喜びは、当時、小学生だった私達子供の胸にも伝わっていた。

 従って、米兵ジラードによって日本の農婦が犬のように殺されたということは、余りにも日本を侮辱することとわたしには思えた。そして、前橋地方裁判所が執行猶予付きという非常に軽い判決を下したことは、裁判所までがアメリカに遠慮して公正を欠く判決を下しているように思えてならなかった。

 昭和三十四年、私は定時制高校三年生になっていた。この年四月、皇太子成婚。妃となる正田美智子さんが群馬の出身ということもあって町中どこへ行ってもこの話題でもちきりであった。

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2011年5月21日 (土)

上州の山河と共に 第19回 前橋高校定時制

 萩原は良く頑張って大学へ進み、現在は労働省の役人として頑張っている。当時の私は、写真でも殺気だって見える程、張りつめた気持ちで毎日を過ごしていたのである。

 この事件が決着し、やがて二年生になる。二年になるとクラスの雰囲気も大分かわった。腰掛組で去る者は去り、本当に定時制で学ぶ者だけの落ちついたクラスとなったのである。

 二年生になる頃、平田宏という男と親しくなった。彼は、昼は三供電機(今のサンデン)で働きながら、伊勢崎から夜学に通っていた。

 彼は、勉強家であるとともに理論家であった。私の知らない世界のことを実によく知っている。それは、主に、社会主義や資本主義、そして哲学のことであった。彼は柳田謙十郎の本を何冊か私に紹介したりした。

学校の帰り、彼が前橋駅で伊勢崎行きの電車を待つ間、社会のこと、政治のこと、あるいは人生のことなど、星空の下で熱心に議論することがよくあった。人生とは何か、何を目的として生きるべきなのか、社会の矛盾をどう考えるか、政治とは何か、彼は、何も知らない私に、このようなことについて熱っぽく話した。難しい言葉を駆使して理路整然と話す彼が、私には大変羨ましく思えた。

 私は、彼に接するようになってから、政治の問題、社会の問題に強い関心を持つようになった。平田宏によって開かれた目で見ると、自分のまわりは、様々な政治問題、社会問題が渦まいていた。

 昭和三十三年頃、小松川高校事件というのが起きた。朝鮮人の行員・季という少年が二人の女性を殺した事件である。季という少年が定時制の生徒で、大変貧しい家庭で、しかも、朝鮮人部落という特殊な環境で育ったということ、そしてずば抜けた知能指数をもった少年であることが、私にはショックであった。(なぜ人を殺す程不良になったのか、環境が悪かったせいではないか、普通の環境で育ったら、あんな人間にはならなかったのではないか、死刑にすべきか、いや、死刑は可愛そうだ……)この問題については、平田宏と夢中になって議論をした。

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2011年5月20日 (金)

人生意気に感ず「私の質問項目。中小企業憲章は日本初

◇私が本会議の一般質問に登壇するのは30日午後1時15分頃から65分間。質問項目は26日の正午までに通告しなければならない。現在、考えをめぐらして検討中であるがある程度固まってきた。次のようなものだ。(1)二元代表制について知事の認識を問う。(2)群馬県中小企業憲章をいかに活かすか。(3)群馬の危機管理について。(4)風評被害対策について。(5)東日本大震災を教育の場でどう活かすか。(6)新エネルギー政策に関して。

 一問一答形式で65分間であるから、6項目質問するとすれば、やりとり合わせて1問につき約11分。時間配分を意識しながら進めないと後の項目につき時間が不足することになる。65分間は長いようで意外に短いのだ。

◇議場で質問者と答弁者が向かい合って対面してやりとりする方式は私が議長の時に実現された。GTVの生中継と結びついて、議会改革の目玉となっている。かつては、議場の傍聴人の他は直接議場のやり取りをみることは出来なかったが、今や群馬県中の人々が更には県外の人々もリアルタイムで見聞きすることが可能となった。猿芝居や八百長は許されない。

◇二元代表制とは、知事と議会は共に県民から選ばれる対等な機関でそれぞれが役割を担うというもの。現実は知事優位で議会は飾り物になっていると批判されている。私の質問の狙いは、議会の権能を高める布石をつくること。

◇群馬県中小企業憲章は、私たちが2年以上の歳月をかけた執念の産物であり難産によって生まれることになった。日本で初めてのもので、大震災により存在意義が格段に高まった。瓦礫の中から立ち上がり変化に対応しつつ社会再建の支えとなるのは中小企業だからだ。

(4)風評被害の対策は、(3)の危機管理の中で扱うべきかも知れない。危機管理は県民の生命と財産を守るために最も重要な課題であるが、群馬は安全ということで油断している。どこで何が起こるか分からないのだ。正確な情報を的確に発信しないと風評被害が起こる。流言飛語による混乱の責任は行政にある。この事を追求したい。

 日本人の美徳は基本的には健在らしい。しかし現状に決して満足すべきではない。教育の根本を建て直す時である。今度の大災害は二度とない貴重な教材を提供している。それをいかすことは教育委員会の使命である。(読者に感謝

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2011年5月19日 (木)

人生意気に感ず「真価が問われる県議会。立法機能の行方」

5月定例会県議会が始まった(18日)。7時半朝食会、940分県議団総会。ここまでは自民党のいつものパターンであるが、緊張した新人議員の姿が会議に新鮮味を添えていた。朝食会では知事選の対策などが話し合われた。

10時、議会開始。総勢50名中自民党は31名である。新人は15名、カムバックした元職は3名で、実に計18名が入れ替わった。女性議員は1人増えて4名となった。このような変化は今後の議会にどのような影響を及ぼすのか。議場を眺める私の胸に議員たちの質問風景が浮かぶ。県議会の真価が問われる議会となる。

◇本会議初日の仕事は新議長の選挙である。議場を仕切る臨時議長には私が指名された。自民党の南波和憲氏が圧倒的多数で選ばれ第85代の新議長が誕生し、私は議長席を降りた。

 南波新議長の就任挨拶の中で次の2点が注目された。(1)東日本大震災は県内経済に大きな影響を与えている。また、収束の道筋がはっきりしない福島第一原発の放射能漏れは県民に大きな不安を与えている。県議会としては、県民の安心安全な暮らしを確保するため県執行部と連携し、この難局に迅速的確に対処していく。 (2)二元代表制の一翼を担う県議会には、議会の機能強化が求められており分権時代にふさわしい議会改革を一層進めていく。この2点は、今議会の使命と課題を示しているのである。とくに二元代表制に関する発言は議会基本条例を意識したものと思われる。

◇この日の本会議で関根前議長が特別委員会設置を提案する中で「議会の立法機能」に言及した。これは県議会の新しい動きを示すものとして注目した。議会の役割を発揮するためには議会が主体的に政策条例を作らねばならない。県議会にもようやくその雰囲気が出てきた。南波、関根両氏の発言はこの事を示すものである。

◇私はこれまでに、県営住宅から暴力団を排除するための条例改正、群馬県中小企業憲章の制定等に関わってきた。中小企業憲章を制定することは今年の2月議会で議決され、この5月議会で実を結ぶ運びである。

 県議会基本条例の制定は群馬県議会の基盤をつくることになる。これは、真の二元代表制のために不可欠で、真の地方自治を実現するための基盤となるものだ。30日の質問では、二元代表制について知事の考えを問うつもりである。(読者に感謝)

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2011年5月18日 (水)

人生意気に感ず「原子炉は設計ミス。ストロンチウム、プルトニウムの恐怖」

◇東電幹部たちは浪江町の住民に土下座して謝罪した(422日)。その姿は惨めだった。また土下座かとやりきれない思いであった。その後次々と「人災説」を裏づける事実が明らかになるに及んで、あの土下座には、幹部たちの本当に申し訳ないという思いが込められていたのかと思うようになった。

 福島第一原発の原子炉設計者、デール・ブライデンボー氏は、後に、この原子炉には設計上のミスがあり、津波や地震などの大きな災害により原子炉の格納容器が破裂する危険があることを知った。そして、ブライデンボー氏は、この原子炉を製作した会社であるGEに「操業を停止すべきだ」と訴え、それが容れられないと納得出来ないとして会社を辞めた。東電はこの欠陥を知りながら安全対策に万全を尽くすことをしなかった。今日の惨状はその事を雄弁に物語っている。幹部たちの土下座の姿には、その事に対する悔恨の情がにじんでいる。

 原発事故は、一たん、収束に向かうかに見えたが、炉心溶融が分かり深刻な事態が進んでいる。最悪の場合には、現在よりも何十倍もの量の放射性物質に襲われる可能性がある。わが群馬はこのような事態も想定して危機管理に当たらねばならない。今日(18日)から始まる5月定例県議会で、私は、このことも触れることになるだろう。私の登壇は30日の午後1番である。65分間の一問一答はGTVで生中継される。

◇原発事故の被害は止まることがない。それは放射性物質の検出というかたちで広がる。福島第一原発の敷地や周辺の海からストロンチウムが検出された。これは、半減期が29年と長く、魚介類の骨にたまって濃縮される。この事は陸の動物についても同じだから海のもの陸のものと、また、食品に対する不安が大きくなるだろう。不安を無用に広げないためにも、県のモニタリング機能を強化する必要がある。

◇更に恐ろしい物質の検出が伝えられる。福島第一原発の敷地の土壌からプルトニウムが検出された。この元素の名は「地獄の支配者」に由来する。極く微量でも呼吸で体内に入ると発がんの原因となる。ウランの核分裂で生じ半減期は2万4千年である。

◇次々に明らかになる原発の危険を、地震と津波の恐怖に絶えず晒されながら私たちは直視しなければならないことが今回の事件で明らかになった。(読者に感謝)

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2011年5月17日 (火)

人生意気に感ず「風評被害。群馬の放射能測定の問題点」

◇風評被害は、インターネットやケータイといった便利な科学の利器が発達した現代社会の大きな特色である。狂牛病の時も被害は大きかったが、今回の原発事故の放射性物質に関する風評被害はより深刻である。行政が正しい情報を提供することが何よりも重要だ。

 某週刊誌に載った群馬県の研究機関の記事に注目した。それは、群馬県前橋市の放射能調査の基準地点(モニタリングポスト)は県衛星環境研究所の屋上(地上から20m)にあり、県民健康科学大学の倉石政彦准教授がそれを批判しているという内容である。

 放射線の量は一般に地上の高い所より低い所で測った方が数値は高いといわれる。高い所は風が吹く、低い所には上の汚染物質が落下する、こんな一般常識と日常経験からもうなずける。倉石氏は、人体への影響を調査するのが目的なのだから人が生活する低い所の値を問題にすべきだと指摘する。私は週刊誌の記事が正しいかどうか調べるつもりだ。事実だとすれば、県は風評被害の一因となり得る不正確な情報を提供していることになる。

◇私は県議会の事務局に望みたい事がある。それは、県議会に配属されたら、議会のために奉仕するという覚悟を持ちその役割の重大さを自覚して欲しいという事だ。

 2元代表制の下、議会は知事と対等であるべきだが現状は追認機関かと批判されている。議会が力を発揮するためには議会事務局のサポート力の充実が不可欠だ。本来なら、議会事務局の職員は議会が独自に採用すべきだが、現実には知事の方から配属されてくる。だから議会に奉仕するという自覚が薄い。議会が知事と対決する時に、議会職員が知事の部下という意識をもっているなら戦いにならない。このような思いにかられた事が過去に何度かあった。

◇最近、調査広報課に、大震災に対応する近県の教育行政について調査を頼んだらなかなか進まない。理由は、教育委員会に頼んで調査してもらっているとの事だ。教育委員会を追及するための資料を教育委員会にゆだねるとは情けない。このような調査は1日もあれば可能なのだから自分でやればよい。議会基本条例を作ることになるが、その時には議会事務局の改革についても触れるべきだ。調査広報課は試練を乗り越えて力をつけて欲しい。志と使命感をもって県議会の復権という目標を私たちと共有して欲しい。(読者に感謝

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2011年5月16日 (月)

議員日記・人生意気に感ず「最も重要な県議会で質問。6億円強奪事件」

◇今月18日から始まる5月定例県議会は私のこれまでの県議生活の中で最も重要なものになるだろう。一般質問は5月27日、5月30日、6月1日の3日間にわたり、計12人が登壇する。私は第2日目の午後1番(13時15分頃の予定)で、持ち時間は65分である。この議会の重要性を意識して自分から申し出て質問することになった。

◇この議会の重要性は先ず、東日本大震災後初めてのものであることに関する。この大震災は私たちの社会に様々な重要な問題を突きつけている。社会の再建を通して世の中は大きく変化するだろう。県議会の役割は極めて重要で、質問項目は、この事を意識して選ばねばならない。

◇次に重要な点は、県議会が大きく脱皮すべき時にあるという事だ。阿久根市の竹原前市長、大阪府の橋下知事、名古屋市の河村市長等は地方議会を厳しく批判している。そこには地方議会が本来の役割を果たしていないという事実がある。世間には議会不要論まである。私は群馬県議会を何としてもレベルアップさせたい。10日の県政懇談会で、「真の二元代表制を実現するために議会改革を進めねばならない」と、また、12日の県議団総会で、「議会改革を進めるために、県議会基本条例をつくるべきだ」と私が発言したのは、この思いからであった。この議会は、このような世間の厳しい目の中で行われる。質問する何人かの新人議員は、この歴史的な議会の意味をどう捉えているのか興味あるところだ。ちなみに、自民党新人の質問者は、岸善一郎氏と臂(ひじ)泰雄氏。3日目6月1日に登壇する。

◇東京都立川市の警備保障会社から現金6億円が強奪された事件は、直ちに昔の3億円事件を想起させる。被害の額面金額は倍であるが衝撃度は比べものにならないほど小さい。それは、史上最大の震災時に起きたからではない。額の大きさを別にすれば通常の強盗傷人事件に過ぎない。

 あの3億円事件から43年経つがまだ記憶に生々しい。怪盗ルパンもどきのあまりに鮮やかな手口で日本中が騒然となり事件後映画にもなった。東芝工場従業員4525人分の年末ボーナス資金だった。時効までに延べ17万人以上の捜査員が投入された。今回の6億円事件で、宿直員は太股を深くえぐられて暗証番号を自白させられた。災害による暗い世相を晴らすためにも一刻も早く解決すべきだ。(読者に感謝)

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2011年5月15日 (日)

「上州の山河と共に」第18回 前橋高校定時制

私は、中学に入った時とは、全く違った気持で入学した。一年間、学校を離れていたことは、私の中の知的なものへの欲求をかえって高めていた。そして、たとえ夜間部であれ前高の生徒になれたということは、それが何であるかは分からぬが未来の大いなる理想に通ずる細い道に足をかけることが出来たと思えて嬉しかった。

私は煎餅のカンを自転車につけたまま、疲れも忘れて校門をくぐる。同じ様な境遇の者が集まっているから中学の時のように貧乏ということで卑屈になることもない。それどころか、教室は、昼間、それぞれの職場で疲れ、傷ついた心を癒すオアシスの意味も持っていた。私は、中学時代の自分の態度に対する反省もあって、誰とも、積極的に付き合うようにした。

1学年は2クラスあって、1クラス30数人だった。クラスのほとんどの者が職業を持っている。公務員もいれば、町工場で働くものもいるし、私のように家業に従事している者もいた。だから話題も豊富だった。そしてここで、いろいろな情報を交換し合えることは有意義で勉強になった。

私と同じく1年遅れて入学した仲間に萩原秀雄という男がいた。新進食料に勤めていて、気が強くプライドも高かった。2中で生徒会長をやっていたというだけあって、勉強もよく出来、向学心に燃えていた。同志的な感情が芽生えて、私とはすぐに親しくなったが、彼の一見、尊大に見える態度に反感を抱く者もいたらしい。

ある時、些細なことで彼が殴られ眼鏡が二つに割れて飛び散った。傍にいた私は、自分が殴られたようにカッとなって、気がついたときは、この男の顔面に力まかせのパンチを叩き込んでいた。毎日餅つきをして、力には自信がある方であったから、この男、目を打たれて医者に通う程のダメージを受けた。

この時は、お互いが悪かったと謝って、事は落ち着いたかに見えた。しかし、実はそうではなかったのである。後で知った事であるが、あるグループの中で、中村は、関係がないのに手を出して汚い、中村をやれということになったらしい。そして、私は気づかなかったが、ある男が秘かに機会を伺っていたのである。

私は、ある夜、学校帰り、自転車置き場の裸電球の下で、こっぴどく、顔が青く腫れあがる程殴られた。自分の為にこんな結果になって済まない、と萩原秀雄はしきりに同情するのだった。※土日祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しております。

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2011年5月14日 (土)

「上州の山河と共に」 17回 元総社時代

 悶々と悩みながら、ペダルを踏んでいたある日、まちで、福島浩と出あった。彼は前橋高校の一年生で、その制服の金ボタン、帽子の記章がひと際映えて眩しく見えた。自転車を止めて立ち話をする中で、彼が話したことは私にとって衝撃的であった。それは前高には夜間部がある、多くの生徒が昼間は働き、夜、熱心に勉強している、4年間頑張って大学へ進む者もいる。ということであった。

 私は、話を聞いていて、これだ、と思った。暗闇の中で一条の光を見た思いであった。私はさっそく父に相談した。今まで以上に働くから、夜学に通わせて欲しいという私の希望を父も認めてくれた。

前橋高校定時制

 翌年、私は試験を受け、前橋高校定時制課程に入学した。前高の校舎は、天川原町の、現在、生涯学習センターとなっている所にあった。まわりは一面田んぼで、夕暮れ時になると、この田んぼを斜めに走る細い道を通って、続々と生徒が集まる。授業開始は、五時四十五分であった。

 天下の名門校、校歌でも「男子の枠を集めたる」と唄う前橋高校も、夜間部の事情は複雑であった。私のように経済的事情で昼間の高校へ行けない者が多かったが、中には入試に失敗し、一年間、夜間部に席を置きながら、翌年の入試に備える者もいた。もともと夜間部を目指して入って来た人達は、私のように一年遅れて入る者、あるいは、二、三年遅れてはいる者などもあって、クラスの年齢構成もまちまちであった。(読者に感謝)

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2011年5月13日 (金)

人生意気に感ず「議長候補を決める。議会基本条例を初めて発言」

◇5月議会はいよいよ今月18日に開かれる。後に、大震災直後の県議会として注目されるだろう。役員選考会が10時から県連で開かれた(12日)。私が役員選考委員長となって、先ず自民党幹事長、次に県議会議長候補を選ぶことになった。幹事長には須藤昭男氏、議長候補には南波和憲氏がスムーズに決まった。

 かつて、県議会に福田、中曽根両派閥の対立があった頃は、幹事長、議長のポストをめぐり両派は派閥の命運をかけて激しく争った。両派一歩も引かず、会議は深夜に及ぶことも珍しくなかった。その後、両派閥が解消してからはそのようなことはなくなった。

◇18日に始まる本会議に於いて、県議会議長の選挙が行われるが、自民党31人は全員が南波候補に投票するから、南波和憲氏が第85代議長に選ばれるのは確実である。

 選考委員長として、議長候補決定を発表する時、私は6年前、自分が議長に選ばれた時の出来事を思い出していた。平成17年、議長就任直後私は南米各地の県人会の記念式典に出た。私の帰りを待っていたように、帰国直後、母が他界した。予定されていた議長就任祝賀会の翌日母の告別式を行うことになった。いずれも忘れられない人生の一大事であった。

◇役員選考等の議事が全て終了し、「その他」の項に入ったとき、私は手を上げて発言を求めた。県議会基本条例の事を敢えて触れたのである。「今、議会の使命と役割が問われています。一方で、議会不要論まであって議会の現状が批判されています。議会改革を一層おし進め議会の力を高めねばなりません。そのために是非群馬県議会基本条例をつくることを提案いたします」

 議長候補の南波氏は、これに答えて、代表者会議で取り上げ、議長の諮問機関を設けて検討していきたいと発言した。

 自民党県議団の総会の席で議会基本条例について発言したのは初めての事である。去る10日、初登庁の日、知事も出席した県政懇談会で、私は議会を代表して挨拶したが、その中で議会改革を進め真の二元代表制を実現したいと決意を述べた。この時、私の胸中には議会基本条例への強い思いがあった。この条例は、県議会の憲法ともいうべき意味をもつものである。私の発言で大きな一歩が静かに進められたと感じられる。一般質問は、27日、30日、6月1日に行われ、5月30日には、私も質問に立つ。(読者に感謝)

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2011年5月12日 (木)

人生意気に感ず「南三陸町長の体験。祖母の死を語る夏奈ちゃん」

◇私は宮城県多賀城市で見わたす限りの瓦礫の原を見て息を呑んだ。そして、阿鼻叫喚の光景を想像すると背筋が寒くなった。この度、南三陸町長の手記を読んで現実は想像をはるかに超えることを知って慄然とした。

 南三陸は50年前のチリ地震の津波の時41人の犠牲者を出した。佐藤町長は目の前に迫る波を見てチリ津波なんてものじゃないと直感したという。町長は、多くの職員と共に屋上に逃れた。必死で手すりにしがみつく。その頭の上を黒い波が流れる。波の谷間で息を吸う。第一波が引いた時、フェンスにつかまっていた20人の職員の姿はなかった。屋上の2本のアンテナに町長等10人がよじ登った。その下をゴォーツと轟音を立てて津波が押し寄せる。とにかく波の音がすごかったと町長は振り返るのだ。町役場の職員230人のうち36人が犠牲になった。課長クラスがかなりいたので大きな痛手だという。

◇全国から救援の手が差し伸べられているが、一番重要なものの1つは、行政のマンパワーではないか。混乱の極致にあって、解決の指針をつくり実行の先頭に立つ行政の役割は極めて大きい。先端行政で同じような経験をもつ行政マンを、群馬の自治体は派遣すべきだ。県は、需要と供給の間の仲介役を果たすべきである。南三陸町の佐藤仁町長が、多くの中堅職員を失って大きな痛手だと嘆いているのは、このマンパワーの欠如の意味が、行政の長としてよく分かるからに違いない。

◇もう一つ、おばあちゃんを失った小学生の女の子、夏奈ちゃんの言葉が胸を打つ。「おばあちゃんはお母さんを助けてくれたんです。もし一緒だったらお母さんも流されてしまったと思います」母親は祖母といっしょに夏奈ちゃんを迎えに行こうとした。足腰の弱い祖母は、自分はいいから先に夏奈のところへ行けと言ったのだ。自らの命を犠牲にして人の命を救った祖母の心が夏奈ちゃんにはよく分かるのだ。こんな悲しく美しい物語が、あの瓦礫の下には無数にある。このような日本人の美徳を社会の復興に活かさねばならない。

◇県教育委員会は、被災地の人々の実情、助け合いの姿などを教材として活かすべきだ。人間尊重の精神、命の大切さ、温かい人間愛など、今まで教室で教えることが難しいとされてきた道徳的課題を子どもたちに教えるまたとない機会である。(読者に感謝)

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2011年5月11日 (水)

人生意気に感ず「初登庁の光景。阿久根市から学ぶ。大河原宗平氏」

◇初登庁の日であった(10日)。議会一階ホールで皆、職員から議員バッジを付けてもらう。かつて、初当選の時、後援会の人々と大勢で詰め掛けた光景が甦る。あちこちに嬉しげな新人議員の姿があった。今昔の感がある。

◇11時から県政懇談会が庁舎28階で行われた。全議員と知事を筆頭にした県職員幹部が広い一堂に会して始まった。知事が当選を祝って挨拶をし、私は議員を代表してそれに応えた。「今回の選挙には特別の意味がありました。今、初登庁に当り、改めて重い責任を感じると共に決意を新たに致しております」と切り出して、この大災害の中で社会を再建するために県議会の役割は極めて重要であること、県議会がその使命を果たすためには、知事の執行部と対策な関係に立たねばならず、それには議員の一層の研さん努力とたゆまぬ議会改革が必要である事等を述べた。挨拶をする私の胸には、今期こそ、議会の憲法ともいうべき県議会基本条例を議員立法で作らねばという思いがあった。現在、10の道府県会がこの条例を持つ。

 私の年来の悲願は県議会の存在価値を高めることである。私の初当選の頃は、議員職を名誉職と考えているらしい、そして、何もしないように見える議員が多かった。時は移り、県議会の状況は一変したが、県議会の理想のレベルを10とすれば現状は6くらいか。県議会基本条例は、県議会の目標を示し、議員の自覚を促す意味もある。

◇全国の市町村議会の中には、議会不要論が出るのもやむを得ないようなひどいところもあるようだ。鹿児島県阿久根市の前市長と議会のトラブルは、地方議会の問題点をうかがわせる面白い活きた教材である。議会無視の市長の行動は地方自治法改正の契機になろうとしている。また、元群馬県警察官大河原宗平氏を総務課長兼選挙管理委員会事務局長に任命したことも世間の注目を集めた。昨年11月の事である。

◇阿久根市の竹原市長は議会を無視した専決処分を連発した。議会を開けと求めても応じない。議会側に招集権がないのは自治法上の不備だ。片山善博氏などは、阿久根市は無法地帯、市長は法治国家の市長としてふさわしくないと批判していた。近く行われる予定の地方自治法の改正では、一定の条件の下で議長が代わりに招集できるようにする。私に言わせれば、自治法自体も地方議会を軽視しているのだ。地方議会は議会の存在感を高める努力を続けねばならない。(読者に感謝)

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2011年5月10日 (火)

人生意気に感ず「原発事故は人災・高木論文を読む」

◇今回の原発事故は人災だという人が多い、高木仁三郎氏の論文「核施設と非常事態」を読んで人災説に納得した。高木氏は前橋高校を経て東大の化学を卒業した人で核化学を専門とする科学者である。論文は阪神大震災直後に書かれた。高木氏は、「行政側にも事業側にも原発の安全性を見直してこの大災害をよい教訓にするという姿勢が少しも見られなかった」また、「原発は地震で壊れないことを前提にしてしまっているためそこから先に一歩も進まず地震時の緊急対策を考えようとしない」と鋭く指摘していた。

 そして、考えられる緊急事態として非常用ディーゼル発電機の故障、地震とともに津波に襲われたときなどを例に挙げて、考えられるあらゆる事態を想定して対策を考えるべきだと述べている。

この度、高木氏の予言は的中した。国や東電は謙虚さに欠けていたために多くの人命を危険に晒し、国のエネルギー政策に取り返しのつかない誤りを犯してしまった。高木氏は論文執筆の数年後に亡くなったので、氏の次の提言は遺言となった。それは、緊急事態に対しどのように備えが出来るか、また、出来ないかをきちんと、国や事業者が議論を提起し、公衆はそれらの点も含めて改めて核エネルギーの選択の妥当性を判断しなければならないというもの。今、このことが問われていると思う。

◇福島原発1号機はやっと安定冷却へ向けての作業が始まった(9日未明)。ここまで続いている事故の発端は非常用ディーゼル発電機が津波のため不能となり、水を注入させることが出来なくなったことだ。原子炉は停止後も高温の熱の発生が続くので水で冷却させねばならない。そのために、テレビでよく見た、離れた所から長いホースで水を命中させるような事態となった。

◇浜岡原発の停止が決まった。高木論文は、予想される東海大地震の時、浜岡原発が事故を起こすことは想定されていないから大変なことになるだろうと述べていた。

◇元警部補の請求を前橋地裁は棄却した。この人は、車に偽造プレートを付けたことが原因で県から懲戒処分を受けた。その取り消しを求めた訴訟だった。県警の不正を追求する意図だったというが、大きな権力と戦うにはもっと慎重さが必要だったのではないか。例の阿久根市の総務課長に就いたのも驚きだった。阿久根市長は地法自治体違反を犯して議会と対立した。この事件を機に自治法が近く改正される。(読者に感謝)

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2011年5月 9日 (月)

人生意気に感ず「浜岡原発停止要請と東海地震。ビンラディンの死」

◇政府が浜岡原子力発電所の停止を要請したことは、苦渋の選択だったに違いないが英断だと思う。福島第一原発の事故がなかったならば、政府のこのような要請は根拠のない暴挙として一笑に付されたであろう。しかし、福島第一原発の事故の惨状は正に悪魔の所業だ。浜岡原発は既にこの魔の手に握られていると見なければならない。

◇浜岡原発は、東海地震の想定震源域内にある。フィリピン海プレートと大陸プレートとの間で起こる3つの境界型地震は、M8クラスの巨大地震として歴史上繰り返し発生してきた。東海地震、東南海地震、南海地震がそれである。これらは時に連動して同時に発生するというのだから恐ろしい。

 これらの地震は特徴的な発生パターンがあり発生の周期は90年~150年である。1707年の宝永地震では、3つが連動して同時に起きた。1944年にはM7.9の東南海地震が、2年後の1946年にはM8.0の南海地震が発生した。この時、東海地震は発生しなかったので、M8クラスの巨大地震を起こすエネルギーはたくわえられたままだといわれる。そして、今後30年間で東海地震発生の確率は87%だと明言されている。

 浜岡原発は静岡県御前崎市にある。この付近ではプレートの沈下が続いており、地震発生直前にはこの沈下が上昇に転じると見られている。95年(平成7年)以降御前崎の沈下速度が鈍化の傾向にあることが専門家の問で特に注目されている。

 今回の巨大地震は、空前のもので、NASAの発表によれば地球の自転速度がわずか変化したといわれる。こんな巨大な衝撃はきっと離れたプレートにも影響を与えるものではないか。素人の考えだが、計り知れない大自然の威力を前にしては、素人も玄人も同じだという気もする。

◇ビンラディンが米軍の特殊部隊により殺された。アメリカは総力を挙げ、執念を燃やして追求していた。伝えられるところによれば、あっけなかった。アメリカの力の程は想定外だったのか。アメリカという巨大津波にさらわれたようなものだ。ビンラディンを擁護するつもりはないが、アメリカを相手に戦っていたあの男の実体は、こんな程度だったのかとがっかりさせられる。テロは今後も続くだろう。原発の危機管理に関しては、地震だけでなくテロも想定しなくてはならない。(読者に感謝)

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2011年5月 8日 (日)

「上州の山河と共に」第16回 元総社時代

 仕事そのものは、少しも辛くない。私が辛いと思うのは、町で仕事をしているとき、中学時代の仲間に出会うことであった。古びた自転車に煎餅のカンを積んでペダルを踏んでいると、かつて、一緒に学んでいた者達が、高校生となって、颯爽と歩いている。女子学生の制服が、又男子学生の制帽が、私には、きらきらと輝いて見え、また大変羨ましかった。向こうからかつての同級生が来るのが見えると、私は、ほとんど無意識にハンドルを切って横道へ入ったりする。そして、そんな自分が惨めで嫌だった。
 昭和31年といえば、敗戦から10年を経て、戦後という状態から抜け出しつつある時代であった。時代の潮流は混乱から秩序へ向いつつも、古いものにかわって新しいものがどんどん生まれ、社会は、なお激しく揺れ動いている感じであった。当時は鳩山内閣で、この年、日ソの国交が回復し、日本の国際連合加盟が実現する。
 社会風俗の面で印象的なのは、この年、売春防止法が成立し公布されたことである。前橋市の馬場川の近くに亀屋という菓子屋があり、中学生時代から、煎餅を卸しに行っていたが、夕方になると、そのあたりのあちこちで、お白いを厚く塗った女の人が道行く男に声をかけている風景をよく見た。私は煎餅を数えながら、好奇の目で、女たちの仕草、男たちの反応を眺めたことが思い出される。そして、この年、昭和31年から、この光景はぴったり見られなくなった。
 また、石原慎太郎の小説「太陽の季節」が映画化されたのもこの年である。私は、この映画、次いで、やはり石原慎太郎原作の「狂った果実」を見てショックを受けたことを覚えている。
 激しい社会の動き、そこで起きる毎日の様々な出来事は、私を刺激した。私はやり場のないエネルギーを持て余し、あせり、苦しんだ。俺は煎餅を焼いて一生を終るのだろうか。宮城村の少年時代、いろいろな歴史小説を読んで、自分も将来は頑張って偉い人になろうと夢に描いたことは現実の壁にぶつかってシャボン玉のように消えてしまうのだろうか。
人間は、こんなにも現実に縛られてしまう弱い存在なのか、こんな悩みがいつも私の上に重くのしかかっていた。

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2011年5月 7日 (土)

「上州の山河と共に」第15回 元総社時代

 正月には、もう一つ楽しみがあった。それは、福島浩と芝基紘が必ず遊びに来てくれたことである。惨めな生活ぶりを知られることは嫌であったが、彼らに会うのは涙が出る程嬉しかった。しかし、彼らも、3年の正月には来なかった。その頃、彼らは、私が諦めていた高校受験に、山間僻地の不利な条件と闘いながら、真剣に取り組んでいたのである。
 中学時代の先生では、大館光子先生のことが今でも心に残っている。先生方に対し心を閉ざし、あるいは避けていた私であったが、国語の先生である大舘先生とは、読書や作文という接点を通して心を通わせて頂いたと感謝している。助動詞の接続関係など、細かいことを覚えることができ、大学受験の時大変役に立ったのである。

何の感慨もなく、ただ一つの重苦しいトンネルを通過するような気持で、私は中学を卒業した。今から思えば、進路については、いろいろ選択が可能であったと思うが、当時の私は、病弱の父の後を継いで家業に専念することを当然のことと考えていた。
 私は、煎餅をつくる仕事に専念することになった。近くの農家にコメを買いに行き、それを製粉し、煎餅を焼いて街に卸しに行く。一つ一つの仕事は辛くはないが、私には夢も希望もないつまらないことに思えた。しかし、食べるための仕事とはそうゆうものだから、仕方がないのだと自分に言い聞かせることにした。
 中学を卒業してからは、父にかわって、近くの農家によく煎餅の原料である米を買いに行った。当時、1升(約1.4キロ)が確か、108円位だったと記憶している。手焼きせんべいは、小売価格が410円で、卸し値は1枚180銭であった。煎餅というのは、作るのに長い工程がかかるわりに利益が薄く、その上、売れゆきもよくなかった。なんでこんな割の悪い仕事をしているのだろう、と私はいつも疑問に思っていた。

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2011年5月 6日 (金)

人生意気に感ず「映画・ミツバチの羽音と地球の回転をみる」

◇ゴールデンウィーク最後の日、私は久しぶりに映画館を訪れた。娘夫婦が経営する名画座・「シネマまえばし」である。驚いた事は入場者が列をなしている。いつも十数人しか入らないことを知っている私には信じ難い光景であった。ほぼ満席となって映画は始まった。

 題は、「ミツバチの羽音と地球の回転」原発に反対する祝島の人々のドキュメンタリーである。中国電力の原発計画に反対する人々は高齢のお婆ちゃんたち。この島にUターンした孝くんはヒジキなどの島の特産品をネットで販売して生計を立てているが、やがて反対運動の中心に立つようになる。妻のお腹には赤ちゃんがいる。原発なくしてやっていけるのか。この問いに対し、画面はスウェーデンのエネルギー政策を紹介する。最北端のオーバートーネオ市では、風力、バイオマスなどの自然エネルギーですでに電力の半分をまかなっている。

 風力による電気で生活をしている人もいる。スウェーデンは電力の自由化がなされているから自然エネルギーのみを売る電力会社が存在するのだ。日本で、自然エネルギーが進まないのは、事実上電力が巨大電力会社によって独占されているからだと、映画は示唆する。

 海上で中国電力の社員とお婆ちゃんたちが対立する場面は面白い。「原発は絶対安全です」と叫ぶ社員に、「ウソつくな、絶対なんてないぞー」とお婆ちゃんはやり返す。

 この映画は、東日本大震災の前に作られたもの。未曾有の大震災は福島第一原発の事故を起こすことによって、祝島のお婆ちゃんたちに軍配を上げた。全ての観客は、原発事故を頭に描いてこの映画を見たことだろう。

 ミツバチの小さな羽音は共振を起こしやがて地球を動かすと、この映画の題名は訴えている。

 若い観客が多いのに驚かされた。次代を担う若者たちが原発の危険性に異常な関心を抱いていることを知った。

 山口県田ノ浦に計画された、この原発事業は、大震災後どうなったであろうか。具体的な事実を知りたいものだ。今後、日本では新たな原発計画は、よほどの事がない限り、地元住民の反対によって実現不可能になるであろう。群馬は、太陽、風、地熱など自然エネルギー源が豊富である。県議会ではエネルギーに関する特別委員会が出来ることになった。タイムリーなこの課題に全力で取り組みたいと思う。(読者に感謝)

☆土・日・祝日は、中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2011年5月 5日 (木)

「上州の山河と共に」第14回 元総社時代

私は必死の思いで医者を探してつれて来た。父は注射一本で静かになったが、その、のたうちまわるようすは、これが地獄の苦しみかと思われる程で、本当に死んでしまうかと思った。医師によれば、心臓喘息という病気で、これからも起きるだろう。無理は出来ない、ということであった。
 この医師の言った通り、父は、これから時々、特に寒い季節のとき、このような地獄の苦しみを味わうことになる。父の病気については、その後、現在、県医師会の理事をされておられる佐藤秀先生に大変お世話になった。
 私が一番辛く思ったことは、いかにもみすぼらしい家の前を大勢の友人達に通られることであった。当時、元総社中学校は理研の跡地の一角で、現在の元南小の所にあった。一年に何度か全生徒が小学校との間を往き来することがあり、その時は必ず家の前を通る。<あれが中村の家だ><へぇー>そんな声が聞こえ、私は身も縮む思いであった。
 こんな状態であるから、高校進学も諦め、なかば自棄(やけ)っぱちの気持ちであった。付き合う友達も勉強よりはいたずらという連中が多かった。勉強組の中では、石井俊美と心を許して仲良くした位であった。
 この頃の楽しみの一つにプロレスがあった。一般の家ではテレビはまだ殆どなく、私達は、前橋公園の一角に設置されたテレビや新聞販売店のテレビに押しかけて、その興奮ぶりは大変なものであった。力道山、ルーテーズ、シャープ兄弟、クルスカンプ、オルテガ、ダラシン、キングコングと、当時の懐かしい面々が目に浮かぶ。
 とにかく、力道山は英雄だった。私達の世代は、白人、特にアメリカ人にはある種のコンプレックスを持っているが、その大きなアメリカ人をカラテチョップでぶっ倒すというのが、堪らない程痛快だった。学校でもプロレスごっこが流行ったりして、学校から、絶対に真似をしないようにと注意されたりした。

※土日祝日は中村紀雄著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2011年5月 4日 (水)

「上州の山河と共に」第13回 元総社時代

私の家族は、宮城で、二人の弟・賢三と秀雄が生まれたので、4人のきょうだいと父母を入れて6人の構成であった。今から振り返ってみると、父が始めた駄菓子屋は、利益はほとんどゼロであった。コッペパンは9円で仕入れて10円で売る。アンパンは8円の仕入れで10円の売り、その他の菓子類も、利益は、大体2割、良くて3割である。そして、食べざかりの妹や弟が、いつも隙を窺い、パンや菓子を食べてしまうから、わずかな利益もすぐ帳消しになってしまうのだった。
また、煎餅作りというのも、割りの合わない仕事であった。煎餅は、粳(うるち:もち米でない、常食用の米)を粉にして、これから餅をつくり、これをうすく伸ばして丸い形に切り、これを干したものを炭で焼きこれを醤油で味付けをするという長い工程を必要とする。
そして、私の家のような零細も零細、ゼロに近いような零細企業では、碌な機械もなく、丸く形どりした餅を乾燥させるのも、屋根の上のお天道様を頼りにしなければならず、雨が降れば仕事にならなかった。
こんな状況であるから、その日の飯にも困る貧乏に陥ってしまった。中学になると、私は、学校から帰ると煎餅を焼き、それを市内の小売業者に卸しに行き、朝は暗いうちから新聞配達をした。
母は、群馬町国府村の住谷武男という農家の農作業の手伝いに通っていた。母は農家の生まれで、宮城にいたときも、農作業に従事していたわけであるが、知らない土地に越して来て、近所の目を気にしながら、農家の手伝いに通うことは、辛かったに違いない。そんな母の姿が、私には哀れに映った。
私が中学生になって、ある日のこと、父が突然苦しみ出した。
「殺してくれ、殺してくれ」胸をかきむしるようにして叫ぶ。母はなす術(すべ)を知らず狼狽(うろた)えて、近所に向って外聞もなく叫んでいた。
「助けて下さい。どなたか助けて下さい」

※土日祝日は中村のりお著「上州の山河と共に」を連載しています。

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2011年5月 3日 (火)

「上州の山河と共に」 第12回 小学生時代

 明日は宮城を離れるという日、私は福島浩と会った。福島浩は、しょんぼりしている私に、来年からは中学生になるから、みしめて勉強して高校へ行こう、高校でまたいっしょになれるではないかと言った。

 私は自分の将来が不安であった。高校へ行けるであろうか。町の学校はどんな所だろう。こんな思いを胸に私は、きっと遊びにきてくれよ、と彼に頼んだ。仲間と別れて自分だけが日の当たらない道に入りこんでゆくようで淋しくてならなかった。こんな私の気持ちがよく分かっている福島浩は、私をなぐさめ勇気づけようとしていた。私は涙が出そうなのをこらえ、新しい所で、福島達に敗けないように頑張らなければと自分に言い聞かせた。

元総社時代

元総社で暮らした少年時代は、私の人生でも特別な意味をもつといえる。それは、貧しさということを真底味わったからである。この時代に身につけたこと、そして、体験したことは、宮城村でのそれらとは別の意味で、その後の人生における私のエネルギー源となったと思われる。また、それらは、宮城村の生活が私の心に春風を送り込みきれいな夢を育てたのとは対照的に、私の心に暗い陰をつくり、これを拭い落とすことは、私の青春の一つの課題となるのである。
 私は、昭和27年の秋、元総社小学校に転入した。宮城から移って私たち家族が住んだ所は、元総社農協の南、牛池川の端である。家財道具を積んだトラックに乗って、始めてここに来たとき、私はトラックから降りる気になれなかった。なぜ、こんな家にと思った。それは、宮城の家よりはるかにみすぼらしい、藁屋根、丸太の柱、そして荒壁の掘立小屋であった。父の説明では、一時ここに居て、住める家を捜すということであったが、父の身体の具合が一層悪化したという事情もあって、ずっとこの家に住むことになる。この掘立小屋に幅1間位の木造の部分を付け足して、ここで、コッペパン、アメ、トコロテン、などを売る三文商いを始めた。父の考えでは、ここで、煎餅を作り、店で小売りしながら、同時に、市内の昔のお得意に卸(おろ)せば食べて行けると考えていたようである。

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2011年5月 2日 (月)

人生意気に感ず「瓦礫の山から憲法を考える。節電と日本人の心」

◇先日24日の夕方、宮城県多賀城市の一角に立った時、息を呑んだ。見渡す限り瓦礫の原が広がっている。壊れた生活用品が敷きつめられたように散乱している。この光景は、命が助かった人も全ての生活手段を失ったことを示している。そして、国や自治体は人々の生活をどう守るのかということを問いかけていた。

◇明日は憲法記念日。戦後、瓦礫の中から立ち上がる日本人を支えた日本国憲法が施行された日である。憲法の目的は一口で言えば、国民の生命、財産、幸福を守ることだ。平穏な時は憲法を意識しないが、極限に立たされた時、その意義と役割を考える。

 憲法25条は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定め、国民の生存権を保障する。全ての財産を失い避難生活をする人々を救うため、国や自治体は、全力を尽くさねばならない。また政治家はその先頭に立って使命を果たさねばならない。

◇全ての政策の基礎には憲法の理念があるが、県議会で憲法を語る人がほとんどないことは淋しい。多くの人は、議員も、公務員も、憲法を遠い存在と考えている。その背景には、学校で憲法をしっかりと教えないことがあるかも知れない。憲法記念日と未曾有の災害が重なった今こそ、憲法をしっかり考える時だ。

◇夏が近づくに際し、日本中が節電に向けて動き出した。庁舎の照明、エレベーター、クールビズ、グリーンカーテンなどに節電の工夫が求められている。チリも積もれば山となる。小さな効果を重視することが重要だ。

 このような運動が官公庁に限らず、国民一般に広がればその効果は絶大だろう。そのためには、節電のコンセンサスが思想的なレベルに高まることが理想だ。例えば、「もったいない」という考え。亡くなった私の母の頭には、これが染みついていた。今にして思えば、「もったいない」は日本人の美徳の1つである。

日本人は、物の豊かさに溺れてこれを忘れてしまった。物を大切にしないことは、人の命を軽視することにつながる。大量に消費して大量に捨てることが環境破壊の一因にもなってきた。大災害は、私たちに節電の必要性を突きつけることによって「もったいない」を教えようとしている。昨日は、県柔連の総会で、日本の再建には日本人の心を再建することが大切だと挨拶したら同感する人が多かった。(読者に感謝)

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2011年5月 1日 (日)

「上州の山河と共に」 第11回 小学生時代

 「上州の山河と共に」 第11回 小学生時代

自分の体験から、私は、小学生の勉強は、国語が一番大切で、国語の教材を広げることで、社会も歴史も理科もカバーできると考える。

 小学校時代は、6年まで大体級長をしていたが、いたずらも先頭にたってやっていた。4年のときであったか、鹿田先生の時間、近くで火事が発生し、黒煙が空を多い、半鐘がけたたましく打ち鳴らされた。誰かが駆け出すと、男子全員が堰を切ったように教室から飛び出し、苗ヶ島まで火事を見に行ってしまった。後で大変しかられたことはいうまでもない。

 6年の時は、学校の近くのイチゴ畑で、クラスの何人かと一緒にイチゴをとって食べた。この時は、担任は砲丸投げの横沢先生で、お前は級長のくせにと、大きなシャベルのような手で殴られた。あの痛みを今も覚えている。

 6年の夏休みを最後に、私は懐かしい宮城小を去ることになった。この頃、父は無理がたたったせいか、健康を害するようになっていた。もともと、わずかな畑の収入では食べられないので、父は、宮城村と前橋を自転車で往復し、山羊の乳やいろいろな農産物を運んだりしていたが、体が弱くなって、前橋と宮城の間を往復する事が苦しくなったというのが理由であった。

 宮城村の思い出のなかで一つ大切なことがある。それは、学校へ行く途中、鼻毛石の小学校の近くで、よく出会った低学年の女の子のことである。利発そうな、可愛い顔立ちと、左手にぐるぐると巻いた白い包帯が傷々しく印象的であった。言葉を交わしたこともなく、それから長い年月思い出すこともなく過ぎたが、この女の子が現在の妻ヒサ子である。あの女の子が私の妻として選挙を共に戦うことになるとは、誰が想像できようか。宮城村の懐かしさと結びついて、不思議な縁というようなものを感じる。

※土日祝日は中村紀雄著「上州の山河」を連載しています。

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