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2011年5月 4日 (水)

「上州の山河と共に」第13回 元総社時代

私の家族は、宮城で、二人の弟・賢三と秀雄が生まれたので、4人のきょうだいと父母を入れて6人の構成であった。今から振り返ってみると、父が始めた駄菓子屋は、利益はほとんどゼロであった。コッペパンは9円で仕入れて10円で売る。アンパンは8円の仕入れで10円の売り、その他の菓子類も、利益は、大体2割、良くて3割である。そして、食べざかりの妹や弟が、いつも隙を窺い、パンや菓子を食べてしまうから、わずかな利益もすぐ帳消しになってしまうのだった。
また、煎餅作りというのも、割りの合わない仕事であった。煎餅は、粳(うるち:もち米でない、常食用の米)を粉にして、これから餅をつくり、これをうすく伸ばして丸い形に切り、これを干したものを炭で焼きこれを醤油で味付けをするという長い工程を必要とする。
そして、私の家のような零細も零細、ゼロに近いような零細企業では、碌な機械もなく、丸く形どりした餅を乾燥させるのも、屋根の上のお天道様を頼りにしなければならず、雨が降れば仕事にならなかった。
こんな状況であるから、その日の飯にも困る貧乏に陥ってしまった。中学になると、私は、学校から帰ると煎餅を焼き、それを市内の小売業者に卸しに行き、朝は暗いうちから新聞配達をした。
母は、群馬町国府村の住谷武男という農家の農作業の手伝いに通っていた。母は農家の生まれで、宮城にいたときも、農作業に従事していたわけであるが、知らない土地に越して来て、近所の目を気にしながら、農家の手伝いに通うことは、辛かったに違いない。そんな母の姿が、私には哀れに映った。
私が中学生になって、ある日のこと、父が突然苦しみ出した。
「殺してくれ、殺してくれ」胸をかきむしるようにして叫ぶ。母はなす術(すべ)を知らず狼狽(うろた)えて、近所に向って外聞もなく叫んでいた。
「助けて下さい。どなたか助けて下さい」

※土日祝日は中村のりお著「上州の山河と共に」を連載しています。

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